カテゴリー: fushigi

台風一過の

週末であるうちに
できることを

と思いきや
大事な用が重なり 折り重なる

だがひるまず 今日はかねてからの約束にとりかかる

何事も するには時間がかかるものだ
パッとやっていいものなんか できるわけがない

そんなプリセット満載のテクが 溢れてるけど

それを作った人は無限に時間を費やしてるし
その真意を学ぶには それ以上の時間がかかるし
それが AI だとしても 仲良くなるに儀式みたいなものがいるし

それにだいたい プリセットは思い通りにはならないし
それどころか ある種の人間に対しては、まともに動作しないもんだ

詐欺が詐欺じゃないことを証明するのにかかる時間と苦悩は無限大
ある種の人間に対しては、だ。うまくやってる人もたくさんいるんだろう。

無限に愚痴ははけるものの、実は楽しい週末だった。
いい幻灯もできるかもしれないし、いい曲ができるかもしれないし、いい場所が…

shooting the rubberband

ほんわかしてるのか、忙しいのか、よくわからないままに「連休」が終わった。

4連休ってすごいよな。例年なら無理してでも旅行に行ってただろう。

今年は行くわけもなく、GO TO なんて信じられず、とはいえ、行きたくなる人の気持ちもわからないでもない… やめといた方がと思うんですけどね。

しばらく前に、漫画版「風の谷のナウシカ」と関連づけての学者たち3人から観たコロナ時代への提案、という趣旨の番組というのをやっていて、最近の NHK にしてはいい番組だな、と思ったのですが(というより NHK は技術もスタッフも超一流なのに、それが地上波の主要な時間帯の報道とかなり落差を感じずにいられないここ数年。だから応援もしたいし、おかしいと思うところは意見もいいたいわけです、これってごく普通のことですよね?)

ともあれとても考えさせられる番組でした。…潔癖主義から(それも、科学的・人工的なものではなく自然農法などの礼賛から)ナチスにつながったというのも…ほんとかな、もっかい見直そうかな

コロナに打ち勝つ証としてのオリンピック、というステートメントにおかしなところがある、というのはほんとそう思います。


知性、という言葉、または概念、難しいですね。

「反知性主義」という言葉をここ数年、よく見ているのですが、僕個人的にはあまり伝わらないんです。

割と賛同できる人たちの意見であるにも関わらず。

知性 = intelligence というのを、僕はあまり信用しきれてないのかもしれません。とても重要だとは思うのですが。

あるいは、AI やネットワークはじめさまざまなものが「知」を侵食し、飲み込んでいくと感じているから、違う世界に行きたいと思っているのかもしれません。間違ってるのかな。

面倒でも対峙するべきなのか。一生の課題としては。

でも、「知性がどうのと言う奴は一番知性がない」というのは、一聴してよくできてるけど、すり替えというか、悪用だと思います。

学者は、知性を扱う人だから、本来知性がどうのと言っていいし、言わなきゃ学者じゃないわけで。

知ること、と、感じること、と、愛、と、それぞれ順番をつける、ロングセラーの物語も読んでるのだけど、それぞれ大切なトップ3、ってことじゃないのかな。

相互監視と台本 – 弐

気になる本を読み出した。

山縣太一さん、大谷能生さんの「身体と言葉」(なぜか読み方が「ことばとからだ」)

演劇やってる人って、音楽とは違ってまたぶっ飛んでるんだろうな、とは思うけれども、とても示唆に富んでいる、また、読んでいくうちに頭が誤動作をしていくのがわかる。天才的に真理に到達してるのか、ふざけて端折っているのかわからない。その両方だろうか。

山縣さんのご両親がやっている劇団も、味わい深かった。

さて前回のとても暗い投稿と繋げるのは、前掲とは全く無関係の本でありながら、ここに気になること、正気に戻してくれるヒントが色々書かれているからである。まぁ、この帯のとおり。

この方は俳優が人前に立つという状況を「異常事態」としている。他人に見られ聴かれて表現する、そこに自らの身体を使う。ここからの論考がむちゃくちゃ素晴らしい – p.54 最高 – のですが、今回は端折ります。


「書かれた言葉」の可能性と内包する力。

紙の上に書かれている文字自体には身体がありません。文字と身体は、根本的な原理が違うのではないかと思うほど、遠くにあるものです。しかし、その距離を誤魔化してはいけない。遠ければ遠いほど、そのあいだに飛ばすことの出来る火花の電圧は高くなるのです。 – p.22

これは凄いと思う。
楽器演奏に置き換えてみれば、パッと弾いてすぐええ音が出るベースは、おもろないねん、と話してくれた清水興さんを思い出す(昔 B.Magazine でインタビューさせてもらった)がさておき。

〜書かれた言葉は、それが実行力を持って表れるとき、そこにいる人を発話する人と聞く人に分割します。書き言葉は会話とは異なり、そこにいる相手を黙らせる力を持っているのです。

この能力が最も強く発揮される場所こそ、演劇の舞台に他なりません。〜

俳優には、このような力を引き受けていることへの自覚と、その力が生み出してしまう「沈黙」を聴き取ろうとする姿勢が必要です。 – p.61

〜ある集団に、自分の身体と言葉でもって、ある書き言葉を「正しい」ものだと認めさせること。唐突な話かもしれませんが、ここにはおそらく、立法あるいは司法といった権力を生み出すような力が備わっているのではないかと感じます。 – p.62

記者会見や国会答弁、その他幾多の会合で、予め用意された原稿を政治家や官僚、町の代表がひたすら読むのも、この故なのだろうか。

「力を引き受けていることへの自覚」が必要というのは、パフォーマーだけに限った事ではないでしょうね。学校で立って教科書を読む子供にだって、その感覚を養うことは出来るはず。大いに。


「ダジャレ」の効能。

言葉自体を不安定にしておくことによって、発話という行為を毎回発見しなおすための回路を作っておく。- p.132

もう少し説明があるのですが、ほぼ完全同意。ぼくが駄洒落を多用するのも、そんなところか。

その他、今後も舞台に立つ(実感が薄れてるが…?)者としては、ずっと不思議だったことについて、答えと新たな課題をもらった気がします。

機会があったら上演を観にいってみたいです。

ホメケナシー

絵本屋さんに友人を尋ね、少し挨拶する。

アナログ盤でリッキーリー・ジョーンズの2ndがかかっていたので、ライナーノーツを見せてもらう。

田中康夫ともう一人田中さんが書いていたもので、とても、なんというか、ウケた。

あの時代、衝撃的な、あるいはお洒落だったんだろうか(日本では)。そんな文体だ。

リッキーリーって、サウンドがとてもしっかりしていて、ザ・スタジオミュージシャンが関わってるなというか、人を惹きつける人だったんだな、とはよく思う。

僕の周りにもファンが多いようで、なにか、リッキーリーって、安心ブランド、みたいな気がする。

話が飛ぶが僕はここ数年、オリジナルを弾き語りしたり音源を出したりしていて、たまに「リッキーリーみたい」と言われることがある。

僕自身はそれほどまったく彼女のレコードに詳しくはないのだが、言われて悪い気はしない。そりゃ。天下のリッキーリーさんですぜ。

とはいえ、正直に告白するが、僕は彼女のボーカルがタイプではない。
声質が、なんともいえない、僕の神経を遠ざけるものがあるのだ。たぶん周囲にこういう女性がいたら、ほぼディスタンスを置くだろう(ひどいこと書いてますね)。

そこで、ある日、その感想を2度目にくれた人に、「あのね、言いにくいのだけど」と話してみた。「彼女の声って、あんまり好きじゃなくて」。

彼はなんと言ったか。「うん、僕もあまり好きじゃない」。


いいよね、言ってみるもんだ。魔法の言葉、謎が溶けたり。

褒めるのとけなすのを両方、絶妙に兼ねる言葉。これぞ本音と建前だ。
生きる知恵ってこういうことだ。

(ほんとにリッキーリーの歌が好きな、幾多のみなさま、ごめんなさい。僕はこういう処世術ができないのです)

たぶん、僕は自分の声のある部分と、彼女の声のある部分に、近親憎悪的な感情を持っているのだろう、とは思っている。

自分がトム・ウェイツみたいな太い声をしていたら、あるいは本当に、素直に愛してやまないのだろうか。Blue Valentine.

そういえば周囲の人も、そうだった気がするな。
と、遅まきながらフォローしておきます。

ほしぞら

細い月とほしぞら。

hoshizora って、それだけで憧れたことがある。

見ればそこにあるのに、そこにないかのよう。

いや、ほとんどの星は見えないから、永遠に憧れでもある。

プラネタリウムに、憧れる。再び。2020夏。結局行かない。

このあたりの細い月は、夜中に昇って、最も高くなる前に朝が来てしまう。

夜更かしの月だ。

ほしぞらが見れるということは幸せだと思う。もしこれが空襲の夜ならば。

政治家の考える戦争と民衆の考える戦争と兵士の考える戦争。だけど兵士は元は民衆。止むを得ずそうなった人が大半だ。
前にも書いたが、ごく若いうちなら、あるいは何かに動かされて、飛び込んでしまうこともあるだろう。

そのためなら、いくらでも、報道でも、あるいは芸術でも使って、人々は鼓舞されてしまうであろう。
実際におこったこと。

そして、世の中の境界を生きるがため、いろいろ気づいているはずの芸術家でさえ、そうさせられた事実。
聡明なはずの科学者さえ、御用にされた事実。今だって、そうじゃないと言えるか。

げいじつか、げいのうじん、あしもとのつかないもの、
いや、このよのあしもとのつきかたを、ずっとさぐるもの。

細い細い月とぐんぐん大きくなるほしぞらが、みている。

trusty

吐き気がする広告を消すために

会員登録させるって?

金にまかせて戦争に憧れさせる人も

その金に頼って運営してる人も

なんでこうなってしまうんだろう。

信用の基準ってなんなのだ? わからなくなる。

+-+-+-+-

筒井康隆に「この世で最も高価なものは、静寂です」で結ばれる話があった。
そのレコードを再生すると無音が味わえるというものだった、と思う。

-+-+

広告は生活や仕事に深く染み付いた
「大切な」ことであるし

だからこそ力が集まってくる

だがやってはいけないこともある

「経済的徴兵制」もその一つだが
子供や若者の意識に向けて、アニメやゲームで戦いに慣れさせていく

まぁこれは昔から、ヤマト、ガンダム、映画、長編ドラマ、戦隊モノ、時代劇、
なんだってそうかもしれない。ルパンやジブリも随所に銃や兵器が登場する。
それぞれメッセージはあるけれど。

実際僕も、子供の頃いっときはミリオタの入り口にいた。
ベレッタM84って拳銃がかっこよくて好きだった。モデルガンだが。

小学校のうちに興味は薄れ、
大人になって大幅に考えは変わったが、
男の子がそういうものに惹かれるのも、よっくわかる。

けど、もうええっちゅうねん。
銃や武器で人は守れないし、戦争で平和はこない。
テロへの戦いも矛盾しているし、
戦闘機いくら買ってもパイロットがいくら熟達しても、
兵器は壊し壊され、兵士は殺し殺されるためにある。
そして、街も人も、大人も子供も老人も、自然も全て。

戦争は子供の脳内だけで起こるのじゃない。
体力があり、疑いやしがらみを知らない若者や、
情報で扇動された大人が、
権力者達に煽られ、鼓舞され、忠誠を誓わされて起こるのだ。

+-+-+-+-

だから、情報を出す側、中継する側は、少なからず責任がある。

子供や若者や(あるいは中年、いや老人まで?)の
そういう「遊び」で済ませるにしたって
実際は遊びと、そうでない部分との境界はとても曖昧でとても難しい。

自己責任で済まないところもある。

まして、万人が利用する電車の吊り広告や
ごく一般的な web サービスのページに無差別に出すものじゃない。

-+-+-+-+

書き出すととても深い。

そもそも軍備や戦争を、良し、止むを得ない、必要悪、むしろ推進、
などとしている人々には、好ましい状況なのだろう。とても。

仕事を失っている多くの人に対して、潤沢な資金を持った者が札束で頬を叩ける状態になれば、ありえなかったことが簡単に起こってしまう。

(物理的な札束がなくとも、キャッシュレスでも仮想の頬は叩けるだろう)

女の子に釣られて戦争ゲームしていれば、
やがて遠隔操作でリアルにドローンや AI から戦闘できてしまう。
(「先頭、銭湯」と誤変換してくれたこの Mac はまだ平和な方だ)

これだけリモートが浸透し、5G が近いとなると
ここから数年が、ほんとに恐ろしくなる。

(加筆有)

たこ焼き

気がつけばこのサイトのカレンダーは、たこ焼きか、イモ虫みたいになっている。

「たこやきみたいやな」は、0対0が続く投手戦を解説した福本豊の名言であり、○に日付という番号が収まって連なるこの状況は当てはまらないのであるが、そこはよしとする。

しばらく食べていない、たこやき。何かの褒美としてたこやきを買い食いした思い出としては、東横線のさる駅前で屋台を出してたおっちゃんの味が忘れられない。あれはスカパーの収録、キネマ倶楽部だったか。

本場のたこやきは随分食べていない。

芋虫といえば、それを食べるわけではないが、芋を連想させるし、食糧である野菜につくものでもあるので、やはり食に直結している。また、梔子につくオオスカシバの幼虫は、その容姿といい、葉を食べ尽くすスピードといい、破壊力満点だ。

またどうでもいいことを書いているが、SNS を控えようとしているので、日記としてはこうなる。
ニュースで流れない(どころか、今はニュースも SNS の引用ばかりじゃないか)、ライフラインに直結する情報を思えばやはり SNS は重要だが、こちらから発信する意義はあまりない、とふと気づいてしまった。

気づいても何もいえなくなる。気づいたから何もいえなくなる。つぐむ。

twitter はその名の通り、鳥のさえずりから来ている。鳥は本能で囀る。それが止むことは、なかなかないんだろう(でも、やはりあるのだろう)。うまく人間の本能を利用したサービスだと思う。

野球解説者が喋り続けること、人がたこやきを食べ続けること、芋虫が増え続けることも、そういった慣性の法則に由来しているのだろうか。

かんせい・関西の法則。失礼つかまつる、ここは閑静なり。


で、そんなことは本っ当にどうでもいいのだ。

下弦の月になったので、次回新月の配信予告

タイトル:未定
内容:複数候補にて未定

なれど、1候補として “Loft & Found” というのを作っています。

yoroshiku

一輪車の夢

7.8

全くの無音環境で音をつくっていけないか、と、空想しているが
なかなかうまくはいかない。

が、新しい捉え方はできる気がしている。

視覚や、時間感覚も大事かな、と改めて思う。

家にスタジオがある…というのは音楽家の理想であり
昨今はこれを実現している人も増えているようだ。

それは近くもあり、とても遠いことでもある。
投資や、運だけでもないようだ。ほんと色々な要素がある。
気合いでダンボッチDIYする人もいるし。それすら阻む環境だってある。

かなり本格的なスタジオを身近に実現している音楽家に、いろんなところで接するので
彼らに祝福と、応援と、を思いつつ、
自分はやはり限られた環境で道を探っていこうと思う。

僕はおそらく多くの人と同様、基本的に音の出せない生活をしているが、

だがタイミングや、ちょっと工夫して外に出たりで、マイク録りができたりする。
そのための最小限のいい機材は揃えている。

また、去年や一昨年や、それこそ前世紀ぐらいに録音したデータも残しているので
それらを組み合わせて曲を作っている。実際、音を出せたり出せなかったりが、かなりの勉強にもなっている。

ここ数ヶ月は、そもそも楽器の半分を倉庫に預けていた。
ようやく、5弦ベースとショルキー以外が帰ってきた。
とはいえ弾くことはできない。この巨大な生き物は。

裏面を眺めていると、よくできているなと思う。楽器を弾かずにコレクターになる人の気持ちもわからないでもない。

現在はいろいろな意味で、生演奏のハードルが高い。
せめて大事にしてやろうと思うが、これらは待ってくれるのだろうか。

物というのは人間とまた違った時間軸で、生きている。
だから、よほど気が長かったり、逆に寿命が早くきたり、寂しかったりおおらかだったりもする、と思う。

作った人はいろんなことを思っていたのだろうな。


海外から楽器や機材を頻繁に買う知人もいる。

よくやるよ、とも思うが、自分も必要に迫ればそうする。必要なペダルやボックスをギグに間に合わすために、国内で買うよりドイツやアメリカから買う方が早かったり、というパターンもあった。

昨年秋頃から、アコースティックダブルベースでの演奏活動は控えていきたいと思うようになった。
いろいろな意味でハードルが高すぎるのだ。オリンピックによる荷物や交通制限、テロの可能性だって考える。そうでなくても移動時の身体への負担は半端ない。

僕はたいしたアップライトプレーヤーではない。こんな事を書くと、誤解する人もいるかもしれないが、自分の腕前ぐらいは誰より自分がわかっている。世界のトッププレーヤーに、折に触れて接してきたし、それに合った自分の立ち位置は把握しているつもりなのだが、周りはなかなか、そんな自分をわかってくれない。

それでも、時には不相応な、物凄い人々からオファーが来るから、ベストを尽くそうと楽器を手に取る。

とはいえ公式なセッションでは、なかなか自分の納得のいく、自分のベースプレイを残すことができていない。自分の理想とのギャップがとても大きいという事でもあるが。これもやはり、なんとかしたいもんだ。

ライヴ演奏というのはまた別で、録音、ミックスなどでは伝わらないものも、よくも悪くも伝わってくれたりもする。また、生だと音以外の部分が評価されたり、台無しにしたりもする。これも、大切な要素だと思っている。

だから僕は、生演奏活動を重視し、体現している都会のミュージシャンを本当に尊敬する。
リモートライヴを積極的にやっている人も然りだ。
自分は残念ながら、そうはなれない。少しはやっているから、そう実感するのだ。

そんな中、仕事とは並行しつつ、
小さな町や縁のあった場所も含めて、電車や車で旅して、自分の音楽や演奏をやって行こう、とは思っていた。2月までは、だ。

僕はベースが基本ではあるものの、曲作りではガットギターばかり触っている(最近はサイレントギターだ)。
なので今後を考えて、弾き語りし易くアンプも要らない、横型のアコースティックベースギターを探していた。いいのがあったのだが。
無理して買おうと思ったが。すぐになくなった。

そもそも、現在は海外からの楽器購入もほぼ無理だ。閉ざされた世界。
元もとれなかっただろうから、買わなかったのは正解だ、とも思っている。


閉ざされた世界ではいろいろな事が閉ざされていく一方、音楽をより大切に感じたり、もする。


そんなこんなが、枯れては再生し、明日になっていく。だろう。
地味だがよい折り返し、本日これにて。

豪雨の中の方々、くれぐれも御用心ください。命を大切に。

かこはどうして

半月は早い…連続配信をやってみて思い知るとはこのこと
月は容赦なく動いているのだ。

次の満月は5.7。なんでそんなに知ってるかというと
そんなもんは月齢カレンダーサイトでも見ればすぐわかるこったが
昨年末は卓上カレンダーを買うのが遅く、帰省した時に書店で見たのが
唯一、日付の隣にでっかく満ち欠けが描いてあるこいつだったのだ。

こいつ。俺しかわからん。ごめん写真アップする気などない。
裏には月の満ち欠けと名前、と、すてきな図解がある『卓上満ち欠けカレンダー』。

水曜リリースという音楽業界の慣習や
月刊誌、週刊誌の慣習
それとは独立したインディーだから違うメモリで動きたい
と思うけれど

月に関してもまだ初心者。本当はもっと凝ったリリーススケジュールを組みたい。
上弦の月シリーズ、有明月シリーズ、
立待月、十日夜の月、…

とてもできそうにないから、今年だけの計画になりそうである。

この連続配信 “moon x moon” を始めた時は
よもやコロナ騒動など予想もしなかった。
今は #stay home で、宅録にはいい機会だろう、とも思うが、どうなんだろう。
今となっては、以前の日々を思い返すのが困難になっている。

過去。

僕の大好きな、過去。
過去の栄光。そんなものはないが、この瞬間は無限大だと思っていた日々は
確かに存在していたし、それは遠い遠い、数ページ前のこと。

だが、時間の感覚がそもそもおかしい自分は、現在も将来も数日前も
時折瞬間移動しているようで、なんだかリアリティがない。
リアル・UFO なのだ。なにがだ。自分がだ。

過去は慈しむべきものであり、それができるのは本人だけなのだ。
誰かに自分の過去を愛してもらうことなどなんの意味があるだろう。

それって国のはじまり。権力のはじまり。歴史のはじまり始まり。

編纂したものが「正史」になり、国の威光が生まれ、戦争が始まる。
だから?

自分の人生は、まず自分で落とし前をつけるしかない。
そこには幾重にも折り畳まれた自分の将来がある。

Jeff Berlin も Brian Bromberg も受話器の向こうで言っていた。
自分がやりたいことは、誰も代わりにやってはくれないのだ。
もし代わってくれたとしても、それは自分ではないのだから。

はっきり書こう。COVID-19 も、その先の展望も、
その先のシステムも、自分の人生にどうかかってくるかわからない。

そして、これから先、自分たちは、ふとしたことで
ほんのふとしたことで
取り返しのつかないところを踏み外すかもしれない。

あるいは、梯子が外されるかもしれない。

そのときにどうするか、どうなるか。
それは自分がそれまでに生きるしかないのだ。

梯子が外されて、無重力なら、どうなる?

自分が思ってる世界が、無限落下で、それはただの錯覚だったとしたら?

感じ取ったものを、綴るしか、ないのだ。ゆびさきで、からだで、声帯で。

あるいは、あらゆる色をした、かげとして。

-追記-

全然はっきり書いてないね。
要するに、やり残しは良くない。

yesterday morning

moon x moon – 4月新月

<4.22>

アップロードはしたものの、明日(あと数時間)リリースされるかどうかは
Apple まかせ、Spotify 次第、…わからない。が。

もし配信が間に合わなければ、夜中に歌詞を公開しますね。

人間の事情がどうであろうが、コンピューターシステムがどうであろうが、
天体の運行は変わらないので、それに合わせて今年はリリース続けようと思っている。

お題は「ポエムと、寝言」

どちらも最近、練りに練った原稿に基づく地位の高い人々の演説を揶揄したもので
すなわちどちらも貶されていた言葉なのだが
僕としてはどうもそれだけでは腑に落ちない。どちらも愛着がある言葉たちなのだ。
よくも俺の。

ならば寝言をポエムにしてみよう。

人は皆、寝て、起きて、寝るのだ。

欠伸と共に消え去ったものを追い求めて日中がすぎ、また仕事が終わったと
眠りにつくのだ。その消え去ったものは日中はついに見つからずに。

こんな自宅待機の日々が続くと、朝と夜と翌日の区別もつかなくなってくる。

それは、むしろ良い機会なんじゃないだろうか。

時間感覚、成長感覚、衰えの感覚、消え去る感覚。そんなものを捉え直すのに。

曲調としては相当変わったものになっている気もする。
僕としては普通なのだが。

まぁ、ひとりプログレフォーク、とでも言っておこう。


<4.26 更新>

Spotify, Amazon, YouTube Music, Google Play などで配信中
Apple 系はまだ捕捉できず(昨日一瞬表示されるも、UFO のように消えた)

歌詞はこちら

エレキギターとフレットレスベースが沢山入ってますが
弾き語りが楽しい曲でもあります。またどこかで披露いたしましょう。

その場合は “カメラの向こう” が “TV の向こう” に変わったりします。
日本の趨勢としてはまだそちらかもね。


<4.27 更新>

ようやく Apple Music, iTunes で捕捉。今迄どこにいたのだろう。


<5.22 追記>

まもなく一巡り。
ジャケットもやる気なさ気だし、告知もほとんどせず、おまけにリリース(捕獲)も遅れ、僕史上最もどうでもいいシングル、というテイではあるが、意外と局所的に聴いてもらえてます。…サンキュー!

というか自分的には、ここ最近作った曲の中で一番好きだ。

ミックス、部分的に悔やんでいるが…
それでもハマる人はハマると思う。

サイレントギターにアンプシミュレーターだけでやったエレキギタートラックも、調子にのってエフェクトだらけにしたフレットレスベースも、結構気に入っている。ドラムは生が間に合わなかったので、フィーリングだけの打ち込みだ。ああいうアフロファンクドラムが自分の中にあるので。Stephen Roberson やタナカケイイチのような。(彼ら - 真のドラムアーティスト - に敬意を払いつつ)

ジャケットやタイトルからヒントを得てくれた人は日本に数人もいないかもしれないが、
わかる人はめっちゃわかると思う、のです。

僕がやりたいと思いつつサボってきたこと、主に3要素ぐらい。
プログレ。ギター。祝福するようなメロディ。テキトーなロック。4つやんけ。

もともとこの曲は、ピアノ音源のメモで作りました。しかも画面上のスライスで。
キーボードは未だに弾けないので、いくらエディットしても嘘になる。
ギターもインチキだけど、まだ弦楽器だからわかる部分もある。
嘘とインチキは、オレの中では少し違う。
なので完全に置き換え。デモの原型を留めていない。

そんなことを真面目に突っ込みつつ、ふざけて作ってるので
他にないものになってると思う。実はアホみたいに時間がかかった。
それだけに、ええとこ、行き過ぎたとこが両方出てて、オレっぽいのです。

いや、またリミックス/リメイクもすると思いますよ。


<7.17 追記>

この曲の面白さに気づいてくれた人は、ちらほらおられるようです、感謝。

わかる方はすぐわかる、と書いたものの
そもそもそういう人たちにリーチしていない気もするので、書きますと
この曲は、音楽的には初期の(日本で有名になる前の) Yes や、
イメージ的には EL&P の Tarkus あたりへのオマージュだったりします。

(ベースプレイという意味では、全然違うけど)

しかし John Anderson と Chris Squire のハーモニーはほんとすごくて、
子供の頃に聖歌隊を通ってる人たちだからか、なよっとしてるようでもバシーっと筋が通ってる。

そのへん、自分は足の爪ほども及ばないのは、なんとかしたいものだ。もう遅いが。

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