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硝子と風の考察

一昨日のBABI CHANで話したこと
あれからも考え続けるのです。

(くもり)硝子の向うは風の街
とは松本隆さん
果たして40年近く経った今もそうなんでしょうか
僕らはもう一度 問いかける必要があるかもしれません
…と言っ(てしまっ)たわけなのですが

ビル街の硝子を一歩出ると
吹き飛ばされそうな身体が
確かに今も風の街なんだと
知らせてくれた今日
そこへこの動画です。

水やそれを湛えた生命体とは違って
硝子を湛えた都市の構造体は
風で揺らぐことはありません。

結果として、それ以外の空間に
風が迂回し、集中することになります。

これって冬のNYCでも感じたことなんですが
大丈夫なんですかね?
都市文明。いつまで。

いつかタルマーリーの渡邉さんに聞いたことですが、
気候変動含めて、です。

地球はやはり水の星ですから
魚に対する海や湖のように
人間も硝子を常に近くに欲しがっている
というのが私の直感です。

こわれもの / Fragile なのに。

そういえばこの(Yes の1971年アルバムの)ジャケットも示唆的じゃないか。

昨日、例の 世良 Mick 市民会館 ビレッジホール に入る前に
風車が本棚みたいに並んで
風が可視化されてる姿にしばし見入ってしまったのです(アスナル金山というところらしい)
祭りの提灯にも見えるし
あれはなんだかわからないけど、なんだかいいな。

げんご U

新元号と私の名の響きが似ていることから、好意のコメントをくださった方々に感謝しつつ、以下は僕の感想です。

零の性格を知らない人は読まない方がよいかもとお断りし、つつ、です。


元号自体にはあまり興味はない。これからも西暦を使うだろう。

というより事前のマスコミ報道を漏れ聞きしている限り、元号なるものを使って何かを操ろうとしているような空気に近づきたくもなく、
ちょうどそれを発表するとかいう時間11:30付近は、電波関係を止め、楽器を転がしてスタジオまでひらすら歩いていた。

スマホをポケットでおとなしくさせ、商店街のTVを見ない。ただ、荷物を持って歩くと言う行為に「戻る」。
どんなひどい元号になっても、気を確かに保とうとする。そんなこと考えなきゃいけないなんてな。

スタジオに着くと、周囲の仲間が妙な反応で、こんな名前の元号だとネタにするので、
は? れいわ? 零和元年? 流石にこの漢字はないが、命令の令に昭和や平和の和だという。

戦争と平和 - 十七条憲法 - みたいな印象。
律令という言葉があるが、日本的といえばそうだな。中央集権と和。
大和朝廷の成り立ち。

いくらでも解釈は可能だろうが、上からの命令や指令で統制して和が保てるのか、というと古くさい。

日本が愚かな戦争をして、愚かな敗北を喫したこと(それをギリギリまで民に知らせなかったこと)
敗戦後に割り当てられた世界の下請け工場としての地位を使って、高度成長だ経済大国だと頑張ったが、その役割を終えて衰退してきたこと
3.11を東京の祭りで覆い隠そうとしていること
決定的なイノベーションを起こせないこと

そんな理由でもあると思うので、
ここに原点回帰してもいかんだろ、みたいな感想も免れない。

令って音楽につながるかなぁ。律令なら、律の方が音律、旋律にも通じるから、よかったのかもしれない。
まぁ、なんとでもいえる。

しかしこの響きに「れい」が入っていて、すごく気恥ずかしかったりするのは
自分に関係がなくとも、しゅっとしとこうか、みたいなところなのか。
この感覚は、ポジティブに捉えておこう。

でもたとえば昭和の時代に「しょう」さんや「あきら」さんが
どう思ってたか、と考えると、どうなのか。

別になんてこたないんだな。

それから、ニュースの騒ぎはこれからも見たくない。
なんにせよ、集団フィーバーみたいなものは、僕は好きではないのだ。

万葉集の元になった漢詩の意味がとても興味深いが、読み間違えもあるようで鵜呑みにできぬ。

誠にミュージシャンらしくない性格で、厄介の極み失礼つかまつる。


平和が続きますように。あたらしいこと、ふるいことに自由に目を向け、考え、個を大切にすることで周りも明るく、また暗きものにも小さな輝きがあること、光がないところにも音が溢れていることの素晴らしさを感じられるときでありますように。

2018だった。


今年のセッション活動は終了、いささか早いのですが
これからは自分のやり残しや、締めに費やしたいと思います。

今年はいろいろやったのですが、秋からキャパオーバーになって収拾がついていません。

ひとつわかったことは、僕と世間はやはり斜めの角度で存在しているなと。

木槌を使うまでもなく、割れてしまった伊賀名物の「かたやき」のように、口に入れる前に断片になっている記憶。
それぞれ、味わい深いのだが。
ん、わからんだろうな。

でも…

斜めの角度というのは、世の中への対峙として必然でもある。
確かピエール・バルーさんも言っていた気がする。

包丁を入れるときも斜めの方が切りやすい。鋏は紙に対して、最後の最後まで斜めなヤローなのだ。

風車は斜めでないと回らず、プロペラは斜めでないと機を進めることができない。

やっぱ、斜めでいこう。

演奏家としては休みを取ってしまうことに対する脅迫観念と無縁ではない。
が、全く楽器を触らない期間も僕は大切だと思う。

楽器のために楽器を弾いている人に僕はなれない。
(なれればそれでよかったんだろうけど)

アイデアは全然ちがうところからあらわれる。
楽器を弾いているときもあらわれる。

どっちもだ。
ともかく、休憩。

この Lakland もよくがんばった。
オイルフィニッシュにも味が出てきた。

ずいぶん前にロスで買った丸メガネ(グラサンクリップ)を
未だに使っている。

クリップを着脱するだけで大正時代まで戻れるからそのギャップが好きだった。

時代は何回りかしたようで、いろんな人が大小の丸メガネをしてる。
僕より似合う人もたくさんいて、なんだか羨ましい。

今年はたくさんこのグラサンして弾いたけど、
来年は、また休ませる気がする。
でも他の形の眼鏡はあんまりしっくりこないな。

ネジもフレームもガタがきている。
好きな物は大事に使いたいものだ。

来年はもっとマイペースでいきたい、と思っている。
(十分マイペースだと言われるが)

しかしマイペースというのは、何も残らない可能性もある。
ノルマを課する人も広告もない。

結局、今年後半に計画していた自分の演目は、flexlife の力を借りた一度にとどまった。
…が、彼らとこの曲をやるのは、とても楽しい。

来年も、案も策もそんなにないのだが、ま、やってみる。

なにげに、面白くなるかもしれない。

ジミー・ペイジが大好きで
僕にジョニ・ミッチェルを教えてくれた親友が旅立ってしまったり
(上のビデオで着ているシャツは偶然その日に買ったものだ。今年はよく着た)

ベースを始めたばかりの頃に一瞬関わったテクノアーティストが
今も地元をベースに海外でも活躍していることを知ったり

僕が音楽をやると決めたきっかけの人、スチュワート・コープランドを観れたり

スティングは相変わらず活躍してたり

数年前に旅立った大切なドラマーをきっかけに知り合った
長尾真奈さんの制作に再び関われたり

今年は共演できなかったけど
あなんじゅぱすさん、矢野誠さんとの再会が楽しみだったり

大橋トリオまわりのみんなは
続々とメジャーで活躍しだしたり

僕はといえば

好きなことはどこでもできるし
どこでもやるべきだな、と思いを強くしている。

情報操作ばかりの世の中だから
よけいに。

てなところで、来年もよろしくお願いします!

げんとうき

flexlife との(ほぼ半年に一度の)貴重な時間が過ぎ

The Pretaporters のいつもながらのドラマのようなリハーサルも終了し

一息。

音楽はいいもんだ、と思う。

行き場を失った秋の虫のように、きょとんとした心がつぶやく。

幻みたいだ。

夢の世界を映すには、

ぼくの触覚はワイパーみたいに注意深い。

とことん地味にもならざるをえない、幻灯機の管理人。

ま、地道にいくかね。

誰も歩いたことのない地味な道を。

このあき

最も好きな11月ももうすぐ終わり。

マイペースに過ごすはずだった秋が、途中から今まであり得なかったほどの過密になり、
よく倒れずに済んでいるな、という状態。

リハーサルを終えて、一息ついている。

色々と見落としたこともあるが、タイムワープをしながらもいい経験ができたのだろう。
ここんとこ。


今年も大橋トリオ、このご一行にはお世話になった。
締めくくりの The Pretaporters、ストリングスとのスペシャルコンサートはもうすぐ。

もともとヴァイオリンをやっていたものの挫折した僕には、弦楽器は身近でもあり壁でもある、大きな存在だ。

自分の担当をコントラバスと言いたくないのも、その心境がある。
コントラバス奏者というのはクラシックを経た人の言い方だと、思っている。
ま、ダブルベースだってそうなんだけど。
でも今時日本じゃあまり使われないし、一方アメリカじゃポップでもジャズでも double bass って書くし。

ともかく、変則的な経歴を持つ僕が、ベーシストとして弦楽に混じれるのは、いつだって、大切な経験だ。

いいコンサートになるよう、頑張りたいと思う。


この世界は狭い、とはいえ、知人に違った現場で会うと嬉しいものだ。

2015年だったか、さるパーティー仕事で即席バンドを組んだロビンと久々に再会して、色々と話を聞けて楽しかった。

彼の一人ライヴ活動や、照明の人との二人ライヴ活動、奏法、音響、倍音、野外劇場、共鳴弦、折りたたみ楽器、他はなんだっけ。

さ、明日からもがんばろう。
月並みだが、ごく日常的だが、
普通とちょっとした無理、困難とちょっとした特別が交錯するのが、この秋だ。

きっとそれでいいのだ。

驚きの一時停止

列車の前の席の隙間からスポーツ新聞が見えた。
金本、それでも続投?
みたいな。

思えば随分長く、阪神ファンを停止している。
現在、阪神が何位かもしらない。最下位らしいとも聞いたが確かめてもいない。

子供の頃から阪神ファンで、最初にかぶった帽子は当然HTだった。
ネットというものに触れ、アメリカにいても日本の状況が(ある程度)わかるようになった時代
欠かさずチェックしていたのは日刊スポーツ大阪webだった。
もうその名のサイトもないかもしれない。

だが僕は、藤川球児がウッズとの直球勝負でバックスクリーンにはじき返され
CSを終えた時に、岡田彰布の涙と共に阪神ファンを卒業したかのようである。

球児ようやった。でも君がリリーフエースのときに優勝させてやりたかったな。
気がつけばそれから10年が経った。

真弓でも和田豊でも金本でも、なんかぴんとこないのである。
掛布やったらええのか? たぶん違う。

野球はすばらしいが、たぶん、野球観てる場合ちゃう、というモードなのだろう。

阪神ファンというのは強烈な中毒性があって、依存性もあり、それだけで自分の人生に
頼まれてもいないのにさまざまなドラマを生んでしまう。実際はなにも起きていないのに。
ほら先ほども、「優勝させてやりたかったな」と書いた。どうかしてる。

東京に対して子供のころから長年持っていた感情「巨人ファンばっかりおったら嫌やな」
これが、実際にはそんなに巨人ファンは多くない(あからさまではない)ことに気づいたのは住んだ後だったが、まぁ、日ハムや福岡や楽天や、広島や中日や、それぞれの球団に魅力があることがメディアを通じて知れ渡ったことも大きいのかもしれない。

巨人は今でもあまり好きではないが、そもそもプロ野球をチェックしないので気にならない。
阪神に一喜一憂することもない。

たぶん僕は、ファンを完全にやめたか、ファンという回路をフリーズ中なのだろう。人生においてこんなことが可能なのだ。

音楽にもいろいろあって、やりたいこともいろいろあって、やっていないこと、そのうちやれればいいやと思ってること、ええ加減やらんと後ないで、みたいなこと、もう手遅れだからマイペースに、とか、今やるしかない、とかいろいろあるが、人間ってそんなマルチタスクは向いてなくて、そんなに沢山にはできない。毎日生きてるだけで精一杯だったりする。

でも、たとえいっぺんにやらなくても、それぞれオフにしたりまた別のスレッドに移行してタイムラインをスライドし直したり、結構いろいろなことも可能なんですね。

まぁ藤川のストレートは、かっこよかったなぁ。
あの感じは楽器奏法や音の伝播にも、なんらかのヒントはくれると思うのだ。手を離れたものが繋がってるというか。たぶん。

半分青かった

半分、青い。が終わった。

面白かった。朝ドラはそれなりによく観るが
今回は引き込まれた。

「伝記」でないから予定調和じゃなかったのもよかったのだろう。

終盤はバルミューダをなぞっていたが、設定が違っていたし。

漫画家からバブルから五平餅から田舎暮らしから帽子屋から映画の世界から一人メーカーまで
あんだけ題材があれば、そらおもろいわ。

まぁ僕にとってのコアは秋風センセで、滝藤とうちゃんで、ワコさんの金八だったが。
みぃばぁばかな。

バルミューダといえば扇風機「グリーンファン」は、ずっと欲しかった。
高くて諦めた。
今回の放映でさぞ売れてるんだろうな、と思いつつ、
涼しくなってから扇風機の話になって、どないすんねん、と余計なつっこみしたくなる。
あれが猛暑時期の登場だったら、どんだけバルミューダは儲かっただろう。

異なる羽根で「渦を消す」話は、音に置き換えれば、
たとえばある周波数だけを延々と聴いてると気が狂うだろうが
そよ風のように自然にいろいろな周波数や倍音からなる音楽を聴けば
心地よくなる、ということに通じるかもしれない。

ただ渦を妨害するだけじゃなくて、そこんとこの調和だと、おもう。
ノイズとの違いが、むずかしいね。

3.11に触れたのはリアルでぐさっときたが、
原発事故について完全にスルーしたのは、なんでだろう、NHK。
この世代の登場人物が、考えないわけが、ないことだ。

それが朝ドラの限界だとしたら、どうかしてる。

こんなに素晴らしいドラマにしても
その程度なんだね、ととっくに醒めてる自分が大半だけど
あきらめないで、どうかしてる、と、記しておく。

9.30

過ぎてからなんだが、僕はこの日がどうも感慨深い。
自分の人生で何があったわけでもないのだが、何か、こう。

以前車の名札にしていたこともあるし、うーん、なんでだろな。

台風である。またしても。
なんで今年はこう台風や豪雨や地震や、天災が多いのだろう。

といっても、日本ではこれが当たり前。災害と共に暮らす民族なのだから、
自然を見くびったような嘘に固めた技術は見捨てるべきなのだ、と
堅く思っているが、なかなかこの国を動かしている人たちはそうはしない。

お上なんだから逆らうな、とずっと統治してきた国なのだけど、
やっぱりお上、どこか頭弱いよな、とつくづく思うのだ。

最近は図書館の世話になる。
佐野洋子さんの「問題があります」を読み始めた。破壊力あってぎょっとする。
本文を借りれば「うしろにとびのく」。すごい人だったのだなと思う。
近くにいたら、さぞ厄介だっただろう。
親戚に一人ぐらいいてもいいのだろうか。二人いたら、もう大変だろう。

そんな人が、ぎょっとするような知人を描いた「或る女」が特別付録。
半実話だろうか、どちらでもよいのだけど。

ぼくはこの人の「おじさんのかさ」がとても好きだ。
なんともとぼけた間合いもおじさんの表情も、そして侵食性のある青も、とんでもなく素敵だ。
おじさんのコートは、青の上に黒を塗って、さらに青で縁取りしているのだろうか。

傘にいれておくれと頼む男の子に、目をそらして聞こえなかったふりをする、
なんともヒドいおやじなのだが、こんなどうしようもない輩、けっこういるわけで
(おれもそうでないとはいえない)
きれいごとじゃなくて、やっぱり破壊的。

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