カテゴリー: libre

ワーカホリックの腹

感覚の備忘録

なんとなく寝付けない夜
ふと腹のあたりが落ち着かなくなって
何かに気づく

あ、これは何か仕事したくなってるんだ

今する必要? そんなにないのに、だ

何かのきっかけで仕事に逃げ込みたくなる
こんな人、結構多いのだと思う

こういう習性、絶対誰かに見透かされてる

人を働かせるのって、案外たやすいのだろう

何かで読んだ 独逸には24hのコンビニはないとか
ほんまかな?
長時間労働禁止の為、夜に営業したら法律違反とか
ほんまかい?

でも、理にかなっとるね
たとえ、嘘でもね

たたくうき

近江からの帰路
ふとMIDIのサイトを見ていると、リマスタリング特集の ページ

かしぶち哲郎さんのジャケが気になってしばらくした後
訃報を知る。

エピゾのライヴの時には青山純さんの訃報。

昨夜サラヴァで観せてもらったポンタさんは
健在、かっこいいビートと音だったけど

太鼓って、身体がないとどうしようもないから
サンプリングやモデリングでは、おもちゃの兵隊しか生まれない

去ってしまった叩き手のあとは、残された空気と時間の中で
僕らはビートを、ビートを生む身体を、思い出し、思い描き、
生きて行くしかない。

ドラムは永遠。
名人が叩くドラムは最高。

これからも、僕らが、ドラムと共に生き、
ビートを受け継ぎ、
叩き出せますように。

undoo

いたひとが、いない

そこで、右2mにいたひとが、いない

よそうのかいわをしても、よそうがいのことばが、かえってこない

でも

それでもかれの かたちは そこにあって

そこなしで

かぎりなく かぎりある

じんせいを ぼくはかんじてる

だから かなしまないでと だれかにいう

ありがとうと その高円寺の空間に いう

宮崎の大地に いう

おいのりします ごめいふくを

フジマル◎ヒデミさん

このときは右1mだったな

レポート通りに生きないために

いいなりになるのはやめよう

すべて、昨年夏のナイ・レポートのいいなりになって喜ぶヘッド
恥ずかしい

シナリオ通り
ああはなりたくない

昔、やのまことさんから聴いたことに
自分の中にアフリカを持つというのがある

リズムをinternalizeするということ

火が、マッチから棕櫚や松に移るとき
何が起こるだろう

移したとしても、中で燃えている

そう、自己責任

かもしれない

それでも

自分が燃えるために
内を灯そう

きいたもの かいたもの
色がかわってくるように

おうどうとほこり

世界は王国だけじゃない

王様がいる世界なんてお伽噺だけのこと
…でもないけれども

少なくともこの国には王様はいない
いや、随分長いこと、日本に「王」は居なかった気がするのだが
額田王とか、そういう

ちがうか
しかしなんで、日本語を話すぼくらでもこれほど「王」という言葉が身近なのだ

世界は王を求めているのだろうか?

宮崎駿の「風立ちぬ」はまだ観ていないけれども
彼の作品は大人になって、いろいろな見方が出来ると判ってから
好きになった

子供の頃は「カリオストロの城」ぐらいしかピンと来なかった
「風の谷のナウシカ」は惹かれたけれども意味が分からなかった
他は、画がかわいすぎたのか、ヒットしすぎてたのか、敬遠した

今では、原画スタッフで関わった「空飛ぶゆうれい船」から
「未来少年コナン」からルパンの「死の翼アルバトロス」にしても
「ハウルの動く城」にしてもとても深いものだとわかるけれども(遅いか)

しかし中でも一番強烈なのが漫画版の「ナウシカ」で
この後半部の展開は現在露わになりつつある実世界の枠組みに
恐ろしいほどに迫っていると思う

そこでは幾人かの「王」が登場する

森の人の王、エフタルの王、トルメキアの王、土鬼の王
そして蟲の王

無垢を意味する巨神兵の「オーマ」も(「オーム」との類音だけでなしに)
王を想起させる

まぁ、なんで宮崎作品では重要な配役がことごとく王子や王女ばかりなのかと
そういう疑問もあるのだ
民衆の殆どは、王家ではないのに… なんして、これで支持を集めてるの? ってやつだ

おれらって、届かない権力者に憧れて、結局支持するの?
みたいな

ともあれ
彼ら、彼女らは「誇り高い」とされる

「誇り高き」「気高き」という形容詞が、たとえ争う敵同士であっても共振させ
結びつけるという鍵にはなっているようだ

ふぅん

たぶん
それには同意なので
無理矢理理由の一つを掘り出せば

おれらって、自分の王であるべきなんだよな
現実の身分に関わらず
…ってことなんかな

与えられた生を最大限に全うする
それって多分、自分に対する王道なんだろうな
と思う

社会的には「誇り」って何かという大きなトラップがあって
だったら軍事力を増強すればいいのか、だったら周りをサゲればいいのか
カネ撒いて嘘をついて目隠しイベント呼べばいいのかとなりがちだけれども

ボロボロの中でも誇りを持つ
時にはボロをさらけ出すことが
実は誇りなんじゃないかなと

そんなこと思う
2013のあきである

要らないバナーナ

ふとCartoon Networkで「裸の王様」を観た。
いつのバージョンかわからないが、「おさるのジョージ」みたいなテイストの画とテンポで、
偽仕立ての二人組が冒頭からかなりワル、すっ飛ばしていた。

劇中、見えない生地や服を「…言葉に表せないほど…すばらしい」と誉め称えて作り笑いをする宮廷や街の人々は、
新幹線に乗っては「今こそ原発推進に舵を切れ」という雑誌の大見出しに「…そう…かもなあ」と内心うなづきかけている極東のスーツメンたちにとても似ている気がした。

強迫観念、同調意識、上昇志向。そして自主規制。
雑誌は、たとえ購読させなくても、見出しやポスターだけでも「チラ見」効果を出してしまう。
だからこそ、大元は莫大なカネをかけて、駅の柱や廊下にもポスターを貼り出している。
それが、ある程度のカネ(そして経費)をかけて移動している人々を集中的に狙っている事。
とても判りやすい。そしてとても狡猾だと思う。

それはそうと、Cartoonに戻ると
裸であることを少女に暴露された後も、人間の裸は美しいものだと開き直り、歩いて行く大臣と王。
迷惑をかけた元仕立て屋へのフォローも忘れない。
なかなかやるなと思った。

もじのふるさと

シリアをミサイル攻撃するのが良いなんて思っているのは
ごく一部の人間だと思うのだがな。

普通に生きていれば、これまでどれだけの戦争が
でたらめな理由で起こされて来たかぐらい、わかるだろう、というのが
僕の実感だ。

ごく一部の人間がメディアを操作して
怪しい「正義」と「最優先事項」を作り上げ
多くの人を殺戮し、大儲けをする、或は権益を得る。

そんな世の中は、もう沢山だ。
と、思わないのか?

これに対して疑問も呈することのできないメディアなら、
僕らのインターフェイスとしてふさわしくない。

フェニキア文字が生まれた地、シリア。

ことばの故郷に火をかけて、よく平気でいられるな。

blue grey

「シカタガナイ」

この言葉を自分の辞書から追放しない限り、日本人はより良い暮らしを、より自由な人生を手に入れることはないだろう  ―

カレル・ヴァン・ウォルフレン の主張。

彼は311のずっと前、1990年代(あるいは80年代)からこのことをずっと言ってきている。

今更だか、今だからか、物凄くこのことが気になっている。

これは、彼が外国人だから言えることだろうか?

お盆のあたりからこのことを意識している。おかげでブログの更新が滞ってしまった、というのは半分嘘にしても。

というかこれは自分にとっても、とてつもなくハードルが高い。「仕方がない」「しゃあない」と思わずに、オレはこれまで生きてこれただろうか?

ウォルフレンは、この思考がある種「成熟した証拠」とされる日本社会が、いかに上手に市民の疑問や政治的行動を初期段階で抑制してきたかを説いている。

自分の周りにある「リアリティ」と自分が感じる「リアリティ」が整合しない状態が続くと、やがて人は状況にはまりこんでしまう。ここで生まれる言葉が「シカタガナイ」だという。

たとえば、矛盾だらけで突っ込みどころ満載のニュースが毎日毎日報道され、それが一~二年もすればすっかり何もなかったように忘れ去られてしまう。また、それを待っていたかのように、おかしな施策が「肯定」されてしまう。

あれ、おかしいぞ、と感じていた人も、やがてこの言葉と共に、おとなしくなっていく。

「シカタガナイ」

これは危ない。とてつもなく危ない。直感的にもそう思う。

一方で、自分が「しゃあないやろ」と言って物事を切り替えながら生きてきた経験ってなんだろう。
つまらないことなんだろうか。或いは「シカタガナイ」には、昇華と自粛のように、いくつか種類があるのだろうか。

わからない。こう思うこと自体が、自分がトラップにはまりこんでいる証拠なんだろうか。

ひとつだけ感じたことがある。これは、ある種の灰色の青、グレーをまとったブルーみたいなものだ。

a kind of blue grey

これがブルーズだなんて言いたくない。だけどある意味これが僕らが向き合うべき、ブルーズなのかもしれない。

namba

5月に蒔いた5種の種、どれも元気に育ち

バジルなどは何度もジェノベーゼを食べられるまでになっている。

次はシソ、トマト、その次はトウモロコシを作りたいものだ。

子供のころ、田舎では「ナンバ」といって、

夏に訪れる度に両手一杯穫って、食べさせてもらっていた。

祖父母のいなくなった田舎に帰らなくなって久しいが、

あの頃は、遺伝子組替玉蜀黍なんて、考えもしなかった。

絆と縁と、風と材木と

「脱グローバル論」を寝る前に読み終える。

内田さんの論はだいたい既読だが(自分で売る本の内容をブログに前もって記載してなおかつ買わせるって凄いよね)

中島岳志さんの話に背筋が寒くなるぐらい同意を覚えた。

昭和維新の話、2008年の秋葉原事件直前に、後の犯人が福井のアーミーショップでの店員のやり取りに「店員さんいい人だった…人間と話すのっていいね」と感動していたという話、

そして地域社会の「ボンディング」と「ブリッジング」の話。

ほっといてくれるということと、声をかけてくれるということって、実はメビウスの輪でつながってる。

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