かんなづき。
自分や作品に、かんなをかけていくかな。
削りすぎてなくなりそうな実体と
肥大化して収拾のつかない想像が
両方ありましてね。
かんなづき。
自分や作品に、かんなをかけていくかな。
削りすぎてなくなりそうな実体と
肥大化して収拾のつかない想像が
両方ありましてね。
imaginary な半月を
うかべておこう
と心の準備するまもなく
何度目かの 9.30 が過ぎていったわけだよ
– と –
ふと今になって
一年にとってこの日は下弦の月だと
気づく
もっと前に知っておきたかったな。せめて二十年ぐらい。
アメリカからやってきた人とときどき少し英語で会話する。
本当ならがっつり教えて欲しいのだが。
米国だと、10代に三回、大きな誕生パーティーの習慣があって、
その三つ目、成人になる18歳のパーティーでは
ガバメントからお祝いの封書が届くそうな。
そこには、男性の場合、「米国が他国と戦争状態になったら、徴兵の対象となることに同意する」
という一文があるのだそうな。
フリーダムとリバティの国では、すべての国民がシステムとミリタリーに手綱を握られている、どうやらこれが実際のようです。
そのカゴが大きいか小さいか、あるいはどう見えるか。
それだけの違いなのかも、しれませんね。
それでもね。
気づくことはたくさんあり、思うことも、たくさんあるのだ。
気が遠くなるが、これからも。
私たちが生きるこの世界も
この国も
誰かのものではない
虚飾をまとって
民主主義を葬るつもりでも
私たち一人ひとりにいつか必ず
かえしてもらうことになるだろう
私たちは番号ではない
誰かの臣民でもないのだ
強力な
草刈機
というものを
扱ったのだが
日暮れどきに
つまりはオーマガトキに
よく地面が見えないまま
強力な鋸刃を操るというのは
あぶない
何が危ないって
トルーパーの気分になるのである
跳び出すバッタを
おらおら 逃げろよ早く
という気分は
…
これじゃ条件次第では
力を持てば誰でも凶暴になるなと
想像できてしまう。
夜と昼がひとしい 嵐で気付かないけども
ふとしたことから
コンゴ動乱と現代に至る状況の酷さを知る
以前もこれに類する報道や動画を何度か観てはいた気がするが
今年観ると、迫ってくるものが違う。
—————
人間、悲しいかな、遠いと思うことは実感できない。
だが、実際に格差がここまで広がり、独裁まがいの体制と軍備が急速に進み、
そしてこれから指数関数的にひどくなるのが目に見えている今
アフリカで起こってきたことは
対岸の火事どころか
…合わせ鏡じゃ、ござんせんか。
防衛や経済などの名目によって生まれたすべての武器はやがて何処かに流れ着き、
人を際限なく殺していく。どうしてそれを止められない?
日本も各国も、これまで自分たちが国内外で犯してきた
虐殺などについては決して認めない。
認めたら最後だ、という教えがあるのか、
自分の後ろ姿が見えないが如く、そこからは学べない。
だが、コンゴ「民主共和国」、ウガンダ、スーダン
これらの地域で起こっていることからも
おそらくウクライナとロシアで起こっていることからも
人間の悲しい性はわかってしまう。
人は、そうとあれば、暴走するのだ。
それを利用してきたのが古来無数の戦争だったろう。
一対一ではない、大量の「部下」に武器を持たせて殺させる。
それは決して権力者や兵士同士にとどまらない。
女性や子供、老人が標的にされる。
資源のため。権益のため。
発展のため。着飾るため。
こんな中で、実際に生き抜き、表現してきた人もいる。
背景がわからぬままの僕や仲間を、何処か凄い音の世界へ連れてくれた、マリーさんもその一人。
だが。
その無敵な表現も、今後は受ける側次第で意味が違ってくる、そんな気がしてしまう。
素直になれなくなった。つくづく自分は。
ドリーマーが一人増えるだけじゃないのか。その夢は正しいのか。
誰かのビューティフルドリームは逆から見れば悪夢なのか。
わからない。
いろいろな人が、それでも問いかけてきたけどね。
デイ・とりっぱー
…なしはいかんよ
アイデアやテイクはどんどん重ねるくせに
いつまでたってもまとまらないな
9.11です。
WTC で起こったこと、そしてその後世界で。
あれはとても大きな、日本に居た僕自身もいろいろな物の見方が変わった日でした。
というより、その日をきっかけに数年かけて大きく変わっていった、といった方が近いです。
が、今日は別の日の事を思い出したりしていました。
フランスで、バタクラン劇場で起こったこと、とその数日後の拙文。
サルビルサ 〜 スズキコージ氏の作品にちなんで
今、思い出さなければいけないことの一つのような気がします。
満月ですね
月見、というわけでもないですが
今宵はときどき、そらを見上げます。
最近は月をみないとか書いていたけど
曇りの夜が多かったからなのだろうなと
思って外に出たら
あれ、一体どこへいったのやら。
まぁいいや
Moonlight という昔の絵画のようなレコードと
Moonlight sonata のピアノを聴きながら
朝の音楽を思う
九月ですね
三日月がすぎ今日は半月が訪れる
やがては満月 また半月 そして二十五日に新しくなる
アプリで J-Wave を聴く
ベルトリッチの映画、最後の老人の、腹話術のような台詞の話。
Paul Bowles の原作はこの秋に読みたいな。
この映画の7年前 Sting が書いた一節がずっと頭にひっかかっていて
… Tea in the Sahara という曲だけど
この曲は捉えどころのなさのおかげか、かれこれ40年近く頭のどこかで再生されている。
まあ、かの人はこのあたりの詩作の背景を、「言葉遊び」と片付けそうな気もするけれど
(そしてそれを否定もできないが)
意味がわからないながらも、それは形を変えて自らの近年の謎ボックスにもなっている。
謎ボックスとは…なんというか、巾着袋みたいなものだ。取り出したり、忘れたり。
残念ながら、僕の頭上には Sheltering Sky より、ずっと低い屋根が常にあって、
「そら」はその向こう側なのだ。遥かに。
だからこそ一昨年は、異様に月に執着していたのでもあるが
今年はどうやら、月を見ることすら難しい。
正直、時間が惜しいのだ。
いや、時間との付き合い方が、もうわからなくなってきているのかな。
昨日。駐車場に向かうとき。
青空の下を歩きながら、ここは4次元?と思う。
3D+時間が4Dなら、僕らの生活って常に四次元じゃん?
三次元なんて、ほんとにあるの?
たとえば奥行きがなくったって、時間は常に存在するのだから
2D+時間だって、
モノラルの音声だったら1D+時間だって、いつも存在してるやん?
とふと思ったのだ。
秋の虫が、また鳴いている。彼らはどうみているのだろう。この世界を。