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おやすみ、ありーさ。

Aretha Franklin
1942.3.25 – 2018.8.16

誰がなんと言おうと、世界最高のシンガーだった。
というか、僕が言うまでもない。のだが。

初めて聴いたのはいつだろう。たぶん子供の頃から、何かしら聴いていたのだろうが
アトランティックの名曲をちゃんと聴いたのは、昔のバンド仲間のレコードからだと思う。

「ソウルミュージック」というと、何やらコテコテのイメージを持っていたけれども
(当時の僕は Otis や Sam Cooke を聴き始めて、熱いけどビートが全部一緒やん? と、ごつい偏見を形成していた頃だった)

Aretha は歌もサウンドもとてつもなく涼しげだった。

それでいて、炎よりも熱かった。

コーラスアレンジやバンドサウンド含めて、洗練されてた、んだろうな。やっぱり。

あとは、結局、男だから女性の声に、より惹かれるものがあったんだろうな。

でも女性シンガーといっても彼女は完全に別格で、完全に誰とも違う声とビートと、世界を成していた。

と、思う。極東のイエローに何がわかる、と言われても、それぐらいはわかった。

渡米してももちろん Aretha は別格で、向こうの乾いた空気や人々の足音の行間というか、空気を味わってる感じと、
とにかく歌も演奏も倍音が出まくってる人々のフィールや、時代なんて全く関係なくいい音楽をガンガンかける街の呼吸と相まって、彼女が余計に好きになっていた。

実際に観れたのは一度だけかな…リンカーンセンターだったか。

帰国して最初にやってたグループのおかげで、違うところで Aretha が好きになった。

なにしろそのシンガーは、え、小さいけどありーさ? っていうアルファ波を出せる人だった。
ライヴで聴いてた人はわかると思うけど。
いい形に残せなくてごめんねぇ。

何曲か、カバーをやった。

幸せだったなぁ。いっしょにライヴしてると、Aretha の曲やアレンジや、歌の素晴らしさが
ベースと身体で増幅される。

もちろんレコード聴いていても幸せなんだけど、音楽って、やると余計楽しいなぁ、と
よけいに思う時だった。

ともあれ。

自分がどう感じようが、Aretha Franklin は揺るぎない。

あるいは、誰がどう感じようと、それは自由だ。いくらでも、いっしょに揺れてくれる。

本当に残る音楽って、そうなんじゃないかな、と思う。

お盆周辺

旧友と長電話したり、この時期は何かがある。

あの暑かった夏も、色々あったっけ。
ドラムばっか叩いてたなぁ。Stones の Black and Blue と Lou Reed の Transformer ばっか聴いてたなぁ。
赤いストラトかき鳴らして Television 歌ってたなぁ。
同時代の音楽はずっと、全然聴いてなかったけど、斎藤和義さんには少し憧れたっけ。
京都での話。

今年も、今シーズンも後半に入った。
SNS全盛の今、ウェブサイトというものの意義を常に考えてしまう。
「サイトなどあまり人は見ない」という認識をしている。
あんまりがんばってもしようがない、多分に自己満足なものだと思う。

だが僕はSNSが相変わらず、胡散臭いものだと感じているし、
いくらサイトが遅れたメディアだとしても、こちらの方が愛着を感じる。
今後の計画などは、最早バラして行こうと思う。RRM、Ray Road Map ってやつだ。

計画はあくまで計画で、完成予想図の通りにならなくてもそれはそういうものだし
だいたいこの世界が平和でいてくれるか、わからない。いてほしいと切に願うけれども。
切に切に切に、さ。

今年中に、何度かソロライヴをやりたい、と思う。
プレーヤーとしてではない。

ただ基本一人を考えているので、鍵盤楽器を弾けない僕はどうしてものか。
楽器の持ち替え含め、練らなければならぬ。

東京、愛知、浜松、京都、大阪あたり
それぞれ、とても小さい場所でできればいいのだけれども。
あくまで計画です。声だけかけてる方々、なかなか進まなくて、すんません。

ルーパー使えばいいのか、何も使わず、空白ありまくりがオレっぽくていいのか。
もう少し、空想してみよう。

音源としては、お知らせしているように

9.9 に river silver [side b] をリリースしたく準備中。6割ぐらいはできたけれども間に合うかどうか。
誰もそうしろと言ってないんですけどね。

また、11月ごろに flat five tapes を出していければ理想。といってもこちらは、1枚にするか2枚に分けるか、いくつかボツ曲を作るか、わからない。11月は忙しいし、結局来年初頭になるかもしれない。

stillbeat としての活動も始めたく(というかずっと、そうだ)、インストになるか、より電気的になるか、コラボも交えるかわからないけど。

南米の人たちに憧れる。ラテンミュージックを好きになるのに、僕は人よりだいぶ時間がかかった。
あんな風に人生と音楽を共にできればいいな。

サウダージもブルーズも、僕の中に入ってる - なんて恥ずかしいこと一生言えないけども、
そんなの考えずに、無心にやってけば、もしかしたら欠片ぐらいは身につくかな。

わたしゃ触媒ですからね。何も気づかない、きずつかない、ただふるえて時に何かをにじませる。

こだいもじ

先週、灼熱の京都。
丸太町、川縁のとある駐車場。どう見ても入り口には見えない脇道を入って、本の家を訪れる。

縁側のある日本家屋、ミシマ社の本屋さん。

智頭のパン屋さん、タルマーリーのご一行とお会いする、がてら、お邪魔した次第。

—-

ちょうど七日前には、スタジオへ向かう灼熱の自由が丘で
同社東京オフィスの脇を歩いていたから不思議(あとから地図みて気づく)。

—-

まるで盆におばあちゃん家に帰ったような感覚。背後を走る子供達。
三方の本棚には、ずっと読んでいたくなるような本がいっぱい。

ソウルからの賢人も交えて、ちゃぶ台で先駆的な話が行き交う中、
僕は頭がサーマルスロットリングして大半は処理しきれなかったのだが、
それぐらいでよかったのだと思う。
いい加減な頭で話に向かうのも、いい加減だ。

後からじわじわきつつ、
湯の中で(なぜ湯なのだ?)思ったこと。

—-

「1984」や「THX1138」や
「銀河鉄道999」のメガロポリス、或いは「ロラックスおじさん」で描かれた
超管理、超格差、超情報統制社会

これらを、超間近に感じるにつけ

この人達はよく予言したなぁ、と思うのだけど、
これって警告であると同時に、暗示でもあり、あるいは、プレゼンでさえあったかもしれない。
「こういう手があったか!」みたいな。そういう人たちにとっては。

だが人は、想像に、ひっぱられていく。

なんでも前例主義の社会だけど、
あまりにも想像の完成度が高ければ、それは「前例」にもなってしまう。
想像の前例主義、とでも言うのかな。そんなのがあるかもしれない。

もし、ディストピアにそれだけの力があるのならば、その逆も然りで、
今を生きる僕たちは、もしかしたら、数十年後のために、違うビジョンを見せるために
想像していくべき、なのかもしれない。何度絶望しても。

そして、この瞬間もそれをやっている人たちが、いるのだな、ということ。

自分がそうなれるかは、ちゃんちゃらわからないけれども、
それでも、あきらめとったらあかんな、とは思った。

そんな感じだ。

—-

旧友とも会い、彼の頼もしさも再認識す。

—-

いくつか、ここしばらくで面白かった本のご紹介。

ミシマ社さん。

『究極の文字を求めて』松樟太郎
久々に何度も吹き出した、めっちゃおもろい本。
下から上へ読むオガム文字、UFOキャッチャーの如きグルムキー文字、
クリクリしたオリヤー文字。
自分のサインもままならない僕だが
これを読んで文字ごと作ろうという邪念が生じた。
いや、心の風が吹いている。

『あわいの力』安田登
能の世界は僕には未知だ。が、舞台芸術であるから、通じる道は当然感じる。
「心に代わる何か」というテーマ(への期待)は大きすぎて、まだ拾いきれないのだが、
安田さんが能のワキ方として、笛の修行「自分の音が出るまで」に費やした期間の心得は、深く突き刺さる。
僕が自分の声を見つけるのはいつになることやら。
人生の終わりまでには身につけたいな。
いや、そんな時間の感覚は、無用なのか。

そしてクルミド出版さんの本。

『草原からの手紙』寺井暁子
この方の文はなんとも魅力的で
なんでもないようなことが潤ってる。
東アフリカ、マサイの居住区を、
マサイの指導者エゼキエル、スコットランド人冒険家の子孫ジョン、
オランダやマサイの人々とともに歩く旅。
明け方の情景と音の描写が素敵だ。
「10年後、ともに会いに」もそうだったが
装丁からスタンスから徹底していて、宝物感が半端ない。

Waltz for July


Waltz for July / stillbeat
online single – 7.26 release

微々たる力とは思いますが
この音源の収益を西日本豪雨災害への寄付金にいたします。

僕は近畿育ちながら、
豪雨期間ずっと、たまたま被害のなかった江戸で演奏していたこともあり、
今回被災された方々に対して、どうしても言葉を届けられる気がしません。
よって楽器だけの音楽にしました。

近江で作った、僕の最初期の曲です。


iTunes Store, Spotify などで配信中。
mora, e-onkyo, ototoy などではハイレゾ版も有ります。

ストリーミングではなく販売のみの方が
寄付面で遥かに実践的な気がしましたが、
被災された地域の方々にも気軽に聴いてもらえたら、という思いもあったりします。

その辺りは想像の及ぶところではなく、皆さまに委ねます。

ただ iTunes Store へのリンクも自分の方へ持っていく Apple Music のふるまい*には疑問があるので
今回ストリーミングは Spotify メインにしました(近日配信)。

まずは中央共同募金会(赤い羽根共同募金)に寄付予定です。
曲の配信期間は1年間です。寄付団体側の受付期間などを含め、秋以降は順次検討していきます。


* Apple Music, iTunes Store の挙動については引き続き調べ中です。ちゃんと振り分けてくれる設定もあるような反面、僕の iPhone ではそもそも iTunes Store に全く接続できず、聴く術がなくなってしまっています。バグかな? 困ったものだ。

zero [three five to seven eight]

週末は珍しく自分の時間も持てたので
思い立って録音

軌道修正、あるいは原点に帰って
インストゥルメンタル

言葉にならないことのために

今日一日で仕上げるつもりだったが
ダブルベース、ガットギター2本、フレットレスベース
朝から録ってると夜になってしまった。

僕は3拍子が好きで
節目になる曲は大抵ワルツかレゲエ。
これもその一つ。

たぶん昔からのバンド仲間一人ぐらいしか聴かせていない
最初期の曲の一つです。

今週中にはリリースしたい。

つきのうらがわ

とはいえ
この二つの半月に
起こった世の中のことは
とても書きようがないぐらいに
僕を脱力させてもいる。

水道の私有法案と処刑ショーと水害
カメラの裏側と報道の一極集中
賭博と自己責任とボランティア
本当に必要な復興と五つの輪

なんとかこれからも生き抜くつもりだが
一体どうして、こんなに未来に希望を持つのが
億劫になってしまったのだろう。

いいやちがうな、安易に言葉にできる
(それ故に安易に破壊されてしまう)
希望や未来というものに代わる何かに
もっと焦点を合わそうとして、却って無限に焦点が合わない。

僕らの命や運命はもともと、とても儚いし
それを徐々に徐々に、気づいていくだけだ。

嘘が溢れれば溢れるほど、しらじらしい真実は、
乾いた泥から現れる。

守る人はどこにいる。ここにいる。
守る自分はどこにいる。ここにいる。

10年前に書棚や想像上にあったシステムは、
もうすぐそこに迫っている。もう覆っている。
たぶんそれが大きいんだろうな。

音楽で忘れてるわけじゃ、ないんだよ。

音楽ですら信じられなくなるのが嫌だから、音楽をやってるけど。

無数のスピーカー

ohashiTrio HALL TOUR 2018 “STEREO” も無事終了。

いつもながら、スタッフ、メンバー、大橋トリオどの、ありがとう。
沢山いらっしゃったオーディエンスの方々も、ありがとうございました。

ステージから見る景色と客席からのって違っていて、たまに確認映像を観たりすると
こうなってたんだなぁと、ほんとはもっとこうするといいだろうなぁと、音以外にもとてもヒントになります。と同時に、舞台監督や照明の方々って凄いなぁ、と。

僕は体力がある方ではないので、よくあんな沢山楽器弾けますね、運べますねと心配されたりもするけど、楽器を弾くのはまた別の体力、筋力だと思っています。演奏時には別の力が出るので、演奏で疲れることはほとんどありません。いい音楽をやってるな、という自覚がありさえすれば、いくらでもパワーは出ます。
* ツアーで運んでくれるのは、楽器チームとトランポの皆さんですよ。

…と、地味目線で綴っていますが、今回の僕のテーマは「performance」でした。
曲調にロックを感じたので、より初期衝動でステージに立っていたのかもしれないなぁ。

シンセベースは貴重な体験でした。シンべエフェクターとして(たぶん)世界最高峰の Future Impact というペダルを入手したものの曲のミニマル感が出せず、本番直前に思い立ってショルキーを探しまくって、漸く大阪で中古を購入したヤマハの KX5。音源がなく電池でしか動かないという凄い仕様。でも MIDI で Future Impact と直結できた。
本番開始直後に電池ないぞランプが点滅し、慌てふためいた夜もあったものの、なんとか曲間にスタッフに伝え電池を替えてもらって事なきを得ました。おいおい。but 感謝。

あれは1984年の楽器なので、まさかこんなに年を経て使われるとは思っていなかっただろう。まぁ僕も(京都公演で言ったように)昔はこんなツアーに参加できるとは想像してなかった。

いや、想像していたのだろうか…漠然としたミュージシャンへの想いは人一倍あったけど、具体的なことはさっぱりわからなかった。夢ばかりの時から実力をつけた時でも、感性のアンテナをピリピリ伸ばしてた時でも、思うようにいかなかった。諦めてから、機会が来た。

タイミングを外すことにかけては天賦の才がある僕が「すーべてはータイミング」ってコーラスをするって、なんの因果? と思ったり。

いろんなことを思い出して、みんなを見守りながら、見守られながら、やっている。不思議なものだ。

そう、今回の舞台セットはとびきりサイコーだった。スピーカーの群れ!? あれステレオちゃうやん。もっともっと沢山あるやん。ある時数えたら14個でした。メンバー7人でそれぞれステレオってことか!?

でも、あのロゴといい、そぎ落としたジャケットといい、やたら多い楽器群といい、今回は本当の意味で “PARODY” を感じたツアーで、そこが好きだったなぁ。

神戸からふと始めた “PARODY のパロディ” も、そんな内容でした。場所によって少しずつアジャストしましたが、だいたいは同じ内容です。

アコースティック、エレクトロ、ミニマルとジャズ、ロックといろんなものが行ったり来たり、これが大橋トリオの音楽の真骨頂ですが、まだまだこれだけではありません(たぶん)。

今後さらに違う展開もあるだろう。また、よろしくね、トリオちゃん。

ぼくのニアフィールド

至近距離しか焦点の合わない僕の右上ほぼ1m視界。

清志郎さん、高野寛さんと仲間たち、Trioどん10周年のパス、音羽信さんからの手紙、David Matthews さんからの賀状、矢野誠さんからの葉書2枚、Rachael Dadd さんに ICHI さんのフライヤー、菊池銀河くんからのカード、母からの切手、鳥取に行ったときの切符。ビートルに上半身突っ込んでるのは誰かはわからない。

共演できた人、できなかった人、まだしていない人。

スピーカーはSB-MX20。青いミニカーは貯金箱で、尾道で買ったもの。葉書立てはアメリカに行くときに、松本さんからもらったもの。

がんばらねばと思ったり、リラックスしたり。

妄想

(無責任かつ水平思考の戯言である)

入間に so-so というお店がある。

一度しか行ったことはないが、心に残っている。

また何かあそこで出来るだろうか?

 

今回の朝連ドラは面白い。

テンポがいい。ここ数作のようなじれったさがない。

回をまたぐ時に、いかにもその続きから始まりそうなシーンでも、すっとばしてくれるのがいい。

岐阜って、いい味出すとこだよな、と最近とみに思う。

まぁ、「どこかの町→東京」パターンは、もういい加減やめようや、とは思っているのだが。

 

人生、先が見える、のと、明日が見えない、のと、

どっちがどうなんだろう。昔は、明日を見ているビートが大っ嫌いだった。

置きにいっているビート。それはすぐにわかる。

 

明日なんか見えなくても、全部見える、と思っていた。

一瞬はすべて。静止は永遠に動くこと。

 

自分は先が見えているだろうか。

ここで昨年に話を戻すと、ある偉人が見ていた「先」と自分の視界にあった「先」が
あまりに枝分かれしているので、とても残念に思ったことがある。

先がないな、と見えること。

それはたぶん、自分にしかわからない、とても小さな絶望だ。
あるいは、多くの人が持っていることかもしれない。

僕にとってはこっちの方がむしろ今は尊い。静かにしていたい。

それって、扉を開くことなのかもしれない。

 

まぁいい。扉は開かれたまま、現実は続いている。

現実と夢の違いが、もはやあまりないまま、僕の人生は続いている。

 

現実はすでに嘘ばかりだし、その中に真実はあるし、残念なことも再生もたくさんある。

夢は現実のリマインドだし、二次的な沿線だし、あともどりの手がかりでもある。

りどもとあ。

 

第三分の二元旦

一年を三分割すれば今日は第二の元旦。
ってことで海に行く。

普段20~50cm、いいやブースの1.5m、
以上に遠くを見ることがない。

ライヴ会場でも視力の届くのは?m。丸眼鏡は伊達ではないのだ。

腕に端末を縛り付けられようとしている若者と既にチップを入れられている諸外国の愛玩動物との間にある自分は、このように滅びていくのだろうと日々自覚しながらも、危機を感じて海に行く。

といった方が正確だが三分の二元旦と嘯く。その方が夢がある。

もう三分の一元旦の事は忘れている、ということは、道を間違えてから気づく。
引き返して数秒後、引き返せない道に乗っている。

ならばと小一時間ワープし、打撃施設を目指すがそこは潰れている。
つくづく抜けている。

小一時間を取り返そうと、犯人再び現場に戻る。
さっきの Point of no Return, わずか先にあった、ベストポイント。
つくづく抜けている。だから来たんだよ。

海はすばらしい。

聴覚の傍で自分が見ていた全てがウロコだったかのように。
これも新手のウロコかもしれない。それでもいいと思う。

EW&Fのジャケットを描いていた長岡秀星さんのイラストにたしか
「すべては砂漠にかえっていく」というようなタイトルの絵があった気がする。

傾く太陽の下はさながら砂漠。
乾ききった砂と、すぐ隣にある無尽蔵の水を眺めて

「?」が30個ぐらい沸き起こった。

砂って、なんの象徴なのだろう。乾いたもの、それとも潤い?

たぶん、どっちもなのだ。

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