久しぶりに、『クレーン男』の続きを。
うっとりとし、ギョッとする本。
名古屋は今池、ボトムラインの裏手にある 読書珈琲リチル にて
本もですが素敵な喫茶店です。
一昨日のBABI CHANで話したこと
あれからも考え続けるのです。
(くもり)硝子の向うは風の街
とは松本隆さん
果たして40年近く経った今もそうなんでしょうか
僕らはもう一度 問いかける必要があるかもしれません
…と言っ(てしまっ)たわけなのですが
ビル街の硝子を一歩出ると
吹き飛ばされそうな身体が
確かに今も風の街なんだと
知らせてくれた今日
そこへこの動画です。
森を上から見ると木々はこう動いていると。見飽きない。
Dimitar Karanikolovによる映像。
pic.twitter.com/eaqLQw7R4E— Takuma Ishikawa (@ishitakuma) April 15, 2019
水やそれを湛えた生命体とは違って
硝子を湛えた都市の構造体は
風で揺らぐことはありません。
結果として、それ以外の空間に
風が迂回し、集中することになります。
これって冬のNYCでも感じたことなんですが
大丈夫なんですかね?
都市文明。いつまで。
いつかタルマーリーの渡邉さんに聞いたことですが、
気候変動含めて、です。
地球はやはり水の星ですから
魚に対する海や湖のように
人間も硝子を常に近くに欲しがっている
というのが私の直感です。
こわれもの / Fragile なのに。
そういえばこの(Yes の1971年アルバムの)ジャケットも示唆的じゃないか。
昨日、例の 世良 Mick 市民会館 ビレッジホール に入る前に
風車が本棚みたいに並んで
風が可視化されてる姿にしばし見入ってしまったのです(アスナル金山というところらしい)
祭りの提灯にも見えるし
あれはなんだかわからないけど、なんだかいいな。
「千種」駅から歩いてしばらく。
「メルヘンハウス」という会社? 書店? にみとれてしばらく。
(昨年店を閉めてしまったようだ…)
ここは本日の舞台ではありません
住宅街の中にそのカフェはある。
BABI CHAN CAFE
ここが舞台です
無理やり、というかノリでイベントをやらせてもらったのだが
やってよかった。ほんと。
準備中の「大橋亭トリオ」師匠と店内
ベース&詩+うたの僕が一人でライヴをやるというのは
それ自体が無茶ぶりであり、そんなもんを観にわざわざ集まってきてくれた人々
そしてお店のお二人、スタッフ、さらに手助けしてくださったリチルのマダムには
いくら感謝しても足りません。
いろいろなことをさっ引いても、なかなか面白い試みができたと思う。
僕は音楽もしたいけど、おしゃべりもしたい。
人との会話では成り立たない話も、壇上という一方通行だから、逆に成り立つものもある。と思っている。
この日の模様は、抜粋して Vimeo にアップしてあります。
気が向いたら観てね。
2月は面白いイベントに参加します。
絵本作家/音楽家/詩人の Motomitsu Maehara、舞台俳優のみき、ベーシスト/詩人の Ray の三人による詩と身体表現と音のコラボレーション。浜松佐鳴台にある美容室 Nina by Babylone にて初公演。
2月17日(日)
19:00開場
19:30開演
料金:1500円(限定20名)
ご予約はこちらまで
cafetheeel@gmail.com(前原)
会場 Nina by Babylone
〒432-8021 静岡県浜松市中区佐鳴台1丁目13−10
出演
みき (Act)
Motomitsu Maehara (Poetry Reading / Piano)
Ray (Poetry Reading / Bass)
パリ在住、日本と往復して活動する moto 君とは久々の共演。DJ でもあり、近年は独創的な絵本やコラージュアート、Little Creatures のアルバムジャケットなどでも活躍する才能の塊です。みきさんは先日初めてお会いしたのですが、かっこよくて。
こういう組み合わせはしたことがないし、やりたいことを自由に持ち寄るので、どうなるか。お楽しみに。
先週、灼熱の京都。
丸太町、川縁のとある駐車場。どう見ても入り口には見えない脇道を入って、本の家を訪れる。
縁側のある日本家屋、ミシマ社の本屋さん。
智頭のパン屋さん、タルマーリーのご一行とお会いする、がてら、お邪魔した次第。
—-
ちょうど七日前には、スタジオへ向かう灼熱の自由が丘で
同社東京オフィスの脇を歩いていたから不思議(あとから地図みて気づく)。
—-
まるで盆におばあちゃん家に帰ったような感覚。背後を走る子供達。
三方の本棚には、ずっと読んでいたくなるような本がいっぱい。
ソウルからの賢人も交えて、ちゃぶ台で先駆的な話が行き交う中、
僕は頭がサーマルスロットリングして大半は処理しきれなかったのだが、
それぐらいでよかったのだと思う。
いい加減な頭で話に向かうのも、いい加減だ。
後からじわじわきつつ、
湯の中で(なぜ湯なのだ?)思ったこと。
—-
「1984」や「THX1138」や
「銀河鉄道999」のメガロポリス、或いは「ロラックスおじさん」で描かれた
超管理、超格差、超情報統制社会
これらを、超間近に感じるにつけ
この人達はよく予言したなぁ、と思うのだけど、
これって警告であると同時に、暗示でもあり、あるいは、プレゼンでさえあったかもしれない。
「こういう手があったか!」みたいな。そういう人たちにとっては。
だが人は、想像に、ひっぱられていく。
なんでも前例主義の社会だけど、
あまりにも想像の完成度が高ければ、それは「前例」にもなってしまう。
想像の前例主義、とでも言うのかな。そんなのがあるかもしれない。
もし、ディストピアにそれだけの力があるのならば、その逆も然りで、
今を生きる僕たちは、もしかしたら、数十年後のために、違うビジョンを見せるために
想像していくべき、なのかもしれない。何度絶望しても。
そして、この瞬間もそれをやっている人たちが、いるのだな、ということ。
自分がそうなれるかは、ちゃんちゃらわからないけれども、
それでも、あきらめとったらあかんな、とは思った。
そんな感じだ。
—-
旧友とも会い、彼の頼もしさも再認識す。
—-
いくつか、ここしばらくで面白かった本のご紹介。
ミシマ社さん。
『究極の文字を求めて』松樟太郎
久々に何度も吹き出した、めっちゃおもろい本。
下から上へ読むオガム文字、UFOキャッチャーの如きグルムキー文字、
クリクリしたオリヤー文字。
自分のサインもままならない僕だが
これを読んで文字ごと作ろうという邪念が生じた。
いや、心の風が吹いている。
『あわいの力』安田登
能の世界は僕には未知だ。が、舞台芸術であるから、通じる道は当然感じる。
「心に代わる何か」というテーマ(への期待)は大きすぎて、まだ拾いきれないのだが、
安田さんが能のワキ方として、笛の修行「自分の音が出るまで」に費やした期間の心得は、深く突き刺さる。
僕が自分の声を見つけるのはいつになることやら。
人生の終わりまでには身につけたいな。
いや、そんな時間の感覚は、無用なのか。
そしてクルミド出版さんの本。
『草原からの手紙』寺井暁子
この方の文はなんとも魅力的で
なんでもないようなことが潤ってる。
東アフリカ、マサイの居住区を、
マサイの指導者エゼキエル、スコットランド人冒険家の子孫ジョン、
オランダやマサイの人々とともに歩く旅。
明け方の情景と音の描写が素敵だ。
「10年後、ともに会いに」もそうだったが
装丁からスタンスから徹底していて、宝物感が半端ない。
詩集 flat five の実物大
というか実物が到着しました。
前作 river silver と並べて
表紙はだいぶ悩んだのですが、最初は全く同じデザインからスタートして
いろいろな変遷を経て…
結果、またしても突っ込みどころ満載の表紙ができあがりました。
写真では判りにくいものの、イメージどおりの色合いで印刷してもらえて満足。
リリースはもうすぐです。
販売方法などについては、順次 こちらのページ でお知らせいたします。
まずは、ライヴ会場にて。
サボってますねぇ、日記。
iroirona kotoga okotteiru 毎日なのですが
どうも 記してる場合か? と思ったりしているうちに
日がすぎていく。
自分はどうやら〇〇〇ではないな、と思ったり、
いや、それは全くの見当違い、と思ったり、相変わらず
運命に波の様に振り回される、またしても今年、ではある。
自分の思う様に、過ごせる時代って、いつ来るんだろう。
たぶん、気づかないうちが、一番、的確に生きてるんだろうな。
今年はそれでも、自分の好きなことを結構沢山やろうと思っていて、
詩集の第二弾は、うまくいけばもうすぐ、出来上がります。
タイトルは予告通り、flat five。
表紙のデザインができたところです。
ミニチュアを作って試したりして…
面白いものになると思いますので、ちょっとだけ楽しみにしててください。
完全に狂った世界に生きている、
あるいは、単にそれに気づかなかった、寒天の上を歩いていたのが
いつのまにか、寒天は喫水線を潜っていた、
というような。人間ってこんなんなんですかね?
これじゃ、人間よりはるかに地球の主な部分を生きている魚や、
土地の区画や売買なんてまるで関係ない、だがそれゆえに水に浮かび風に抗う毎日をリアルに送ってる水鳥にも、失礼ってもんじゃないかい?
ぐらいに、思う虚しさ。違うな。ぜんぜん虚しくない。僕らのやってることなんてそんなもの。
思えばずいぶん前から口ずさんでる、未だに口を離れてない唄が
いくつもある。
あぁ、これこれ。まさに今だよなぁ、という確信と共に、
タイミングを外すことに関しては(少なくとも)この日本中の誰よりも自信と自覚のある、僕には、もはや「今でしょ?」なんて誰の言葉も意味をなしていない毎日。
でも、最近思うのは、
どんなものも、いずれは離れていく、ということ。
あの release って言葉は、そういう意味なんだ、と思い、少し気が楽になっている。
I shall be released.
結局、頑張ろうにも赤色の水が、でたらめな指先ぐらいしか動かしてくれない。
もう口も開けられない。また明日かな。
明日は、昨日かな。
毎日毎日、昨日がくるのかな?
感動と笑いの(?)TRIO ERA 於 国際フォーラムが終了し
スーパースター HOTEI さんのオーラとお話にも深く感銘を受け
気温の低い銀座を超えると
そこは…なんだろう。
ふと我に還る。何度でもなんどでもかえって、もうそこは次の時代。
何かをバイパスし、何かを拾い集め、何かに灯ををともす。
冬越え。
やってくる冬と、それを超えた穴熊の嘶き。
もうあるかわからない田舎の沼のほとりの土筆を集める幼い自分。
来年の春が、よい春であるとよい。
愚かなあらそいと、ねじ曲がったはかいから、救われるとよい。
ともあれ、がんばって作品をつくります。
詩集はもう原稿出来ていて、次は50頁、27編の予定。
タイトルは “flat five”。
今であるけどそれは過去。
これを作った後、本当に未来に向かう。
付随する音楽は、どういう並びや形態でやるか、まだわからない。
だが、とてもミニマル、とてもメロウ、か細く、ざっくりした
僕的な音楽の原型になると思います。
来年以降、僕がどんな人になるかは、わからない。
しをかくひとなのか、きょくをかくひとなのか、
でんぱにでるひとなのか、げんこうをかくひとなのか、
えんそうするひとなのか、うたうひとなのか、
あるいはそのどれもであり、どれともちがうのか。
でも、
みんな、そうだよ、な。
+-0+-0+-0+-0+-0+-
ずるいけど、そういうことに、しておきます。
シャママ、という言葉が独歩している、らしい。
局地的な現象ではあるが、見過ごすことはできないのでここに記す。
–誕生–
この、シシャモとマシュマロとママス&パパス、のような「シャママ」は
5月に某…大橋トリオ名古屋公演にて、
(直前の金沢での五七五が長かったらしく)
「MCを短くせよ」とタイムキーパーから要請を受けた事に対する、
僕の心の呻きであった。
…Then tonight I’m gonna SHUT MY MOUTH…
心の呻き…ちがウな、心の自動操縦…心の3Dプリント、
あるいは「ひとうちななつ」の巨人エピソード、
仕立屋が「岩」と称して絞ったチーズ…それが近いのか…
当時、世界のどっかで、日本の役人が人権的な質疑の最中に
“shut up” と言い放ったことへの、ガンジー的なアレも入ってるかな…
要するに、喋りません、というのを
ジャパニーズイングリッシュで言い換えたのである。
それが「シャママ」の誕生。そしてシャットアウトするはずだった。
–蒲生の薬売り–
ところがその後「シャママ」は、ジワジワと界隈でキているらしく、
最近では僕が某薬局で見つけて愛用している
「おやすみテープ」の変名となっている。
口を開けて寝る人向けに、強制的に口をふさぐ、絶妙な粘着力のテープである。
口を開けて寝るとロクなことがない。喉は渇くし風邪はひきやすくなるし
他にもいびきとか色々あるらしい。
数年前だったか、別の仕事でツアーメンバーの誰かと誰かが
「小さいころは親から口にテープをされた(されそうになった)」「うそでしょ」
と会話しているのを耳にして、んなアホな、と思いつつ気になっていたのだが…
そんなものが商品化されているのを見ると、いよいよ世界もヤバいのではないかと思う。
両方の意味で。
–ishutmouthiusefingers-
シャママの説明をするのに言葉は要らないはずが
実際は逆であることを指が証明しつづけている。
–おだやかなねむり–
シャママテープ、をすると、笑える顔になる。
誰がやっても笑えるはずである。
だが、今夜はもう、食うものか飲むものか、喋るものか、と決意して眠りに臨むのも
悪くないものである。
–電話とよこく–
それはシャママを貼り、横になったまさに直後だった。
jkから着信があった。思わずとった僕は、モゴモゴと喋り出した。
なんでも「生で詩を聞きたい」とのことである。
背後にはwcとcpとotの気配がある。
「オレ、テープしてるよ」
すかさずFacetimeを強要され、僕は断乎として拒否した。
連中には何をされるかわからない。笑える顔をストック、あるいは晒す可能性が十分にある。
恐ろしい世の中である。
しかし詩の朗読には応じた僕は、眠気の中、口の右端左端だけを腹話術のように使って
「よこくの太陽」をモゴモゴ詠んだのである。
–遠隔操作–
その電話朗読は録音され、ライヴイベント会場で流された。即興演奏付きで。
僕はそれを後から知った。
さらに近畿では、「シャママテープ」が景品としてプレゼントもされたという。
–さいごに–
シャママは、モゴモゴ詩を詠むためのものではない。
受け取った方が、これだけをわかってくだされば、
僕としては安心して、また眠りにつけるのである。
おかげさまで近藤零詩集 river silver は第二版完売いたしました。
厚く御礼申し上げます。
2017年の大橋トリオツアーサポートも終盤にかかった6月、KJ氏との会話にて「二週間後に詩集を出す」という思いつきで始めたのがこの計画です。
一週間後に漸く本気になり、これまで集めた詩を選考、レイアウトしたり印刷に出したりの突貫工事でしたが、実際に形になるとそれは嬉しいものでした。
ライヴ会場や郵送販売にて皆さんのところに旅立った詩集、いかがでしたでしょうか。
上下前後左右斜め異次元、自由な解釈にて楽しんでいただければ、嬉しいです。
また連絡や納期など、不慣れなことで何かとご不便もおかけしたかと思います。この反省は今後に生かして参りますので、何卒ご容赦いただければ幸いです。
重版の可能性については検討しつつ、次の創作に入っています。
音楽アルバムになるか、詩集、音楽読本など形態は未定ですが
どうかのんびりおまちください。
関わってくださった全ての人に感謝を込めて
2017.10.9
stillbeat books
Ray Kondo