空洞の磁界

やっと
少し
やりたいことが
できるように
なってきた気がする

まだ遠いのだが
体の中に
備わってきつつある
空っぽの骨組みの中に
あるいは空洞の磁界に

所詮自分って、針金だよな
そんな観察の果て
映らないはずのものが映るとすれば
それは
自分がフレームとして機能するか
だろうか

揺れても
斜めになっても
そこら辺
四角くない世界
論理のない世界に触れられる
消えては生まれる フレームと
その周りに照る
ちょっとしたひかり

それをそだてるも
ほろぼすも
あきしだい。

るいをよもう

るいをよもう / Ray Kondo
moon x moon series #18
2020.9.17

あかりの来ない夜は
何を読もう

新月、曇り空。月と太陽は共に昇り、雲の背中で過ごし、沈む。


これを書いたのは…歌詞ページに日付特定してありますが
ハンディレコーダーによると、その辺り。

その頃は一体何を考えていたんだか。
ベーシストとして、割と忙しくしていた頃、
この辺の写真 もヒントだろうか。

詩集 “flat five” を作る前には曲ができてたわけで
だから早い順番 – 三つ目 – に収めてました。
にも関わらず遅めのリリースです。

もっともこの詩の原型はさらに以前にあって、最初の一行しか残していないのですが。

アクロポリス

先日の写真の答え:
アテネ

でした。ギリシャに一度だけ旅した時、空港までの道すがら撮ったもの。
何を撮ったんだか…

当時のアテネ、たしかパルテノン神殿は工事中だった…
遺跡で入場料を払うと、お釣りの代わりにもっとよこせと合図された…
猫や犬がいっぱい寝ていた…

客が入ってそうなレストランに入ると、客だった団体が一斉に二階に移動した…
店主は My car is Mitsubishi だといい、ネスカフェが欲しいかとティーバックを置いて行った…
道はノーヘルのスクーターが埋め尽くすので、彫りの深い人々と相まってめちゃめちゃ怖かった…

と、いろいろカルチャーショックではあったものの、飛行機から見たエーゲ海の美しさは半端なかった。

今はいったいどうなっているのだろう。

54-46

… that’s my number…

なんか変なポイントつけられて、バラ撒き普及を目論まれてるこの国の個人番号じゃないよ、
1960年代にジャマイカで歌われてたこと。
彼が服役中の囚人番号とのことだが…根本的には同じですよね、人を番号で管理するんだから。

TOOTS & The Maytals のリーダー、トゥーツ・ヒバートさん
あっけらかんと歌われるリディム、衝撃的であり
その力の抜け方が、マーリーともまた違って最高だった。

Funky Kingston もバンドのグルーヴから音から歌から宝物だったな。2000年代に復活したときのアルバムは音が元気すぎて聴き込めなかったけど、一度でいいから観たかった。

家族に看取られての最期とのこと。ファンの端くれとして、ご冥福をお祈りします。

当時、影響を思いっきり受けて作った「あやまるロック」というのがあるのですが
前世紀の京都でカセット MTR 多重録音したのと、2006年に渋谷で田中慶一、中村翔くんとのトリオでライヴしたのみ。

ほぼ未発表、モタモタしてたら、彼が逝ってしまった。
全くトリビュートにならないと思うけれども、近々 soundcloud とかで公開しようか、いや、せんほうがええのかな。

皿の大きさ

「相互監視と台本」シリーズはあと数回続ける予定だが。

皿の大きさ、というのは、目玉焼きに合わせて皿の大きさは決まっているのだろうか?
という今日の切実な疑問。

下弦の月になってしまった。

次の新月の配信は、もちろん予告していた通り
「るいをよもう」です。

去年の夏頃からライヴでやりたかったのだけど、シンプルだけに難しくて
結局まだ一度も人前で演っていません。

どんな感じになるやら。

ジャケットのイメージその壱を。どこやねんここ。

 

相互監視と台本 – 弐

気になる本を読み出した。

山縣太一さん、大谷能生さんの「身体と言葉」(なぜか読み方が「ことばとからだ」)

演劇やってる人って、音楽とは違ってまたぶっ飛んでるんだろうな、とは思うけれども、とても示唆に富んでいる、また、読んでいくうちに頭が誤動作をしていくのがわかる。天才的に真理に到達してるのか、ふざけて端折っているのかわからない。その両方だろうか。

山縣さんのご両親がやっている劇団も、味わい深かった。

さて前回のとても暗い投稿と繋げるのは、前掲とは全く無関係の本でありながら、ここに気になること、正気に戻してくれるヒントが色々書かれているからである。まぁ、この帯のとおり。

この方は俳優が人前に立つという状況を「異常事態」としている。他人に見られ聴かれて表現する、そこに自らの身体を使う。ここからの論考がむちゃくちゃ素晴らしい – p.54 最高 – のですが、今回は端折ります。


「書かれた言葉」の可能性と内包する力。

紙の上に書かれている文字自体には身体がありません。文字と身体は、根本的な原理が違うのではないかと思うほど、遠くにあるものです。しかし、その距離を誤魔化してはいけない。遠ければ遠いほど、そのあいだに飛ばすことの出来る火花の電圧は高くなるのです。 – p.22

これは凄いと思う。
楽器演奏に置き換えてみれば、パッと弾いてすぐええ音が出るベースは、おもろないねん、と話してくれた清水興さんを思い出す(昔 B.Magazine でインタビューさせてもらった)がさておき。

〜書かれた言葉は、それが実行力を持って表れるとき、そこにいる人を発話する人と聞く人に分割します。書き言葉は会話とは異なり、そこにいる相手を黙らせる力を持っているのです。

この能力が最も強く発揮される場所こそ、演劇の舞台に他なりません。〜

俳優には、このような力を引き受けていることへの自覚と、その力が生み出してしまう「沈黙」を聴き取ろうとする姿勢が必要です。 – p.61

〜ある集団に、自分の身体と言葉でもって、ある書き言葉を「正しい」ものだと認めさせること。唐突な話かもしれませんが、ここにはおそらく、立法あるいは司法といった権力を生み出すような力が備わっているのではないかと感じます。 – p.62

記者会見や国会答弁、その他幾多の会合で、予め用意された原稿を政治家や官僚、町の代表がひたすら読むのも、この故なのだろうか。

「力を引き受けていることへの自覚」が必要というのは、パフォーマーだけに限った事ではないでしょうね。学校で立って教科書を読む子供にだって、その感覚を養うことは出来るはず。大いに。


「ダジャレ」の効能。

言葉自体を不安定にしておくことによって、発話という行為を毎回発見しなおすための回路を作っておく。- p.132

もう少し説明があるのですが、ほぼ完全同意。ぼくが駄洒落を多用するのも、そんなところか。

その他、今後も舞台に立つ(実感が薄れてるが…?)者としては、ずっと不思議だったことについて、答えと新たな課題をもらった気がします。

機会があったら上演を観にいってみたいです。

相互監視と台本 – 壱

ひどい、日本の報道。

ますますひどくなっている。

国政選挙、都知事選挙などの期間中報道は「公平性」の名の下に激減しているにも関わらず、国民に投票権のない自民党総裁選については連日連夜報道する。しかも勝者は最初から確実視されている。

国民に「ご理解いただく」= 現状を変えることはできないと無力感を与えるには、最高の方法かもしれない。

この方法はこれまでも、日本社会のいろいろな局面で行われてきた。戦前はもとより、戦後もずっとそうだったと実感している。

繰り返し、同じ話題を流すことで、おかしな事も既定事実、真実のようになる。内容よりも、映るものが有利になる。

今年の長崎原爆の日で、首相記者会見での質疑応答が台本通りだったことがカメラに晒され、「問」「答」の映像やスチルが出回ったのはつい一月前のことだ。
呆れ果てた話だが、これはこの日だけの事ではなく、また国政に限ったことでもないだろう。でなければ、もっと大きな問題になっていた筈なのに、偉い大人はみんな身に覚えがあるのか、平然としている。
尤も、カンペだった衝撃以上に、その答弁内容にツッコミが入るべきなのだが。

報道は権力監視が目的、と言われているが、歴史を少し見ればわかるように、もともとは民衆を統制する目的で整備されたものだ。TVには貴重な電波を使っているわけだから、当然ここにもシナリオは存在する。

各社各チーム、現場の判断や、より大きな倫理なども存在するだろうが、戦後75年を経て、報道の恣意性は異常だ。もっとも反対の視点では、5〜6年前から「報道の自由」は「制約」である、とされ、公平は偏向であるとしてコントロールしてきた成果がこれなのだから、全く噛み合わないどころか、治りそうもない。

となると民衆は、報道が何を監視しているのか、何を統制しようとしているのか、報道や公的なものを監視し、疑わねばならなくなる。これも相互監視社会…

ずっと異常だったものが、コロナ禍によってやっとまともになった面もあるのに、一気にアクセルを踏んできた感。

自助や共助とは、国から自らや地域を守る、という意味で解釈せねばならぬのか。

こちらはこんな事を感じ取ると、何度もお腹が痛くなる。毎日過ごすだけで健康不安になる説。
何も考えずに済むなら、楽だろうな。
きっと、誰も同情なんてしない。みんなそうだもんな、恐らく。

同情いらないから、ちゃんとしましょうよ。

こんな報道で育つ次世代が、可哀想だよ。

So Green – R.I.P, Gary

Gary Peacock が亡くなった。

この気持ちはとても書き表すことができないので、
僕の人生を決定付けたアルバムを。

Gary Peacock, Art Lande & Eliot Zigmund / Shift In The Wind

最初に聴いたのは彼のペンによる Last First。
知人からのダビングカセットを聴いたとき、
時間が止まり永遠になった。

その後アルバムを手に入れ、ずっと聴き続けた。

冒頭の So Green は Art Lande の曲とされ、
コード進行などは Last First と類似形だ。
どちらがどちらに影響を与えたのかわからないが、
共に僕の中では、Gary の代名詞のような
何ものにも替えがたい、音楽。

まるいみらいと九月

まるいみらい / Ray Kondo
moon x moon series #17
2020.9.2

9月の満月は唐突に。
今年の中秋の名月は10月頭のようです。

この曲は2日前に思いついて一気に作りました。とてもシンプルなスローアコースティック。
弓弾きを重ね、編成は

vocal
gut guitar
double bass (piz / arco / body tap)

これだけです。


夏がセミのように短く鳴き、秋は確かにやってきた。


ジャケットについて

自分の姿は、昨年の11月4日、横浜若葉町 WHARF
あなんじゅぱす の幻灯演奏会「夜の江ノ電」での演奏風景です。
当日の幻灯投影の合間に撮ってくださった田中流さんの写真を、使わせていただきました。
たまたまなのですが、田村隆一さんの「満月」という詩を演奏しているところです。

右側の沢山ある丸い光は、路上で何かを撮ろうとしたとき、焦点合わずに写っていたもの。
場所は上海、大橋トリオのアジアツアーの打ち上げ後か。2017年、何故かこれも11月4日でした。

全体にかかっているのは、砂浜。これは昨年の8月21日で、なんで海に行ったんだろう
石ころや足跡が何か語っているようで、何かに使いたいと思っていました。

fireball kid forever

僕はスポーツ全般に疎く

自分の運動神経のなさも相まってなかなか興味を持てない。しかしながら

藤川球児の引退を知ったのはやはり事件である。

彼はたぶん僕が最後に好きになった野球選手で
彼とサッカーの乾貴士(高校時代)がおそらく…な…スポーツ選手だろうか。
なにせここ10年以上野球を観ないようになり、阪神ファンであることすら忘れてしまったのである。

しかし今でも、オレンジ色のものを見ると、ふつふつと思ってしまう。
たとえば AKG の K712 Pro ってヘッドフォンがあって、音は最高なのだが、なんでフレームがオレンジやねん… ゴールドか黄色やろ… てな具合だ。

球児はどこか親近感を持てる風貌であり、しかしながら、まだ実績がない時代から
発言がでっかく、また華奢な体型に似合わぬ太い、掠れたいい声をしていて
その辺羨ましいなぁ、と思っていた。

実際生で見る機会は逃したのであるが、いつも画面であの直球の伸びと空を切るバットに
痺れていたもんだ。

引退会見で久々に姿を観たが、相変わらず…痺れること言ってくれるぜ。

ありがとう。本当にお疲れ様、でも250セーブ、目指してください!
この人が名球界に入らないで、どうするんだ、と思う。

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