カテゴリー: hikari

趣味

最近、趣味ができた。

何かを忘れられること。忘れることができる何か。

なんでもかんでもいつも忘れっぱなしの気もするが

(こないだはベースを忘れて名古屋にいった。いや、それを盾に無茶振りを断ろうと思ったのだが、かわりにギターを渡されたというわけだ)

何を書こうとしていたかもう忘れてしまった。

没頭。これできること、趣味、あるよ。

そう、写真である。写真ほど、才能のあるなしが冷酷に出るものもないと思うが、
それでも、楽しいのである。

思うように撮れないこの5、6年を経て、今年はじめに思ったのは

もう、iPhone でええやん。

だった。Canon EOS M3 を持ってるのだが、これはもうなにしろピントが合わない。
オートフォーカス(AF)が遅いのは噂で聞いていて、それでもデザインと持ち心地とシャッターの音がよかったから、これに決めたのだが、もうなにしろ遅すぎる。
はっきりモニターに映っているものでも、延々と AF が合わず、いつまでたってもシャッターが切れない。

マニュアルフォーカス (MF) にすればとも思うが、ファインダーがないしどうもこれも合わんのだよ…

画質はとてもいいと思うのだが。

もう、10枚撮って1枚使えたらもうけもん、ぐらいで、ほとんど見放していたのだ。

そこいくと iPhone はすごい。どんなものにもたいがいピントが合うし(合わないわけが、ない)、live フォトなら後からフレームも選び放題。
画も結構きれいだし雰囲気もある。

そんなんで、カメラを持たずに iPhone だけで、やってきたのだ。たいがいは。

動画も M3 でやるのに懲りていたし、iPhone で十分。なんなら音もそのままでいいし。
ただグースネックのホルダーがどうも使いにくくて、いつも微妙に位置が決まらない。まぁまあ。これで十分やん。

でもどうしても。夜景や月は絶望的だし、望遠もツバメも難しい。

M3 に代わるものを探してはいるのだけど、よさそうなカメラは軒並み高価。

そんな中、必要に迫られて、サブスクでカメラを借りることにしたら、すっかりはまってしまった。

店の回し者ではないので、以降詳細は省くが、比較的安いランクの本体とレンズを、いろいろと交換して借りている。なんとなく、カメラの仕組みや得手不得手がわかってきた気がする。今頃。

キヤノンの EOS M6 はやはり M3 より全然速いし、ちゃんとピントも合う。でも入れ替えるつもりはない (M3 のほうがかわいい)。R7 は借りたの一瞬だけど、望遠動画もきれいに撮れた。R10 の AF は驚異的にすごかった。シャッター音がすごくチープで、ボディもうそみたいに軽くて、モノとしての魅力はなかったけど、道具としては十分すぎる。

ニコンは D750 を借りた。近くの写真屋さんが昔、秋祭りをそれで撮っていて、これいいよと勧めてくれてからなんとなく憧れていたのだけど、
ミラーレスに慣れてきてしまった自分には、大きくて重くて、左肩のダイヤルが回しにくくて、どうも合わなかった。
なぜか AF も精度が低かった。こんなもんだろうか? 発色や、はまったときの雰囲気は、すごいと思ったが。

枯葉を iPhone と D750 で撮ったら、その違いが凄まじい。

もちろん下が D750。

こんな、なにげない肌色の空の色合いも、好き。

こんな淡い、海辺とか。

だが、これとか D850 はプロじゃないと使いこなせんのだよ、と自分に言い聞かせている。

ニコンのミラーレス Z は、まだわからない。Zf はかっこいいけどなぁ。Z6 や 7 はどうも惹かれないし(高いし)、Z5 か Zf-c 借りて判断しようか…

ソニーはスペックも AF もすごそうだし、すごく売れてるみたいだけど、僕はどうも昔から Sony 製品と相性がよくない。音の機材でも、たくさん買ったけど…なのでどうも使いたいと思わない。借りてみたらやっぱこれええやん、とか、これを知らずして今のカメラを語るな、となるかもしれないけど。

オリンパス、今の所、一番合ってるのはこれかと思う。もうブランドは OM SYSTEMS になってるけど、OM-D E-M5 がすごくいい。買うなら最後の Olympus ロゴの OM-1 が欲しい…と思いながら、大丈夫かなぁと二の足を踏んでいる。

E-M5 は一度返したけどまた別のレンズと借りてて、やっぱりいいなと思っている。絶妙にクラシカルデザインで、裏にグリップが少しだけあって、よく右手にひっかかる。また、シャッターボタンがおさまったダイヤルが、絶妙に使いやすい。このへんは OM-1 と違うんだよな…

撮る対象は人より湖岸の鳥や月や、自分はなにげに望遠レンズが好きらしく、フルサイズだとかなり大変なことになりそうだ。マイクロフォーサーズや APS-C なら、コンパクトに望遠セットが組める。これ、かなり重要かもしれない。
一方で暗い景色が基本的に好きで、なんとかこの陰影を写したいといつも思っているので、そこは画素数を控えたフルサイズなどがいいんだろうけど… 完全に矛盾じゃないか。

まだ借りてないけど、ルミックスはどうなんだろう。S5 や S5mkIIx は使いたいと思う。初代の G9 Pro も触っとくべきかもしれない。AF は Canon や Sony にかなわないらしいが、それでも EOS M3 よりは何倍かいいんでしょ?

あとは SIGMA ですね…

機材自体で面白がるのは、男子の永遠の病気だろうな。

また、もっと写真自体について記します。たぶん

束の間

ようやく解放されたのも束の間。

だが。

その束の間の週末は滋賀と三重に。夏以来に湖北を訪れ、紅葉をと思ったが
天候が…

陽光の力って偉大ですね。

だがその前、湖南では奇跡のショットが撮れたので
大きく救われることに
…なりそうだ。

三重はいきつけの(近所ではない)店に、また行きそびれてしまい
大急ぎで用を済ますのが精一杯

ゆっくり来たいのだが日が沈むのが早い
フェリーの時間も間に合わなかった。

まぁよい、星空をたっぷり見て
帰ることができた。

それだけでも十分な「束の間」だったよ。

おかんと道の駅の店員さんとおさるさんしか会わなかった究極の秋旅

写真が現れる道具

ありがとう OM-D
オリンパスのカメラ初めて使ったけど
いい道具だなと思いました。
もうブランドがないけど…

いつまで経ってもいいカメラを買う踏ん切りがつかないので
先月からサブスクレンタルをはじめた次第。

これはシリーズ真ん中のグレードの E-M5 Mark III という
4年前の機種。

最初、なんで電源レバーが左? とか
なんでシーンモードでいちいち変なイメージ画像が出るの? とか
タッチパネルなのにボタンやレバーじゃないとアイコンが動かない? とか
動画撮るときなんでハウるの? とか
けっこう疑問符がついたのだけど
それを上回る、フィーリングのよさがあって
手に馴染むし
今までずっと得られなかった「撮ってる」っていう感覚があるし
中にはいい写真もあるし(腕が足りないから、たまにだけど)
すっごい俊敏だし

電源が左なので、否応なしに最初は両手でカメラを包むのだけど
それがなんか、大事なものを扱うぞ、みたいな気にもなるとかどうとか…
そもそも、頻繁に on/off なんかしなくていいのかもしれないし

右上のダイヤルとその配置なんか絶妙だし

なんでオリンパスってファンが多いのか、わかりました。

どうせ買うなら最上位だろう、と
最後の OLYMPUS ロゴ、OM-1 に惹かれています。

だけどその前にこれはお返しして
他のカメラも探ってみます。

それからカメラってセンサーもあるけど、レンズの役割が大きいし
持ち運べなきゃ、自分に合わなきゃ使わないし
やっぱ大事なのって、道具としての心遣い、心意気ですよね。

そういうのは確実に伝わってくるし、使い手に大きな影響を及ぼすなと
実感しています。

道具が身体の延長となれるか、脳や気持ちと交流するか、
そういうところなんでしょう。おそらく。

Green Planet

Hunter’s Moon, Jupiter, and in between …

What is that?

Is that a button you’ve thrown from the seashore?

Is that a green planet you’ve never told?

水辺にレンズ

iPhone と EOS M3 での写真に限界を感じていることもあって

カメラをレンタル。しばらく、手の届く範囲で色々試そうと思っている。

今はもうブランドのない Olympus の OM-D E-M5 III

小ぶりでメカメカしくて、面白い。

設定メニューなど、タッチパネルとボタン操作が中途半端に混在していて扱いにくいのだけど、
撮影に関するレスポンスはすごく速い。M3 と違って、たいがいピントも合う(あたりまえか)。

撮るのが楽しいな、と思える。これ大事ですよね。

骨になる

山口洋佑さんの展示を観に、名古屋の On Reading へ。

何度か書いているかもしれませんが、「巣巣」という、今は北陸に移転されたお店に

林正樹さんとのコラボパフォーマンスを観に行ったり(そして予想外に色々お話できたり)

Alexandre Andrés の Macaxeira Fields という

超・超名盤の日本盤ジャケットをずっと身近に飾ってたり

大昔、まだお会いする前に、ネットサーフでたまたま知った作品を

壁紙にして仕事してたり(…すみません)

要は、とてもファンなのです。

今回も「あれ…どこかで」と気さくに

近年の作品をどうやって作ったか、など、びっくりするような手法を話してくださったり、

とても嬉しい時間でした。

本屋自体もセレクト、空間ともにすばらしく、大いに刺激を受けた次第です。

予約した作品集、完成と到着が楽しみです。

わすらふ にんげん

キーウ(キエフ)生まれのポーランド人、バレエ・リュスで世界を席捲した天才ダンサー、革命的な振付師、大戦期を心の向こう側で過ごした人、映像の残らぬその跳躍と動き。

ワスラフ・ニジンスキーについて、これまで何も知らなかった。
父が書棚に遺していった河合隼雄の著書。数年かけて読んだり挫折したり。
今年ようやく読んだ自伝の後半に気になるエピソードがある。
それが「ニジンスキー夫人」ロモラとのやりとりだ。

ハンガリーの貴族だった彼女はマルチリンガル、とにかく外向的。
ダンサーのひとりとしてバレエ・リュスに潜り込み、憧れのニジンスキーを射止める。
それも、ワスラフの(公私共の)パートナー、バレエ・リュスの総帥ディアギレフが
船旅を恐れて乗らなかった、米大陸行きの船の中で、だ。

なんという凄腕の…

だが彼女はそのことを生涯、密かに悔やむ。
そして河合氏にあるときそっと耳うつ。

運命は誰にもわからない。
ものごとの因果応報もわからぬものだ。

ニジンスキーはどうして、心の向こう側に行ってしまったのか。

当時最高の心理学者たちにも、ついにわからなかった。


こんなわけで、僕はかなり斜めからワスラフ・ニジンスキーのことを知った。

The Rite of Spring (春の祭典)で、彼はストラビンスキー、リョーリフと共に舞台芸術に革命を起こす。
知識としての音楽理論に乏しい彼は、感覚と、団員を直に使ったデザインで - ダンサーたちにとっては過酷極まりない制作期間を経て(それを界隈では「プロ」というだろう)、奇想天外な踊りをつくりあげた。

かしげた首、変拍子のストンプ、DJ プレイのように繰り返される不思議な旋回。衣装。表情。生贄と運命。なんという。

パリをロシアが揺さぶった日。

そしてロモラとの出逢い、ディアギレフとの決裂。

5年半後、ニジンスキーはスイスで「神との結婚」「戦争」と形容した舞踏パフォーマンスを行う。

その場にいたすべての人間にショックを与えたのち、その心は向こう側にわたってしまう。

“Schizophrenia” の名付け親であるブロイラーをはじめ、ビンスワンガー、フロイト、ユングといった精神分析の巨人たちも彼を連れ戻すことはできなかった。

その後31年、彼は生きた。
人生の半分を天才として愛され、崇められ、おそれられ、半分を所謂「統合失調症」患者として。
ドイツからロシア占領下に移ったハンガリーで兵士に発見され、なぜ故国の英雄が、と驚かれた彼は、穏やかにロシア語で話したそうだ。

二人好き。本来は、にんげんがすきでしょうがないひとだったのだろうか。


ある年齢をこえると
大人は急速にダジャレに惹かれていく

これを人間は
「連合弛緩」の予防や対策として用いているのじゃないかと僕は思う。
連合弛緩とは、言葉の連想を無視した(かのように思われる)発想の飛躍。
いわゆる統合失調症のひとつとされる。いや、さっきネットで知った言葉だ。

ことばの連想は、事象の地平面に落ちようとする大人の生存本能なのだ。

あまり深みにはまらないように、ここからは軽く綴る。

芸術と精神異常はかみひとえである、とよくいわれる。

生涯、そのエッジを「ギリギリセーフ」として乗り切った人は幸せであろうが
そうなれなかった人が、歴史上には大勢いる。
そして「歴史」という恣意的な物語にならなかった人は、数えきれないのだ。

残念なことかもしれないが、アートに携わるもの、志すものは
いや、アーキテクチャーでもアグリカルチャーでも、何かを成したい人は
長い目で、精神を保つことに注意しておいた方がよいだろう。

危険なものは危険な香りがするものである。

Sonic Youth の Sister というアルバムに惹かれ、毎日聴いていたころ、
その一曲目のタイトルの意味がよくわかっていなかった。
いわんや、歌詞の内容である。

よくわからず、なんとなくかっこいいと思っているころは甘っちょろいのである。
それができるのが、若さともいえる。

だが、その重みは、いやというほどわかってくる。
だから、やはり、気づいたときには記しておきたい。

それが21世紀のダジャレ男、のなんとかなのだ。

catch a star

逢魔時を超えて西に向かうと

いつになく大きな星が黄色く照っている。

こんなデカいのあったっけ、惑星の位置はいつまで経ってもわからないが

超新星か、超新星って赤い星だけじゃなかったか、

それとも大きく見えるのはメガネのせいか?

いろんなことを考えるが、その星(どうやら木星か金星)は全くもって

自信満々に空にいる。薄曇りの空、夕方は豪雨の兆しもあったのに。

星、一匹。天を我が物に。


ふと思う。あの星、お金にならないのかな。

何かが欲しい時、何かをしたいとき、「あの星で払います」と言ったら

相手も星を見て、「おっしゃ」と星を受け取る。

取引成立である。

あるいは、この靴の値はあのスピカな、この曲はアンドロメダな、と言い値をつける。

これなら紙幣も硬貨も、カードもポイントもアプリも要らない。

星は誰も所有できないし、だけど我が物にする気になれる。

経済なんてこれでいいんじゃないか。

貧富の差は心と視力でしかない。

そしてこの「新しい経済活動」とかのためには、何より空気が綺麗でなければならない。

すると、だ。

環境問題も経済も戦争も、これからの人類の健康も、すべて解決するだろう。


そんな出鱈目、ありえない。だが半分マジで、そんなことを思う。

色んなことはでたらめからだろ、違いはダンディかどうかだろ?

電磁波から見た自然界

図書館で大量に借りた本の一つ。

著者の宮嶋望さんには一度だけ、新幹線で偶然隣り合わせたことがある。
今から15年前のこと。

僕の楽器が座席のリクライニングを不可能にしているので、お詫びを兼ねて話しかけたところ、なぜか意気投合し、初対面の僕に随分いろいろなお話をしてくださった。

低周波と意思伝達の話、高速移動と頭の回転の話、電位とハチマキや兜の話…

それっきりお会いできていないが、この方の主催する共働学舎新得農場のチーズは近隣でも入手できることがわかり、時折購入している。

氏の考えはとても深く、独創的かつ論理的で、自然と科学、人や生物への慈しみが滲む。殊に自然界の電磁波の流れと水や生態系との関わりについての考察と実践は驚異的で、それだけで映画ができそう。

この本は2011.11.20に発刊されたもので、今も(今だからこそ)響いていると思う。

いつかまたお会いしたい。十勝に行ってみたいなぁ。

* ご近況は この記事 が詳しそうです

ガラスのジゼル


ベアトリーチェ・アレマーニャさんの描いた「ガラスのジゼル」

5.14に絵本の店キルヤで行ったライヴでは、この絵本を二部で演りました。

今日はこの本について記し…ますが、背景としてもう一つの本に触れねばなりません。

キルヤさんでライヴするにあたって、僕はこのお店の棚の最上段に鎮座しているひとつの絵本がどうにも気になっていました。


「カール・イブー」

存在感ありすぎの帽子と髭。それと対極にあるような「・・」の目。
カナリアイエローってこれなんだぜ、と誇らしげな小鳥。

以前(数年前)、キルヤ店主ののりこさんとの会話

「これって売り物じゃないですよね」
「はい」

小心者の僕はそれ以上なにも聞けなかったのですが、
今回勇気を出して読ませてもらって、おぉ! と心持ちが変わりました。

「すべてが嫌いな男」であるカール・イブー。
これ以上の内容には触れませんが、そうくるか、と。

ライヴをやるかで逡巡していた僕の、肩を押してくれたのがこの作品です。

さて、ではこの作者さん、他にどんな作品をかいているんだろう、と発見したのがこの「ガラスのジゼル」です。
といってももうとっくに廃刊され、日本版の出版社 も15年前に倒産しています。

それでも、何かただならないものを感じ、古本を探し出すが早いか、イベント名を
「ガラスと木箱とことばたち – くうそうの音楽会 -」にしました。
この名前をのりこさんが大変気に入ってくれたことから、ライヴが形になっていくのです。

出版社の名前は「編集工房くう」
絵本のシリーズ名は「くうの絵本箱」

これもひっかかりました。なにしろ
(…それはまたの機会に)

さておき、絵本そのものに戻ります。

この日本語版は2005/1/1に発行されました。読んでみるとすぐ、隙き紙やコラージュを駆使したそのページの美しさに圧倒され、途中の展開にも驚くのですが、最後に「あれ?」ということになります。

こんな終わり方…?

敢えて記しませんが、当時もいろいろな反応があったようです。

で、僕は今回、これは外国語版にあたってみようと、いろいろ調べました。

ライヴでもう一つ取り上げた “Where the Sidewalk Ends” を英語版から訳したように
英語の絵本って、訳するのが楽しいのです。日本語訳をした人がどう捉えたかも、追体験できる。
(フランス語やイタリア語は、翻訳サイトの力を借りないと理解できません)

海外の YouTube には、「絵本の読み聞かせチャンネル」があるんですね。これがとても参考になりました。

すると! なんと英語版 “Child of Glass” やフランス語原版 “Gisèle de Verre”、イタリア語版 “La Bambina di Vetro” では、結末が全然違っていたのです。少なくとも、現在出版されているものでは。

ということは、日本語版では敢えて訳を変えたか、間違えたか、最近の改訂(2019らしい)で内容が変わったか。
こだわりの強い「編集工房くう」さんが間違ったとは考え難いです。

ベアトリーチェさん本人の気が変わったのかな…
ここはまだわかりません。知ってる方、おられたら教えて欲しいです。
というか、ご本人に訊いてみようか、勇気を出して。


さて、そんなわけで今回のライヴで、この本を僕のベース音楽と共に実演しました。

我ながら、面白いものになったと思います。とてもいい反応がもらえました。

「ガラス」を表現する一環として、譜面台をアクリル版で工作し、絵本を置いています。
これをめくりながらできれば、もっとよかったんだけど…

読んだ内容は、声にするときのテンポもあり、途中からところどころ言い回しを変えました。

そして結末については、今出ている英仏伊版を踏襲しました。より「レジリエント」になっています。

それにしても、「ガラスの子は、頭に浮かべたことがすべてガラスの頭部に映し出され、誰からも思いを隠すことができない」というのは、2005年当時よりも今になって、さらにリアルな状況になっていると思います。

誰もがスマホ越しに人の情報を集め、端末のこちらとあちら側にある二つのガラスを通してコミュニケーションする世界。

「安全に、すべてが覗ける」と錯覚している人類。

何も隠せない、あるいはすべてを自発的に宝箱に書き込む人たち。それはすべての人に筒抜けになり、ビッグデータとしてサーバーに吸われ、AIに活用されていく。

誰もがガラスのジゼルなのです。

24/7の監視社会にあって、自分を保つことってむずかしい。
たとえ割れないにしても、一度もヒビの入ったことのない人って、いるのかな?

これから僕たちは、どうやって生きていくでしょう。

ひとりひとりが、システムを作り操っている側が、共に考えていくべきこと。
考えてもわからない、それでも、心にとめておくこと。

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