カテゴリー: book

おうどうとほこり

世界は王国だけじゃない

王様がいる世界なんてお伽噺だけのこと
…でもないけれども

少なくともこの国には王様はいない
いや、随分長いこと、日本に「王」は居なかった気がするのだが
額田王とか、そういう

ちがうか
しかしなんで、日本語を話すぼくらでもこれほど「王」という言葉が身近なのだ

世界は王を求めているのだろうか?

宮崎駿の「風立ちぬ」はまだ観ていないけれども
彼の作品は大人になって、いろいろな見方が出来ると判ってから
好きになった

子供の頃は「カリオストロの城」ぐらいしかピンと来なかった
「風の谷のナウシカ」は惹かれたけれども意味が分からなかった
他は、画がかわいすぎたのか、ヒットしすぎてたのか、敬遠した

今では、原画スタッフで関わった「空飛ぶゆうれい船」から
「未来少年コナン」からルパンの「死の翼アルバトロス」にしても
「ハウルの動く城」にしてもとても深いものだとわかるけれども(遅いか)

しかし中でも一番強烈なのが漫画版の「ナウシカ」で
この後半部の展開は現在露わになりつつある実世界の枠組みに
恐ろしいほどに迫っていると思う

そこでは幾人かの「王」が登場する

森の人の王、エフタルの王、トルメキアの王、土鬼の王
そして蟲の王

無垢を意味する巨神兵の「オーマ」も(「オーム」との類音だけでなしに)
王を想起させる

まぁ、なんで宮崎作品では重要な配役がことごとく王子や王女ばかりなのかと
そういう疑問もあるのだ
民衆の殆どは、王家ではないのに… なんして、これで支持を集めてるの? ってやつだ

おれらって、届かない権力者に憧れて、結局支持するの?
みたいな

ともあれ
彼ら、彼女らは「誇り高い」とされる

「誇り高き」「気高き」という形容詞が、たとえ争う敵同士であっても共振させ
結びつけるという鍵にはなっているようだ

ふぅん

たぶん
それには同意なので
無理矢理理由の一つを掘り出せば

おれらって、自分の王であるべきなんだよな
現実の身分に関わらず
…ってことなんかな

与えられた生を最大限に全うする
それって多分、自分に対する王道なんだろうな
と思う

社会的には「誇り」って何かという大きなトラップがあって
だったら軍事力を増強すればいいのか、だったら周りをサゲればいいのか
カネ撒いて嘘をついて目隠しイベント呼べばいいのかとなりがちだけれども

ボロボロの中でも誇りを持つ
時にはボロをさらけ出すことが
実は誇りなんじゃないかなと

そんなこと思う
2013のあきである

閑をもつこと

第一次大戦時のイギリス外相/鳥類学者 エドワード・グレイによる、人間が幸福であるための四つの条件

第一、〜
第二、〜
第三、〜
第四、閑を持つ事。

「閑」とは「暇」のこと。原文ではなんなのか、まだわからないが

太平洋戦争への point of no return(引き返せない地点)であったヒトラー、ムッソリーニとの三国同盟を日本が結んだ時、数少ない反対派であった、米内光政の断片語録

「バスに乗り遅れるなというが、故障しそうなバスには乗り遅れた方がよろしい」

…当時の流行語が「バスに乗り遅れるな」

同じ言葉がここ数年流れていたよ。TPPのために。

昭和14年9月、ロンドンから帰国した海軍少佐、出本鹿之助は神戸港で新聞記者に取り囲まれ、欧州戦争の成り行きの意見を求められてこう言う。

「今のところドイツが優勢だけど、やがてイギリスの底力がものを言い出す。〜 戦争が三年、四年と長引くようだと、ドイツの力が尽きて英国の勝利に終わるのではないだろうか」

この言葉はその日の神戸新聞夕刊によりセンセーショナルに取り上げられ、彼は見送りに来た旧友にこう告げられたという。

「でえやん。あんた新聞記者にえらいこと言うたなあ」
「今の日本で、ヒトラーの悪口言うたり、ドイツの勝利を疑うようなことを言うたら身が危ないんやで。注意せなあかんがな」

ギリシャの歴史家、ポリュピオスによると

物事が宙ぶらりんの状態で延々と続くのが人の魂をいちばん参らせる。
その状態がどっちかへ決した時、人は大変な気持ちよさを味わうのだが、もしそれが国の指導者に伝染すると、その国は存亡の危機に瀕する。

カルタゴはローマの挑発に耐えかねて暴発し、亡びた。

そうである。

以上、阿川弘之「大人の見識」を読んでの備忘録。なかなかヒントに溢れている。

London Calling

ドレのロンドン巡礼 天才画家が描いた世紀末 / 谷口 江里也

読むのに10日かかった。すごく勉強になる本。

「都市」や「経済」や「文化」ってなんなのか、今ぼくらが見直した方がいいことが詰まっている。

ギュスターヴ・ドレが1872に出した版画集 “London: A Pilgrimage” に、谷口江里也さんが2010年代ならではの文章を加えたもの(オリジナルはジャーナリストのブランチャード・ジェロルドによる文章)。

何でもこの本は当時、一般には売れたものの、評論家の物議を醸したらしい。それは、写真よりも緻密なこの版画集がロンドンの「光」だけでなく「影」をもくっきりと描き出していたから。

ということはつまり、当時の「御用メディア」の枠組みを超えていたということ。

人々が眠りについたロンドンの街に、明日のためにまた大量の物資が運び込まれる。すでにそうして回っている以上、誰もそれについては考えない。考えようもない。なにしろ市場が開くまでに決められた量を運び入れなければならないのだ。近代において大都市は、こうして眠らない街になった。 (第十八章 市場 p.238)

人も動物も、眠った方がいいよね。地球だって半分は常に眠ってる。
だが眠らない巨大な街は600万もの人々を飲み込み、増殖を続けた。

散財と社交に明け暮れる王侯貴族と、労働者、花売り娘、ホームレスが隣り合わせの「元祖・超格差社会」。
後のビートルズやダイアナ、キャサリンフィーバーの源流ともいえる、レガッタやダービーへの熱狂。トップハットは昨日の貴族から今日のホームレスまで、階級の空を超えて行く。

ある価値観で一刀両断しているわけではないし、すらすらとは読めないけれど、それだけに深い。

最後の画「ニュージーランダー」とその意味には、戦慄を憶える。

絆と縁と、風と材木と

「脱グローバル論」を寝る前に読み終える。

内田さんの論はだいたい既読だが(自分で売る本の内容をブログに前もって記載してなおかつ買わせるって凄いよね)

中島岳志さんの話に背筋が寒くなるぐらい同意を覚えた。

昭和維新の話、2008年の秋葉原事件直前に、後の犯人が福井のアーミーショップでの店員のやり取りに「店員さんいい人だった…人間と話すのっていいね」と感動していたという話、

そして地域社会の「ボンディング」と「ブリッジング」の話。

ほっといてくれるということと、声をかけてくれるということって、実はメビウスの輪でつながってる。

汚すことのできない次元

出会いの輝き 今道友信

哲学者・詩人の今道さんがその生涯で出会ったさまざまな人や本との、「思い出」の記録。
時間はかかるものの、じんとしながら読んでいる。
(どうして敢えて「思い出」なのかは、冒頭に記されている)

モロッコ行きの客船の「底」で出会った、もの言わぬ日本人兵士。絵描きを諦め、フランス外人部隊に入隊したが一言も話さないため、上官から危険人物として排除される直前だった彼は、日本にいる母への手紙を託けて戦地に赴いた。少しは喋る、と約束して。
その翌年に理由あって今道氏は再び一人でモロッコに向かう。サソリが巣食う砂漠の夜に付き添いの現地人は何をしてくれたか。

もう50年以上前のお話ながら、なんという臨場感。

正反対の方言に悩みながら、友や師と夢を語った山形、土佐での中学時代。
東京の成城学園に戻り、思想調査で退学となったあとの旧制一高(東大教養学部)生活。

戦時中、国家統制を強めた政府に対する教師たちのことばが突き刺さる。

軍隊で将校になりたい人は飛び出していきたまえ。死ぬ前に一行でもこのシェークスピアを読みつづけたいと思う人は読み終わるまで残りたまえ。 — 授業の最中に防空演習のサイレンが鳴ったとき、英語の「峰尾都治先生」

今日は皆さんにお別れを言わなければなりません。私はあさって、三等水兵として海軍に入隊しなければなりません。世界は乱れています。しかし、知性の勝つ日はやがてくるでしょう。皆さんはどんな状況にあっても、そう信じて、文化の道を歩んでください。 — 西洋史の「林健太郎先生」

そして。

人間は理性的動物だと言うけれど、詩を創る存在だと言われるほうがぼくはうれしい。詩の世界に生きることは、この戦争の世の中でも汚すことのできない次元を見つけることです。どうして同じ言語が人を殺害する行動や命令や煽動に使われ、そのことを誇りにする人間が多いのか、僕にはわからない。 — ドイツ語の「片山敏彦先生」

ぼくは東大卒ではないし、真面目に勉強しても、入れなかっただろうけれども、
こういう人たちの課外授業を、50年越しで受けてみたいと思う近頃。

* ご存知の方は多いとも思われるが、この方は僕が敬愛するギタリスト・作詞作曲家のいまみちともたかさんのお父さんです。

マドノマド

酒に酔っているとわからないことが、素面で酔っぱらいを守る側になるとわかる
「こいつら、アブね〜」
そんな土曜日

とにかく咀嚼しようと平さんの著書『なぜ少数派に政治が〜』を読んでいる。
原発については完全同意。税制、生活保護などについて、正直不可思議な部分もあるが、いいなーと思ったこと。

「伝統工芸の保護」
衰退しまくっている日本各地の伝統工芸を守りたいと思う人々は、(この本の主題である、多数派にみせかけた)少数派ではなく、実際の多数派だろう。
だが、ここで伝統的工芸を守るために何がやられているかという話。

経産省が認定する伝統的工芸の産地は全国に200あるらしい。
産地ではまず「事務局」ができる。「〜協会」とか言うやつ。そこがお上とのパイプになる。
で、その事務局が何をやるかというと、パンフを作成したり、展示会をやったり、雇用調整をしたり。
ところが、経産省がやる支援とは、この事務局を窓口として支援することであるため、
事務局はその存続、または経費維持を第一に考えてしまう。

本来の目的は「技能」「職人」「産業」の継承であるのに、事務局だけが立派になる。
あるいは事務局だけがなんとかやっている。
そりゃ、立派なパンフを見れば、おおやってんな〜、みたいな印象は残る。
遠く離れた都市の駅構内で展示会をやったり、地元の駅前に「〜産業館」があったらそれは励みになるかもしれん。
でも実際の職人が殆どおらず、ろくな賃金も貰ってなければ、意味ないやん、て話。

だから補助金の多くを、職人を直接支援することに組み変えていくべきではないかと思う。事務局を維持する前に、まず技能の担い手を育成するのが先だ。その結果、その産地の工芸品が売れて、事務局への上納金が増えて、事務局が維持されるという回転でなければならないはずだ。 (p.82)

これ、確かにそうやわな。
で、その方法論の一つとして言っているのが、
産地ごとに2〜3人ずつ、2年交代ぐらいで国家公務員にし、彼ら、彼女らを伝道師として若手を指導してもらう。その間は自分の仕事ができないので(ここ重要)、国として雇う。

まぁ、事務局の中にこういう仕組みが出来ていればそれでよさそうな気もするし、上納金って何? てすっとばす人もいそうだし、何より、誰がその2〜3人になるかで利権争いが起きそうだが、
とりあえず事務局の財政支援、というやり方では遠すぎるでしょ、という話。すごく面白いというか、ビジョンが湧いてくる。

そうすりゃ、実際の現場に近い人々が、国にもっと関われるわけでもあるしね。

ほんと、そうやって物事をばらして行けば、どこにでも政治はあるし、
誰もが本来やってることでもあるんだな。

ここで三宅洋平の言うことともつながってくる。

背景は遠ざかりゆけど

眠れないので久しぶりに大好きなギタリストの日記を見ていたら、エネルギー。

今日は渋谷で3軒回っても「脱グローバル論」も
「なぜ少数派に政治が動かされるのか?」も見つからなかったけど

「チェロを弾く象」で、気持ちよく眠れそうだ。

巡礼の年?

村上春樹はずっと好きなんだけど
今回のはびっくりするぐらい、後味が残らなかったなぁ…

(極力バイアスをかけないため、他人の意見は一切読まないうちに記している)

色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年

IQ84は3部とも好きで(特に3が好きだった)
特に牛川と青豆と、千葉県佐倉市に感情移入するぐらいだったのだが
今回ははぁ、という印象。
だからといって、分かりやすい文だから、読み返すかどうかはわからず。

途中の、ピアニスト緑川の告白の下りはぞくっと来たのだが。

「名古屋」「浜松」という場所に対する視点に、特別深いものを感じられなかったことと
(311以降にも関わらず?)
主人公たちが結ばれる場面が後半のいいところに設定されていなかったこと、
すなわち冒頭ですでに完性されちゃってたこと、

まぁ、たぶんそういう要素なんだと思う。
「ハードボイルド・ワンダーランド」型が好きやな、と改めておもう。

でも、緑川と「シロ」のピアニストとしての関連について探ると面白いかな、とか
青海「おうみ」をもっと知るといいかな、とか
やっぱりいろんな「符号」はある。

内田樹さんが良く書いてるように作品の中に「倍音」を形成するための要素、

僕の解釈でいえば月がそうであるように「誰のものでもないくせに、誰のものとも思わせる」要素、
そういうものは、最初から散りばめられてる。

たとえば僕については、「おうみ」もそう。

だけどな。
ま、いいか。

[追記]
あのあと、読み返すことはないけど、
脳内再読して、染みてくるところはある。

自分の蓑の中での眠りからようやく醒めたら、より厳しい現実も見ることになる。
…覚醒を促してくれた本人がそれを与えるわけだから、シビアよな。

エンターテインメントというより、リアリスティック。

ことばとさんぷりんぐ

先日からのバリー・サンダースの本と
その前の王羲之の話と
みのまわりを
照らし合わせて
考え直しをせねばならぬ

デジタルは すべて計算機による変換を要するから アナログやアコースティックから遠い
ということを書きとめたあと

口語、口承のみによる言葉と
文字による言葉(識字のはじまり)を考えると
ある意味、文字=デジタル信号なんだと気づいてしまった。

いや、さらに遡れば、音声による言語もデジタル記号の一種なのかもしれない

文字を読み、それを連結し、意味の通る言葉として再生するまでには
頭の中でかなりの計算がなされている。

この速度を限りなく速くして、レイテンシーを感じないレベルまで上げたところで
識字社会が成立している、

アナログやアコースティックも振幅からの変換を要するけれども
それ自体に複数の意味をパッケージし、現実とパラレルに進行する文字や音節っていったい。

やっぱサンプリングソースなのかなぁ。

敗北感。

ただし。デジタル信号はバラバラにぶったぎったon or offからの再構成であるから
文字はそれより遥かに複雑な計算を要している。
あるいは語感が意味を先行することがある。

人間に理解しやすい言語はマシンに理解しにくい。
マシンに理解しやすい言語は人間に理解しにくい。

ここに救いがあるのかな

機械と張り合ってもしょうがないねんけど。

で、こないだの王羲之の文字を輪郭を取りながら徹底再現試みてた人は、
端的に言えばフォントを作ってたんだろうね。

それ自体に「美学」を感じるサンプル素材を。

「素材」って言葉、僕は嫌いなんだけど、

料理の素材。建築の素材。紙質。テクスチャ。

すでに付き合ってるってこと、理解しなきゃいけない。

人がみんな、フォントを選ぶように、フォントと戦うように、
ループやインストゥルメントを選んでる。

選び取ることの繰り返しで、もっと重なり合う美学。

そりゃぁ、そうかもしれない。

でも、「選び取れない」要素が重なり合うこと。

これこそが、僕らを前に進めてくれると、やっぱり思うけどな。

だって、理解できる事しかこの世になければ、明日を生きる希望も何もない。

リアリティは膠のように粘り強くよみがえる

本が死ぬところ
暴力が生まれる

A is for ox

バリー・サンダース
杉本卓 – 訳

すごく面白い本。

読み出したばかりだけど、邦題に限定されないテーマで
訳もとても素敵だ。

今は、「本」以前の「口承」のお話。

文字を発明する前に、人の脳は、ことばのグルーヴを発明した

そして、著作権という概念が生まれるはるか以前、人はグルーヴにのって、物語を共有していた

というような内容。

めぐりめぐって、今、人は「共有」にやっきになってる。

これって、先祖帰りなのかもしれないね。

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