ミャンマーへ、祈りに代えて|別所隆弘 / Takahiro Bessho
面識はありませんが、湖や航空機、空、人物…素晴らしい写真を撮られる方です。
人々の眼差しの凛々しさ、星空、無数のバルーン、市場。
最後に一つだけ、付け加えさせてください。どのような正義でも標榜可能ですし、正義とは単なる価値観の差でしかないというのが僕の信条です。でも、一つだけ。子どもを銃で打つ集団があるとするならば、その集団の掲げる如何なる言説も、純粋な悪であると僕は言います。それは悪なんです。
ミャンマーへ、祈りに代えて|別所隆弘 / Takahiro Bessho
面識はありませんが、湖や航空機、空、人物…素晴らしい写真を撮られる方です。
人々の眼差しの凛々しさ、星空、無数のバルーン、市場。
最後に一つだけ、付け加えさせてください。どのような正義でも標榜可能ですし、正義とは単なる価値観の差でしかないというのが僕の信条です。でも、一つだけ。子どもを銃で打つ集団があるとするならば、その集団の掲げる如何なる言説も、純粋な悪であると僕は言います。それは悪なんです。
子供の頃から自動車を苦手にしていたのに
去年からは運転席で過ごす時間が増えた。
コロナの中で、自分に責任を持ちつつ移動するには、今のところこれしかない。
えらく出費がかさむが、
それまで年に百回近く使っていた特急や宿泊を考えると、あまり大差ない気もする。
先日、久しぶりに中京を訪れた。滞在一時間弱。都会にくらくらする。いいものである。
高速の出口がことごとく右側なのに、慣れればいいのかな。
日曜、ちょっと段取りして、マルシェとやらにいく。
薫製のカモとキッシュ。びわこふきんに特別美味しい遠州のピーナッツバター。
駐車場から神社に参拝。
空気がいい。
ちずのちじんはお元気か。
部屋を払い、空っぽの空間にしばし。
荷物を積み込みドライブ。
いまだにわからないみちのえき。
Colin のハイトーンの音域はとても出ないと思ってたが
案外そうでもないかもしれない。
またやってみよう。
頂上と谷底。彼は誰よりそれを知っている一人。
そんな人の波動が、少しでも僕にも伝わればいい。
ミュージシャンは、折り返しにいる存在。
いいと思ったもの、受けた影響を、
吸収して送り返す。ある意味、運送業者のようなものだ。
その位置が、自分自身にフォーカスされているのか、
自分の背後か、それより前か。
それで表現や、その人のあり方も変わってくるのだ、とふと思う。
そういう意味じゃ、カメラみたいなもの、なんだろうな。
海と風と技術と音の街から、また別の場所へ
僕はエリアを移しつつあるのですが、
今日は1年近くリモート拠点を置いていた街へ、素敵な姉妹を観に。
Kitri は、そのデビュー前から、たまたま近くで観聴きさせてもらっているだけに
その成長(いや…それはおこがましい)、発展・進化・次元変貌ぶりは
驚きを超えていました。
浜松の楽器博物館の上にある、音楽工房ホール。
ずっと以前、BOOKWORM in Hamamatsu があったときに一度入ったきり、
でも、その周囲の部屋は何度も行ってました。
あるときは、海外の Berklee 志望の若者を、オーディションで手伝ったり
あるときは、部屋で音を出せないかわりに。
そんなホール。
二人のピアノの響きが空間と至近距離とを跳びまわる。
そして何より、声が。近くて遠くて近い。
んー、ハーモニーもメロディも。
力で推すのとは真逆の繊細さ、でも、か細いところが全然なくて。
これができるには、ものすごく、脱力と筋力と、信念がいると思うのです。
二人の声の個性が、(MC 含めて)出てきてたし、
こうなってくると、さらに魔法が…
経験や自信、家族ならではの共に過ごす時間、宝物でしょうね。
彼女らにとっての音楽は。
そしてその宝物を、ホールいっぱいに観せてくれる、すばらしいコンサートでした。
ほんとありがとう。
あ…マスク外したのは、この時だけです。念のため。
昨夜。思うところあって海岸をドライブし、
若干の胸騒ぎがしつつ帰宅、風呂から上がる。
東北では大地震。
こちらは無事であるも、当地の惨状と不安を思う。
関東も広範囲で停電だったらしい、とはいえもっとも大変なのは福島の人々。
どうか余震が早く収まり、人々が無事でありますよう、充分に眠れますよう、
コロナから人が守られますよう。
ごく型どおりの事しか書けませんが、本当に。
そして原発がまた暴れないよう。
まだ原子力緊急事態宣言継続中にも関わらず、
オリンピック誘致以降、ほとんど報道されなくなってしまった1F、
そして日本の沿岸に今も林立する原子力発電所や核施設が。
日本は、3.11から生まれ変わることができた筈なのに
そのチャンスを何度も逃して今に至る。
だが、辛いことの連鎖も
まだ間に合うという啓示であると思いたい。
ここだって、明日は我が身と常に思っている。
だけど、生きているうちは精一杯、何かを見出していたい。
物を持たないということ
最小限持つということを考える。
災害は物をため込むことの危うさを思い知らせたが
たとえ災害なくとも、墓場までは持っていけない。楽器も、宝物も。
むしろ、そうなったら他の誰かに使って欲しい。
まだ譲る気はないけどね。
楽器はたしかに人と一体化し得るが、人と楽器は別の命を持っている。
いい楽器の命は、一人が奏でることができた音楽よりはるかに長く続くのだ。
戦争さえなければ、だ。
人は物やクラウドの力を借りるけれども、それは自らにスパークを起こして
何かを見出し形にするためだと思う。
それができるまでは生きねばならない。やらねば。
舞台演奏をしないからといってやることがなくなるわけではない。
むしろ、音楽に向かう者としては、より多くを感じ、より実践できる刻でもある。
限られた時間であってもどう使うか。
朝思いついた曲ができたり、朝、気になった曲が、一日の終わりには弾けるようになったり。
それは誰のためでなくても、たとえ聴かせる人がいなくても。
大学の先輩も好きだったあの曲が、こうすれば弾けるんだと気づくこと。
音楽が自分の身体に乗り移る。それはどれほど大きなことだろう。
転写。この世の身は仮の姿。借り物。なにかがなにかに、のりうつる。
ギターで弾けるようになれば、それはベースに乗り移る。
一方で、ベースはたった4本の弦でも、成り立つ楽器でもあるのだ。
音楽の可能性はひろい。
競争心や上昇志向がなくなって、それから本当の成長だ。
それを実感できるのは、幸せなことなのだ。∞に。
走る。
スキニージーンズ、ぎりだが辛うじてストレッチ。
あの感じを思いだす。振り子。
体が左右に揺れる感じ。小学生の頃掴んだ感覚。自分の波を、超えていく。
思い出した。やっと。
いける。
いろいろなことを身体や脳が思い出す。
いけるかもしれない。
自分として、ということ。
そんな幻想を、しかし、かすかなれども、確かに、感じた二月十四日。
『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界』も、ついに読み終える。
すると。これから読みたくなるもの、だらけなのだ。
表題はもちろん Tom Waits。
これを初めて聴かせてくれた人。その後想像もつかないけど、元気だといいな。
あれも震災の年だった。阪神淡路大震災。京都のスタジオの面々。
僕は、元気で、やってます。いろいろ、あったけどね。
朝から Pat Metheny の曲が頭でループし、弾いてみる。
ずっと好きな彼の一枚目 – Jaco とのトリオ – 後半の曲だが、ギターで弾いた方が理解が深まる、という当たり前のことに今頃気がついた。だが当然の如く、ほとんど弾けない。
それでも、辿々しい指先から、いろいろなことを学べるのだ。演奏技術に関わらず、楽器ってそうだと思う。
Chick Corea が亡くなった。朝からいろいろなところでトリビュートコメント。
僕はこういう流れに乗るのが苦手だ。
だけど、彼は言うまでもなく偉大で、多大に僕も影響を受けている。
僕はピアノも弾けないが、割とトランスクライブした人でもある(タッチが明瞭なので)。
90年代末に Blue Note NYC で彼を観れたときはビッグバンド編成で、ごく正直にいって、わからなかった。
あまりに広い活動のごく一部しか受け止めることはできなかったし、共演を夢見ることすらなかったが、良く聴いたのは Patitucci, Colaiuta との Humpty Dumpty と Tumba のライヴ録音かな… Blue Note Tokyo の。
そして Vitous と Haynes との Now He Sings, Now He Sobs と、やはり最初に聴いたカモメの Return to Forever。
あまりいろいろ聴き集めることも、弾き倒すこともできなかったが、彼の音楽は思考をクリアにしてくれたり、想像をまっすぐ突き進めてくれたり。その中に潤いを感じさせてくれたり。ロマンチックでロジカルな夢をたくさん見せてもらいました。
捻れてもまた真っ直ぐになる、プレッツェルじゃない理論の使い手。Fagen とはまた違ったダンディ。
つづく。本日はまだ続いてる。RTF の鳥はカモメじゃなくてカツオドリ、なんですね。
宵。久しぶりにお気に入りの店を訪ねる。まだ3度目だが、ずっと昔から通ってたような心地になれる場所だ。
というのもここの店長さんならきっとその話ができるだろうと思ったからだが、
果たせるかな、カツオドリが羽ばたいていた。
ここには sonihouse の多面体(ほぼサッカーボール)スピーカーが吊ってあるのだが、たたずまいも音も気持ちいい。
スピーカー自体の設計もそうだが、その配置 – 当然、それを含めて設計しているだろう – がいいのか、
空間と音の流れがとても、人の動線や会話の流れと馴染む、そんな気がした。
まぁ個人で手が出る値段ではない。置いてある場所は、貴重だと思う。
そろそろ例の丸眼鏡を直したい、と思う。
いや、眼鏡本体は健在だが、要であるクリップオンのグラサンが破壊されたままなのだ。
もともと全く関連のない、たまたま Westwood の店でセットで売られていた、イタ車とアメ車だ。
いや国を跨ぐのは珍しいことではない。ACコブラとでも思っておこう。違うか。
真面目なことをいうと、このグラサン部分は DKNY とあるが、何年検索してもダナキャランでこんなものは作ってないし作ってた形跡もない。
Lennon タイプでもこのブリッジの波形部分は独特だし、入ってるレンズも暗くなく眩しくもない、ステージでも運転でも絶妙だったのだ。
数年前にツアーの最中、名古屋の眼鏡屋から鯖江に送ってもらい、ピンポイント溶接で直してもらった。
だが、数ヶ月でまたポキっと取れた。ワイヤーを変えて溶接してもらう、ぐらいの事が必要だろう。
完全オリジナルに拘って強度を犠牲にするのではなく、いい形で直して一生使いたい。
Metheny の曲は、少しは…マイマイの速度で押さえられるようになった。やっぱ真面目に取り組むことだよ。
と、ちっとも真面目にキャリアを形成してこなかった自分が思う。
そろそろ、またムーミントロール前史の解読に取り組むか。
ホールはひろい の続きである。
1.29にNHK大阪ホールで演奏していた内容は収録されていて、配信される。
前回11.19、東京での公演も収録され、こちらは先に確認に観せてもらった。
とてもいいコンサートだったな、と改めて思いつつ – 自分の痩せっぷりには改めてびびったが – 次のアルバムに入るようですよ。
今回は、また違う感じのコンサートになったかな。
– と書いているうちに、実はもう配信されていて、本日いっぱいまでアーカイブです。
トリオどんの唄が素晴らしいですよ。僕は髪がだいぶ伸びて、見た目はこっちの方がサマになってたかな。
舞台は深い。そこに辿り着く多くのもの。
例えばこれを車の部品と完成形に見ることもできるだろう。
さまざまな商品の発表会に投影することもできるだろう。
だが、少し違う。いやだいぶ、違う。
演奏舞台はシステマティックにもできるが、それだけなら全部同期にすればいい。
口パクでもメロダインでもホログラフィでも VR でもなんでも使えばいい。
しかし、人間がやることとテクノロジー、決まりごとと決まってないことが同居する舞台。
それは、本当の舞台の姿だと、僕は思う。
そしてそれをやっているのが、大橋トリオ というアーティストだ。
彼は楽器演奏の才人にして、声も天性、作編曲もマエストロという、魔法使いのような人であり、まぁ書ききれないが、なおかつ人間臭さ、ユルさも持っている。
ここ何年か、この人の舞台に加わることができ、とても光栄、かつラッキーであった。
音楽をこんな面白いバランスで続けているアーティストは、本当に貴重です。
これからも、彼の活躍を信じ(るまでもない)、遠くからではあるが応援したいと思う。
ここからはご挨拶になります。
足掛け二年、しかし体感時間はあっという間だったツアーを無事終えることができました。
感染対策や振替公演、難しいやりくりを実行してくださったすべての関係者、メンバー、
そして、こういう状況にも関わらず、安全に気をつけてご覧くださったオーディエンスの皆さんに、改めて深く感謝申し上げます。
ここで、ある程度の時間をとって今後を考えたかったのですが、
そうもいかない事情もあり、結論を出すことにいたしました。
僕はこのツアーを持って、大橋トリオチームでの演奏活動から退きます。
このコロナ禍に対する僕の警戒レベルは、おそらく常人の倍以上。
陽性確認者が減る一方で死亡者が増加する? という不可解な状況で、情報が錯綜する中、これからがますます読みにくくなる。
そんな中、長距離を跨いでの生演奏活動を続けることに、東海地方在住の僕にはさまざまな面で無理があります。
本来ならば、ここは関東、関西どちらにも移動しやすい上、
また僕の観点では、情報過多の都会から距離を置きつつ創作・発信していく方が面白く、距離をさほどハンデには感じていないのですが、生演奏はリモートとは違います。
発信先がリモートでも、発信元は同じ場所にいる必要が(現在の技術ではまだ)あります。
また、特に ohashiTrio band のようなバンドマジックを生む為には、ディスタンスはあまりいつまでも有効には働かないことも、わかっています。
東京圏の音楽家たちがこの状況で頑張っているのも見聞きしているし、最近は実演その他も活発化しているようにも思える。それは、彼らの判断です。
彼らとして最大限の注意をし、仲間を大切にし、仕事と人生を大切にしている。もちろんガイドラインにも沿っています。
しかし、越境しながらこれをやるということは、僕一人の問題ではすまないことになります。もし感染を持ち込んだら。
そして医療はどこも、大変です。
音を作る、曲をつくる、詞を作る、それは引き続き、可能な限りやっていきます。
対外的にはともかく、自分の中では、それらは着実に育っています。
あるいは、単発のセッションはあるのかもしれない。
リモートのお仕事は歓迎します。
舞台の素晴らしさを改めて知った今、
それを自ら絶つことに虚脱感もあるのですが、
それも捉え方次第。The World is Mental, です。
もしかしたら何かで花が咲くかもしれない。
僕にはやりかけのことがあり、吸収したいことも、沢山ある。
そして、近年一番大きな、日本でも最高の音楽仕事であったチームを、
離れることにいたしました。
大橋くん、この縁を作ってくれた神谷くん、メンバー、
そしてここ5年余りの間に出会った
すべてのミュージシャン、スタッフ、トリオファンの皆さん、
本当にありがとうございました。
ごきげんよう。
ホールは屋根が高い。
奥が広い。
普段の部屋とこーんな違う世界。
味合わせてくれて
あんがとよ。
マスク越しでも
楽しんでくれれば
嬉しいな。
Thanks,
Ray
満月。霧。雪。曇り。
地域によって異なる空と地平。西へ走る。
水面対称の逢魔がとき。湖岸に想う。
流れてきたスーパートランプに聴き入る間も無く
エアコン爆奏。デフォッガーに左右を問いたくなる。
満月に合わせるともなく
詩を公開。詩っていうか詞ですが。
曲の形はできたけど
ゆっくり
つくってる。
また、旅が終わったらね。
土と木の星の共演はすばらしかった。
鏡筒の中で
ぷるぷるぷる
震える惑星
左が土星
環に見えなくもない
位置関係は
引っ張り出した望遠鏡の
直角鏡筒の接眼レンズ側に
iPhone を当ててるからこうなっているのであって
実際は違いますよね、確か。
旧友のフォトグラファーに教えてもらった方法
寒さで震え、強風で望遠鏡が震え、これ以上の倍率では視野におとなしく収まってくれなかった
木星と土星。
しかし眼ではもう少しくっきり見えた。感動。
小さい頃は…
今頃とっくに、土星に「行けてる」と、思ってた。
土星が大好きで、なんならこの世の中で一番好きなものは土星だった。
いつも、落書き帳に土星の絵を描いていた。それぐらい。
それからは、何が好きだろう。
ハイハット。オムライス。いなり寿司。黄色くて楕円形、というのが共通項だが
これらも、土星に由来していたのか。知らんがな。
だが天体観測は早々と諦めエレキベース始めたし、
以来惑星の運行がさっぱり頭に入らなかったから、
望遠鏡でも土星を見たのはこれが初めて。
もう一度ぐらい、自然の中で見たいものだ。
畑に行くと、とっくに山の奥に二人は隠れていた。
その他全天に火星と月と恒星たちが広がっていた。
次の曲。
今年はあともう一回、満月が来る。
次は Ray Kondo 名義で、リリースできるか、できないか、というところ。
不慮の案件に忙殺されれば、できない。
年末だしもう24曲出したしそこはご了承願いたい。
だが、できそうな気もする。
今作っているのは、ひとつは変拍子。
だがもしかしたら新しく書き下ろすかもしれない。
どちらがよいのか、わからない。どちらかが木星で、どちらかが土星だとして?
頭を使いすぎてパンクしそうになり、
たまらずに車ででかける。
今は冬なのか秋なのか。海か山に行きたい。
紅葉が観たいがあまり見れる気はしない。
海と山に行く。
金延幸子の『み空』はこのブログでも何度か書いているように
愛聴盤であるが、全曲に精通しているわけではない。
ハミングキッチンのイシイモモコちゃんに教えてもらったのが最初で、
彼女らと、ドラムの林立夫さんご本人と一緒に「あなたから遠くへ」をやったこともある。
懐かしい湘南の日だ。
絶妙なバンドアンサンブルとフォークギターのみのオーケストレーションの対比する
僕がそう記す必要もない、名盤中の名盤だ。
だけど僕が全貌を理解するには、たぶん一生の三乗はかかるだろう。
最近車では iPhone – Bluetooth ばかり使っているが
Apple CarPlay なんてのがほんとに、ホントに、本当に、鬱陶しいし、
何度も「今後は(二度と)使用しない」を選択しているのにランダムに復活する。
カーナビを頼りに初めての山道を走っている最中に、突然立ち上がって画面を占領したりと、
マジで命に関わるぐらい怖いので、ああいうアプリはやめて欲しい。
思い上がったグローバルテクノロジーに殺される人、いっぱい出てくる、って肌で感じる瞬間。
こんなくだらない理由で終わりたくはない。
そんなわけで、時々 iPhone を絶って、CD を聴いたりする。
もう家で CD を聴くことはないし、ましてアナログを聴く環境は僕にはないけど
へんなところで CD。Toto Bona Lokua, Alexandre Andrés, Ojo De Agua。
金延さんに入れ替えて、気がつけばアルバム三周。
あまりにも すばやく
はやぶさは
山を超え やって来たから
…どうしてこんなにとびこんでくるのだろう
羽をのばしたわ
青ざめ空
あざける雲を後にして
このアルバムではさまざまな「青」が謳われている、けれど
あおざめぞら、は、すごすぎるよ。
昨夜見た、筋金入りの音楽ライターの方の Roundabout / Yes の評を思いながら
この曲も8分あるんだな、そして、編成はフォークギターと唄だけなのに、
完全にプログレだな、と思う。