sake to me

9月からずっと酒をやめている。

ストレス解消が一個減ってる気もするが、翌日も朝から調子いいし。

まともな思考も不思議な想像もできるし、運転もできるし、こうなるとそれまでなんで酒飲んでたんだろう? ぐらいの感覚だ。

以前のように宿泊も打ち上げもなく、飲み会もない。となると酒は個人の嗜好になるけど、
たぶん、時間が惜しいんだろうな。呑んでるとその時間は永遠に思えるのに、その後がものすごく縮んでしまう。

シラフだってこの4ヶ月近くはあっという間だった。アルバムという形でこの間、作品を4つ形にできた。
でもたぶん、これからまだまだ浮かんでくる。それらをどうしたらいいのか。

今はちょっと、わからない。まだまだできる感と、もう完全に切り離した感が両方。

フリーフォール。あとはどこにいく。

だけど、ここからじゃないと、たぶん見つからない。
ここから人生あと一回分頑張って、ようやく何かが形になるかな。

自分が誰かは、まだ誰にもわからない。

「絵の具」

アルバム Lapis Lazuli の曲解説
今日はこちらを。前曲とは真逆のナンバーです。


この曲はピアノで作りました。
といっても、鍵盤を触ればわかるように、モチーフはめっちゃ簡単。

キーボードをちゃんと弾ける人からすれば、恥ずかしくて弾かれへんかもしれません。
僕の曲はそういうのが多く、ガットギターで弾いても同じくらい簡単です。

メロディはどこから出てきたかわかりません。

歌詞もこれまた、どういうことかわかりませんがたぶん
「よかん」「ときめき」とかいってるので
期待するような何かがあったのでしょう。
24時間ずっとふらふらだと、さすがにやばい気がします。

何しろこの詞を書いたのは20年前、2001.8.9。
暑さにやられてたのかもしれません。911の前の月ですね…

あえて後から解釈すれば
– 絵を描きたくなる気持ちの不思議 –
といったところでしょうか。


この曲は一度だけ、ライヴでやった事があります。
ギターと8弦ベースのデュオで、それはそれで味があったか。


今回、さすがにそろそろ完成させようと古い曲のファイルを探したら、そんなものはなくて、
一からやる羽目になりました。
といっても、ガットギターも簡単なので、曲の骨格はすぐにできてしまった。

ここからさてどうしようかと、久々にダブルベースを手に取って、全編で弓弾きをやってみたのでした。

アルコは苦手で習ったこともなく、セッションでは極力お断りしています。
が、自分の作品では苦手も何もない。イメージを表せるかだけが大事。

弓を、筆のつもりで。


曲が形になり、ポコポコした太鼓も合うなと思い、
これまた器用には操れないジャンベを、この曲的に叩きました。

Saravah のレコードのイメージがどこかしらにあるので、Art Ensemble of Chicago の気分でやっています。

あるいは、マイア・バルーに歌ってもらった “Kaze” の、田中慶一による「サバール」パーカッションも頭にあったかもしれません。
けいいちが生きていたら、どんなの叩いただろう。


もうひとつ。
小さなベルを、数カ所で叩きました。

チベットの仏具からきた楽器で、ティンシャというようです。


20年越しに曲を形にして、改めて、気に入っています。

これがポップだという人はほとんどいないでしょう。だけど僕の内面では、割と、ノリノリなのです。


Bandcamp には曲紹介と歌詞欄の両方があるので
そちらにもこういうことを書きたいものの、
歌詞の前に曲紹介が来ると、うるさいですよね。
順番が逆だといいのに。

「ラピスラズリ1」

アルバムを作ろうと思った最初の曲、原題「いかさま団ラピスラズリ」。

の裏話

[壱]
夏の終わりの Charlie Watts の訃報に、僕がどれほど動かされてたか、その頃の日記を読めばお分かりでしょう。
誰に頼まれたわけでもないのに、追悼インタビューを翻訳していたぐらいです。

あのビートやフィルが出したいと、近所迷惑にならないようにブラシでスネアドラムを叩きながら、あの感じを曲にと没頭してました。ドラマーではないけどジャズとロック両方をやってきた自分には、そこは自信がある。

でも、コードや歌詞考えて、ミックスして…とやっているとなんか違う。

今回はアルバム何曲かでスネアやシンバルをブラシで叩いているけど、それがいかんのか、この曲はやっぱスティックだよなぁ…と、ある日、意を決して叩く。気持ちいい。でも聴きかえすと違う。

挙句、スネアのトラックを全部ミュートしました。そしたらベースやギターのグルーヴがもっと出た。ある意味「mute beat」。

思い入れがありすぎるって怖い。ってことかな。

[弍]
お聴きの通り、割とたくさんギターが入っていますが、ぜんぶガットギターです。

曲作りのときにキーボードで弾いたフレーズがあって、エレピだと気持ちいいなと思いながら
これもぜんぶ、ガットで弾きました。アホです。

つづきはまたいつか。

Lapis Lazuli

Lapis Lazuli / stillbeat
2021.12.19 release at bandcamp

1. Q-atlantis
2. Lapis Lazuli I
3. 絵の具 – Paints
4. ひかりのなかま – Hikari no Nakama
5. Lapis Lazuli III
6. Hold You
7. Lapis Lazuli II
8. アカレンガイロノクルマ – Red Brick Car

(bonus)
9. Neptune (instrumental)

+-0+-0+-0+-

ベーシスト&ことばいじり ray kondo aka. stillbeat の最新作。
全8曲 + bonus track

骨組みとなる3編「いかさま団ラピスラズリ」から “Lapis Lazuli I / II / III”
疑問ばかりの大陸と21Cの世界を五拍子でかき回す “Q-atlantis”
グリッドに収まる静かな街の上をとぶ “ひかりのなかま” (prev. “z-a”)
ブルーの中にひとつ頼りなくゆれる “アカレンガイロイロノクルマ”

ミニマルと70年代フォーク、80年代ニューウェーブ、アーシーなロックがうずをまく。
すべて DIY、多重録音で思いつくまま楽器と歌を重ねていった、クワランティンと想像、日常と隣り合わせの世界。

ジャケットアートワークは貼り絵作家の Motomitsu Maehara。
唯一の音参加ゲストは autumn insect ことマツムシ on percussion。

Q-atlantis

アルバム “Lapis Lazuli” から先行トラックその弐をリリースしました。

Q-atlantis

“Q” 大陸と2021年の世界を
五拍子でかき回す
ジャンベとベースと言葉たち

quarantine でおもいうかべた海と空と街角です
歌詞も全公開していますので bandcamp ページからぜひどうぞ。

アルバムジャケットも公開しました。

Artwork by Motomitsu Maehara
貼り絵(コラージュ)作家、DJ、絵本作家として日本やパリで活動し、世界各国に発信を続けている Moto さん。初めてお会いしたときに Vinicius Cantualia のレコードをかけてくれたのが忘れられません。

低音打楽器

おそろしい速度で日が過ぎていく。さすが師走ですね。

アイデアを試したり、録音したりしながら。

バスドラム、という楽器、これはベースと深い関係にあるのだけど
僕はひとりでやっているとき、つい後回しになるパートでもある。

ベースがあれば、いらないと思ったりもするのである。

もちろんそれは、自分でも忘れているモノの見方だし、実際ドラマーとプレイするときや
レコード聴いてるときも、いいベードラはとても大事で、お気に入りの楽器でもある。

だけど自分で録音となると難しい。セッティングもマイキングも大変だし細かいコントロールもきかない。

バーチャル音源やループも基本的に好きじゃないので、代わりに床を踏んだり(それこそキックだ)したこともあるが、今回は、ある楽器を、そしてさらにもう一つ、いい方法を見つけた。ついにこれが…

結構いろんな曲に使えそうだけど、どうなるかな。

Lapis Lazuli III

12.3、今年最後の(そして恐らく最後の)Bandcamp Friday に合わせて、
最新アルバム Lapis Lazuli より、収録曲 Lapis Lazuli III を先行リリースしました。

あわせて、アルバム のトラックリストを公開し、プリオーダーも開始しました。

12/19(日・満月)リリースを予定しています。

今回のアルバムは、9月にふと思いついた「いかさま団ラピスラズリ」という3つの詩と曲を軸に、
パンデミック、争いの絶えない世界、人との断絶や希望を感じて綴っています。

この曲は中でも最もユルく、おかしな人たちの曲です。

またアルバムジャケットは、敬愛する切り絵(コラージュ)作家さんに現在制作していただいています。どんなアートワークになるのか、ご期待ください。

Lapis Lazuli III の先行ジャケットは、DIY 制作です。

今回もすべてセルフ演奏&録音、全編生楽器です。
これからもアルバムの情報は随時更新していきますので、どうぞお楽しみに。

* 最終仕上げの段階で、曲順や発売日には変動の可能性もあります。何卒ご了承ください。
* 正式ジャケット公開に伴い、先行ジャケットの公開は終了しました。

november 2021

11月の暮れ。

いい知らせができたらと思ったのですが
まだ時間がかかりそうです。

小さいながらも
ひたすら音楽に集中した秋 過ぎる
あんがとさん 我々の霜月。

家と近郊の往復しかしないけど
7ヶ月ぶりに日帰り帰省 父を偲ぶ
途中 山の中のカフェは
相変わらず素晴らしい。

カウンターのレコードジャケは “JAZZ” から変わってた。
Joni の “Blue” とあと二つは…なんだったっけ。

情報ってなんだろう – 壱

まぁまぁ重い日記に続いて、

これからの事を書こう。

これから、といっても、前々から不思議だった事を、解き明かすための、備忘録みたいなものだ。
まだ、まとまってはいない。


今はデジタル全盛時だ。とはいっても「デジタル」なんて言葉に「80年代か?」と反応してしまう自分を省みるに、あれから40年経ってもテクノロジーってそんなに変わってない面もある。

’80sだって「情報化社会」とは言われていたわけで、それはたぶんその前からそうで、
おそらくWW2やWW1や、明治維新や、ぐっと遡って日本書記の頃や、ホメロスやハンムラビ法典や始皇帝の頃だって、そうだったのだろうと思う。本質的には。

情報がなにをするかといえば人を動かす。人は情報を動かすが、同時に動かされる。

波のような、電子のようなもの。生命体。

現代はネットと SNS、デジタルデバイスにより、個人と情報の動きが直接観察できるようになった。
監視社会、デジタルファシズムとも呼ばれているが、ここは一旦フラットに考える。

僕はこのことを嘆いているばかりではない。どう転んでもこの流れを逆行させることは難しいだろうし、危惧しているのは「信用に足らない権力がこれを独占しようとしている」ということなのだ。彼らが信用に足る行いをしてくれれば、状況はだいぶ変わる。

信用とはこれまた難しい概念だ…コンフィデンス。なんかのドラマじゃないが、この世はバカ試合、じゃなかった化かし合いでもある。
ジョーカーとは、意識を持った第一人称すべてなのだ。

それを踏まえた上で、たとえば「デジタルを操っている側」が、ちゃんとデジタルの本質を理解しているのか。

— そう書く僕自身、理解しようともがいているだけで、本質はまだ多くの人にとって不可解だと思う。
どんなパワーや頭脳を持っても、人間に理解できないことは、たくさんある筈だ。
たとえば原発に関しては、あの312で誰もコントロールできなかったわけだし、そのことが明らかになってからも、権力も人々も目をそらし続けた。
結果、今も何もコントロールできていないのだ。情報だって同じことが考えられる —


たとえば。

SNS ではよく炎上が起こる。

誰か、特定の相手を対象に、「これを攻撃しても良い」というトリガー、あるいはリリースが発せられると
次々に人々が、自発的に攻撃を開始する。当人たちは、程度の差は選ぶものの、それは「自発的」だと思っている。

かくいう僕自身にもそれに加担した覚えはある。

だが大きな目で見れば、それは自発的でもなんでもない。どんな情報を与えれば、人がどんな反応をするか、おそらくアルゴリズムで蓄積されている。これだけのビッグデータがあれば、精度はかなり高いだろう。

こんな蓄積はたとえば何に使われるか。

あえて、先ほどのように時間を一気に遡ろう。太古の時代、人々が戦争ばかりを行っていて、歴史書には「〇〇何万、▲▲何万が争った」とある。しかしどうして、それぞれの争いが成立したのか?

それは、群衆が互いに、戦争に参加したからに他ならない。
もともと何の恨みもなかった「何万もの」群衆同士が、なぜ武器を手にとって殺し合ったのか。それは憎しみや恐怖を植え付けられたからだ。あるいは、陶酔のストーリーを。

権力者はいつの時代も、「下」と見做す人々を情報で操り、プロパガンダ(この言葉が用いられたのは17世紀からだが、太古にも通用するだろう)で右を向かせ、左を向かせ、整列して対象を攻撃させる。

失敗したり怒りの対象が自分に向きそうなときは、巧みに目を逸らす。そのための術を、世界中の権力は、何千年にも渡って蓄積してきた。それが権力とメディアコントロールの本流だと思う。

SNS は色々と役に立つが、(一見)無償なのには理由がある。

タダより高いものはないのだ。


さて、上記を前程に、じゃぁどうなのか、人間は進歩しうるのか、ということで考えつつ、浮かんだ事をこれからの日記に記していきたい。

僕らは流し、流されるだけなのか、というところで止まっていては、21世紀を生きた満足感がない。

3月に作った曲 も、そういうテーマではあったのだが、まだ追求が足りぬし、これでは人に届く気もしないのだ。


とはいえ、もう日付が変わった。いかん、もうおじさんは寝なければ。

また思いついたら、記しますね。
おやすみなさいー ぐぅぐぐ

もうひとつの月蝕

9.19 満月 ならびに月蝕

前日は夕刻にくっきり見えた月ではあるが、今宵はあやうい。
17時すぎ 雲間からあらわれる 廊下 ならびに 窓からも見える

が、どうせならと湖に向かう。
道中どんどん雲行きが怪しくなり湖岸に着くと
見事に雲に隠れてしまった。

水鳥一声、波の音 辺りは誰もいない。

これはこれで風情のあるものだが…風情か?

しばらく前にこんなことがあったような気がする。半年ほど前だろうか。
あの時は確か、3人組のおじさんがカメラや望遠鏡設置して、全く観えないねー観えなかったですねーと

今回は、誰もいないのである。

すると突然、原っぱを走る群衆…子供が数人か? のような、只ならぬ音と気配
振り返ると、頭上を「→」が進んでいった。

黒い、水鳥の群れだ。見えるか見えないかの空から、見えるか見えないかの湖面へ着水。

これも風情か?

引き続き誰もいない。それどころか、月は出る兆しもない。
ほんとにこちらは東だろうか、ほんとに月はあったのだろうか?

よく見えない湖面、こういうのもいいものだ。僕は暗い景色がとても好きだが、けっして上手くカメラでは撮れない。
少なくとも、これまで持ったカメラはどれひとつ、僕の欲しい夜の風景を撮れた試しがない。もうカメラはあきらめてしまった。

やがて、右の湖面からツイートが聞こえる。

今度は左から、返信。

tweeter はスピーカーの高域担当部分だが、これは鳥のさえずりから来ている。
twitter も、語源はこれと同様だったと思う。一個一個は tweet っていうもんね。

ツイートし合う鳥。彼らがほんもんで、人間がバーチャルでやってるあれは、真似っこだったんだね。

暗いぼんやりとした空と湖面と鳥のツイートにぼんやりが増し、時間の経つのをわすれていると
いつの間にかぼんやりした黄色いものが浮かんでいる。

というか
細いぞ。

漸く現れた月蝕に、なんだか安心して帰ろうと思う。最後に撮影。
スマホの限界
ってやつだ。

土手をあがると、親子連れ。ちょうど見えたから、いらっしゃったのかな。
グラウンドを歩いていると、また一人大人。楽しんでってくださいね。


中村佳穂ちゃんが、なんと紅白に出るという。
さすがにめでたいので、ごくごくさりげなく祝福表明すると
なんとそれを拾ってくれる。

彼女の大活躍はもちろん知っているが、唯一ご一緒したのは5年半前の 公園通りクラシックス
最後にお会いしたのは4年半前だ。名古屋の BL Cafe。今池のイベント、赤い靴を手伝ったときの対バンだった。最初は これ です。
それから彼女は超活躍してて、忙しい中、僕の相手をする必要などまったくない筈なんだけど、
さすがですね… この気配りも、彼女のすごいところです。


NHK ホールといえば、奇しくもあれはちょうど一年前だった。
以来僕は、一度も東京に行っていない。

あの日の都内感染確認者は500人超えで、その後と桁が違うのだけど、
公演後、僕はすぐにハンドルを握って長距離運転、夜中の3時に念のための仮宅に着いたのだった。

そして、無音の部屋で2週間。音楽をすればするほど、音を出せない。

そんな生活が続けられるわけもなく、採算も合わずに演奏仕事を止めたのが今年の1月。
以来、生きるための仕事をひたすら続けながら、合間に創作、録音に励んでいる、というのが僕の日々だ。

これでいいのだ。

と思いつつ、さすがに、これでいいのだろうか、とも思った夜中。
まいったまいった。


数日後に、写真を改めて見直す。どうやらぼんやりとした月の上に、ぼんやりとした月の形の雲が浮かんでいる。

小学生の頃を思い返し、一句

月蝕や見護る有明月の雲

れい