カテゴリー: fushigi

サイコキネシス

念写がしたい…

いい写真をアップする人々が、羨ましくないわけではない。

俺もひとつ(ふたつ)間違っていれば、この日記だって
いつもいい感じで写真やイラストを添えていただろう。

ものごとってすっかり、億劫になる。ふとしたきっかけで。

インスタはやらないけど、スマホで写真を撮らないわけではない。

パンとか、木とか、雲とか(うまく撮れない)

スマホを掴んだ時に写されたらしい、たくさんのスクリーンショットとか。

でも、ねえ。

いいカメラが欲しいなんて思っていたのは過去のこと。
すっかり諦めた。自分も基本、写りたくない。

イメージだけを写したい。念写したい。

あみとまき

短いロールカーテン
短い足の犬

コーヒーショップのカウンター

正確には「カウンター」ではない
そちらは感染対策で閉じられてる

窓側の「カウンター」だ
ややこしい

言葉の意味って変わっていくなぁと思いながら

ファンクとスカとハードロックかけてるこの鮮やかなコーヒーショップに久しぶりに

30分ほどいるだけでいい体験ができる

そして座った窓側カウンターには
当然窓があるわけで

その窓はとても低く
だが効果的に明かりが入ってきて

外景が切り取られている

よくみると低い窓をさらに削るがごとく
枠の上端にはロールカーテンが巻かれており
残りの少ないクッキングシートのよう

なぜだかコーギー犬を思い浮かべる

さてロールカーテンは降りていないわけだが

木漏れ陽が網戸で面白い反射をしている

揺れる戸外の枝葉と網戸の影が絶妙にずれている

こんなことで世界が違ってくる
なんか コーヒーと相まって 頭冴えてくるんだよな

これは想定してのことだろうか?

網戸といえば、劣化で破れた網戸というだけなのに
客船の模様に見えるという写真が、先日出回っていた。

意外なところで僕らを騙してくれる スクリーン

映画と同じですね

勘違いから生まれる真実

自動字幕の世界というのは
相変わらず面白い

今日から放映されている反田恭平さんの CM

いいこと沢山言っているので YouTube でキャプションを出す

「一生自分のお父さん探していくのが」
「くすぐるな燃え上がれ これは知恵方法の言葉なんですけど」

共に AI 字幕の空耳だが
あながち間違いともいい切れない

一応、彼の言った言葉は

「一生自分の音を探していくのが」
「くすぶるな燃え上がれ これはチェーホフの言葉」

なんです
けど

「音」 は確かに 「お父さん」 かもしれないし
「チェーホフ」 は 「知恵方法」とか「知恵豊富」 言われても なるほろなと

ちなみにサッポロの CM です

ビール呑まなくなって久しいなぁ…

ガージェリーにヤッホーにベアードにタルマーリー。
たくさんのんだもんだ。今はシュトーレンで酔っ払うぐらいだよ。

緑の珠

プチトマト。プランターから。

大晦日にこの写真って、季節感がさっぱりわからないが、
部屋の中でやがて赤くなっていく…らしい。

このトマト、どこからきたものか辿ると
どうやら この日記 から繋がっていた。

昨年の初夏に飼っていたノコギリクワガタ、その命を奪った「熟しすぎたトマト」
それをクワガタと一緒に埋めておいたのが、いつのまにか芽を出し葉を出し、蔓を伸ばし
気がつけばこんなことになっていた、という次第。

命の循環って不思議だ。

パラドックスマーチ

多様性や SDGs なんて気休めで
せめてみんなのやりたいことが
グラデーションならいいんだけど
なんでも二極化されがち。カラーに染まる。
そまらないものは排除される。
ミュートされてる。
ルートに乗らないものは、いないことにされてる感。

インフルエンスをうけずに好きにやってたい。
受け売りもせず、ポートフォリオも持たずにやっていきたい。
それが難しい。何かしらの磁力を、どちらかから受ける。

あっちか、こっちか。
みちを渡るときにふと思うこと。

この道には常に車がビュンビュン走っていて、ゆっくり歩くことも、遊ぶこともできない。
どっちかにいないと、轢かれちまう。この舗装された道では。

近頃はいろんなところで、アスファルトが敷き変えられている。
熱し、砕き、なにやら蒸気が上がっている。

一度舗装されたら、草むらには戻らない。なぜだろう?
人はなんの権利があって、土に蓋をするのだろう? そんなに大地が怖いのか?
やみくろが怖くて、塗りつぶしてる。

つけた街のあかりを消し、アスファルトをはがし、電線を取り、
暮らしを変えられない? そうしないと我々、持たなくない?

妄想。愚想。矛盾と現実に叩き潰される。だが何度でも、浮かんでくる想像。

カンナヅキ

かんなづき。

自分や作品に、かんなをかけていくかな。

削りすぎてなくなりそうな実体と

肥大化して収拾のつかない想像が

両方ありましてね。

長い麺を待つ

青竹のように芯がある…

竹って芯あったっけ。
芯がなくて、空洞と節じゃなかったか。

でも、いいや。

脊椎動物に対する、節足動物。

違った見方があるのはいいことだ。

というわけで、

日暮し聴いて、寝る支度する、秋の夜半。

+1次元

九月ですね

三日月がすぎ今日は半月が訪れる

やがては満月 また半月 そして二十五日に新しくなる

アプリで J-Wave を聴く

ベルトリッチの映画、最後の老人の、腹話術のような台詞の話。

Paul Bowles の原作はこの秋に読みたいな。

この映画の7年前 Sting が書いた一節がずっと頭にひっかかっていて

… Tea in the Sahara という曲だけど

この曲は捉えどころのなさのおかげか、かれこれ40年近く頭のどこかで再生されている。

まあ、かの人はこのあたりの詩作の背景を、「言葉遊び」と片付けそうな気もするけれど
(そしてそれを否定もできないが)

意味がわからないながらも、それは形を変えて自らの近年の謎ボックスにもなっている。

謎ボックスとは…なんというか、巾着袋みたいなものだ。取り出したり、忘れたり。

残念ながら、僕の頭上には Sheltering Sky より、ずっと低い屋根が常にあって、

「そら」はその向こう側なのだ。遥かに。

だからこそ一昨年は、異様に月に執着していたのでもあるが

今年はどうやら、月を見ることすら難しい。

正直、時間が惜しいのだ。

いや、時間との付き合い方が、もうわからなくなってきているのかな。


昨日。駐車場に向かうとき。

青空の下を歩きながら、ここは4次元?と思う。

3D+時間が4Dなら、僕らの生活って常に四次元じゃん?

三次元なんて、ほんとにあるの?

たとえば奥行きがなくったって、時間は常に存在するのだから

2D+時間だって、

モノラルの音声だったら1D+時間だって、いつも存在してるやん?

とふと思ったのだ。

秋の虫が、また鳴いている。彼らはどうみているのだろう。この世界を。

先と後

写真を撮ったりいじったり、ということを
久しぶりに少しだけやってみる。

いつのまにか、世の中からは一眼レフが消える動きになっているらしい。

結局買うことはなかったか。あるいは、ずいぶん先になって、手に入れたりすることになるのか。


「先」が「向こう」か「手前」か

考えだすとわからなくなるときがある。

before, in front of, ahead,

たとえばアメリカでタクシーに乗せてもらって
「あの車の前に停めてくれ」という案内人と運転手のやりとりを観て、伝わりにくいなと感じたり。

「向かって右、左」もそうだ。わかったようで、わからなくなる。

「先」は昔でもあり、これから先でもあるしな。

あれこれずむ

案の定、昨日録ったたくさんのギターやコーラスは

消すことになった。

他になにかあるのかよと、

ふりかえる。ひっくりかえす。

初心にかえると、あれとこれって似てるんだなと、ふと思う。
だから好きなんだろうな、って。

AI のニューラルネットワークを超えるには

人力の脳しかない。

アルゴリズムと、あれこれずむ。

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