カテゴリー: fushigi

車輪と線

有難いことではあるが
師走は想像の3倍ほど働いたので
最早頭が日に4回オーバーヒートする状態になり
さすがにダメだと
霧の山にいる

正常な判断って
或いは正常を超えた判断って
まだまだできない
もう遅い
まだ早い

それは音楽でもそうなのだけど
反省は尽きない
もちろん
たくさん
これはやれたな
っというのもある

物事の連続性をあまり信じられなくなって
どれだけ経つだろう
先はわからないというのは
とても素直な態度だとおもう
近未来にたいして

どちらにも転ぶから
転ばないように車輪を回し続ける

まわるもの
まわる
ぼくらの予想と違って
まわるもの

なんだろう
気づいたはずなのに
おもいだせない

大阪のプレタと青い列車とカッパとうなぎ

ohashiTrio & THE PRETAPORTERS 2019
大阪公演

ホーン隊たまらん…

音楽を改めて実感できる 貴重な時間でした。

ドモアリガト オサカ!
(外国人調にいうと “Sa” にイントネーションあったような)

来週トキオもよろしくお願いします。


新大阪駅付近にて
カッパを待つかの如く佇む ブルートレイン

ちなみに、突然ふられた MC
また、変なこと言っちゃったみたいですね。

意図としては、1/99くらいの人にはわかってもらえたと思えど

創作において重要なメタファー、或はメディアムを、恐らく「彼」は待っている、ということです。

そして一番のキモは「カッパ待ち」「UFO 待ち」より、むしろ「うなぎ待ち」にあったのですが

「カッパとか UFO と違ってうなぎは普通にあるから」と柔らかくハッピーエンドに流されてしまった気がします。
めでたしめでたし。

いや、ちゃうちゃう

これは知ってる人は知ってると思うけど、
村上春樹さんの「うなぎ説」というのを
とっさに思い出したからです。

小説には「書き手と読み手とうなぎの三者協議」が必要、という、お話。

大瀧詠一さんのインタビューを最近読んでいても思うのですが、
「分母分子論」とか、裏声と表声の話とか、
創作をする人は突拍子もない例えをするなぁ、ということで、引用したのでした。

さっぱりわからない方は 興味がある方は、たとえば こちら をどうぞ。

石橋とグラスのブリッジ

このニュース
全自動折り畳み機「ランドロイド」が「エアリズム」を畳めず、事業を畳んだ
出資先が Go を出さなかったからだという
まぁわからんでもないが

こうして完璧を求めて日本の大手やベンチャーが躊躇し倒れる一方で
GAFA(…っていうんよね)は
少なくとも Apple はバグだらけのシステムやハードウェアをスタンダードにしてる

上海行った時に思ったけど
あちらは1年毎に3回行っただけで街の様子が激変している
シェア自転車にEVに…

僕はどちらかというと今、時代に逆行して
デジタルを片目にアナログ&アコースティックに生きているけど
(だから僕は最新の Mac を買うのを躊躇する)
社会がメビウスの輪のようにねじまがっていくのはわかる
オーウェルや松本や筒井や、かつての SF が現実になっていくのも。

時代。
特定集団が決める時代、喧伝される時代。それに乗る時代。
どんな時代にせよ、それはもう昭和のようなアイコニックなものではない。

透き通った、硝子のような、向こうが幾重にも見えているものだ。
硬い壁を透過できるのは、意志と術を持った者だ。
それは、誰も、だ。

そう思うし、そうしたい。

石橋を叩いて渡るのか、叩いて壊すのか。
そんな石橋は、もうグラスのブリッジに変わっている。

ひかりはファイバーの中を直進しかできないのか、
振動し、浸透し、止まったまま動くことができるものなのか。

空想の中ではなんだか気持ちいいけど
身体が安らぎを求めている中、空想だけで生きて行くことは無理だろうな。

眠ろう。また朝が来る。

硝子と風の考察

一昨日のBABI CHANで話したこと
あれからも考え続けるのです。

(くもり)硝子の向うは風の街
とは松本隆さん
果たして40年近く経った今もそうなんでしょうか
僕らはもう一度 問いかける必要があるかもしれません
…と言っ(てしまっ)たわけなのですが

ビル街の硝子を一歩出ると
吹き飛ばされそうな身体が
確かに今も風の街なんだと
知らせてくれた今日
そこへこの動画です。

水やそれを湛えた生命体とは違って
硝子を湛えた都市の構造体は
風で揺らぐことはありません。

結果として、それ以外の空間に
風が迂回し、集中することになります。

これって冬のNYCでも感じたことなんですが
大丈夫なんですかね?
都市文明。いつまで。

いつかタルマーリーの渡邉さんに聞いたことですが、
気候変動含めて、です。

地球はやはり水の星ですから
魚に対する海や湖のように
人間も硝子を常に近くに欲しがっている
というのが私の直感です。

こわれもの / Fragile なのに。

そういえばこの(Yes の1971年アルバムの)ジャケットも示唆的じゃないか。

昨日、例の 世良 Mick 市民会館 ビレッジホール に入る前に
風車が本棚みたいに並んで
風が可視化されてる姿にしばし見入ってしまったのです(アスナル金山というところらしい)
祭りの提灯にも見えるし
あれはなんだかわからないけど、なんだかいいな。

驚きの一時停止

列車の前の席の隙間からスポーツ新聞が見えた。
金本、それでも続投?
みたいな。

思えば随分長く、阪神ファンを停止している。
現在、阪神が何位かもしらない。最下位らしいとも聞いたが確かめてもいない。

子供の頃から阪神ファンで、最初にかぶった帽子は当然HTだった。
ネットというものに触れ、アメリカにいても日本の状況が(ある程度)わかるようになった時代
欠かさずチェックしていたのは日刊スポーツ大阪webだった。
もうその名のサイトもないかもしれない。

だが僕は、藤川球児がウッズとの直球勝負でバックスクリーンにはじき返され
CSを終えた時に、岡田彰布の涙と共に阪神ファンを卒業したかのようである。

球児ようやった。でも君がリリーフエースのときに優勝させてやりたかったな。
気がつけばそれから10年が経った。

真弓でも和田豊でも金本でも、なんかぴんとこないのである。
掛布やったらええのか? たぶん違う。

野球はすばらしいが、たぶん、野球観てる場合ちゃう、というモードなのだろう。

阪神ファンというのは強烈な中毒性があって、依存性もあり、それだけで自分の人生に
頼まれてもいないのにさまざまなドラマを生んでしまう。実際はなにも起きていないのに。
ほら先ほども、「優勝させてやりたかったな」と書いた。どうかしてる。

東京に対して子供のころから長年持っていた感情「巨人ファンばっかりおったら嫌やな」
これが、実際にはそんなに巨人ファンは多くない(あからさまではない)ことに気づいたのは住んだ後だったが、まぁ、日ハムや福岡や楽天や、広島や中日や、それぞれの球団に魅力があることがメディアを通じて知れ渡ったことも大きいのかもしれない。

巨人は今でもあまり好きではないが、そもそもプロ野球をチェックしないので気にならない。
阪神に一喜一憂することもない。

たぶん僕は、ファンを完全にやめたか、ファンという回路をフリーズ中なのだろう。人生においてこんなことが可能なのだ。

音楽にもいろいろあって、やりたいこともいろいろあって、やっていないこと、そのうちやれればいいやと思ってること、ええ加減やらんと後ないで、みたいなこと、もう手遅れだからマイペースに、とか、今やるしかない、とかいろいろあるが、人間ってそんなマルチタスクは向いてなくて、そんなに沢山にはできない。毎日生きてるだけで精一杯だったりする。

でも、たとえいっぺんにやらなくても、それぞれオフにしたりまた別のスレッドに移行してタイムラインをスライドし直したり、結構いろいろなことも可能なんですね。

まぁ藤川のストレートは、かっこよかったなぁ。
あの感じは楽器奏法や音の伝播にも、なんらかのヒントはくれると思うのだ。手を離れたものが繋がってるというか。たぶん。

情緒のある監視カメラ

Life is Beautiful

中島聡さんのブログである。
最近ちっとも更新しないなぁと思っていたら
たくさんのエントリーが上がっていた。(9/23の夜時点で。さらにそれから沢山上がっている)

ブログの性質上、記事を逆順に読んでしまうので、読者としての僕は著者の意図を遡るわけだが、
伝達手段としての文章力のつけ方というところから、それは簡潔に意図を伝えるため、
発端としては人間にとってアウトプットがいかに大事か(違いを生み出すか)という話だった。

小学生には読書感想文は不要(文章力をつけるための教材としては不適切)という意見などとてもおもしろいし、組織においてはメールを簡潔にする(そのかわりに全従業員に対して目を通し返事をする)ことの大切さもわかる。

この人は自身で仰っているように Windows 95 を作った一人でありブログの先駆者という著名人であるし、パーソナルブランディングに長けている人である。
僕自身も、2009辺りから技術者の知人に教えてもらって以来、時折読んでいるが、示唆も多く、また 日米関係 などについても、目を覚まさせてくれて感謝している。

で、アウトプットと自己ブランディングについて。
これはどうも僕が苦手なところである。
苦手というのは原因がたぶん幾重にもあるので、
人から直接間接的にどう諭されても(さとしさん、という名には、人にさとす、という所もあるのだろうか。名は人を表すというから)そう簡単に変わるものではない。

さておき現代。
普段のその人の性格がどうであれ、ネットのおかげで誰もがアウトプットをできるようになった。
タイピングがある程度得意になれば、日記を筆記用具で連ねるよりよほど早く、思ったことを書ける。
書くことによってまとまらない意識をまとめる役にも立つし、それを(止める人もいないわけであるから)クリックして投稿することは、池に石を投げるようなもので現代においては普通の遊びなのだろう。
実際に、近くにいるのに会話よりも早くネットに投稿する人が、僕の周りにも沢山いたし、現在もそうだ。

だから、フツーの人間関係を維持するには常時接続していないと、みたいな強迫観念も、出てくる。

SNSがあって、情報が太く集まりやすくなっているから、人はそれをより利用するし、
そのシステムそのものを利用して、マーケティングやプロパガンダも当然動いてる。

元来、広告(マーケティング)とは戦争が終わって役割を失った(ように見えた)プロパガンダ(大衆誘導)が姿を変えたものだ、
という意見があって、僕はこれがものすごく腑に落ちている。

だから、結局のところ、アウトプットしなきゃ、と思ってせっせと流れに乗ることは、
勉強にも切磋琢磨にもなるが、流れに乗せられることにもつながる。
自己責任としてのタイムスタンプ付きで。

僕が常に醒めてるのは、そのへんである。

なぜならタダほど怖いものはない。タダなのに盛り上がってる業界って、莫大な援助や利権が動いてる。
シミュレーションゲームがこれだけ盛り上がれば、無人機を使った戦争への動員がしやすくなる。
人格が破壊されてるかもわからないうちに、人を破壊できてしまう。誰が喜ぶ。

監視カメラの思う壺、ってことだ。

文章には情緒は不要。あいまいなものを伝える前に事実を伝え、評価できる形を作る。
これによって、国語の先生も採点がしやすくなり、生徒の学習も着実になる。そうなのだろう。

というわけで、ひねくれ者の私が思いついたのは以下である。

「情緒のわかる監視カメラ」

事実をひたすら記録するのではなく、そこに感情的解釈を加えることによって
独自の世界観を記録するカメラがこの世に、たとえばあなたのいるその空間に10台あるとすれば、
そこにはどんなストーリーが展開されているだろう。

新幹線の車間にぎゅうぎゅう詰めで立ちっぱなしの人々を映し出す監視カメラが、
この人は野球帽の下ではにかみながら、片手で酒のビニール袋をぶらさげ片手で子供たちを守りながら、イイ顔してんなぁ、とか
だったら背景は夕陽色だろとかこの辺はシャローフォーカスしよとか
(聡さんの「ランドセルとは」文例を借用すれば…ちなみに僕はこの文例が好きだ)リュックから手足が生えたような錯視からB級のSFを勝手に始めるとか、
この人とこの人に30分前の乗客の話を聞かせたらこうなるよという妄想を勝手に作るとか

後から記録を紐解く、係員か捜査員かビッグブラザーか何者かはわからない、がそんな何某が
目的を失って混乱し、ストーリーに見入って涙してしまう、酔ってしまう。

すると、監視カメラそのものの目的がよくわからなくなってしまい、四六時中カメラに監られている日常も、少しは平和に、楽しく、安全になる。少なくともそういう錯覚に陥ることができる。

…ここまで書いて気がついた。
それは、もうインスタがやっていることだ。
無数のパーソナリティとスマホのカメラとアプリが、せっせとやっている。

困ったもんだよ。マジで。

ときどき とまり

夕方

ユキヒロさんの
Saravah! を聴きながら
うんどう

時はいつまでも 同じリズムで
過ぎさる 歌をかなでる

あれ、時って同じリズムだっけ?
そだね、意識がどうあれ、時計は同じリズムだね
伸び縮み時間ばかり考えてたから、忘れてしまってた

あと少し作業しようと思ったら
時が止まってた

二度見して

そだね、時計の電池が切れたんだ
電池を替えて皿洗って
寝ようかなと思ったら

まだ9時前で止まってた

やれやれ めずらしい

第三分の二元旦

一年を三分割すれば今日は第二の元旦。
ってことで海に行く。

普段20~50cm、いいやブースの1.5m、
以上に遠くを見ることがない。

ライヴ会場でも視力の届くのは?m。丸眼鏡は伊達ではないのだ。

腕に端末を縛り付けられようとしている若者と既にチップを入れられている諸外国の愛玩動物との間にある自分は、このように滅びていくのだろうと日々自覚しながらも、危機を感じて海に行く。

といった方が正確だが三分の二元旦と嘯く。その方が夢がある。

もう三分の一元旦の事は忘れている、ということは、道を間違えてから気づく。
引き返して数秒後、引き返せない道に乗っている。

ならばと小一時間ワープし、打撃施設を目指すがそこは潰れている。
つくづく抜けている。

小一時間を取り返そうと、犯人再び現場に戻る。
さっきの Point of no Return, わずか先にあった、ベストポイント。
つくづく抜けている。だから来たんだよ。

海はすばらしい。

聴覚の傍で自分が見ていた全てがウロコだったかのように。
これも新手のウロコかもしれない。それでもいいと思う。

EW&Fのジャケットを描いていた長岡秀星さんのイラストにたしか
「すべては砂漠にかえっていく」というようなタイトルの絵があった気がする。

傾く太陽の下はさながら砂漠。
乾ききった砂と、すぐ隣にある無尽蔵の水を眺めて

「?」が30個ぐらい沸き起こった。

砂って、なんの象徴なのだろう。乾いたもの、それとも潤い?

たぶん、どっちもなのだ。

shamama

シャママ、という言葉が独歩している、らしい。
局地的な現象ではあるが、見過ごすことはできないのでここに記す。

–誕生–

この、シシャモとマシュマロとママス&パパス、のような「シャママ」は
5月に某…大橋トリオ名古屋公演にて、
(直前の金沢での五七五が長かったらしく)
「MCを短くせよ」とタイムキーパーから要請を受けた事に対する、
僕の心の呻きであった。

…Then tonight I’m gonna SHUT MY MOUTH…

心の呻き…ちがウな、心の自動操縦…心の3Dプリント、
あるいは「ひとうちななつ」の巨人エピソード、
仕立屋が「岩」と称して絞ったチーズ…それが近いのか…

当時、世界のどっかで、日本の役人が人権的な質疑の最中に
“shut up” と言い放ったことへの、ガンジー的なアレも入ってるかな…

要するに、喋りません、というのを
ジャパニーズイングリッシュで言い換えたのである。
それが「シャママ」の誕生。そしてシャットアウトするはずだった。

–蒲生の薬売り–

ところがその後「シャママ」は、ジワジワと界隈でキているらしく、
最近では僕が某薬局で見つけて愛用している
「おやすみテープ」の変名となっている。

口を開けて寝る人向けに、強制的に口をふさぐ、絶妙な粘着力のテープである。

口を開けて寝るとロクなことがない。喉は渇くし風邪はひきやすくなるし
他にもいびきとか色々あるらしい。

数年前だったか、別の仕事でツアーメンバーの誰かと誰かが
「小さいころは親から口にテープをされた(されそうになった)」「うそでしょ」
と会話しているのを耳にして、んなアホな、と思いつつ気になっていたのだが…
そんなものが商品化されているのを見ると、いよいよ世界もヤバいのではないかと思う。
両方の意味で。

–ishutmouthiusefingers-

シャママの説明をするのに言葉は要らないはずが
実際は逆であることを指が証明しつづけている。

–おだやかなねむり–

シャママテープ、をすると、笑える顔になる。
誰がやっても笑えるはずである。
だが、今夜はもう、食うものか飲むものか、喋るものか、と決意して眠りに臨むのも
悪くないものである。

–電話とよこく–

それはシャママを貼り、横になったまさに直後だった。
jkから着信があった。思わずとった僕は、モゴモゴと喋り出した。
なんでも「生で詩を聞きたい」とのことである。
背後にはwcとcpとotの気配がある。
「オレ、テープしてるよ」
すかさずFacetimeを強要され、僕は断乎として拒否した。
連中には何をされるかわからない。笑える顔をストック、あるいは晒す可能性が十分にある。
恐ろしい世の中である。
しかし詩の朗読には応じた僕は、眠気の中、口の右端左端だけを腹話術のように使って
「よこくの太陽」をモゴモゴ詠んだのである。

–遠隔操作–

その電話朗読は録音され、ライヴイベント会場で流された。即興演奏付きで。

僕はそれを後から知った。

さらに近畿では、「シャママテープ」が景品としてプレゼントもされたという。

–さいごに–

シャママは、モゴモゴ詩を詠むためのものではない。

受け取った方が、これだけをわかってくだされば、
僕としては安心して、また眠りにつけるのである。

詩集

昔からぼくは不思議なやっちゃ、と言われ続けているのですが

本人いたってそんなつもりなく、ただ興味あることをふわふわと考えたり
頭上にいつも「?」マークを浮かべてたギタリスト詩人や
彼をそう形容した 映像作家 を、変わってるなぁと眺めたり(即ち彼彼女に比べたら全然フツー)
真面目に考えすぎて書き連ねては、よくわかんなくなったことを行を遡って蒸し返したり

そんなことを繰り返しているうちに、詩が結構たまっていました。

SSW 気取って歌ってみたりもするのだけど
どうも人前に出せる味にならない
というよりぶっちゃけ〇◉すぎる

Donovan でいいんだけどなぁ
Marc Bolan (初期)でいいんだけどなぁ
Green Gartside がいいんだけどなぁ

妙に理想が高い

そんなことを繰り返しているうちに年月日が経って
このままじゃもう退場だな、と思っていたところ
チャンジュンたちに背中を押されたこともあり
詩集を刷ることにしました。

詞なんて
人に歌ってもらえばいいじゃん、とか
メロダインで直せばいいじゃん、とかボカロPでいいじゃんとか
言われてますが、僕のはどうもそんな感じでもないし
「そのうちレコードにします」とだけ言い残して。

でも言葉だけの作品もいいのかもね。

僕はかつては、曲の歌詞など一切興味持たず、インストか、(すぐに理解できない)洋楽しか受け付けない人でした。日本語の歌詞が直接耳に入ってくるのが、好きじゃなかった。それがあるとき、言葉に興味を持ちはじめ。

人の興味など、わからないものです。
言った尻から変わってきたりもする。

入れた詩は、自分としてはわかりやすいものを集めたつもり。
前のめり 後ろのめり だが踏みおろした地面には穴が空いてて
そこは空だったりする。

でもどうだろう。紙に載せてみるとまた味が違ってきてる気もするプレパラート。

初版まさかの完売につき、増刷中です。
よかったら。

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