いいなりになるのはやめよう
すべて、昨年夏のナイ・レポートのいいなりになって喜ぶヘッド
恥ずかしい
シナリオ通り
ああはなりたくない
昔、やのまことさんから聴いたことに
自分の中にアフリカを持つというのがある
リズムをinternalizeするということ
火が、マッチから棕櫚や松に移るとき
何が起こるだろう
移したとしても、中で燃えている
そう、自己責任
かもしれない
それでも
自分が燃えるために
内を灯そう
きいたもの かいたもの
色がかわってくるように
いいなりになるのはやめよう
すべて、昨年夏のナイ・レポートのいいなりになって喜ぶヘッド
恥ずかしい
シナリオ通り
ああはなりたくない
昔、やのまことさんから聴いたことに
自分の中にアフリカを持つというのがある
リズムをinternalizeするということ
火が、マッチから棕櫚や松に移るとき
何が起こるだろう
移したとしても、中で燃えている
そう、自己責任
かもしれない
それでも
自分が燃えるために
内を灯そう
きいたもの かいたもの
色がかわってくるように
世界は王国だけじゃない
王様がいる世界なんてお伽噺だけのこと
…でもないけれども
少なくともこの国には王様はいない
いや、随分長いこと、日本に「王」は居なかった気がするのだが
額田王とか、そういう
…
ちがうか
しかしなんで、日本語を話すぼくらでもこれほど「王」という言葉が身近なのだ
…
世界は王を求めているのだろうか?
宮崎駿の「風立ちぬ」はまだ観ていないけれども
彼の作品は大人になって、いろいろな見方が出来ると判ってから
好きになった
子供の頃は「カリオストロの城」ぐらいしかピンと来なかった
「風の谷のナウシカ」は惹かれたけれども意味が分からなかった
他は、画がかわいすぎたのか、ヒットしすぎてたのか、敬遠した
今では、原画スタッフで関わった「空飛ぶゆうれい船」から
「未来少年コナン」からルパンの「死の翼アルバトロス」にしても
「ハウルの動く城」にしてもとても深いものだとわかるけれども(遅いか)
しかし中でも一番強烈なのが漫画版の「ナウシカ」で
この後半部の展開は現在露わになりつつある実世界の枠組みに
恐ろしいほどに迫っていると思う
そこでは幾人かの「王」が登場する
森の人の王、エフタルの王、トルメキアの王、土鬼の王
そして蟲の王
無垢を意味する巨神兵の「オーマ」も(「オーム」との類音だけでなしに)
王を想起させる
まぁ、なんで宮崎作品では重要な配役がことごとく王子や王女ばかりなのかと
そういう疑問もあるのだ
民衆の殆どは、王家ではないのに… なんして、これで支持を集めてるの? ってやつだ
おれらって、届かない権力者に憧れて、結局支持するの?
みたいな
ともあれ
彼ら、彼女らは「誇り高い」とされる
「誇り高き」「気高き」という形容詞が、たとえ争う敵同士であっても共振させ
結びつけるという鍵にはなっているようだ
ふぅん
たぶん
それには同意なので
無理矢理理由の一つを掘り出せば
おれらって、自分の王であるべきなんだよな
現実の身分に関わらず
…ってことなんかな
与えられた生を最大限に全うする
それって多分、自分に対する王道なんだろうな
と思う
社会的には「誇り」って何かという大きなトラップがあって
だったら軍事力を増強すればいいのか、だったら周りをサゲればいいのか
カネ撒いて嘘をついて目隠しイベント呼べばいいのかとなりがちだけれども
ボロボロの中でも誇りを持つ
時にはボロをさらけ出すことが
実は誇りなんじゃないかなと
そんなこと思う
2013のあきである
ふとCartoon Networkで「裸の王様」を観た。
いつのバージョンかわからないが、「おさるのジョージ」みたいなテイストの画とテンポで、
偽仕立ての二人組が冒頭からかなりワル、すっ飛ばしていた。
劇中、見えない生地や服を「…言葉に表せないほど…すばらしい」と誉め称えて作り笑いをする宮廷や街の人々は、
新幹線に乗っては「今こそ原発推進に舵を切れ」という雑誌の大見出しに「…そう…かもなあ」と内心うなづきかけている極東のスーツメンたちにとても似ている気がした。
強迫観念、同調意識、上昇志向。そして自主規制。
雑誌は、たとえ購読させなくても、見出しやポスターだけでも「チラ見」効果を出してしまう。
だからこそ、大元は莫大なカネをかけて、駅の柱や廊下にもポスターを貼り出している。
それが、ある程度のカネ(そして経費)をかけて移動している人々を集中的に狙っている事。
とても判りやすい。そしてとても狡猾だと思う。
それはそうと、Cartoonに戻ると
裸であることを少女に暴露された後も、人間の裸は美しいものだと開き直り、歩いて行く大臣と王。
迷惑をかけた元仕立て屋へのフォローも忘れない。
なかなかやるなと思った。
シリアをミサイル攻撃するのが良いなんて思っているのは
ごく一部の人間だと思うのだがな。
普通に生きていれば、これまでどれだけの戦争が
でたらめな理由で起こされて来たかぐらい、わかるだろう、というのが
僕の実感だ。
ごく一部の人間がメディアを操作して
怪しい「正義」と「最優先事項」を作り上げ
多くの人を殺戮し、大儲けをする、或は権益を得る。
そんな世の中は、もう沢山だ。
と、思わないのか?
これに対して疑問も呈することのできないメディアなら、
僕らのインターフェイスとしてふさわしくない。
フェニキア文字が生まれた地、シリア。
ことばの故郷に火をかけて、よく平気でいられるな。
「シカタガナイ」
この言葉を自分の辞書から追放しない限り、日本人はより良い暮らしを、より自由な人生を手に入れることはないだろう ―
カレル・ヴァン・ウォルフレン の主張。
彼は311のずっと前、1990年代(あるいは80年代)からこのことをずっと言ってきている。
今更だか、今だからか、物凄くこのことが気になっている。
これは、彼が外国人だから言えることだろうか?
お盆のあたりからこのことを意識している。おかげでブログの更新が滞ってしまった、というのは半分嘘にしても。
というかこれは自分にとっても、とてつもなくハードルが高い。「仕方がない」「しゃあない」と思わずに、オレはこれまで生きてこれただろうか?
ウォルフレンは、この思考がある種「成熟した証拠」とされる日本社会が、いかに上手に市民の疑問や政治的行動を初期段階で抑制してきたかを説いている。
自分の周りにある「リアリティ」と自分が感じる「リアリティ」が整合しない状態が続くと、やがて人は状況にはまりこんでしまう。ここで生まれる言葉が「シカタガナイ」だという。
たとえば、矛盾だらけで突っ込みどころ満載のニュースが毎日毎日報道され、それが一~二年もすればすっかり何もなかったように忘れ去られてしまう。また、それを待っていたかのように、おかしな施策が「肯定」されてしまう。
あれ、おかしいぞ、と感じていた人も、やがてこの言葉と共に、おとなしくなっていく。
「シカタガナイ」
これは危ない。とてつもなく危ない。直感的にもそう思う。
一方で、自分が「しゃあないやろ」と言って物事を切り替えながら生きてきた経験ってなんだろう。
つまらないことなんだろうか。或いは「シカタガナイ」には、昇華と自粛のように、いくつか種類があるのだろうか。
わからない。こう思うこと自体が、自分がトラップにはまりこんでいる証拠なんだろうか。
―
ひとつだけ感じたことがある。これは、ある種の灰色の青、グレーをまとったブルーみたいなものだ。
a kind of blue grey
これがブルーズだなんて言いたくない。だけどある意味これが僕らが向き合うべき、ブルーズなのかもしれない。
5月に蒔いた5種の種、どれも元気に育ち
バジルなどは何度もジェノベーゼを食べられるまでになっている。
次はシソ、トマト、その次はトウモロコシを作りたいものだ。
子供のころ、田舎では「ナンバ」といって、
夏に訪れる度に両手一杯穫って、食べさせてもらっていた。
祖父母のいなくなった田舎に帰らなくなって久しいが、
あの頃は、遺伝子組替玉蜀黍なんて、考えもしなかった。
「脱グローバル論」を寝る前に読み終える。
内田さんの論はだいたい既読だが(自分で売る本の内容をブログに前もって記載してなおかつ買わせるって凄いよね)
中島岳志さんの話に背筋が寒くなるぐらい同意を覚えた。
昭和維新の話、2008年の秋葉原事件直前に、後の犯人が福井のアーミーショップでの店員のやり取りに「店員さんいい人だった…人間と話すのっていいね」と感動していたという話、
そして地域社会の「ボンディング」と「ブリッジング」の話。
ほっといてくれるということと、声をかけてくれるということって、実はメビウスの輪でつながってる。
哲学者・詩人の今道さんがその生涯で出会ったさまざまな人や本との、「思い出」の記録。
時間はかかるものの、じんとしながら読んでいる。
(どうして敢えて「思い出」なのかは、冒頭に記されている)
モロッコ行きの客船の「底」で出会った、もの言わぬ日本人兵士。絵描きを諦め、フランス外人部隊に入隊したが一言も話さないため、上官から危険人物として排除される直前だった彼は、日本にいる母への手紙を託けて戦地に赴いた。少しは喋る、と約束して。
その翌年に理由あって今道氏は再び一人でモロッコに向かう。サソリが巣食う砂漠の夜に付き添いの現地人は何をしてくれたか。
もう50年以上前のお話ながら、なんという臨場感。
正反対の方言に悩みながら、友や師と夢を語った山形、土佐での中学時代。
東京の成城学園に戻り、思想調査で退学となったあとの旧制一高(東大教養学部)生活。
戦時中、国家統制を強めた政府に対する教師たちのことばが突き刺さる。
軍隊で将校になりたい人は飛び出していきたまえ。死ぬ前に一行でもこのシェークスピアを読みつづけたいと思う人は読み終わるまで残りたまえ。 — 授業の最中に防空演習のサイレンが鳴ったとき、英語の「峰尾都治先生」
今日は皆さんにお別れを言わなければなりません。私はあさって、三等水兵として海軍に入隊しなければなりません。世界は乱れています。しかし、知性の勝つ日はやがてくるでしょう。皆さんはどんな状況にあっても、そう信じて、文化の道を歩んでください。 — 西洋史の「林健太郎先生」
そして。
人間は理性的動物だと言うけれど、詩を創る存在だと言われるほうがぼくはうれしい。詩の世界に生きることは、この戦争の世の中でも汚すことのできない次元を見つけることです。どうして同じ言語が人を殺害する行動や命令や煽動に使われ、そのことを誇りにする人間が多いのか、僕にはわからない。 — ドイツ語の「片山敏彦先生」
ぼくは東大卒ではないし、真面目に勉強しても、入れなかっただろうけれども、
こういう人たちの課外授業を、50年越しで受けてみたいと思う近頃。
* ご存知の方は多いとも思われるが、この方は僕が敬愛するギタリスト・作詞作曲家のいまみちともたかさんのお父さんです。
酒に酔っているとわからないことが、素面で酔っぱらいを守る側になるとわかる
「こいつら、アブね〜」
そんな土曜日
とにかく咀嚼しようと平さんの著書『なぜ少数派に政治が〜』を読んでいる。
原発については完全同意。税制、生活保護などについて、正直不可思議な部分もあるが、いいなーと思ったこと。
「伝統工芸の保護」
衰退しまくっている日本各地の伝統工芸を守りたいと思う人々は、(この本の主題である、多数派にみせかけた)少数派ではなく、実際の多数派だろう。
だが、ここで伝統的工芸を守るために何がやられているかという話。
経産省が認定する伝統的工芸の産地は全国に200あるらしい。
産地ではまず「事務局」ができる。「〜協会」とか言うやつ。そこがお上とのパイプになる。
で、その事務局が何をやるかというと、パンフを作成したり、展示会をやったり、雇用調整をしたり。
ところが、経産省がやる支援とは、この事務局を窓口として支援することであるため、
事務局はその存続、または経費維持を第一に考えてしまう。
本来の目的は「技能」「職人」「産業」の継承であるのに、事務局だけが立派になる。
あるいは事務局だけがなんとかやっている。
そりゃ、立派なパンフを見れば、おおやってんな〜、みたいな印象は残る。
遠く離れた都市の駅構内で展示会をやったり、地元の駅前に「〜産業館」があったらそれは励みになるかもしれん。
でも実際の職人が殆どおらず、ろくな賃金も貰ってなければ、意味ないやん、て話。
だから補助金の多くを、職人を直接支援することに組み変えていくべきではないかと思う。事務局を維持する前に、まず技能の担い手を育成するのが先だ。その結果、その産地の工芸品が売れて、事務局への上納金が増えて、事務局が維持されるという回転でなければならないはずだ。 (p.82)
これ、確かにそうやわな。
で、その方法論の一つとして言っているのが、
産地ごとに2〜3人ずつ、2年交代ぐらいで国家公務員にし、彼ら、彼女らを伝道師として若手を指導してもらう。その間は自分の仕事ができないので(ここ重要)、国として雇う。
まぁ、事務局の中にこういう仕組みが出来ていればそれでよさそうな気もするし、上納金って何? てすっとばす人もいそうだし、何より、誰がその2〜3人になるかで利権争いが起きそうだが、
とりあえず事務局の財政支援、というやり方では遠すぎるでしょ、という話。すごく面白いというか、ビジョンが湧いてくる。
そうすりゃ、実際の現場に近い人々が、国にもっと関われるわけでもあるしね。
ほんと、そうやって物事をばらして行けば、どこにでも政治はあるし、
誰もが本来やってることでもあるんだな。
ここで三宅洋平の言うことともつながってくる。
ようやく手に入れる。かなりガツンと来ている。
村上春樹は、バルセロナでのスピーチで、原発事故を引き起こした原因は「効率」を最上位にした社会だと言った。
原子炉は効率が良い発電システムである、と電力会社および政府が主張した(今も主張し続けている)こと、それを受け入れてしまったことがあのシステムクラッシュに繋がっており、
また産業全体や、我々一人一人のライフスタイルが効率、低価格(経費削減)至上主義であることがどれだけ危険か、気づかせてもくれている。
ところが。
理性で考えればはるかに「効率的」でもある、地産地消の小規模発電システムやスマートグリッド、市場競争を促す発送電分離が、これほどまでに妨害されるのは何故だろう。
平氏が、再びひっくり返してくれている。
実は彼らが本当に望んでいるのは、効率にみせかけた「非効率」だという。
利権というのは、限られた少数の者が富を分配する構図の上に成り立つ。その構図を守るためには彼らは全体最適など決して望まない。全国津々浦々の電力会社など好まない。自分の存在理由がなくなるからだ。だから彼らはいつまでも非効率なシステム、やり方が好きなのだ。(p.36)
戦前には、電力会社が全国で500もあったらしい(!)つまり、元々はそれで成り立っていた。
これを戦争直前の1941年、配電統制令で9つに統合している。
現在の電力会社体制は、戦時体制のままだったのだ。
なぜこんなものが残ったか。朝鮮戦争に備えてGHQが例外的に戦時インフラを維持させたものだろうという。
そりゃ…ほぼ軍部の考え方で構築された電力会社なら、一般人の意見なんて聞くわけがない。一般国民 = 徴兵制で集められる兵士、みたいなものだ。そう考えると総括原価方式も、合点が行く。
この第一章は衝撃の連続だが、続く章も凄い。
建築業界での「中抜き」や、年金制度を巡る対立の実態が、ラジオDJ、衆院議員、経済産業委員会理事でもあった経験を基に書かれている。
そしてものすごく建設的な意見が溢れている。
まだ途中だ。発見はさらに続く。
これ、あれだな、
いろんな業界がシステムと個人事業主を使い分けて行く中で歪みを大きくしているけれども、音楽業界もまじでこういう視点で色々考えた方がいいんじゃないかなぁ。
だって、音楽家って、ほとんど個人事業主だぞ。
(追記します。たぶん)