21≠18

朝から衝撃の事実

– 昨年は四年前だった –


毎年、元日には海岸で初日の出を撮り、日記に載せたり、
玄関に小さく飾っている。

いつも僕は、砂浜に年の数字を描き、陽光と共にフレームに収めている。
足跡を砂に残さずに描くため、海岸に着いたら、手ごろな「年号描き棒」が落ちていないか探す。
他にこんなことをしている輩は見当たらない。

2021年はなかなか陽が雲から出ず、数字は何度か波にさらわれた。
撮ったのは これだ。玄関には…

よって去年は玄関の写真を事実上「あきらめた」のだが
年の途中から、数字のない他の年の写真を選んで飾ることにしたのだ。
白状する。これはある種の、改竄だ。

その写真は、2020.1.1のもの
…2021は、2020だった…
という、後ろめたい記憶が残っていた。

年が変わってもスローな僕は、今日ようやく意を決して写真を変えた。


プリントした写真の裏に手がかりはない。改めてアルバムと見比べる。
2020のライブラリーにもない。
その写真は2018.1.1のものだった。

…2021は、2018だった…

それはいくらなんでも、あかんやろ。


今年は、まずまずのが撮れているので、バッチリ飾った次第。

七草

…ではないけれど、美味しい今年のお粥。

感謝、である。


耳をすませば

というジブリの映画、結構好きだ。

不思議具合と普通の学校物語の案配や
猫の具合や
丘の具合や
やはり音楽、楽器が、だろうか。

クレモナ、という場所に憧れがないわけではない。
ヴァイオリン職人にもそうだし、
人がこの楽器を楽しむ環境、というのも。

“Take Me Home, Country Roads” を初めて聴いたのはいつだったか
子供の頃実家にあった、「電話保留機」の音楽だったような気がするが
それは違う曲かもしれない。

家族に変わる間、受話器を置くと電子音が流れる、というそれだけのものだ。
わざわざそれ専用の道具が、いっときは存在したのだ。

話の中で天沢聖司が(…声が高橋一生だったとは)奏でる
「伴奏のヴァイオリン」

これ、何気にすごいなと思っていたのだが
ん? 改めて聴くと、低い F が出てる…?

これほんとにヴァイオリン? ビオラか5弦?

ずっと低音楽器やってたんで、疑問に感じなかった…


twitter、2014 から使っていたのですが、年末で停止、本日削除いたしました。

情報収集としては非常に優れていますね。だけど広告や恣意的なトレンドや、
表示のアルゴリズムなのか、僕が使ってもあまり役に立たなくなってきてた。

フォローやお付き合いくださった方々、深く感謝しております。

つづきはこちらで。web サイトってとっくに何周回も旧世代のツールだと思うけど、
とにかく SNS に馴染めなくなっちゃったので、
こっちに日記や、不定期覚書や、活動など載せてまいります。


明日は頑張って運動しよう。
練習も頑張ろう。

五角形

今日は翌朝朝刊でなく、当日記述を試みる。

今日という今日は…

チャボが磔磔かどこかで MC で言ってた(のを誰かがカセットに録ったのが回ってきて聴いた)
記憶が少し蘇る。なぜだ。

コーヒーは今や貴重な楽しみ。
酒も外食もやめてしまったから、夜ふと思う楽しみは、明日朝飲むコーヒーだったりする。

酒をやめて良かったことも多く、たとえば味覚が敏感になった。
人の舌には味蕾という味覚の受容器がたくさん…子どもならば1万個もあるらしい。

これがどんどん減ってくるのだ。体力や知力、聴力、外見、その他すべて衰えてくるのと同じく。
だがそれは仕方あるまい。

酒や刺激物が多いとその現象は早いとかで、まぁ理屈はともかく、以前よりはものの微細な味がわかる。
なので日々の食事も美味しい。

贅沢をしなくても、美味しく食べられるというのは、すっごく嬉しいことなんだぞぉ。

コーヒーについては、以前は深煎り、フレンチとかイタリアンローストが好きだったけれど
昨年ごろからは浅めが好みになっている。ミディアムとかシティっていうやつか?

豆はグァテマラ頼りだったが、今はコスタリカのマタンブーやタイのサイアムなどが好きだ。

といっても、コーヒーの味のグラフ(五角形のやつ)の見方が、未だにわからない。
酸味やコクなど、パラメーターで見ても定まらない。
どうも僕には一貫性がないようだ。

でも、こんな夜更けにコーヒーの事を思い返すのもなんだか。


久しぶりにピチカートで練習を再開した、ところだが、調子にのるといけない。
ベースは一人で弾いてるとつい弾きすぎる。十分手首もできていないし、これからは楽器に触れる時間も限られる。

弾きすぎないよう戒めも兼ねて、2ビートや弾き語りをやってるんだ、って、まぁそれもそうだ。

多重録音して歌ってればトータルな意味でベースが一番耳に入るし、それは世の中の歌い手もそうだろう、と想像がついていた。
MTR をいじっていた初期のころから。
実際僕が知り合った人はたいがいそうだった。とても役に立った。

それはいいのだけど、自分の思うベースと歌のバランスって案外、人とは違ってもいた。
微妙な違い。世の中にはベースが好きなミュージシャンが多すぎる。
ベーシストになってあんまり好かれるのは苦手だし、好かれるように立ち回るのはもっと苦手だ。
だから、自分のベースをやるために、曲を作って、詞を作ってる。客観視という主観視。

単純にベースだけが好きなときも、もちろんある。
そういうときが、困るのだ。身体に備わった、余計なスピードが。

今日はさっさとやめて、トランスクライブに切り替える。
これはこれで、とても発見があって好きだ。


都会は雪だそうだ。こちらは雨。

NHK の報道や番組作りに言いたいことはいっぱいあるが、カムカムエブリバディでジャズがテーマになっていること、
小林創さんが大活躍していることは、とても嬉しい。ミッチさんも吹いてるのかな?

外の人と会うことはまだ、当分ない。数ヶ月? 数年?

こちらは一人で、できることやってます。
ほんの僅かな歩みだが、Parchman Firm の歌い手を思えば、
なんだって、できる。

delayed action

正月も驚くほどの速度ですぎつつある。

今年は色々と楽しみを…減らした。
が、それでいい。

何かに夢中になって、気がつけば12月になるだろう。


ずっと好きなスタンダードの “Conception”、結構録音が少ない。
よく聴ける Miles や Bill Evans のレコードは録音の時点でブリッジがアレンジされていて、
さらにそれを基にした Miles の Take Off という曲もあり(これがまたいい)、
本当のヘッドが何なのか、原作者 George Shearing の意図ってなんだろ、と思ってしまう。
– Bud Powell と Shearing のどちらが本当の作者か、という話もあるらしい。

僕はいっとき、”Take Off” を散々レコードで聴いていて、そちらに馴染みがあるせいで
どうも Miles のこの曲のアレンジに馴染めない。勝手なリスナーの都合だ。

Rosenwinkel や Patitucci のテイクは原曲寄りか。

が。Realbook と耳を頼りに、たどる。
なにか、スローで、やりたいな。


暮から痛んでいた指先が癒えたので、ピチカートを再開す。

スプリンガー52

一日遅れ、朝刊がわりの日記を続ける。

新聞紙を時折読んで思うのは、その文字の多さ。
広告もあるが、よくあれだけ文字で埋め尽くせるものだ。
権威を持って。

新聞記者の仕事に、改めて恐れ入る。

とはいえ、メディアが危険、という認識は変わらない。
2012年後半、野田〜安倍政権以降沈んで落ちていった報道の自由度は、
十年を経て、統制の海が喫水線を超えている。

それとも、ずっとそうだったのか。

「善悪の判断を超えてひたすらキーボードを打ち続ける取材者」と評する人がいる。
その真偽はわからないが、自己投影してみる。
「それが記者なのだ、私は意見者ではないのだ、まずは正確に記すのが使命」
という認識が出てくるだろう。だがそれならロボットで十分じゃないか。
葛藤に苦しむこと、間違いないな。

この日記も、いっそ「新聞紙」並みの文字量で、その日考えた事を全部記してみようか、と思う。
馬鹿げている。五七五と真逆。


音符にも似たところがあるかもしれない、とも思う。
あるいは音数にも。


僕は音数の、編成の少ない音楽が好きだ。そういう意味では日本的かもしれない。
一方、「巷の」日本の音楽や広告、媒体、そして都市でまず感じるのは詰め込みだ。

僕にとっては、無駄な情報ばかり。狭い場所に詰め込むことで、余計に窮屈に感じるのはなぜだろう。

そんなわけで、僕の中での日本文化は、いつも矛盾している。
水墨画のような表現、空間の美、そういうところが好きだ。

それらは日本の中の「広い空間」で編み出されたものとは限らないのだが。
むしろ狭い空間や精神世界から広がりを、それが僕のたどり着きたい日本なのだろうか。


最低音楽器と最高音楽器の繋がりはどこか、と確かめる。
案外、きれいに繋がりそうだと知り、嬉しくなる。これなら何かできそうだ。
今年中には、何か形にしてみようか。


そっか、僕の周りにあるのは、いつも両極端で、葛藤で、矛盾なんだな。
改めて認識する。でもその上でやってくよ。


数年前の年末に有馬温泉土産で買い、残しておいた 自宅温泉風呂パック を使う。
パッケージに「大日本摂津國有馬町」とある。
OEM 生産で製造販売者は新潟の「環境化学」。ギターでいうマツモクみたいなものか。
成分は主に塩と酸化鉄。
販売商品名は「スプリンガー52」。ターミネーターみたいだな。
いろいろと発見。温まって就寝。

フライングパン

餅を焼くのにみんなはどうしているのだろうか?

うちでは
魚焼き〜匂いがつく
ガスコンロに網乗せ〜真ん中しか焼けない
電子レンジ〜使ってない
オーブン〜貴重な道具を餅の事故には遭わせられない

というので、暫定的に「フライパン」にしたのだが
これが圧倒的に簡単で、いい具合に柔らかくなるのでビビっている。

なんだったのだ他の方法は。


地道に初歩練習、音域の解読、音源のアーティキュレーションの解読
今の今まで、使ったことのない機能。10年以上前から知ってたのに。
触るとめっちゃ簡単だったが、キースイッチよりもパッチチェンジの方が役立つ時って、
どすればいいんだろうか? 今の音源にパッチチェンジってそもそもあるの?

昔の練習用データを掘り起こし、バックアップの整理。
NAS の容量も足りないので、要らない録音ファイルもがんがん消していく。

昔は、難しいエチュードやトランスクライブを弾くときに、まず DAW で「写譜」して
それから楽器で練習することもあったのだが、それって DAW にはまると
データ作りに時間を割いてしまって、肝心の楽器に触る時間がなくなったりする。
それで阿呆らしくなって、放棄したデータも山ほどあるが、うまく使えばやはり役立つ。
詰めすぎないこと。生を主に、テクノロジーは従に、というのがここ数年の基本姿勢。

今年は少し段階を進めて、テクノロジーも見直す。

データと楽器と、身体的には真逆だが、両方ないと、です。
ただ、データは消せるけど身体は消せない。
一方、身体が消えてもデータは残ってくれる。残ってしまう、かもしれない。

過去の常識の通用しない「人生」。これからどう過ごすにも、答えはないのです。
「モノ」を残す気のない自分。
子供の頃はものづくりにも憧れた、と薄く思う。


Flying Pan とは初期のエレキギターの愛称。リッケンバッカーが作ったラップスティールだ。

もうこれ以上楽器はいらない、役目を終えれば減らすだけだろうと思う自分が、
昔のリッケンには憧れる。
チューリップ型のグリーンのギターや、フライングパン。かわいいもんな。


今年の目標は一つ。

早寝
早起き

これ基本っしょ。

反復記号

古くから持っていた楽譜を、再び見ている。楽譜といっても教則本だ。

子供の頃、どれだけ練習していたか、目を瞑っていたかったけれども再び見る。

自分はこれまで、いくつかの事に打ち込み、そのうち半分ぐらいが上達し、ほかはそうでもなく、
いくつかは仕事にもなった。

何事も「トップでなければ意味がない」という強迫観念のようなものを持つ一方、
「優劣や競争に意味はない」という真逆の考えも持っている。
つまり完全な矛盾でバランスをとってきた。

これで得したこともあるし、損したこともある。
つきつめれば損得にも何の意味もない。

が、物事を何度も見返し、感覚の電流を都度発生させて、テープヘッドのように繰り返し感じ取り、表していくことは大切だと思う。反復は何事にもあてはまる。魚の尾びれが動き続けるように。

目をそらし、埃をかぶってきた教則本と楽器を出し、1ページずつたどっていく。
昔どれぐらい自分はやってきたのだろう。
耳を貫く音色と、呼び起こされる感覚とともに、
その練習の甘さに愕然とする。同じ弱点を、そっくりそのまま残している。
これだけしかやっていなければ、そりゃ途中でやめるわけだ。

だが。

こういうことの面倒を見れるのは自分でしかないし、再びやり直すことにする。
生で披露できるとは思えないが、運が良ければこれから、何かしら形にしていけるだろう。


日没は早い。昨日の午前七時頃、海辺であれほど多くの人を射抜いた太陽が、二度目の夕陽となり沈んでいった。

その前一瞬、この部屋には素敵な夕陽がさす。昔から西日の部屋で過ごすことが多かった。それもあってか、少し落ち着くのだ。

謹賀新年

除夜の鐘と美しい星空

有明の月からの初日の出

見事でした。

今年はとてもスローに
走ろうと思います。

世の中のあらゆることが気がかりですが
それゆえなおさら、じっくりいこかな。

皆様にとって、よい一音、一言、一光の
巣舞う年でありますよう。

丑年を振り返る

今年を振り返る。

都会に出たのは一度だけ。たまに街に行ったが、基本ずっと部屋と運転席にいた。

皮肉にも、遠征の消滅により仮住まいに住む必要がなくなり、
自宅に戻れたのは幸いだったが、運動不足解消のために導入した「ぶら下がり棒」が
家の壁を破壊してしまい、約3時間で断念したのは本年最大の失敗の一つ。


壁の穴をごまかすために、貼っている絵葉書


家と音楽

ここ数年、知人の音楽家たちは口を揃えて「家に音楽室を作る」「防音室を入れる」「新築する」という話をしており、素晴らしいと思う反面、自分は真逆の、「楽器不可物件」に仮住まいせねばならない状況に、軽い絶望を感じていた。

無論「楽器可物件」だったり「アビテックスレンタル」だったりを探したものの、いくら探しても僕の地域では見つからなかった。アビテックスに至っては、コロナでレンタルサービス自体が停止になり、八方塞がりの状態だった。これも演奏活動を辞めざるを得なかった理由だ。

プロの音楽家なら、音を出せる環境など当たり前だろう? と思うかもしれない。
だが、そんなものは易々とは手に入らない。人生は幾重ものラッキーで成り立っている。

それを乗り越えて無理な投資と行動をしてこそ、人生だと思うかもしれない。それはある意味正しい。

が、それは違う。ある意味で。

ずっと東京へ通っていたが、2021年は一度も行かなかった。IT や新幹線で、距離がほとんどハンデでない状態が続いていた(対人のつきあいが減るのは仕方ないとしても)。それがあと数年続けばよかったのだが。

ネットの急速な発展で、リモートワークやコミュニケーションは急拡大した。おかげで、副業は維持することができた。
だが、LINE や FB はじめネットのつながりにどうしても違和感を覚える僕には、本業ではあまり役に立たなかったかも。

そんなわけで、世の中の水準以上に、ソーシャルディスタンスを実践した一年だった。

幸い、自宅は防音性能はともかく、立地上、楽器を弾いてもあまり迷惑はかからない。
練習や録音は、可能だ。というわけで、これまで以上に、アイデアの実践を行なえた。

新しいアイデアと、これまでやり残したアイデアの、と言った方がいい。
僕は形になっていないアイデアが溜まりに溜まっている。

そのうち30〜40を、ここ数年で漸く形にできている、という状態だ。
何も新しさはないのかもしれないが、これらの面倒は本人にしかできない。

楽曲提供すればいいから、その時のためにとっておこう…という発想は今のところない。

もしそんな機会があれば、それはそのときに新たに作ればいいし、その方がいいと思う。
もしかしたら手持ちがフィットするかもしれないし、それはその時だ。


リモートコラボ

これまでも数曲は、自分名義でも他の人の作品でも、リモート制作を行なってきた。
スタジオと違ってリモートは時間が取れるし、考え直すこともできる。ある意味、音楽を作っていくにはいい形だと思う。

リアルタイムでのリモートというのは(技術的に可能とはいえ)自分には少し苦手なのだが、
時間差というのもよいものだと思っている。音楽とは、時間をリピートする行為だから。
織り重ねる、と言った方がいいのかな。

ここ最近の自分の作品では、コラボを行なっていない。
これは単純に、やるならば相応のお礼をしたいということと、自分だけでやれる事を伸ばしたい、ということだ。


とはいえ、自分で全部をやっていると、とても勉強になると同時に、限界も嫌というほど思い知る。
それにあまり慣れてしまうと、感覚がわからなくなってしまうので、またいずれ、コラボをやろうと思う。

餅は餅屋、である。餅屋に頼めるならそれに越したことはないのである。


さぁそんなところで、年越しの諸々に入るので
つづきはまたいつか、年明け後にでも。

ゆくとし くるとし

「ひかりのなかま」

アルバムの中で、もっともドリーミーかもしれません。

他のも夢ですが、少し違う種類の夢です。


この曲は、たしか LA でモチーフが閃き、
昨年の moon x moon 7月リリースでは “Z-A” として形にしたものです。
その時も「ひかりのなかま」というタイトルを考えていたけど、Z-A (あるいは Z et A, ゼータ)には「最後から始まりへ」という意味を込めていた。でも深すぎて翔ばなかった。

アレンジを大きく変え、ガットギターのパズルと、ブラシで叩いたライドシンバルとスネアで、ミニマルにしています。打ち込みは全廃して、ゆるく、もっと波長を高く。

サイレントギターで弾いたトラックのいくつかだけ残し生まれ変わって
「ひかりのなかま」になりました。

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