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丑年を振り返る

今年を振り返る。

都会に出たのは一度だけ。たまに街に行ったが、基本ずっと部屋と運転席にいた。

皮肉にも、遠征の消滅により仮住まいに住む必要がなくなり、
自宅に戻れたのは幸いだったが、運動不足解消のために導入した「ぶら下がり棒」が
家の壁を破壊してしまい、約3時間で断念したのは本年最大の失敗の一つ。


壁の穴をごまかすために、貼っている絵葉書


家と音楽

ここ数年、知人の音楽家たちは口を揃えて「家に音楽室を作る」「防音室を入れる」「新築する」という話をしており、素晴らしいと思う反面、自分は真逆の、「楽器不可物件」に仮住まいせねばならない状況に、軽い絶望を感じていた。

無論「楽器可物件」だったり「アビテックスレンタル」だったりを探したものの、いくら探しても僕の地域では見つからなかった。アビテックスに至っては、コロナでレンタルサービス自体が停止になり、八方塞がりの状態だった。これも演奏活動を辞めざるを得なかった理由だ。

プロの音楽家なら、音を出せる環境など当たり前だろう? と思うかもしれない。
だが、そんなものは易々とは手に入らない。人生は幾重ものラッキーで成り立っている。

それを乗り越えて無理な投資と行動をしてこそ、人生だと思うかもしれない。それはある意味正しい。

が、それは違う。ある意味で。

ずっと東京へ通っていたが、2021年は一度も行かなかった。IT や新幹線で、距離がほとんどハンデでない状態が続いていた(対人のつきあいが減るのは仕方ないとしても)。それがあと数年続けばよかったのだが。

ネットの急速な発展で、リモートワークやコミュニケーションは急拡大した。おかげで、副業は維持することができた。
だが、LINE や FB はじめネットのつながりにどうしても違和感を覚える僕には、本業ではあまり役に立たなかったかも。

そんなわけで、世の中の水準以上に、ソーシャルディスタンスを実践した一年だった。

幸い、自宅は防音性能はともかく、立地上、楽器を弾いてもあまり迷惑はかからない。
練習や録音は、可能だ。というわけで、これまで以上に、アイデアの実践を行なえた。

新しいアイデアと、これまでやり残したアイデアの、と言った方がいい。
僕は形になっていないアイデアが溜まりに溜まっている。

そのうち30〜40を、ここ数年で漸く形にできている、という状態だ。
何も新しさはないのかもしれないが、これらの面倒は本人にしかできない。

楽曲提供すればいいから、その時のためにとっておこう…という発想は今のところない。

もしそんな機会があれば、それはそのときに新たに作ればいいし、その方がいいと思う。
もしかしたら手持ちがフィットするかもしれないし、それはその時だ。


リモートコラボ

これまでも数曲は、自分名義でも他の人の作品でも、リモート制作を行なってきた。
スタジオと違ってリモートは時間が取れるし、考え直すこともできる。ある意味、音楽を作っていくにはいい形だと思う。

リアルタイムでのリモートというのは(技術的に可能とはいえ)自分には少し苦手なのだが、
時間差というのもよいものだと思っている。音楽とは、時間をリピートする行為だから。
織り重ねる、と言った方がいいのかな。

ここ最近の自分の作品では、コラボを行なっていない。
これは単純に、やるならば相応のお礼をしたいということと、自分だけでやれる事を伸ばしたい、ということだ。


とはいえ、自分で全部をやっていると、とても勉強になると同時に、限界も嫌というほど思い知る。
それにあまり慣れてしまうと、感覚がわからなくなってしまうので、またいずれ、コラボをやろうと思う。

餅は餅屋、である。餅屋に頼めるならそれに越したことはないのである。


さぁそんなところで、年越しの諸々に入るので
つづきはまたいつか、年明け後にでも。

ゆくとし くるとし

いいねは言い値か

音楽は一旦置いて

今年を振り返り、危惧していた通りでしたが
オリンピック前後からの流れはひどいですね。

(ひどくないと感じる方もおられるでしょうが、ここは私の意見です)

秋から、戦闘機や大型管制機が空にいる頻度が大幅に上がった。
さほど高くない空を。

録音をしているとマイクにジェット音が入るので、すぐわかる。
というか、録音にならない。ここは防音室ではないからだ。

鹿児島、沖縄の状況にせよ、爆上がりの軍事予算にせよ、
「台湾有事」がある前提でどんどん話が進んでいるようだが、

台湾にもし「有事」があったら、軍備などで収められると、思っているのだろうか?

火をつけるだけだろう。

iPhone や Mac のチップは台湾企業 TSMC が作っている。
(そこから熊本に工場を、という計画もあるようだが)

ここ2年でも、コロナに加え、アジア各地の工場における災害などで、多くの品物が製造において大きな被害を被っている。

自然災害、感染症でこれだけ大変なのだ。戦争など起こったらどうなる?
これだけデジタル化した世界でも、いやデジタル化したからこそ、
世界はさまざまな意味で麻痺してしまう。

もちろん、人の命、街や自然を破壊するという事が、とてつもない問題だが、
それも想像から追い出してしまう「勇ましい人」が日本にも諸国にも多そうなので
あえて他の話をしている…

近年は画面上で朝から晩まで “SDGs” の言葉が踊る。
持続可能な環境を。ならば軍備とはなんだ。

人々が作り出した街を、都市を、自然を、農場を、破壊し汚染する。
人々を殺戮し、無数の人生を葬り、絶望と、憎しみの連鎖を産む。

破壊し合う兵器を受注する企業は、それでも金儲けができるのだろう。
あるいは、不良在庫を一掃できるいい機会なのか。

米国はずっと以前から、発展しすぎた軍需産業のためにも、戦争をやめられない。
完全に「戦勝」したのは、政治的にも文化的にも飲み込むことができた対日本だけで、
他は全部失敗か、不完全燃焼している。それでも日本は、兵器を(装備品と言い換え)、いつも言い値で買ってくれる。

戦争が、軍事的行動がいかに人類にとって無意味で、馬鹿げた選択かを
世界中の人が考え直さねばならない。

残念ながら、馬鹿げた選択だと思っていない人が一定数以上いることも知っている。
だが、だからこそだ。

この「いいね」ボタンでカウントされてしまうデジタルな世の中、
僕らは畢竟、ひとつの票でしかないのなら。よけいに。

sake to me

9月からずっと酒をやめている。

ストレス解消が一個減ってる気もするが、翌日も朝から調子いいし。

まともな思考も不思議な想像もできるし、運転もできるし、こうなるとそれまでなんで酒飲んでたんだろう? ぐらいの感覚だ。

以前のように宿泊も打ち上げもなく、飲み会もない。となると酒は個人の嗜好になるけど、
たぶん、時間が惜しいんだろうな。呑んでるとその時間は永遠に思えるのに、その後がものすごく縮んでしまう。

シラフだってこの4ヶ月近くはあっという間だった。アルバムという形でこの間、作品を4つ形にできた。
でもたぶん、これからまだまだ浮かんでくる。それらをどうしたらいいのか。

今はちょっと、わからない。まだまだできる感と、もう完全に切り離した感が両方。

フリーフォール。あとはどこにいく。

だけど、ここからじゃないと、たぶん見つからない。
ここから人生あと一回分頑張って、ようやく何かが形になるかな。

自分が誰かは、まだ誰にもわからない。

november 2021

11月の暮れ。

いい知らせができたらと思ったのですが
まだ時間がかかりそうです。

小さいながらも
ひたすら音楽に集中した秋 過ぎる
あんがとさん 我々の霜月。

家と近郊の往復しかしないけど
7ヶ月ぶりに日帰り帰省 父を偲ぶ
途中 山の中のカフェは
相変わらず素晴らしい。

カウンターのレコードジャケは “JAZZ” から変わってた。
Joni の “Blue” とあと二つは…なんだったっけ。

情報ってなんだろう – 壱

まぁまぁ重い日記に続いて、

これからの事を書こう。

これから、といっても、前々から不思議だった事を、解き明かすための、備忘録みたいなものだ。
まだ、まとまってはいない。


今はデジタル全盛時だ。とはいっても「デジタル」なんて言葉に「80年代か?」と反応してしまう自分を省みるに、あれから40年経ってもテクノロジーってそんなに変わってない面もある。

’80sだって「情報化社会」とは言われていたわけで、それはたぶんその前からそうで、
おそらくWW2やWW1や、明治維新や、ぐっと遡って日本書記の頃や、ホメロスやハンムラビ法典や始皇帝の頃だって、そうだったのだろうと思う。本質的には。

情報がなにをするかといえば人を動かす。人は情報を動かすが、同時に動かされる。

波のような、電子のようなもの。生命体。

現代はネットと SNS、デジタルデバイスにより、個人と情報の動きが直接観察できるようになった。
監視社会、デジタルファシズムとも呼ばれているが、ここは一旦フラットに考える。

僕はこのことを嘆いているばかりではない。どう転んでもこの流れを逆行させることは難しいだろうし、危惧しているのは「信用に足らない権力がこれを独占しようとしている」ということなのだ。彼らが信用に足る行いをしてくれれば、状況はだいぶ変わる。

信用とはこれまた難しい概念だ…コンフィデンス。なんかのドラマじゃないが、この世はバカ試合、じゃなかった化かし合いでもある。
ジョーカーとは、意識を持った第一人称すべてなのだ。

それを踏まえた上で、たとえば「デジタルを操っている側」が、ちゃんとデジタルの本質を理解しているのか。

— そう書く僕自身、理解しようともがいているだけで、本質はまだ多くの人にとって不可解だと思う。
どんなパワーや頭脳を持っても、人間に理解できないことは、たくさんある筈だ。
たとえば原発に関しては、あの312で誰もコントロールできなかったわけだし、そのことが明らかになってからも、権力も人々も目をそらし続けた。
結果、今も何もコントロールできていないのだ。情報だって同じことが考えられる —


たとえば。

SNS ではよく炎上が起こる。

誰か、特定の相手を対象に、「これを攻撃しても良い」というトリガー、あるいはリリースが発せられると
次々に人々が、自発的に攻撃を開始する。当人たちは、程度の差は選ぶものの、それは「自発的」だと思っている。

かくいう僕自身にもそれに加担した覚えはある。

だが大きな目で見れば、それは自発的でもなんでもない。どんな情報を与えれば、人がどんな反応をするか、おそらくアルゴリズムで蓄積されている。これだけのビッグデータがあれば、精度はかなり高いだろう。

こんな蓄積はたとえば何に使われるか。

あえて、先ほどのように時間を一気に遡ろう。太古の時代、人々が戦争ばかりを行っていて、歴史書には「〇〇何万、▲▲何万が争った」とある。しかしどうして、それぞれの争いが成立したのか?

それは、群衆が互いに、戦争に参加したからに他ならない。
もともと何の恨みもなかった「何万もの」群衆同士が、なぜ武器を手にとって殺し合ったのか。それは憎しみや恐怖を植え付けられたからだ。あるいは、陶酔のストーリーを。

権力者はいつの時代も、「下」と見做す人々を情報で操り、プロパガンダ(この言葉が用いられたのは17世紀からだが、太古にも通用するだろう)で右を向かせ、左を向かせ、整列して対象を攻撃させる。

失敗したり怒りの対象が自分に向きそうなときは、巧みに目を逸らす。そのための術を、世界中の権力は、何千年にも渡って蓄積してきた。それが権力とメディアコントロールの本流だと思う。

SNS は色々と役に立つが、(一見)無償なのには理由がある。

タダより高いものはないのだ。


さて、上記を前程に、じゃぁどうなのか、人間は進歩しうるのか、ということで考えつつ、浮かんだ事をこれからの日記に記していきたい。

僕らは流し、流されるだけなのか、というところで止まっていては、21世紀を生きた満足感がない。

3月に作った曲 も、そういうテーマではあったのだが、まだ追求が足りぬし、これでは人に届く気もしないのだ。


とはいえ、もう日付が変わった。いかん、もうおじさんは寝なければ。

また思いついたら、記しますね。
おやすみなさいー ぐぅぐぐ

愛しのライヴパフォーマー

これを最初に書いた時は、11月がはじまって最初の週末でした。

とはいえ迷っているうちに、次とその次の週末も過ぎました。キリがないので日付 [11.19] にて。


この月は新月、半月とリメイク作品を発表してきたのですが、
今夜は音源ではなく、区切りとしてお伝えします。
満月と月蝕の素晴らしい夜には、あまり馴染まないかもしれぬ。

まず、僕は今年の1月末、ステージでの演奏活動を止めました。
これはコロナ禍に伴うものですが、
自分や周囲への感染防止に加えて、生活、経済、体力、心理上など様々な理由がありました。

10月以降の感染確認者激減により、各地で一気にいろいろなライヴ再開、ですね。
待ちに待ってた! という人もいっぱい、いるでしょう。

今後のコロナはまだ予断を許さない、と僕は思っていますが、感染が収まっているときに生の音楽を奏で、場を共有できるというのはすばらしい事です。

僕に関しては、演奏活動再開の予定はありません。
サポートであれ、自分のであれ。
一番したいのは、自分や仲間の、ごく小さな会場での活動なのですが。

コロナ前も、長距離移動や複数の仕事とハイレベルの演奏活動と、休みない状態で、かなりの無茶をくり広げてきました。楽しかったですけどね。

お客よりスタッフが多いイベントから何万人のスタジアムまで、ゴスペル、レゲエ、ロックンロールからジャズ、ポエトリー、ミュージカル、クラシック。TV の生もいくつかありました。人前で演奏をしたり、パフォーマンスを行う、ということの宝物はよく知っています。とても。

これからも演し物のビジョンは沢山持ってたし、パフォーマーとしても、次の段階がクリアに見えていました。

にも関わらず、ここ二年近くをソーシャルディスタンスで過ごしていて、ライヴしたくて堪らないと思うことは殆どありませんでした。

冷温停止したのか、去っていったのか。それはわからないです。


 


僕はやはり音楽が好きで、レコード(アナログを楽しめる環境はありませんが)を聴き込んだり、流し聴きしたり、深読みしたり、音だけでも楽しめる人であり、その上で言葉も含め、表現したいことを今もたくさん持っています。

既にここ数年続けてきたことですが、これからはそちらに力を注ぎます。

まだまだ決定的にいくつものことが欠けていて、克服にもブレイクスルーにも、時間がかかると思う。その過程で「売れる」ことはなかなかないでしょう。

が、これが自分の生きた証だという音楽をのこしていくつもりです。

僕にも多くの人と同じように、人生という現実があります。フリーランスはこれからますます厳しい世の中ですが、生きるための仕事をこなした上で、限られた時間を捻り出して音楽をやっていく。

よって、演奏のオファーをいただいたとしても、リアルタイムはほぼ夢物語です。
とはいえリモートなら現実的かもしれません。作詞作曲なら、喜んでやります。

まぁ、もともと夢物語みたいな人間なのですが。

こんなのもひとつの生き方だと思ってます。
世界にも日本にも人はあまりに多い。音楽家だからといって同じような道を行く必要はない。

前回東京に行ってから1年が経ちました。ありがとよ、東の都。

もし興味があったら、これからも作品を聴いてください。
もしよければ、BandcampCD など、ご支援いただければ嬉しいです。

なにかをみつけだしたい。

Thanks a million,
Ray

もうひとつの月蝕

9.19 満月 ならびに月蝕

前日は夕刻にくっきり見えた月ではあるが、今宵はあやうい。
17時すぎ 雲間からあらわれる 廊下 ならびに 窓からも見える

が、どうせならと湖に向かう。
道中どんどん雲行きが怪しくなり湖岸に着くと
見事に雲に隠れてしまった。

水鳥一声、波の音 辺りは誰もいない。

これはこれで風情のあるものだが…風情か?

しばらく前にこんなことがあったような気がする。半年ほど前だろうか。
あの時は確か、3人組のおじさんがカメラや望遠鏡設置して、全く観えないねー観えなかったですねーと

今回は、誰もいないのである。

すると突然、原っぱを走る群衆…子供が数人か? のような、只ならぬ音と気配
振り返ると、頭上を「→」が進んでいった。

黒い、水鳥の群れだ。見えるか見えないかの空から、見えるか見えないかの湖面へ着水。

これも風情か?

引き続き誰もいない。それどころか、月は出る兆しもない。
ほんとにこちらは東だろうか、ほんとに月はあったのだろうか?

よく見えない湖面、こういうのもいいものだ。僕は暗い景色がとても好きだが、けっして上手くカメラでは撮れない。
少なくとも、これまで持ったカメラはどれひとつ、僕の欲しい夜の風景を撮れた試しがない。もうカメラはあきらめてしまった。

やがて、右の湖面からツイートが聞こえる。

今度は左から、返信。

tweeter はスピーカーの高域担当部分だが、これは鳥のさえずりから来ている。
twitter も、語源はこれと同様だったと思う。一個一個は tweet っていうもんね。

ツイートし合う鳥。彼らがほんもんで、人間がバーチャルでやってるあれは、真似っこだったんだね。

暗いぼんやりとした空と湖面と鳥のツイートにぼんやりが増し、時間の経つのをわすれていると
いつの間にかぼんやりした黄色いものが浮かんでいる。

というか
細いぞ。

漸く現れた月蝕に、なんだか安心して帰ろうと思う。最後に撮影。
スマホの限界
ってやつだ。

土手をあがると、親子連れ。ちょうど見えたから、いらっしゃったのかな。
グラウンドを歩いていると、また一人大人。楽しんでってくださいね。


中村佳穂ちゃんが、なんと紅白に出るという。
さすがにめでたいので、ごくごくさりげなく祝福表明すると
なんとそれを拾ってくれる。

彼女の大活躍はもちろん知っているが、唯一ご一緒したのは5年半前の 公園通りクラシックス
最後にお会いしたのは4年半前だ。名古屋の BL Cafe。今池のイベント、赤い靴を手伝ったときの対バンだった。最初は これ です。
それから彼女は超活躍してて、忙しい中、僕の相手をする必要などまったくない筈なんだけど、
さすがですね… この気配りも、彼女のすごいところです。


NHK ホールといえば、奇しくもあれはちょうど一年前だった。
以来僕は、一度も東京に行っていない。

あの日の都内感染確認者は500人超えで、その後と桁が違うのだけど、
公演後、僕はすぐにハンドルを握って長距離運転、夜中の3時に念のための仮宅に着いたのだった。

そして、無音の部屋で2週間。音楽をすればするほど、音を出せない。

そんな生活が続けられるわけもなく、採算も合わずに演奏仕事を止めたのが今年の1月。
以来、生きるための仕事をひたすら続けながら、合間に創作、録音に励んでいる、というのが僕の日々だ。

これでいいのだ。

と思いつつ、さすがに、これでいいのだろうか、とも思った夜中。
まいったまいった。


数日後に、写真を改めて見直す。どうやらぼんやりとした月の上に、ぼんやりとした月の形の雲が浮かんでいる。

小学生の頃を思い返し、一句

月蝕や見護る有明月の雲

れい

10月のおわり

昨日も色々と綴り、
その上で投票も行き、結果を見た。

自分は変わり者として長年やってるので
選挙結果を見てもかなりの耐性はできている。

絶望はするけれども、これはもう9年前からずっとそうだ。

変わり者が生きられる国に!

なんてね。そうはならないだろうな。

まぁ自分の事もそうだし、
全体主義を選ぶ人の国ということになると、これからはすべてが気がかりだ。

まぁがんばってこ。

全国のポイントポイントを見てると、ヒントはある。
ネットなり TV なり、有名人の支援なり、
話題になった人には、ものっっ凄く食いつくけど、他はガン無視、旧態依然。

まだまだ、メディアに乗せられてるな。
そりゃそうだ、メディアは人の心の流れで成り立ってるもんな。

今後もそうなのだろうか。

いろいろな意味で「終わり」も見ている月のかわりなのだが
個人的にはとてもがんばった。何かが見えている。

これからは違うステージがはじまる。11月。
世界がどんなものであろうとも、僕はやることをやります。

おやすみなさい、よい夜を。


まぁ、でもやっぱり、寝られないな。

やることも片付かないけど、

改憲勢力が維新も加えて2/3を超えたこと。これだけは防がなければならなかった。

他にも大切な問題はたくさんあるが、憲法を変えることが自民の最大の目的だ(というか、おそらく彼らは他の問題を大して重要とは思っていない)から、明日彼らは第一声で改憲を宣言するだろう。

音頭を取るのは病気だった筈の人だろうし、或いは内閣改造で入閣するかもしれない。

維新はどんなに表面上自民を非難しようとも、彼らは裏で完全に手を結んでいる。小池都知事も同じ。

両極端なことを言う存在を東西に配置すれば、簡単に人を囲い込むことができる。焦点を逸らす手口。

メディアジャックをすれば、そんな簡単なことにも人は気づかなくなる。

それぞれの選挙区で、誰が誰にとかシンボリックな個々のハイライトはあったけど、
一番大切なことは、嘘と不正にまみれた政権に、憲法を都合良く変えさせないこと。それがある意味、本当の「国防」。

国防だって、人が違えば概念が違う。国民がどうなっても体制を守ればいい、と考えるのか、
体制が変わっても国民が守られるべきだとするか。前者が大日本帝国。後者は日本国に近い。

数で劣勢になってもそれができるのか。これ、もう政治家たちだけの問題じゃない。

なかなかハードな、愛しの季節だな。


それでも、いとしのきせつにはかわらない。

衆院選の前に

昨日も朝から戦闘機が飛ぶ空
数年前から頻度が明らかに上がった

控えめにいっても、うるさくてしょうがない。
録音するときもトラックが台無しになるし。

沖縄はこの比じゃないのだろうけど。

自民党は軍備増強路線で
軍需を経済成長の柱とずっと捉えている。

そのために、ここ数年絶えず
法解釈を変え、改憲を企て、企業と教育機関を誘導してきた。

日本学術会議問題もそのひとつ。
批判する者は排除する、という政府の意思をそのまま表したものだ。

任命拒否された学者の一人、
加藤陽子氏は、けっして戦争から目を逸らす「お花畑」な学者などではない。
むしろ逆で、日本が経験した戦争とそこに至る社会や政治、軍部、民衆の動きを冷静に分析してきた人だ。

排除は却って、大きな損失だ。

今日の世界は確かに戦いが収まらず、
インドの東西「両パキスタン」の隣国であるアフガニスタン、ミャンマー、
パレスチナ、そして中国を軸に紛争の危険が絶えない。

それを狙っての軍事費増強アピールなのはわかるし
政府もメディアもしきりに中国、北朝鮮、ロシアの脅威を煽っている。

だが根本的に色々な面で誤っている。

私は加藤氏のようには書けず、多少情動的になるかもしれない。

軍備増強では平和はこない。
屍だけがくる。

核兵器と原発が偏在する東アジアでは
どんな戦闘も、取り返しのつかない地獄を生みかねない。

武器とは所詮破壊殺傷の道具であり、
悲劇と憎悪の連鎖しか生まない。
軍需産業の儲けと、権力者同士のゲームの他は。

アメリカの同盟国なら、何十年もアメリカに隷属したなら
これぐらいは学ぶのが当然なのに
自民党とメディアはこれをねじ曲げる。

千歩譲って、中国侵略からの防衛が必要としよう。
大国にはへつらい、どの国にも金をばら撒くだけで…事業のキックバックを求めているとしても、
ロシアには手土産付きで北方領土を献上するぐらい外交力に欠けているわけだから、
これからも彼らには平和的解決ができない、と仮定しよう。

自衛隊員が命をかけて国境を守らねばならぬ、としよう。

ならばどうして、

米国で余剰した欠陥だらけの戦闘機を買うのだ?
言い値で。

F35 は問題が多く、操縦系統の故障などでの事故も多数報告され、
現に日本でも、原因不明の事故での墜落が発生している。
もちろん、原因は報道されなかったが。

軍産複合体があまりに巨大で、政治に大きな影響力を持つ米国は
常になんらかの戦争を起こさずにいられなかった国だが、
(その米国が本当の意味で「戦勝」した相手は、日本だけだろう)

あまりに兵器を作りすぎたため、大量の余剰兵器がある。
しかも AI 化、ことに「仮想敵」の中国が AI 大国のため、旧式の兵器は余ってしょうがない。

これをいつも言い値で買ってくれるのが、忠犬の日本政府だ。

自民党政権はジャパンハンドラーに大きく依存してきた。
2013年、就任直後の訪米で当時の首相が彼らに出向いて話した内容はあからさまだった。
そしてそれ以降、彼らのオーダーを忠実にコピペしてきた。

東京は米軍基地に囲まれ、米軍に逆らえば一瞬で制圧されかねない状態にある。

鳩山民主党が沖縄の基地政策に関して、公約を貫徹できなかった理由のひとつでもあろう。

確かに、日本は米国には逆らえない。原爆を二発落とされ、沖縄を数万発の砲弾と火炎放射器で蹂躙され、大和も武蔵も零戦も殲滅され、大空襲で全国の都市を焼き払われた。

軍事的にももとより、政策的、外交的に完全に負けていた。兵士の食料や退路を重視しない軍、嘘ばかりの大本営、特攻、竹槍、あげくは飼い犬に爆弾をつけて突撃させようとする狂気の指令。戦死を玉砕、撤退を転進と言い換える言葉と理論の破壊。

一方、米国は太平洋戦争の開戦前から「戦勝後にどう日本を統治するか」を綿密にシミュレートしていた。この違い。

生き残った政治家たちが CIA との協定で衣替えし、次の日本の支配者となった。それが自民党だ。そして、大報道網だ。
大雑把だが、そういうことだ。その全てが悪いとまでは、思わない。

ぼくは個人的にアメリカに悪感情はない。むしろ好きだ。
音楽も文化も、自然も空気も。
或いはこれもマインドコントロールの賜物かもしれない。

(だからこそ、米国の完全な「戦勝」といえるのだ)

だがそれとこれとは別だ。日本がずっと属国であり続ける間も、世界は変わっていった。
日本は世界の下請け工場としての需要を得、やがて工業国、技術国、経済大国となった。

軍事力で負け、技術と経済で買った、と喜んだ人々。覚えている。

そして2000年以降その役目を中国に譲り渡し、抜かれていった。

ちょうど2000年ごろ、ある楽器の見本市で Behringer の機材がどうしてこんなに安いのか呟いたところ、
ある人がこう言っていた。「中国製だからですよ」

そのトーンには若干の見下しも入っていたと思う。確かに当時、日本人の感覚にはそれがあった。が。今はどうだ。

Mac も iPhone も中国で作っている。劣化コピー天国だった国はトップクオリティに欠かせない工場になり、
今ではアイデアでも日本や欧米を凌ぐ面もある。日用品やコロナ対策グッズだってそうだ。

なんなら、兵器だって中国の方が安価で高性能なものを作れてしまう、だろう。米国よりも。
武器商人は国境を超えて品を売りつけるものだ。
もし、アメリカが装備を世代交代させる過程で、通常兵器を中国製のものにしていたら、どうなる?
あくまで仮定の話だが、ありえないことではない。

馬鹿を見るのは日本だ。

だから今から国産兵器を作る? 輸出して金とパワーの源にする?
それが本音かもしれない。

寝言は寝てから言ってほしい。
液晶テレビも家電もコンピューターも負けた。自動車すら周回遅れになるかもしれない。
そんな日本が兵器の生産?

今から軍鉱など勝ち目はない。最も愚かな博打だ。

国連で敵国条項の対象にいる立場を思えば、国際世論を得る建前すら失う愚行だ。

日本は繁栄も、核による壊滅的な危機も経験してきた。天国と地獄を知る、ある意味世界唯一の国。
やれることは、持続可能エネルギーと、価値観の転換。
21世紀に矛盾が露呈した資本主義や共産主義を超えた、次の考え方と実践。

日付変更線の西側にある国。早く朝を迎える国。

2011年から2012年末まで、日本は本当に変わるチャンスだった。

一瞬、未来の党、という幻が見えた。

そして年末の衆院選、安倍政権の誕生と共に、チャンスを失った。

いま、世界が危機なら、日本は本当の危機の入り口にある。
これ以上、自浄能力のない政権に権力を握らせれば、どうなるか、
皆さん本当に想像していますか?

まず、地獄への道である軍国化をやめさせること。
間違ったエネルギーである原子力発電に戻らせないこと。

この国と国土を滅ぼす寸前までいった第日本帝国の過ちを、ふたたび起こさせないこと。

日本が本当に向かうべき道を、国民が考えられるようになること。
政治家が、国民の代表として、その知識と行動力、発言力でもって活躍してくれること。

立憲もれいわも完璧とは程遠い。だが志を持った人がいる。
なによりまだ「まとも」だ。

文化を発展させること。いや、「発展」などしなくていい。
本当に深め、借り物でない独自のものを作っていくこと。

音楽はその中の一つ。

まだまだ。この百倍ぐらいあるけれども。

頑張って、意思を示していこう。
そして、生き抜こう。地球で。

演技の向こうに

こんなツイートがありました。

国会って朗読会だよね。
by 浜田真理子さん

魂の籠らない、無責任なペーパー読みばかりに時間が費やされている、というだけでなく、
色々な意味で、真意をついてる。と思いました。

逆を返せば
政治家のやってることは
良くも悪くも演劇。

官僚が考え抜いた台本をいかに演じるか。
あるいは、世の中の問題をいかに拾い上げ、どう訴えるか。

だからこそ役者が大統領にも
なるのであり
操り人形のこともある。

その上で演技の向こうに何があるか
判断が必要な時代。

「芸能人は政治に関わるべきではない」とよく言われますが、これはこじつけだろう、とずっと感じています。

芸能人「上がりの」政治家って、結構いますよね? むしろ与党に多い印象です。

その実態はむしろ、縄張り争いに近いものじゃないか、と。
場合によっては仕事や生活に支障もあるかもしれない。
だけど、民主国家である以上、これはそれぞれが主体的に考えるべきだと思います。

「まだ」民主国家であるならば。
あるいは「これからやっと」民主国家になれるのだとすれば。

私はそういった世界 – 芸能界、です – から500歩ぐらい距離を置いてはいるのですが、
それでも、その中で考え、行動している人々を、応援したいと思います。
どこに投票するかは、それぞれですけどね。

そしてもうひとつ。

私たちには一票しか権利はないんです。

メディアコントロールも閣議決定もできないし、税金も入って来ない。スポンサーもない。脱皮の自由もない。

与えられた情報から判断するのか、
情報をつかみにいくのか。
フェイクに騙されるのか、そこから考えるのか。

自分の生活から感じとるのか。

投票は、誰かに言われてやることじゃありません。
どんな団体に所属していたとしても、決してそれは投票先を強いられるべきものではない。
ここでは、「絆」は要りません。
個人が成熟して、はじめて民主主義が機能します。

個人を押さえる同調圧力は、要りません。
全体主義も、要りません。

だけど、そうやって一人一人が、しっかり判断し、面倒でも参加すること、
投票所に足を運ぶことが、
周りの人、家族、若者、お年寄り、子ども、次の世代、に繋がっていくんです。

きっとね。


*10.26 途中補足しました

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