チビ牝ラクダ

Jean-Daniel BottaのDévotion Pour La Petite Chameauというアルバム、飄々として
久々にどこかの扉が開いた感覚。

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その流れでAntoine Loyerにはまっている。

何かを思い出すことしきり。

formation

小さなころ見ていた未来に
スマホなんてなかったのに

「人間」の生態描画が
ほぼ画面を見てるなんて
知りたくないだろうに

吊り革広告と大小の液晶画面に人々が翻弄される
キヨスクや列車での光景に
いよいよネットワーク社会はやばいなと思ったので

しばらく離れていました。

一種のデトックスですが
その感覚は今でもつづいていて

この半月ほど、いろいろなところに旅したり
人や食べ物や建物に会ったり
インプットもとても多いのですが

フォーメーションを変えようと
いうわけです。

それはなかなか むずかしい

だけどね

自分の足で歩いて 直に見て 話して 聴いて
そんなのが よっぽど。

2バイト

上海で面白かったことはいろいろあるが

僕は性分として、全然わからない中国語から
ぐっとくるところを探してしまう。

階段や空港の床、随所に書いてあるのが「小心」という文句。

その下の英語を見ると、mind the step, mind the water…

階段を滑らんように、水びたしなので転ばんように、etc
ようは「注意しろ」という意味らしいが、

「小心者」って日本語にはネガティブな意味しかないが、
中国なら「注意深い人」になる…? なんか奥ゆかしくねぇか?

それにビールで有名な「青島」の「青」が
blueではなく、「若い」という意味だったことも

「青年」「青春」の意味からすると、めっちゃすごくわかる。

(blueに相当する中国語は「蓝」、つまり「藍」らしい)

漢字は中国から伝わって、その後独自の発展を遂げたので、
日中でも意味や形が違うものが多そうで、
列車の駅名表示を見ても、未だに距離を感じたりするのだけど、

もしかしたら案外、簡単な答えがいろいろ転がってるのかもしれないね。

摩天楼がすごすぎる

リードのないトイプードルが路地を歩いている
隣ではチャウチャウとおばちゃんがキャッチボールをしていた

さなぎ

予想はしていたがこのところ、愕然とすることばかりだから

当分情報を遮断することにする。

することにすることにする、

そうしないと本当に自分に大切なものが見えてこない。

誰もが気づいてるはずなんだけど、地下鉄でほぼ全員がスマホを凝視してる光景、
いやこれはケータイだってそうだったんだけど、やばいっすよ。

そんで、自分は音楽聴いてるから、とか、路線図確かめてるとか雨雲レーダー見てるとか、大事な仲間とコンタクトとってるからとか、そんないいわけを作りながら、やっぱり同じようにガラス面を凝視してる。

その上にはいつアクティブになるかわからない、割と高解像度のカメラが付いてて、正面でも背面でも人は「撮影」しまくってる。いろんなデータとタグをつけたまま。

駅にも列車にもビルにも監視カメラがいやほど付いてる。ゴミ箱はぜんぜんないからチリ紙も捨てられない。
そのくせ鳥の親子だけはしっかりトゲで遮断する。

感受性の違いかなぁ、とにかくぼくは単純に、もうこれはほんとにやばいと思い

常時接続から脱却することにした。

これを書くことも、或いは逆説的なんですけどね。

五、六年前の暮れに、per.の友達がいってたなぁ「こえぇよ、巨大サーバーが…」って。

あのときみんなで笑ってたけど、全然笑えなくなってる。

ほんと、世の中って、周到だ。

 

何度も書いていることなのだけどネットワークって基本

末端 | 端末 〜〜 サーバー 〜〜 端末 | 末端

なんですよね。

端末を見てる人は漏れなく末端、つまりガラス面を挟んでこの世界はひっくり返っている。

 

Punch Bros. のbnjインタビュー記事でもあったように、

「テクノロジーを利用していたはずなのに、どこかで立場が入れ変わって、テクノロジーにどこかに連れて行かれるんじゃないかとね」

 

ネットの素晴らしさは十分知っているつもりだけど、
生き方は変えていかなきゃな、と思っておる。

なので、仲良い人も通りがかった縁の人も、ちょっとご面倒かけるかもしれませんが、

ちょいとトンズラしますので、よろしく。

りょりつ

「考える人」ひさしぶりに買って読む

なんだかサイズが小さくなっている

河合隼雄の物語賞、というのがあって

受賞作の「悪声」の著者、いしいしんじ さんの書いてる(言ってる)こと、とても腑におちた。

まだ作品は読んでいないけれども。

Punch Brothers を聴きながら。備忘録。

しゃくねつ

どうもこの夏はワルい 灼熱がぼくを別のところに連れてってしまう

いや 毎年のごとくバテてるだけだ

夏は苦手だ 自分が稼働してる時間が極端に少ない気がする

色々なことに気づかないうちに秋になっているんだろうな

 

by the river again

久しぶりに骨董通りを歩いて
なんとなくブルーノートの前に来ると
山中千尋の公演だった。

そういえば先日、Sapporo City Jazzで出てたなぁ。

チヒロさんを観るのは随分久しぶりで
しかもヨシワキさんがベースだったので
これはいいタイミング、というわけだ。

当日券を買ったがほぼ満席近くで
カウンターの補助椅子に座れたのがラッキーだった。

チヒロさんもワキさんも昔からずば抜けてて、
音楽性も人間性もいろいろな国の人に愛されていたので
音楽家として世界的に活躍するのは当然のことと思ってる。
しかし、ジャズのアイコンのように、マイペースにキャリアを重ねるチヒロさんは
精神面でも相当タフなのだろう。

まぁそんなことはさておき、

インタープレイで作曲しているようなワキさんのソロや落ち着いて美しいライン
メジャー感を求められ、それに応えている(のだろう)わかりやすい選曲の中で
突如扉を開けて、全員をどこかに連れて行ってくれるチヒロさんのプレイ

そしてコンビネーション
さすがにつきる。

今後とも、永く、ご活躍を。

kaho nakamura at ko-en-dori

この後彼女はフジロックですごいことになったのだろうと思うが…

ふりかえる。

中村佳穂ちゃんと出会ったのは「シャキーン」の収録、神谷くんに誘われて
岩見十夢くんの手がけた詞を、十夢くんと佳穂ちゃんの二人のバージョンで録音する、という試みのときだった。

よく事情がわからずにスタジオに行った時にはもう佳穂ちゃんのテイクは終わっていて、
そちらにはぼくは参加していないので(神谷くんとのデュオだ)
のんびり十夢くんバージョンの準備をしつつ、出来立てのラフミックスをエンジニアの原さんがプレイバックしていたので聴くともなしに聴いていたのだ。

…なんと…いい世界(ホシ)の音楽なのだろう。

唖然とした、とか、はっとした、というのも正しいのだが、
彼女の多重コーラスの自在さ、ピアノのオーソドックスさと遊び心、
島の人? みたいな歌い回しの奔放さ、
気持ちいいだけじゃなくて野性味あふれるその声、
…まぁ形容詞は何が来ても虚しいね、

とにかくこの人は只者ではない。というかなんでこんな娘が大学生なん?

そして、こちらもめちゃんこレイドバックして空が広い、
十夢くんバージョンの傑作を録り終え、
佳穂ちゃんからいただいたサンプルCD「口うつしロマンス」を、
その春から割とヘビロテで聴いていたのだ。
「うつしマンス」って何? と思いながら。

その後、中野の店でライヴをみてぶったまげ、
高野さんとコラボしてる精華大のイベントも機会見つけて観に行って
いつの間にかKAIさんも衣装チームに加わったりしていて
そんなんでご活躍っぷりを遠くで眺めながら、いい刺激になっていたというか。

今年リリースされた「リピー塔がたつ」は、完全に最近のリピート盤で
ピアノも歌ももちろんだが、シンセ類も含めて音がめっちゃくちゃいい。

で、今回のライヴなのだが、なぜかひょんなことから、
東京でのアルバムリリースワンマンにゲストベースでぼくを呼んでくれた次第。
いやぁ冒険するなぁ。

訪京の際に、なつかしいVOXホールの脇のスタジオで2時間ほどうち合わせて
それから一月経って、忘れたころに渋谷の会場で会った、という段取り。
忘れてませんよ。

僕は彼女の音楽に必ずしもベースが必要とは思ってなかったけど
…ピアノの低音だけで十分じゃ…

そんな固定概念(?)を余裕で壊すぐらい、キャンバスの広い人でした。

シンプルなループと自然発生的な歌のパワー、
何か2000年代はじめに浸かっていた感覚にタイムトリップしたよう。

初心というか、これでもダテに大人になってねぇなーとか、
でも、やっぱ初心なんだよな。
お客さんも様々な年齢層、みんなたぶん…

グレートな時間でした。
多分、二度と味わえないシチュエーションでしょう。

佳穂ちゃん、これからますます多忙になるだろうけど、
また機会あったら、ご一緒しようね。

音楽をとことん楽しんで、770億人分のあの人と一緒に!

kahonakamura717intro

何かがはじまったの図 出番待ちの舞台袖から

サルビルサと並行宇宙

こちらから思えば信じられないようなことを考え
実行する人々が

反対からみれば全く同じことを考え
実行している

冷戦もそうだったと思うけど

9.11以降の世界や

3.11以降の日本や

潜在的アジアや

今の国内もまさにそうなんじゃないかな

色々な物語がそれを表していると思うけど

一番端的にはやっぱりこれだろうか

スズキコージ作『サルビルサ』

想像の世界では並行宇宙の物語は何層でも成り立つけど
ほんとの宇宙はどうなんだろう

正義ってそんなに都合よく、チケットで買えるものかな

創造と破壊と破滅と生存

前掲の続き。

アートは破壊と対局にある力なのか
創造と破壊は実は一対なのではないか
という事を。

ここはトリッキーなところで
破壊と創造はよくセットにして語られますし
企業、政治、そして他ならぬ芸術など
いろいろな場面で用いられます。
国際間においては、言うまでもなく
戦争の正当化に使われてきたわけで。

ぼくは、この破壊と創造のペアというのは
人を惹きつける半ば永遠のテーマだと思いつつ
これまでに起きたことを考えると
創造のための破壊ならなんでもOKということでは
ないんだなと捉えています。

破壊ではない創造としてのアート
というのはそういった意味で大きな理想であり
決して容易ではない課題です

ぼくはそういう 争いを飛び越えたヒント
みたいなものが好きなのですが

アートもたいがい、何らかの破壊を伴います。

方法論 ものの見方 共同作業
作品の否定 肯定

もしかしたら、一番たやすく、気楽に
破壊だの創造だのと言ってられるのは
芸術の分野だけなのかもしれません。

また なんの破壊もせずに生きている
ように見える人は
実はより危険なものを抱えているかもしれません。

ですが
何を破壊するとどうなっていくのか
どこから修復不可能な破滅になるのか
そういったことは
分野に関わらず みなが学び 考え 感じ取らないと
あるいはわかる人が支えていかないと
これから先
ぼくらが生き残っていくことは
難しいでしょう。

アートはその想像力の喚起力と
到達速度において
現実をはるかにこえるユートピアも
ディストピアも見せてくれます。

それは利害を全く飛び越えた
大きなヒントにもなりえるし

そこに利害関係が結びつくと
プロパガンダにもなりえます。

これまでも ずっとそうだったわけで。

また

今はこれだけデジタルが発展していて
想像力と並走し続けるヴァーチャルなテクが
猛威をふるっているわけですが

これらがぼくらを助けるのか破滅させるのか
これからますます
見極めていかんといけません。

ねんで。

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