いぬがかけてゆく

こんな雨模様に
頭から離れない旋律というと

金延幸子の「み空」がある。
アルバムとしてもとても好きな作品だ。

ブリティッシュ・トラッドフォークのような色も濃いけれども
この人が関西人だな、と思う瞬間がある。

「いぬ」

イントネーションと
旋律は
こんな風にちょっと関連があった方が
僕は好きだ。

意識してるにせよ、しないにせよ。

皆眠日食

眠れなくなる宇宙のはなし / 佐藤勝彦
を読む。

ゾウ、カメ、ヘビが支えてる宇宙や
タマネギ型の宇宙
夜、目を開ければいつでも見えた満天の星
人間と宇宙の距離がずっと近かったころのおはなし。

そりゃ、昔の人は宇宙を忘れて眠るのは大変だったかもしれぬ
や、忘れても忘れられない大宇宙の夜が常にそこにあれば
むしろあきらめよく、すやすや眠れたのか

昔の人にとっての住居とは、屋根とは
宇宙から自分を隠すささやかな闇のありかだったのかもしれない

今になって、宇宙は地上でもビッグバン
空がみえないのはそのためじゃないのか?

何百年も前の超新星の記録
いつ来るかもしれない彗星
よく書き留め、読み返したもんだ
quicktimeもblogもない、巻物だけの記憶装置

万有引力、相対性理論、虚数の時間、ひも理論
無から有へ、振動宇宙、ブレーン宇宙論、暗黒エネルギー

しかしこれらは、どれも人間にも置き換えられる
惑星の上のそれはちっぽけな衛星である人間に

そうして僕は眠ることにする

はて?

宇宙は
ねむるん?

とびおきる…

波長

新幹線は
その頭部の形状に関わらず
僕の好きな乗り物である

その昔、渡米直前に京都-東京を月に何度か往復していた頃は
newtrain funk
というのを我がテーマにしていたのだ
それはジャンルとして定着する事はなかったが

で今は
とにかくこの空間が高速移動が気持ちいいってんで好きである。

また時には偶然を呼んでくれる

一区間を廊下でベース達と共にホームレス状態で過ごした後、座席にありついた僕は、となりにスーツケースと共に乗り込んで来た方に「楽器の為にリクライニングができませぬ」と話しかけた。
その方は楽器の事から話しはじめ、とても的確に僕の戸を叩いた後、こう言った。
「私はちずを作っているものだが」
ちず?
地図なら大好きだ。
すっかり意見交換する気になった。
それは「チーズ」だった訳だが、聞き違えは僕の人生の友だ。品川で降りるまでの小一時間ばかり、お話をした。
講演と執筆インタヴューの合間という多忙な氏は、次々に面白い話を「新幹線講演」してくれたのである。


…(省略)

ストーンヘンジはβ波を集積、増幅する装置である
β波は人間の意識に働き、可聴域を出た低周波である
これによってある種のまつりごとは行われた
祭り、祀り、政り
これらは集団催眠である
(自分が参加する、しないに関わらず…恐らく、すればする程に)


自然界で働く伝達の波のひとつがα波である
これは更に低い波長だ
(ヒトが感じようと感じまいと)自然はそれを感じ取る

ここで全てを語る事はできないので
次はこのヒトにあなたが偶然会う時に聞いてほしい

って、そんな世の中でもないか

この映画が、ヒントになると思います。

僕もここに書いているような事のいくつかを、話してみた。

floatin’ universe、とかで書いていた「頭が何故上の方がいいのか」という事、この方は電位という角度で判り易く話してくれた。
つまり、やはり我々はアンテナそのものだ。

昔の武将がどうして兜を被ったか、どうして角を付けたかという事も、なんだかすぱっと理解できたのであった。

その方法

ライフスタイル、なんて
いったい誰が決めるんだ?

そんなものは
ない

立派な伊勢エビ

俺は立派な伊勢エビになりたい。

釣り上げられ、ジャンプし、ブラウン管で野球中継の合間に中納言で並べられたい。

こんな事をKBS京都の阪神戦を観ながら思った中学生はいるか?

いないだろうな。

なにせ、俺もそうは思わなかったんだから。

かわいいか

かわいいものが好きだ。

この世で一番偉いものはネコじゃないかと、良く思うくらいだ。
「我輩は猫である」の猫はあまりかわいいとは思わないが。

…まぁ登場人動物の中では、一番かわいいか

iGoogleに出てるアジアンタイガーは、最高だ。
この時間の寝顔がまたかわいいのなんの。

まぁそんな事を思っているのは今だけ。

だからGT-Rは全然好きじゃない。
全然かわいくないからだ。

目は○い方がいい。オレみたいに垂れ目じゃなくていいが
まるくておっきい方がいい。ポルシェやシティや、昔のユーノスみたいに。

目が細くても最高にいかす、阪神の金本さんみたいな人には申し訳ないが。

なんのこっちゃ。

talbyはオブジェと化した今も最高にかわいい。
mediaskinは見た目はあまりかわいくないが、さわり心地はかわいい。
Raymond Weilのクロノグラフは何年経ってもやっぱりかわいい。

昔、椎名純平くんを手伝った時、渋谷のO-Eastのリニューアルオープンのパーティーライヴだったとかで
何故か小沢一郎とか小池栄子とか、色んなお方が観てたのだが、
そこのバンドのギターの亮ちゃん(後の事変・ペト)は、オレのRickを「かわいい」とやたら一言描写していた。

いちおーリハには5弦ベースも持ってったのだが、その理由に、非常に好感を持ったのを覚えている。結局本番はかわいい4001でやった。

Chuck Raineyも言ってた事、楽器はルックスが一番(その人にとってのだ)。
好きなら、音はなんとかなる。なんとかしようとするし、楽器も応えるもんだ。
逆もまた同じ。

ちえ

ヒトの知恵には浅知恵と深い知恵があるという。

高い意識と共に憤る事の多い私の東京生活であるが、
そういう対象の人達にも、両方の知恵がある事を思い返す。
殺し文句の前後にぽろっと出てくる矛盾なんかに、それは表れている。

がっかりする。
それに気付かない程、私は単純ではない。

しかし恐らく、自分や自分の意識にも。
残念だがそこに気付かない程、私は無自覚でもない。

商人は天秤棒をかついだ、という。
天秤棒は恐らく、ヒトの両面をも、バランスを取って担いでいたのでは、と思う。
でなきゃ、近江商人といえど、やってはいけなかったのではないか。

『老舗の品格 / 中見 利男』を読んで…勿論、故郷の先達を褒められるのは、嬉しく励まされる事だけれども。

のんびりはずかしい

だいぶ絶対音感が付いてきたようだ。
今頃?って気もするが、のんびり屋の僕は気にしない。

音感を認知できたって、それを表現できなきゃしょうがないだろう。

音痴とはつらいものだ。声、楽器とわず。許せる音痴もある(のだろう)が、
明らかに不快を振りまいている人もいる。オレ自身もそうだったりするので
やはり生きてるのが恥ずかしくなる。

のんびり屋の恥ずかしがり屋とはこれいかに。
多分、嘘付いとるに違いない。

昔、英語教室の訪問勧誘を受けた時、
しょうがないかと付いていって、その学校で「ほうほう」と
もの凄く聞き流していた事がある。
「丸々君って、自分の事を他人のように言うのね」
そうかもしれないな、だけどそやからなんやねん?
みたいな。

のんびりしてるからわかることもある。
のんびりしてるからきづかないこともある。

これからも、いろいろ恥ずかしいんだろうな。

floatin’ universe

ここしばらく、物理的にして初期的な疑問ばかりこの頭は呼び出してくる。
どうやら元々理系だった家系=元来の自分と無理矢理数学嫌いになった自分の断絶をパスで結ぼうとしているようだ。

明治通り。人間と車の移動をカフェから見ている。ヒトの頭は上下しながら進んで行くのに、車はその必要なく左右にすーっと通り過ぎて行く。勿論実際はすーっと等ではなく、ぶーっと、ぐぉーっとであろうがガラスと店内の環境はそれらを抹消する。
この差は何だ、また、どうしてヒトの頭は一番てっぺんについているのだと思う。
高いビルなどに居たりすると、どうして金持ちや権力者は上階に登りたがるのだろうと思う。
これらには或る程度、ヒツゼンがあるのではないか。

車上の頭が滑らかに通り過ぎる、それは「クルマ」という回転を直線に変える(所詮地球の外径を沿う疑似直線としても)変換器のおかげ。
ヒトの身体はそれ自体が、ショックアブソーバーである。考えてみれば二本足なんて構造で我々が立っているのは、不思議なものだ。ダブルベースを弾いてると、その馬鹿でかい図体との三本足でバランスを取らなきゃどないもしょうがない事があるわけだが、そんな時を顧みて、ふと思う。いや、二本足で立てるんだから、三本足でも立てるんだ。テーブルに出来る事が何故ヒトに出来ない??

ともあれ。
脳は頭にある。アブソーバーの上に、地表から離れて存在し、移動する。
幽霊は足が無いというが、幽霊とて頭の位置は我々とさほど変わらない筈だ。身長測定があったらやつらはある高さで留まり、これ我が身長とバラすに違いない(高くなったり低くなったり、そんな面倒な事はせんやろ)。

なんで人間の頭は、腰や心臓や、足の位置に無いのか。手塚治虫のブラックジャックに、確かどっかの博士が胸に脳を埋めた鹿が巨大化し、大騒ぎした話があったが、やはり奴らオペ動物もそれでは困ったわけだ。
ガンダムにしても同じだ。あの話は何が画期的だったって、それまでのロボットアニメと違って乗組員が頭でなく臍の位置に居座った事だが、それをリアリティーだ、と思っていた自分、ふと考え直す。果たして。操縦はヘソ裏でいいのか?それは胎児の特権だぞ。いや、胎児は母体と協調するかもしれないが、操縦はしないだろう。

動物にしても、首が長かったり短かったりの差はあれど、だいたいは一番上に頭が来る。もし下に届くとしても、それは下にある餌を直接食べなければいけないからで、その必要がなければどうか。上だろう。

結局、人間は上から考える事が必要、或は楽なのではないか。ある程度地表を離れ、筋肉と骨と神経の体躯に支えられ、フローティングして脳が存在する事が。鳥には空(大気)が、魚には海(水)があるが、ヒト脳が大地に直接固定されているとしたら、これは恐らくまずいのだ。何故なら。- – – ヒトは天体なのだ。

– – – 天体が突飛ならぐっと例えを下げてもいい。
一国一城の主、なんて言うが、ヒトは誰でも一国一城の主なのだ。

また、重力と反対向きの端に頭がある事を思えば、ヒトの頭の上にはあまりモノがあってはいけないのだ。
してみると帽子もそんなにいいものではないし、ハゲたとしてもそう後ろ向きになる事も無いだろう。
どうして武士は重い兜等を付けたのだろう??何がそんなに、良かったの?

The Policeの最高傑作(と思う)に、アルバムReggatta De Blancがある。一番いかしてるのは裏ジャケットだ。三人の頭上からのショット。今Stingのそれを撮ったらどうか、やはりあまり考えたくはないけど、この構図には言い表せない独特な、ああ、なるほどね、があるのだ。

さて。
車にはヘッドライト、ミラー、タイヤがあり、それぞれヒトの目、耳、足に対応している(らしい)。どうして目はヘッドライトなのだろうか。ライトは照らすだけで、見るわけではない。見るのはその上にいるドライバーの目だ。ネコの目は光るが、同時に見れる。しかし自動車の目は見るという目的からすればフロントガラスだ。なのになんで?

あまりヒトが不思議に思っていないことを見ると、目は光を受けるだけでなく、やはり出すものなのだろうか。
僕はこんな事で、けっこー悩む。

光を反射の果て、漆黒に落とし込む。日本の美のかたちのひとつという。
その漆黒がまた起点となる事もあるかもしれない。すると。

目は外界と脳の間のブラックホールみたいなものか。
外界の全てが、黒い瞳に吸収され、焦点を過ぎて反対側に投影され、脳細胞の一つ一つが対応、反応する。
One to Oneでなくてもいい。Universeが、焦点を超えて脳内のUniverseに投影されるのだ。
認識されなければそのヒトにとっての世界はない。しかし脳細胞は、世界を認識できるぐらいのキャパはある。
何千万画素のCCDでもどんな有機ELでも、実際我々が見る世界には到底及ばないし、しかも大部分のヒトは宇宙なんか行った事もないくせに、銀河系を容易にイメージする事ができるのだ。
– – – 僕がヒトは天体じゃないかと思う理由のひとつもそこにある。

しかし。夜光るヘッドライトに僕はいつも、その上の暗闇に本当の目がある事を忘れてしまう。
ヘッドライトとは目ではなく所謂目つぶし、が正解だな、きっと。
翌晩TOYOTAのプリウスの後ろを走った。あのブレーキランプ、あれも目潰しだ。

哲学のみち

京都に哲学の道というのがあって

昔は近くに住んでいたのだが

度々歩いたとはいえ、特にそこで閃いた事も、思想が深まったという事もない。

こんな事を書くと罰当たりと思われるかもしれないが、

要はこちらの問題であり、僕にとっての哲学の道は他にあったのだなと、思う事にした。

今振り返ると、自分がインスピレーションを貰う、点火が行われる道は、確かにある。

これは、道そのものの特性もあるが、多分にその人の「好み」、言葉を変えればその人自体の「特性」だと思う。

僕にとって京都が特別な場所である事は変わりはないが、21C以降の人生を顧みるに

それは目黒川、駒沢通り、旧山手通りである。

割と大きな通りであるにも関わらず、人通りは少ない。

今日もWalking On The Moonを口ずさみながら家に向かうと
とある交差点、ビル越しに見えた月の反対側、巨大な人影が歩いていた。

ん、これのこと…?

“Giant steps are what you take, walking on the moon”

月明かりで、自分の影が途方も無く大きく伸びて、大股で歩いていくのである。
under the moonではあるが。
じゃぁ、と思う。

もし
月を
歩いたら

夜を照らすのは地球

ならば –

-実際、影を大きくしたのは月ではなく、丁度いい角度に存在した街灯なんだろうけどね-