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サルビルサと並行宇宙

こちらから思えば信じられないようなことを考え
実行する人々が

反対からみれば全く同じことを考え
実行している

冷戦もそうだったと思うけど

9.11以降の世界や

3.11以降の日本や

潜在的アジアや

今の国内もまさにそうなんじゃないかな

色々な物語がそれを表していると思うけど

一番端的にはやっぱりこれだろうか

スズキコージ作『サルビルサ』

想像の世界では並行宇宙の物語は何層でも成り立つけど
ほんとの宇宙はどうなんだろう

正義ってそんなに都合よく、チケットで買えるものかな

創造と破壊と破滅と生存

前掲の続き。

アートは破壊と対局にある力なのか
創造と破壊は実は一対なのではないか
という事を。

ここはトリッキーなところで
破壊と創造はよくセットにして語られますし
企業、政治、そして他ならぬ芸術など
いろいろな場面で用いられます。
国際間においては、言うまでもなく
戦争の正当化に使われてきたわけで。

ぼくは、この破壊と創造のペアというのは
人を惹きつける半ば永遠のテーマだと思いつつ
これまでに起きたことを考えると
創造のための破壊ならなんでもOKということでは
ないんだなと捉えています。

破壊ではない創造としてのアート
というのはそういった意味で大きな理想であり
決して容易ではない課題です

ぼくはそういう 争いを飛び越えたヒント
みたいなものが好きなのですが

アートもたいがい、何らかの破壊を伴います。

方法論 ものの見方 共同作業
作品の否定 肯定

もしかしたら、一番たやすく、気楽に
破壊だの創造だのと言ってられるのは
芸術の分野だけなのかもしれません。

また なんの破壊もせずに生きている
ように見える人は
実はより危険なものを抱えているかもしれません。

ですが
何を破壊するとどうなっていくのか
どこから修復不可能な破滅になるのか
そういったことは
分野に関わらず みなが学び 考え 感じ取らないと
あるいはわかる人が支えていかないと
これから先
ぼくらが生き残っていくことは
難しいでしょう。

アートはその想像力の喚起力と
到達速度において
現実をはるかにこえるユートピアも
ディストピアも見せてくれます。

それは利害を全く飛び越えた
大きなヒントにもなりえるし

そこに利害関係が結びつくと
プロパガンダにもなりえます。

これまでも ずっとそうだったわけで。

また

今はこれだけデジタルが発展していて
想像力と並走し続けるヴァーチャルなテクが
猛威をふるっているわけですが

これらがぼくらを助けるのか破滅させるのか
これからますます
見極めていかんといけません。

ねんで。

アートの力

「人間は何かを創造的に生み出すか破壊するかその二つの力しか持っていない」
「暴力の力に対抗するのは暴力ではなくて 〜 一人一人がアートを生み出しながら創造的に生きることなんだよ」
by 安冨歩教授、20160707、品川。

すばらしい。
これを、僕なりに解釈します。

アートにはなんでそんな力があるのでしょうか。

「アート」と呼ばれる行為、思索は、
僕らが存在の意味に立ち返る為に、触覚を伸ばすこと。
手で、心で、耳で、脳で。

触覚を伸ばした先、その「ゾーン」にあるのは、
とても澄んで、冴えて、楽しいもの、面白いもの。
それを、音楽家も、画家も、文筆家も、デザイナーも、
そしてアートが好きな人も、いつも求めてる。
罪悪感や義務感、閉塞感からではない、個人が何かに繋がった時に生まれる何か。

さて、意識的か無意識的かわからないが
人間の作った言葉には力強い意味が含まれてる。
漢字、英語、日本語、それぞれ。

僕らが生まれ、育ち、死んでゆくこの世界のほぼ全て、それは地球の表面。
では地球の中心には何があるか。
eARTh
ほらね。アート。

アートを行う人は僕らが絶対に忘れるべきではない
(或いは、逃れることの決してできない)
大切なものと交信している。

実用的、非実用的を超えて飛び込んでくる何か、
伝わる何かがあるからこそ、アートは伝播し、存続し続けている。

もしアートを自分の中に持っている人がいたら
その人は小さな地球

いやむしろ
地球の表面に生きる74億の人間は
地表を周るちいさな74億の星たち
だと思う
本来は

そう一人一人を星だと思えば
一人の命は地球より重いと言った誰かの言葉も形をもってくる。

星は引力でひかれ合い また
互いに距離を保つ必要もある。

ぼくはこんな風に考え出して以来、
生きるのがだいぶ楽になっています。

tabi

髪を切る。

去年の今頃以来、ずいぶん伸ばしていたので
軽くなって気分がいい。
ついでに視界も広くなった。
一年間、ずっと左目を半ば閉じてたようなものだからな。

再び旅に出る。
車窓、音出し、のみくい、街眺め。

仲間と一緒に過ごした時は次の音楽になっていく。

合間、ふと海岸に行ったり、ありきたりすぎて地元の人でも行かない場所を巡ったり、
人が教えてくれた場所にすぐ行ってみたりする。

人がぽろっと教えてくれた情報には力があるもので
どうしてその人がそこを教えてくれるに至ったのか、たぶんそこにはプラスαがあるので、行ってみるべきなのだ。

- とはいえ、行かずして悔やんだ故の実感の方が優る -

全然違う土地から話の続きがつながったりする。

神戸の海岸で見かけて妙に気になった家族の銅像
とその横にあった、移民船の解説

福岡でふと時間をつぶしていたコーヒー屋で
8年前のcoyoteがあったのでなんとなく読んでいると
その移民船「笠戸丸」がサントス港に到着したあとの話が書いてあった。

…やっぱりな。
1908年「希望の船出」で日本を旅立った、781人の人たちは
新天地ブラジルで、打ちのめされることになる。
充てがわれた痩せた土地では何も育たない。

10年近くにおよぶ土地改良の努力から、やがてコーヒーが実り、
幾人かはコーヒー農園主として「成功」するに至る。
その過程で得たもの、失ったもの…

要するにコーヒー屋にあった雑誌なのでコーヒー特集であり
コーヒー農園以外に携わった移民の人たちがどうなったかは

わからない。

が、なんとなくわかること。

「希望の船出」なんて、そんなにはない。
あとで美化するしかないんだな。
ないからこそ、モニュメントにする。
もぬけのから。
だから、殻をつくる。からだ。
どこかに楽園があるのかな

ぁ。

たぶんない。

だけど、
たとえゼロから始まっても、つづきができたとしても、
世界はどこも同じくらい

きっと。

positive.

ten and eleven

10 (TEN) ツアー再開。10本目は熊本公演。

先週壊れてしまったキャリーカートを修理し、
なんとしても寝坊せぬと気合を入れて眠る。

朝。気分を変えてモノレール。「整備場」を二つ乗り越し、機上の人。
ゲートセキュリティが厳しくなってるのか、直前に買ったコーヒーに目をつける検査員。
「ひとくち、のんでいただけますか?」

いいですよ。というかこれイイやり方だと思うけど、
ほんとにアブない人なら、飲んだふりすると思うから…
…しっかり見ておくれよ

wing519

翔び、風に乗り、西に向かい、
脚が陸についたら、走り出す。
熊本には、何年も前からずっと行きたかった、やっと行ける。
短い滞在だけど…

「野田目」って、ほんとに福岡にある地名なんだ、とか
熊本県に入ってすぐの「和水」って、「なごみ」なんだ、とか
場所の名、それだけで感じること、しきり。

以下、大幅に話は逸れますが

位置情報ONにして地図をみると走行の様子がわかる。
これって…GPS情報的には、車の走行速度もサーバーに筒抜けってことだよな。
スマホ持ってなくても、今の車ならカーナビにこんな機能付いてるだろうし
「警察による各人のGPS情報調査が可能になる(なった?)」っていうのは
理屈的には、警察がGPSデータベースにアクセスできれば
自動でバンバン速度取り締まりなんかも可能ってことだよねぇ。
なんなら、遠隔操作で課金したり、停止させたりもできるんじゃないの?
さじ加減次第で。

さらに、そのうち「◯◯km/時上乗せで走りたいから、いくらチャージする。はい/いいえ」みたいなオプションが付くんじゃないの? あのへんの業者が、そんなビジネス始めるんじゃないの?
CO2排出権ビジネスよろしく、Car速度権ビジネス。
しれっと、それが当たり前の社会になっちゃうんじゃないの?

ほんとに大事なこと、置いといてさ…

ぼくの想像力はどうもディストピアばかり幻視してしまってて、
同時に、それをなんとかひっくり返そうとしてる、この頃。

音楽も、競争ととらえる人が、そういう機会が、この世にとても多いなぁと思う。
僕も時折そんな風に捉えて、はぁと嫌になる。
でも、競うことをずっと避けてもいられない。

先日、ベストセラーなのに何故か入手不可の本を探しまくって本屋をハシゴし、
代わりに買った宮下奈都の平積み本。全く違う本だけど、この一節すばらしい。

音楽は、人生を楽しむためのものだ。はっきりと思った。決して誰かと競うようなものじゃない。競ったとしても、勝負はあらかじめ決まっている。楽しんだものの勝ちだ。
– 羊と鋼の森 –

車は走る。そして着く。熊本城の石垣が見える場所、赤紙の貼られた建物も近くにある場所、
そして、そこから入ったライヴハウスB.9。

b9-stage-from-foh

ライヴハウス。
ホールもいいけど、これミュージシャンの原点。
ツアー直前に観た、LEO今井バンドのライヴを思い返す。

リハが終わって、flexlife に会う。
昨年師走の代官山、Weekend Garage Tokyo 以来。
そういえばあそこにも、小型のキャンピングトレーラーがあったっけ。

りえんぬ、けんさん、かんちゃん。
かんちゃんはマイケルの”Smooth Criminal”ダンスがお気に入りで、
よく「斜めになってエアーのハットを押さえる」らしい。

flex-521

商店街を歩き、いろいろ話す。
4人でオムライスを2皿シェアすることになる。

本番は説明しにくいモードなのだけど
そこに立ってるだけで、嬉しかった。
この場にいれて、何かが、音楽させてくれた、です。

演者は観てくれる人たちがいるから演者であって
そこで自分の中で表したかったことがようやく出てきたり、するのだろう。

改めてもっといい音楽家になりたい、と願う。
通常とは違う感覚、今も知らないことだらけ。

この場を体験できたことは幸せだった。
荒井由美のあの声を、少しだけおもう。

滞在予定のホテルが使えなくなってしまっていて、福岡の宿に移動。

また来ます、ゆっくり来たいです。
みなさんどうかお元気で。

ほんとにありがとう。

翌朝。

ねぼけた頭を身体にのっけて、走り出す。
平和台…これは、昔「平和台球場」があったところなのか?

とてつもなく広い、楕円形の大濠公園。濠というより小さい湖だ。
動物の多さに目が行く。
鯉の大群、亀の大群、トンビ、そして…

かわいすぎる、雛鳥。

kamo1

人は、ここで思い思いに時を過ごしているのでしょう。
人工だけれど自然の力が上回っているような、静と動の空間。
昨年福岡にきたときは、街行く人の熱量に正直圧倒されたのだが
別の面を見たような、こっちの勝手な思い込みが剥がれたような、そんな昼。

次の朝は、なんとなしに街を歩く。初夏並みの風が心地よい。
三角州のあたり、橋の上のベンチから見渡す。どこか京都のよう。
「貴賓館」を素通りしたあと、どうもひっかかって後ずさり、入ることにする。
撮影禁止、入館料240円。他に来館者はいない。
解説をお願いすると、館長らしきおじさんが気さくに、ゆっくりといろいろ話してくれた。

  • 博多は埋め立てが多く、ここが建った当時は目の前が海だったこと
  • 贅を尽くした建物だが、戦中戦後、何度も持ち主/目的が変わったこと…ビリヤード場、軍司令部、裁判所…
  • 当時のガラスは、波打っていたこと(そこからの眺め、味があってよかった)
  • 縦開きの窓は、軽く動かせるように左右に分銅がしこんであること
  • 各部屋の天井四隅に、まるで換気扇があるかのような吸排気孔があり、その模様がいかしていること
  • 暖炉は当時開通したばかりの瓦斯を使ったストーブだったこと
  • 戦時中、金属の部材は軍に接収されたこと
  • それでも一部、金属製叩き出し(!)の天井があること
  • 11年前の局部直下地震で、ここも被害にあったこと
  • つまり、そこにも(人々の知らない)断層があったこと
  • その時(彼曰く)初めて、津波の可能性についての報道があったこと
  • 復旧に数年を要したこと

「れんが館」もおすすめとのことだったが、入りに間に合わないので諦める。
途中、オクトーバーフェスならぬ「A級グルメフェス」? を通過する。
長崎は青島の、美味しそうな蒲鉾を買って帰る。

昨秋演奏した市役所前広場に立つ。人がいるといないので、場所の広さも全然違って見えるのが不思議だ。
…人がいる方が、広く見えるやん…

福岡市民会館。ここは大好きなホールだ。音がまろやか、かつクリアなのだ。
それにこの模様もいい。表しているのは無邪気に遊ぶ人か、音の波なのか。

fuku-hall-wall

本番。
特別な時間。
最高。

「押忍」が「おはようございます」の略というのは、思いつきだけど本当らしい。
ドリフのあの番組ではいつも「おはようございます!」「おはようございます!」「静かにしろ〜!」というやりとりがなされていたわけだ。毎週土曜の、夜8時に。

九州北部、ありがとうございました。

多謝。これに尽きます。

光学顕微鏡の世界

一昨日の変な文はなんだろうと思うと
(結局、そんな夢は見なかった)
たぶん、昼間に読んだリエンヌのブログが頭に残っていたのだろう。

僕の場合、昔から、
夢って、前日に起こったことの再解釈が多い。

あの時は半分眠りたいのに勝手にタイプしていたので
意識に残ったティラノサウルスの再解釈をしていたのだろう。

ただし思い浮かべていたのは黒いブロントサウルスだった。

連休。もともと連休など関係無い自分だが
今年は完璧に連休だ。
車旅。

ガキの頃を思う。

たいして進歩はしていない。
もはや退化は簡単なこと。
少しでも、なりたかった自分になれているだろうか。

「そんなものはないんだ」とも思いながら、
何万回も肯定と否定を繰り返す。

意外と、デジタルな生き方なのかもしれない。

川崎洋さんの「やさしい魚」の楽譜を見つける。
やさしい鱗が剥がれ続ける、とある魚の一週間。
月曜日に一枚、水曜日に三枚、金曜日に十四枚。

博物館に行くと、魚の鱗を思い思いに塗った子供達の絵。

光学顕微鏡の世界を覗くと

輩がいたり

microscope57

火の鳥がいたり

microscope2

左右の手と視界がつながっているって、安心する。
ピントを合わせながら思う。

「その番号」に、何の意味も無いような世界に
行ってしまいたい。

それは、いつでも、行ける場所なのだ。

ただ思うこと

日付は変わっていくけれど

清志郎さんの命日、憲法記念日、

ずっしりした思いは日めくりカレンダーのようには捲れていかない

単に反応が遅いだけなのかもしれないが

2009年、坂本さんと金平茂紀さんの対談番組

深い。

ラジオでは達郎さんが James Brown のファンクを熱弁してた。

ライヴでレコードよりテンポを上げるかどうか、ということ。

30代では上げまくってたけどね、今はもう上げない、という語りくちは

テンポアップしてたと思う。

Sting が Pearl Jam の MSG コンサートに飛び入り
Driven to Tears

罪の無い誰かが犠牲になる時
俺らがやっていることは fxxxxx 雑誌の記事にするだけ
カメラは有り余り 食べ物は足りない

彼の声は35年経って更に激しい

言ってることはタイマーズの「ヘリコプター」と同じやんね

それを今では、無数の iPhone カメラが世界中に拡げる…

身近ではないけれども、今の自分とリンクしていること。
今ようやく、気づいていること。

世の中はとても周到につくられてる。
災害があれば必ずそれは綻びるけれども
綻びが誰かに回ってこないように、さらに周到にもつくられてる。

誰かも一緒に綻びればいいのに、と願うのか、

そんなとき結び目をほどき、別の糸に変えることができるのか。
変えるとしたら、それはどんな糸なんだろう。

しなやかなのか、粘り着くのか、鎖なのか。

わからない。

答えは音楽、かもしれない。
大きなヒントに違い無い。

でも本当のところは、ぼくにはわからない。わかると思えない。
どこかに蓋があるのだろうか?

明日、この一年、来年、再来年、この先

愛情ある平和な世が続くことを切に願う。

Radiohead が新曲公開してる。

…魔女狩り…

オーバーフロー

レミングになっちゃいけない

ぼくは元気に暮らして居るけれど…

熊本のこと、大分のこと、中央構造線のこと…

一言で表せない辛い気持ちと不安がとまらない。

ぼくにとって直接の知り合いは flexlife の一行だから、彼らのことを最初に思うけれども

きっとこれから会うだろう、たくさんの人々が辛い思いをしている。
ネット普及前にしか会っていない、そんな知人もきっといる。

今年もこれから、訪熊を二度予定しているし、そこで会える人に
音を届けられるだろうか、何か手助けできることはあるのか、
足手まといになってしまうのか。
何が解決で何が支援なのか。自粛ってなんだろう。コミュニティって、避難って、なんだろう。

このタイミングで激甚災害の指定もまだせずにTPP審議を優先していることは、国に頼りなさんな、と公言しているようなものだし、呆れを通り越して苦沙味すら出てこない。
被災している人にとっては、一刻が何年にも思えるのではないですか?

川内原発については、再稼働の条件であった「事故時の高速道路や新幹線による住民避難、近隣県での受け入れ」が震災によって既に不可能になっているのだから、まず、直接受けている揺れや採算上の思惑に関わらず、現時点でとっくに稼働条件失格だと思うのですよ。

川内に何かあってからでは全く遅い。制御できない。そのことはわかっている筈でしょう。もちろん、何もないことを願うばかりだけれども。

Police の Synchronicity II に
“Packed like lemmings into shiny metal boxes.
Contestants in a suicidal race.”

というリリックがあって
これは東京の地下鉄ラッシュで犇めき合う人々と同じような例えなのだろうけど
レミング的に破滅競争をするような、そんなところが
日本のシステムにはあるような気がしてしょうがない。

Sting が当時、日本を題材にしたかどうかなんて知らないし
こんなことは日本だけでなく万国共通、歴史上も何度も繰り返された失敗だとは思うのだけれど
– あるいは負の Synchronicity か –

危機のときに、指導層が対策を誤るのは非常に危険です。誰にとって? みんなにとって。
保身や面子で人を切り捨てる人、たくさんいます。
軽くなりたいんでしょうね、「蜘蛛の糸」のように。
芥川はどう思って書いたのだろう。新自由主義の人はどう思ってビジネス本を書いているのだろう。

ところが悲しいかな、それはおそらく人間のサガでもある。
どんなエリートだって間違いは起こす。保身はする。
だから、互いに平衡にバックアップしていかなければならない。

「グッドストライプス(いい感じの平行線)」でもいい。
くっついて盲目になってちゃ、危険は増すばかり。
灯台下暗し、の陰が大きくなるばかり。

たとえば、音の世界でもバランス転送ってあるでしょう。マイクに挿さってるあれ。XLRってやつ。螺旋に組んだケーブルに逆位相で信号を流し、それをミックスする事でノイズをキャンセルする。

生命を繋ぐDNAだって、このケーブルと同じように、螺旋構造をしている。
こういうのって、意識の、また無意識の知恵だと思います。

右、とか、左、とか言ってる人達も、本当ならば、互いにバックアップしなければいけない。幸せに人生を送りたいのは、きっと同じなのだから。

数年前に観たNHK特番「原爆投下 活かされなかった極秘情報」。B29がファットマンを積んで長崎に向かっていたとき、陸軍情報部がその動きを事前に知りながらも御前会議ではまるで違う議題に終始、九州の迎撃隊に出撃命令すら出されなかった、ということが明らかにされた。老いてそれを知った紫電改の元パイロットは、落胆しきった表情で言う。「これが日本の姿ですかね … こんなことを許していたらまた起きるんじゃないですか?」

どうなんですか?

せめて、これからはそんなことを起こさないでほしい。
そう思うのは、おかしなことなのか。

眠れたのが不思議だ。
熊本、大分の皆さん、どうかご無事で。

やる気のない人、動かされる

「出る杭でも打たれない」絵本作家五味太郎に聞く1~(佐藤智子)

ふと読んだインタビュー。五味さんの思いつくままに話が進んでいくので、見出し以外にも解釈の余地は色々あると思い、メモ。

『「勝った」「負けた」っていうようなことは、疑似的な遊びの世界だよね。 』

このあたり鋭いと思う。

A 綱引きなんていうのは、あれは冗談なんだよ。一緒になんて。でも、心合わせてって、引くっきゃねえよ。勝とうってやっているやつだから。そうでしょ?

Q そうですね。

A みんなのために頑張っているわけじゃないのよ。だから、頑張っていないやつも参加する形になっているわけ。「綱があります。引っ張って競技するんですよ」って。

Q はい。

A ね? 「やる人?」って、「あんま、やる気ねえな」って(笑)、まず本音であると思う。でも、しようがない。で、やる。でも、「相手は敵なんだ」って思う。でもさあ、「近所でよく会うやつだなあ」と思う、「あの人、敵じゃないし」って。でも、一応始まって、こっちが紅組、こっち白組。「白組と紅組と戦うことにしようよ」って一生懸命言うわけ。そうすると、割とその気になる。で、引っ張ってみると、結構その気になるもんで、ズルズルやると、ちょっとムカッと来るから、懸命に引っ張ったりするわけ。それで、「勝った」「負けた」っていうようなことは、疑似的な遊びの世界だよね。

Q うーん。

A 終わった後には、ノーサイド。で、「商店街のおやじと本気で闘ったから、もうあそこにはぜったいに買いに行かないぞ」なんて話じゃないよっていうわけ。ここでは疑似の話をしているわけ。疑似競争。ところがそればっかりやっているわけよ。

Q 疑似なことを。

A そう。

Q 「〇〇(なんとか)しましょう、〇〇(なんとか)しましょう」みたいな形で。

A そう、それを設定しているのが教育のシステムっていうことなんだよ。

Q そしたら、自分のオリジナルというか、やりたかったことややるべきことがわからなくなる。

Aそう、全然わからないやつがずっといて、能力は、唯一「付き合う」っていう能力がつくわけ。賢いやつは、どうやって付き合ったら自分がまあまあ楽なのか、生きていけるのか。

なんだかハッとするのは、こうやって、擬似的な戦いを生まれた時からいつもやっている(或いはやらされている)のが僕らだということ。

これが、いつも擬似であればいいだろ、と思うが、擬似の裏側には現実の犠牲だってある。
並行して、擬似と現実の垣根も、壊れて来ている。

或いは、本当に戦争指導してきた人々も、昔っからこれぐらいの気持ちなのかもしれないな、とも感じてしまう。
「敵国」とも戦ってるふりから始まり、やる気のない人をうまく動かし何百万人も犠牲を出して、当人たちは痛くも痒くもない。
そもそも、自分たちのやっていることがわかっていない。世襲だから、慣習だから、なんとなく - そんな Universal Soldier*。

恐ろしくなる。吐き気がする。だが。

「敵味方」という概念は、どんな平和主義者からも、たぶんなかなか消えるものではないのだろう。生まれたときから深く染み付いているのだから。

しかしその一方で昔から、人々にとっては「敵」も「味方」も所詮フェイクで、それと(意識的あるいは無意識的に)付き合ってきたというのなら。

その切り替えにこそ、「危険な時期」を乗り切るヒントがあるのかもしれない、とも思うのだけれども。

* Universal Soldier – by Donovan

F for Fake

エイプリルフール、メイフール、
ジューンフール、ジュライフール、
オーガストフール、セプテンバーフール、
オクトーバーフール、ノーベンバーフール、
ディセンバーフール、ジャヌエリーフール、
フェブルエリーフール、マーチフール

ほんとにそんな世界、そんな日本になってきた。

オーソン・ウェルズの最終監督作に、「オーソン・ウェルズのフェイク」という映画があるとかで
観てみたのだけどすばらしい。

フェイクな世界にはそれなりの生き方があるのだろう。
示唆に溢れている。

きっかけは谷口江里也さんの「イビサ島のネコ」という本で
今、半分をすぎたところ。はまってきている。

スペインのイビサ島には、それはそれはキテレツな人が沢山集まり、
それと並行してさまざまなネコも生きているそうな。

素敵な本だ。

価値観ってなんだろう。

所詮人生が、壮大な劇であるならば
その中で何ができるだろう。

演じているだけの連中を、どこまで醒めた目で見れるだろう。

醒めたこころで、どこまで灯をつけられるだろう。

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