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時間の魚

また変な事を書くけれど

人生や物事の進化って螺旋状だ、って良く聞く
それは本当だと思う

時間軸で言うと
行って、静止して、戻ってくる。
それを繰り返して、形になる。

それを見て感動したり、使いこなしたり、他人が利用して、いわば、発展する。

そんなのの繰り返しだと思う。人間が文明を築けたのは。

だいたい文字を記したり、モノを生産したりするのは、止まったものを産むこと。
それは流れる時間に対して静止、つまり過去に向かっていく事だ。

にも関わらず人がそれを続けるのは、どうしてなのだろう?
それを拾い上げて、また時間に向かって投げつける。
人の時計は、常に伸び縮みしている。

例えば。
この世が全て、画像だとする。
そんなことはあり得ないが、だとすれば、画像編集しようと、何でも注視するやつもいるかもしれない。

そうすると気づくのだ。この世は全て動画で、静止画と思っているのは動画のうち、止まっているように見える一種でしかない。

なのに人は、いちいち静止画に価値を見いだす。
モノは動くものもあるが、静止した形に固定されて初めて生産される。

もしくは。人は動いているものを、静止しているモノほど理解できないのだ。

価値を見いだせるのは、時の流れに耐えるもの。
流れて行っても、イマに戻ってくるもの。遡れるサケのようなもの。

もしくは、モモタロウのようにずっと先から流れて来たもの。

ここで螺旋が登場する。

新しい何かを固定して実現させたいなら、時間のずっと向こうにアイデアを投げなければいけない。
それが戻って来て、形になった時に、つかまえる。そこで流すか、また投げる。
何回か繰り返せば、魚は大きくなるかもしれない。

みんな、時間と釣りをしてきた。

動物は本能でそれをするけど、
人間は知ってか知らずか、そうやってきたのだ。

と、思う。

rikai

わかりあうこと

そんなかんたんなことじゃないし
そんな無理難題でもない

わかりあったからってそれがつづくわけじゃない

好きになったからってつづかないこと
いなくなったからって心からは消えないこと

目が
その先数十センチを見て判断しようとしていること
思い通りにならなくても
なったとしても

聴こうとした音がきっときこえるよ
誰かが励ます それはかなう

そうなんだろうと その場に来た僕は思う

聴こうとした音 いくつか交差して
近くでは判断のしようのない レコードができて
周りに居た 誰かだけがわかることもある

僕もそういうのを いくつか知ってる

客観視って 俯瞰って 自分が客や無限遠点になろうとして
なれたとしても

それをそう言っちゃあ おしまいだ
それほど陳腐なものもない

自分ではわからない なのに外には判ってる風に
それが今の世の中だけど
それはちょっと たからものを
台無しにしているように
おもうのだが

———

水の流れのあるこつが
わかったとしよう
アクリルの中にとじこめて
後はみんなに観てもらおう
例えば 一日300ペア

招待するから 観てってくれ
水の色や匂いや 育む命は
僕には 気配しかわからないし
あとは たのむよ

そんなわけで 水族館ができてる
回転扉を抜けて コインを入れて
青い列車の途中
Aquarium

入り口にはくらげがいて
中にはペンギンが飛ぶ
僕には空の上から
それを観た記憶だけが残る

記憶
今は届かない

あの頃はあの人もいたし
あの頃は 君もしらなかった
あの人と偶然 出逢う事もなかった
すれ違うこともなかった

だけで十年と少しが経って
今でも偶然どころか
いくつもの ヒントをもらえてる気がするのは
幸せだよな と思う

一瞬のうちに失った 路線図や
現像も忘れてしまった 35mm フィルムや
弾く事もなく 切れてしまった ダダリオXL

そんな 忘れた空気でも
どんな色をしてるかわからないし
数十センチ先の宙にも出てこないけど

ぼんやりと あたたかく どこかに沈殿して 浮かんで 飛んでいる

あこがれだった人が逝ってしまって
それでも ありがとうと思う

どうにもならない これからも無数の
食いつぶしていく 未来の瞬間も
どこに輝きがあるかも わからない地図も
きっと汽笛と同じくらい 確かな音を
ひろいせかいに 「よみとれ」と
おしつけていく

こわがりもしないで

新聞に福岡伸一のコラムがあって、時折読む。

実に発想が面白くて、頭に残る。

中でも、消化という機能は他の生命体の遺伝子というアルファベットを再構築して
人間の物語を作り出す行為だという巻、
言語上、日本人の普段使う(=得意な)音域と英国人の鍛えている音域はまるで被らない、という巻は特にひっかかっている。

前者について、今日読んだ本と連結してふと仮説が出来たので記す。

脳と脊髄は、腸を守るように、発達するらしい。
そして脳と腸は、まだ解明されていない部分が多いが、深い関係を持つらしい。

その後、図面と福岡氏の文を思い出したのだが、
腸もまた、脳のようなものなのだ。

腸が下腹部でねじねじととぐろを巻いている姿は、脳が頭の中でしわしわしてる姿と似ている。
ま、それはそれだけの連想として、

人間の物語を作り出す、という機能、これは脳のそれじゃないか。

腸は、脳が知らないところで、同じような働きをしているのだ。
ノースブリッジ、サウスブリッジのように

これは、腹痛ばかりしてる自分を擁護する理由がなくなってきたようだ。

フェリーで海を渡る。

6年数ヶ月ぶりの道だ。

志摩から伊勢へ、外宮から内宮へ。

幼い頃から恐らく何度も来ている伊勢、自覚して見るのは二度目、はっきりと見えたのは初めて、俺の年表はこんなもんか。

とある外国の老夫婦、感じの良い二人
石段の上では撮影できない事を知らず、カメラを構えようと。隣だったのでそれとなく知らせる。
日本の人だかりは内の約束事は知っていても、注意はしない国民性で、こういう時コミュニケートしないと変な誤解を生む。

この人達もカメラを降ろして、自分も正宮の前に立つ。
正面から見れないように降りている幕が、風で上がった。

a ma te ra su … ?

驚くあまり驚くこともできない。

女神達に囲まれて、甲賀へ走る黄色い車。

機械じゃなく目で観てもらえて、なんだかよかったな。

絶縁

先日偶然お会いしたミヤシマさんと
今朝たまたま読んだオオヌキさんの連載と
思いつきを混合した日記

「絶縁」とだけ書くとなかなかなもんだが
「絶縁体」の事。健康についての話だ。

Oさんによると
田植えや土の上で素足で歩くのが人間にとても良いらしい
都会での電磁波をリセットしてくれるようなのだ

それもそうだと納得

Mさんの話によると人間の脳は電位で反応し、考え、行動する
その為に人間は直立歩行し、末端には絶縁体を置くようになった
自然に身に付いた爪、後に人間が身につけた靴がそうだ

電磁波を受け、溜め込む事、それ自体が悪い事ではない。
それは必要なのだ/それによってヒトは思考する事ができ、
だからこそ現代ではパソコン、ネット、携帯にはまってしまう
ただ度を過ぎると、当然のごとく…

そんな時靴を脱いで(ソールという絶縁体を外して)
コンクリートでなく土に接する(電気回路で言うアース)

これが身体、脳にとってリセットになるのだろう。

そこで思いついた。

都会の、オフィスビルやショッピングモールなんかには、放電スペースを設ける事

そこには、地中に刺さっている金属棒が中心に置かれていて、
ヒトはそこに触れる事で放電し、溜め込んだストレスやX&%#をリセットする。

つまり…アンテナの逆。

地中に刺さっている金属棒といってもこれは単純に鉄骨の事だから作るのは簡単な筈。

都会の歪みを正し、社会効率を良くし、しいては新たなビジネスにもなると思うけども。
秋葉原なんかにもあったら良いと思う

考えてみればDown to Earthという言葉もこれに通じるわけで
どのジャンル、年代においても、電位が溜まりすぎた人々の感性は
地中放電、アースを必要としているのだろう
勿論、音楽においてもそうだ
デジタルが勃興した80年代の後、90年代半ばになって時代が20年戻ったのは当然の事の気がする
尤も、主にアナログをデジタルで作り替えているのがそれ以降で
僕はある時にすっかり、モデリング含めたデジタルな音に興味を無くしてしまったのだけど

つまり、電位が飽和したという事だろう

電位そのものであるパソコン、ネットの世界において
「アース」なものは、バランス良く、配置される必要があるだろう
トレンドとしてだけではなく、むしろ、ヒト一人一人の精神的健康の為

だけどブラウザに配置するどんなプラグインも、所詮は電位に過ぎないわけで
放電をremindするきっかけになるか、ぐらいのもので
癒しの音楽とか、写真とか、映像だ、文だ、配色だ
これら、きっかけであり、実験であり、仮想であり
…無益ではないけど、あまり頼らない事だろうな

パソコンからにゅーっと地中に根が生えたりしない限り…

その方法

ライフスタイル、なんて
いったい誰が決めるんだ?

そんなものは
ない

ちえ

ヒトの知恵には浅知恵と深い知恵があるという。

高い意識と共に憤る事の多い私の東京生活であるが、
そういう対象の人達にも、両方の知恵がある事を思い返す。
殺し文句の前後にぽろっと出てくる矛盾なんかに、それは表れている。

がっかりする。
それに気付かない程、私は単純ではない。

しかし恐らく、自分や自分の意識にも。
残念だがそこに気付かない程、私は無自覚でもない。

商人は天秤棒をかついだ、という。
天秤棒は恐らく、ヒトの両面をも、バランスを取って担いでいたのでは、と思う。
でなきゃ、近江商人といえど、やってはいけなかったのではないか。

『老舗の品格 / 中見 利男』を読んで…勿論、故郷の先達を褒められるのは、嬉しく励まされる事だけれども。

のんびりはずかしい

だいぶ絶対音感が付いてきたようだ。
今頃?って気もするが、のんびり屋の僕は気にしない。

音感を認知できたって、それを表現できなきゃしょうがないだろう。

音痴とはつらいものだ。声、楽器とわず。許せる音痴もある(のだろう)が、
明らかに不快を振りまいている人もいる。オレ自身もそうだったりするので
やはり生きてるのが恥ずかしくなる。

のんびり屋の恥ずかしがり屋とはこれいかに。
多分、嘘付いとるに違いない。

昔、英語教室の訪問勧誘を受けた時、
しょうがないかと付いていって、その学校で「ほうほう」と
もの凄く聞き流していた事がある。
「丸々君って、自分の事を他人のように言うのね」
そうかもしれないな、だけどそやからなんやねん?
みたいな。

のんびりしてるからわかることもある。
のんびりしてるからきづかないこともある。

これからも、いろいろ恥ずかしいんだろうな。

もなみがわ

目黒川はつぼみが待機。
ほんの先陣、咲いている。

それだけじゃない。
すでに散った花弁、みなもにあり。

誰にも語られなかった白い花、
白鷺ばかりが、気にしてる。
先物買いだね。羽にでもする?

ラッシュ・アワー って映画あったよな

東京の私鉄の最終付近ってったら
レミングだったり亜祭りだったり
するのだけど今日も一駅のるのに
バケツに我々人間ウオは入らなくて

おしくらまんじゅうしてるやつらって
殺気立ってるかと思えばなんかそうでもなくて
楽しそう

押し込む駅員も楽しそうでさ

うーん楽しまニャそんそん。

そんな事ちっとも思ってない俺は
寒いホームでひとつ列車をスルーした後

次のヘッドランプが2組来たってんで
右側レーンでまたさっきと違う人々のあらすじと共に並ぶ

ドアが開くとしょうがねぇなと人の頭の森を抜けて
雲の上の液晶画面に眼をやる

「ご乗車ありがとうございます」

ん、おどろいた。なんやねんこれ。
こんな身も蓋もない台詞、こんな機械んちょに言わすなんて
CMですらないど、どこまで寂しいねん。

ん、でもええなこれ
こんなにいっぱい詰め込んで、重いのんに、電車も喜んどるんかいな
ごくろうやで

そしてまた
客もいいことしてる気にもなって
私鉄ももうかるんやから
そりゃ礼の一つも言われてもおかしくないわな
ラッシュアワーも
捨てたもんやないで

そして一駅後には
少しいい気分で降りたもんやで

みんなええ週末をな
ってもんや

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