カテゴリー: libre

rebmevon

出会いと別れの11月。

思いのほかに

ずっしりくる、時間だった。

正直、この一ヶ月で一年は巡った気がしている。

novembertrain1

これもまた、とても大事な時間なのです。

アンテナ・アンテナ・アンテナ

生を受けたこの世界に、昨今この情勢、警戒を抱いてはいるが

それでも自分自身はポジティブである。

やれることをやる、しかないのだ。

- 音楽を人と共有できればそれが一番だ -
- 鳴り止まないことが大切だ -

そういう人たちの意思もわかる。それが完全に解決策とも思わない。
(音楽そのものを否定する人がいる限り。そして、その気持ちも決してありえなくはない限り)

が、自分はやれることを、磨くのだ。

何しろ、僕自身、昔は音楽がすべてではなかった。
かなり小さな頃から音楽と共に生きてはいたが、
それでも自我に目覚めた頃から中学のある時期までは、
音楽以外のことの方が心を大半を占めていた。
自分が何かに没頭できるなら、無音でも、よかったのだ。

それがあるとき、FMから流れたポップスにスライドしたけれども

その頃は、まさか自分がライヴをしたり、ジャズをやったり、
自分が受け付けなかったロケンロールやフォークを
好きになるとも、これっぽっちも思ってもいなかった。

人は、変わるのだ。

だから、人には、いろいろな可能性がある。

音楽を、また様々な国の文化を好きになり、
日本のことばも好きであり続け、
楽器を続けている以上、これからも探り、少しでも自分がいい「  」になれるようにと思う。

折に触れて、人に言われたことが人生の楔にもなり、傷にもなりつつも
それを溶かし、乗り越えることが
できると思っている。

ひねくれた僕はたとえ音楽でも「分かち合いましょう」なんて言えないが
それでも、そこにいる人たちと、何かを感じることができると思っている。
よい「」であれば。

人の役割のひとつは、アンテナ - 触媒だから。

サルビルサ

パリでの事件

3日以上たっても、言葉にならない。

こういうとき報道は迅速に、とか、日本のマスコミはどうしてこんなに遅いのだ、とか
その一方で、さっさと空爆を決め込み実行してしまうフランス政府って、なんなんだ? とか

音楽の会場で起こったことでも、あり
そもそも音楽を全く禁じ、標的としての人種識別としてしか利用しないひとびとがいる、という
それだけでも絶望させる世界観

13日の金曜日の出来事であり
キリスト教国に対する敵意としては出来すぎている感あり
(自分はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、到底実感はし得ない、想像でしかない)

さらにはオスマン・トルコ陥落の日から97年目でもあるという。*

無差別な悪意は価値観をどこまでも破壊してしまう。または
価値観がどこまでも破壊された結果の無差別な悪意。
対話を完全に拒絶したレベルの状態
信じるものが根本的に異なる
それは「戦い」を見事に正当化してしまう。

突如として命を絶たれた人々、その周囲の人々、「街」に対していくら哀悼しても足りぬ思いと
その加害者はいったい誰なのか、という果てしない疑惑

既にここ10数年で明らかになったように、テロ(と呼ばれる無差別犯罪)は軍事力では抑えることはできない。
戦場ではなく、はっきりとした敵味方さえ存在しない混沌の中で起こる「テロリズム」。
混沌こそが、ごく普通の人間の暮らし。

それを壊す理由が、果てしなく拡大再生産される、それが「対テロ戦争」。

何も学ばず、互いに盲目になる指導者たち。
莫大な特需を受ける軍事産業。「敵」も「味方」もお客さん。
それが無限の「成長分野」だとでも思っている?

犠牲になるのは、いつも一般の人々。

なら、兵士なら犠牲になってもいいのか?
代々兵士の家もあれば、志願した人、経済上その他の理由でやむなく入隊した人もいるだろう。
自爆した人も、自爆攻撃を正当化され、叩き込まれた若者たちだろう。

三色旗をアイコンに重ねる人、それを咎める人。
分断や煽動に踊らされるまいと、何も言えなくなる人。

まともに考え出せば、果てしない矛盾と迷路。

揚げ足を取りあう人々を上から眺めて
声の大きな者が、待ってましたと勇ましく語る。
戦いを美化するために、ここぞと腕をふるう広報。

武器を取る者。いや、気づけば武器を取り、操縦席にいる者。

その先は、地獄。

どの言語であっても、それに値するもの。

ひとつ、いい絵本を紹介したい。

スズキコージ「サルビルサ」

出版社へのリンクが見つからなかったので、探してみてください。

ひとつの大きな答えが、そこにあるから。


* 第一次大戦後の英仏伊によるイスタンブール占領。1918/11/13 ~ 1923/9/23

born in november

11月生まれの音楽仲間がなぜか多いのです。

ご無沙汰の人も、遠くにいる人も
またよい一年を、重ねられますように。


Rastko Rasic (dr)


Hiromi Tsuchiya (vo)

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Old Tree, Blues, and Summertime
Madoki Yamasaki (vo, gt)
Kaze ni sasowarete
Maïa Barouh (vo)

アフロ、福ちゃん、種さん、はせさん、はるかちゃん、文吾どん、十夢くん
…数えきれません…

あれっ

ちょっとなんというか

控えめなウェブログが続いたのですが

それぞれに意味があって

というか、ひとつの控えめなメモにはもうひとつの深い何かがくっついていたことに

ようやく気づいている11月。

月はやっぱり、ふたつあるんだろうか?

この「月」に、一がふたつ、あるように。

ちょっとまてよ

いちがふたつ?

そう、これは誰にたいする文でもなく、

君だけにたいするものなんだ。

スリップ&スライド、アウェイ

リハーサルの合間

さるエンジニアさんが

「遠征先のホテルでラーメンを食べようとしたその瞬間、箸がないことに気づいた」

その試練の顛末を知らせてくれた。

これはわかる。すごくよくわかる。

僕はその昔、学校の水道と照りつける初秋の日光とで焼きそばUFOを温めて食ったことがあるが

サバイバルはいつだって人間の基本だ。

彼は「コメント用のペンと引き出しの鉛筆を巧みに使って、ラーメンを食した」そうである。

インクや黒鉛がラウメンに染み出さなかったことを願うしかない。

また、ある言葉の巨匠さんは、「私は、歯ブラシを使って食べたよ」との驚くべき証言をくれた。

歯ブラシか…歯ブラシが二本、備わっていたのか…?

いや、もしおいらがその境遇なら、間違いなくその歯ブラシを使っただろう。

そして、「モノを食べながら、同時に歯を磨く」…という超現実を叶える時間の剃刀に、

slip, slidin’ awayという、ポール・サイモンばりの詩情をうかべたに、ちがいない。

まず、間違いない。おわり。

おもいでとてんしゃとおんがく

おんがくって
ききてがあってはじめて
せいりつするように

ひとって
ふれあったひとがいてはじめて
そのひとのなかでいきつづける
いまでもそこに
いるかのように

てんしゃ
かもしれない
こころやそんざい
すべて
あるいはいちぶ

ほんなら
おんがくってのも
おもいでなんやな
あるいは

ひとみたいに
おなじように

じゅうがつ

9月が過ぎると急に何かが変わった気になっている
毎年 11月までのこの期間には何があるのだろう
これまで冷静に考えたこともなかった

ハロフィンや秋祭りや冬支度や
なにやら もろもろ せわしい
季節が 透明な夜に 向かってる

あたたかい はずの 透明な夜

参加音源がいくつか出たり
冬に一仕事あったり
一服ではあるが
また腕を磨かねばならぬ

これを機に
自分の中の予想外に対峙できるよう
ギターでも上手くなりないな、と
おもうこの頃です。

自由について

何度か書いていることではあるが

「自由」
この言葉は魔法だ
それ故にとてもおそろしい

世の中には多くの人がいて
多くの境遇がある

それぞれに「自由」の意味は異なる

たとえば
強者は強者であり続けるため、自由に力を行使できる事を望む
弱者は束縛から逃れるため、自由を求める

それらを実現するため、やる事は全く逆なのだが
同じ「自由」をピボットにすると、みんな逆を向いていることにすら気づかない
おそらく、それぞれの自由は逆回転をするプロペラのように並んでバランスをとっている
羽根が触れないかぎり

普段 これらは交わっていないようだが
もちろん いつまでも交わらないわけではない

片方の自由を守るためには、片方の「規制」が必要になる
さもないと片方の自由は蹂躙される
ところがそこには何ともいえない、心地悪さがある
「規制」だと…?
目を背けたくなる、打ち壊したくなる
それは、自由の敵だろ!?
「規制緩和」という言葉は、こうやって承認されていく

「上」にいるものの自由と、そうでないものの自由は、意味が違う
よって、権力者が「自由」を看板にするとき、
ステートメントを出すとき、
一度、真逆の回転で翻訳しないといけない

『従来の枠内では報道の自由など基本的な制約が多いため』新しい国営放送の創設を検討

実際に半年以上前に流れたニュース
ここには、すべてが表れている

だが、これでも難解ならば、こう推論するしかない
タイプするのもおぞましいが、こう考えている人々がいませんか?

『我々には、戦争をする自由がある』

自由という言葉は、魔法であり、偉大であり、それ故にとても恐ろしい。

たぶん「自由」に変わることばが必要なんじゃないか、
そんな気がしてる。

或は、自由をちゃんと動かすための
言葉が要るのかな
「規制」以外の。

ひろしまのさんぽ1

修学旅行以来の 平和記念公園
引率された子供のころとは 違うのかな

平和大橋 にさしかかったあたりから
既視感 いつかの京都? 鴨川と似てなくもないような

広がる穏やかな景色に 心が吹かれ
視界を右にパン 原爆ドームが佇んでいる

橋を渡り終え 記念公園の入り口を斜めに歩いて行く
タクシーが群れる正面を入る気になれない
斜めに歩く
それだけでじわじわと来てしまう

この空気ってなんだろう

好天 気持ちのよい風 優しい木々 あまり見た事のない葉や幹のかたりくち

あまりに残酷な記録と同居する 緑と白のモニュメント

およそ60年間 じっと語り続けてたんだね

ヨーロッパからだろうか 多くの人々

二人組に声かけられ 話し込む

日本語でもいいですよ と言われるが
日本語でも難しい内容だからと 拙い英語

まとまらないことでも 話すことによって整理されてくることがある

驚くほど冷静に 物事を見ている人々がいる
そりゃそうだ 今じゃこの世に72億人も人がいる
それぞれが 視点をもっている

同時に
それだけ人が多いから その人々を誘導しあっている
誘導がいいことだとも思われているから 広告があり メディアがある
ビッグデータさえ

また

ながれていくメディアがある一方で ながれずとも消えずに
しっかりと留まっている活字もある
鶴たちの そばで

あまりの内容に 知っていたような気はしながらも 圧倒される

涙がとまらない

仕事場に戻っても ふとした折に涙がとまらない

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