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スプリンガー52

一日遅れ、朝刊がわりの日記を続ける。

新聞紙を時折読んで思うのは、その文字の多さ。
広告もあるが、よくあれだけ文字で埋め尽くせるものだ。
権威を持って。

新聞記者の仕事に、改めて恐れ入る。

とはいえ、メディアが危険、という認識は変わらない。
2012年後半、野田〜安倍政権以降沈んで落ちていった報道の自由度は、
十年を経て、統制の海が喫水線を超えている。

それとも、ずっとそうだったのか。

「善悪の判断を超えてひたすらキーボードを打ち続ける取材者」と評する人がいる。
その真偽はわからないが、自己投影してみる。
「それが記者なのだ、私は意見者ではないのだ、まずは正確に記すのが使命」
という認識が出てくるだろう。だがそれならロボットで十分じゃないか。
葛藤に苦しむこと、間違いないな。

この日記も、いっそ「新聞紙」並みの文字量で、その日考えた事を全部記してみようか、と思う。
馬鹿げている。五七五と真逆。


音符にも似たところがあるかもしれない、とも思う。
あるいは音数にも。


僕は音数の、編成の少ない音楽が好きだ。そういう意味では日本的かもしれない。
一方、「巷の」日本の音楽や広告、媒体、そして都市でまず感じるのは詰め込みだ。

僕にとっては、無駄な情報ばかり。狭い場所に詰め込むことで、余計に窮屈に感じるのはなぜだろう。

そんなわけで、僕の中での日本文化は、いつも矛盾している。
水墨画のような表現、空間の美、そういうところが好きだ。

それらは日本の中の「広い空間」で編み出されたものとは限らないのだが。
むしろ狭い空間や精神世界から広がりを、それが僕のたどり着きたい日本なのだろうか。


最低音楽器と最高音楽器の繋がりはどこか、と確かめる。
案外、きれいに繋がりそうだと知り、嬉しくなる。これなら何かできそうだ。
今年中には、何か形にしてみようか。


そっか、僕の周りにあるのは、いつも両極端で、葛藤で、矛盾なんだな。
改めて認識する。でもその上でやってくよ。


数年前の年末に有馬温泉土産で買い、残しておいた 自宅温泉風呂パック を使う。
パッケージに「大日本摂津國有馬町」とある。
OEM 生産で製造販売者は新潟の「環境化学」。ギターでいうマツモクみたいなものか。
成分は主に塩と酸化鉄。
販売商品名は「スプリンガー52」。ターミネーターみたいだな。
いろいろと発見。温まって就寝。

フライングパン

餅を焼くのにみんなはどうしているのだろうか?

うちでは
魚焼き〜匂いがつく
ガスコンロに網乗せ〜真ん中しか焼けない
電子レンジ〜使ってない
オーブン〜貴重な道具を餅の事故には遭わせられない

というので、暫定的に「フライパン」にしたのだが
これが圧倒的に簡単で、いい具合に柔らかくなるのでビビっている。

なんだったのだ他の方法は。


地道に初歩練習、音域の解読、音源のアーティキュレーションの解読
今の今まで、使ったことのない機能。10年以上前から知ってたのに。
触るとめっちゃ簡単だったが、キースイッチよりもパッチチェンジの方が役立つ時って、
どすればいいんだろうか? 今の音源にパッチチェンジってそもそもあるの?

昔の練習用データを掘り起こし、バックアップの整理。
NAS の容量も足りないので、要らない録音ファイルもがんがん消していく。

昔は、難しいエチュードやトランスクライブを弾くときに、まず DAW で「写譜」して
それから楽器で練習することもあったのだが、それって DAW にはまると
データ作りに時間を割いてしまって、肝心の楽器に触る時間がなくなったりする。
それで阿呆らしくなって、放棄したデータも山ほどあるが、うまく使えばやはり役立つ。
詰めすぎないこと。生を主に、テクノロジーは従に、というのがここ数年の基本姿勢。

今年は少し段階を進めて、テクノロジーも見直す。

データと楽器と、身体的には真逆だが、両方ないと、です。
ただ、データは消せるけど身体は消せない。
一方、身体が消えてもデータは残ってくれる。残ってしまう、かもしれない。

過去の常識の通用しない「人生」。これからどう過ごすにも、答えはないのです。
「モノ」を残す気のない自分。
子供の頃はものづくりにも憧れた、と薄く思う。


Flying Pan とは初期のエレキギターの愛称。リッケンバッカーが作ったラップスティールだ。

もうこれ以上楽器はいらない、役目を終えれば減らすだけだろうと思う自分が、
昔のリッケンには憧れる。
チューリップ型のグリーンのギターや、フライングパン。かわいいもんな。


今年の目標は一つ。

早寝
早起き

これ基本っしょ。

反復記号

古くから持っていた楽譜を、再び見ている。楽譜といっても教則本だ。

子供の頃、どれだけ練習していたか、目を瞑っていたかったけれども再び見る。

自分はこれまで、いくつかの事に打ち込み、そのうち半分ぐらいが上達し、ほかはそうでもなく、
いくつかは仕事にもなった。

何事も「トップでなければ意味がない」という強迫観念のようなものを持つ一方、
「優劣や競争に意味はない」という真逆の考えも持っている。
つまり完全な矛盾でバランスをとってきた。

これで得したこともあるし、損したこともある。
つきつめれば損得にも何の意味もない。

が、物事を何度も見返し、感覚の電流を都度発生させて、テープヘッドのように繰り返し感じ取り、表していくことは大切だと思う。反復は何事にもあてはまる。魚の尾びれが動き続けるように。

目をそらし、埃をかぶってきた教則本と楽器を出し、1ページずつたどっていく。
昔どれぐらい自分はやってきたのだろう。
耳を貫く音色と、呼び起こされる感覚とともに、
その練習の甘さに愕然とする。同じ弱点を、そっくりそのまま残している。
これだけしかやっていなければ、そりゃ途中でやめるわけだ。

だが。

こういうことの面倒を見れるのは自分でしかないし、再びやり直すことにする。
生で披露できるとは思えないが、運が良ければこれから、何かしら形にしていけるだろう。


日没は早い。昨日の午前七時頃、海辺であれほど多くの人を射抜いた太陽が、二度目の夕陽となり沈んでいった。

その前一瞬、この部屋には素敵な夕陽がさす。昔から西日の部屋で過ごすことが多かった。それもあってか、少し落ち着くのだ。

謹賀新年

除夜の鐘と美しい星空

有明の月からの初日の出

見事でした。

今年はとてもスローに
走ろうと思います。

世の中のあらゆることが気がかりですが
それゆえなおさら、じっくりいこかな。

皆様にとって、よい一音、一言、一光の
巣舞う年でありますよう。

丑年を振り返る

今年を振り返る。

都会に出たのは一度だけ。たまに街に行ったが、基本ずっと部屋と運転席にいた。

皮肉にも、遠征の消滅により仮住まいに住む必要がなくなり、
自宅に戻れたのは幸いだったが、運動不足解消のために導入した「ぶら下がり棒」が
家の壁を破壊してしまい、約3時間で断念したのは本年最大の失敗の一つ。


壁の穴をごまかすために、貼っている絵葉書


家と音楽

ここ数年、知人の音楽家たちは口を揃えて「家に音楽室を作る」「防音室を入れる」「新築する」という話をしており、素晴らしいと思う反面、自分は真逆の、「楽器不可物件」に仮住まいせねばならない状況に、軽い絶望を感じていた。

無論「楽器可物件」だったり「アビテックスレンタル」だったりを探したものの、いくら探しても僕の地域では見つからなかった。アビテックスに至っては、コロナでレンタルサービス自体が停止になり、八方塞がりの状態だった。これも演奏活動を辞めざるを得なかった理由だ。

プロの音楽家なら、音を出せる環境など当たり前だろう? と思うかもしれない。
だが、そんなものは易々とは手に入らない。人生は幾重ものラッキーで成り立っている。

それを乗り越えて無理な投資と行動をしてこそ、人生だと思うかもしれない。それはある意味正しい。

が、それは違う。ある意味で。

ずっと東京へ通っていたが、2021年は一度も行かなかった。IT や新幹線で、距離がほとんどハンデでない状態が続いていた(対人のつきあいが減るのは仕方ないとしても)。それがあと数年続けばよかったのだが。

ネットの急速な発展で、リモートワークやコミュニケーションは急拡大した。おかげで、副業は維持することができた。
だが、LINE や FB はじめネットのつながりにどうしても違和感を覚える僕には、本業ではあまり役に立たなかったかも。

そんなわけで、世の中の水準以上に、ソーシャルディスタンスを実践した一年だった。

幸い、自宅は防音性能はともかく、立地上、楽器を弾いてもあまり迷惑はかからない。
練習や録音は、可能だ。というわけで、これまで以上に、アイデアの実践を行なえた。

新しいアイデアと、これまでやり残したアイデアの、と言った方がいい。
僕は形になっていないアイデアが溜まりに溜まっている。

そのうち30〜40を、ここ数年で漸く形にできている、という状態だ。
何も新しさはないのかもしれないが、これらの面倒は本人にしかできない。

楽曲提供すればいいから、その時のためにとっておこう…という発想は今のところない。

もしそんな機会があれば、それはそのときに新たに作ればいいし、その方がいいと思う。
もしかしたら手持ちがフィットするかもしれないし、それはその時だ。


リモートコラボ

これまでも数曲は、自分名義でも他の人の作品でも、リモート制作を行なってきた。
スタジオと違ってリモートは時間が取れるし、考え直すこともできる。ある意味、音楽を作っていくにはいい形だと思う。

リアルタイムでのリモートというのは(技術的に可能とはいえ)自分には少し苦手なのだが、
時間差というのもよいものだと思っている。音楽とは、時間をリピートする行為だから。
織り重ねる、と言った方がいいのかな。

ここ最近の自分の作品では、コラボを行なっていない。
これは単純に、やるならば相応のお礼をしたいということと、自分だけでやれる事を伸ばしたい、ということだ。


とはいえ、自分で全部をやっていると、とても勉強になると同時に、限界も嫌というほど思い知る。
それにあまり慣れてしまうと、感覚がわからなくなってしまうので、またいずれ、コラボをやろうと思う。

餅は餅屋、である。餅屋に頼めるならそれに越したことはないのである。


さぁそんなところで、年越しの諸々に入るので
つづきはまたいつか、年明け後にでも。

ゆくとし くるとし

いいねは言い値か

音楽は一旦置いて

今年を振り返り、危惧していた通りでしたが
オリンピック前後からの流れはひどいですね。

(ひどくないと感じる方もおられるでしょうが、ここは私の意見です)

秋から、戦闘機や大型管制機が空にいる頻度が大幅に上がった。
さほど高くない空を。

録音をしているとマイクにジェット音が入るので、すぐわかる。
というか、録音にならない。ここは防音室ではないからだ。

鹿児島、沖縄の状況にせよ、爆上がりの軍事予算にせよ、
「台湾有事」がある前提でどんどん話が進んでいるようだが、

台湾にもし「有事」があったら、軍備などで収められると、思っているのだろうか?

火をつけるだけだろう。

iPhone や Mac のチップは台湾企業 TSMC が作っている。
(そこから熊本に工場を、という計画もあるようだが)

ここ2年でも、コロナに加え、アジア各地の工場における災害などで、多くの品物が製造において大きな被害を被っている。

自然災害、感染症でこれだけ大変なのだ。戦争など起こったらどうなる?
これだけデジタル化した世界でも、いやデジタル化したからこそ、
世界はさまざまな意味で麻痺してしまう。

もちろん、人の命、街や自然を破壊するという事が、とてつもない問題だが、
それも想像から追い出してしまう「勇ましい人」が日本にも諸国にも多そうなので
あえて他の話をしている…

近年は画面上で朝から晩まで “SDGs” の言葉が踊る。
持続可能な環境を。ならば軍備とはなんだ。

人々が作り出した街を、都市を、自然を、農場を、破壊し汚染する。
人々を殺戮し、無数の人生を葬り、絶望と、憎しみの連鎖を産む。

破壊し合う兵器を受注する企業は、それでも金儲けができるのだろう。
あるいは、不良在庫を一掃できるいい機会なのか。

米国はずっと以前から、発展しすぎた軍需産業のためにも、戦争をやめられない。
完全に「戦勝」したのは、政治的にも文化的にも飲み込むことができた対日本だけで、
他は全部失敗か、不完全燃焼している。それでも日本は、兵器を(装備品と言い換え)、いつも言い値で買ってくれる。

戦争が、軍事的行動がいかに人類にとって無意味で、馬鹿げた選択かを
世界中の人が考え直さねばならない。

残念ながら、馬鹿げた選択だと思っていない人が一定数以上いることも知っている。
だが、だからこそだ。

この「いいね」ボタンでカウントされてしまうデジタルな世の中、
僕らは畢竟、ひとつの票でしかないのなら。よけいに。

sake to me

9月からずっと酒をやめている。

ストレス解消が一個減ってる気もするが、翌日も朝から調子いいし。

まともな思考も不思議な想像もできるし、運転もできるし、こうなるとそれまでなんで酒飲んでたんだろう? ぐらいの感覚だ。

以前のように宿泊も打ち上げもなく、飲み会もない。となると酒は個人の嗜好になるけど、
たぶん、時間が惜しいんだろうな。呑んでるとその時間は永遠に思えるのに、その後がものすごく縮んでしまう。

シラフだってこの4ヶ月近くはあっという間だった。アルバムという形でこの間、作品を4つ形にできた。
でもたぶん、これからまだまだ浮かんでくる。それらをどうしたらいいのか。

今はちょっと、わからない。まだまだできる感と、もう完全に切り離した感が両方。

フリーフォール。あとはどこにいく。

だけど、ここからじゃないと、たぶん見つからない。
ここから人生あと一回分頑張って、ようやく何かが形になるかな。

自分が誰かは、まだ誰にもわからない。

november 2021

11月の暮れ。

いい知らせができたらと思ったのですが
まだ時間がかかりそうです。

小さいながらも
ひたすら音楽に集中した秋 過ぎる
あんがとさん 我々の霜月。

家と近郊の往復しかしないけど
7ヶ月ぶりに日帰り帰省 父を偲ぶ
途中 山の中のカフェは
相変わらず素晴らしい。

カウンターのレコードジャケは “JAZZ” から変わってた。
Joni の “Blue” とあと二つは…なんだったっけ。

情報ってなんだろう – 壱

まぁまぁ重い日記に続いて、

これからの事を書こう。

これから、といっても、前々から不思議だった事を、解き明かすための、備忘録みたいなものだ。
まだ、まとまってはいない。


今はデジタル全盛時だ。とはいっても「デジタル」なんて言葉に「80年代か?」と反応してしまう自分を省みるに、あれから40年経ってもテクノロジーってそんなに変わってない面もある。

’80sだって「情報化社会」とは言われていたわけで、それはたぶんその前からそうで、
おそらくWW2やWW1や、明治維新や、ぐっと遡って日本書記の頃や、ホメロスやハンムラビ法典や始皇帝の頃だって、そうだったのだろうと思う。本質的には。

情報がなにをするかといえば人を動かす。人は情報を動かすが、同時に動かされる。

波のような、電子のようなもの。生命体。

現代はネットと SNS、デジタルデバイスにより、個人と情報の動きが直接観察できるようになった。
監視社会、デジタルファシズムとも呼ばれているが、ここは一旦フラットに考える。

僕はこのことを嘆いているばかりではない。どう転んでもこの流れを逆行させることは難しいだろうし、危惧しているのは「信用に足らない権力がこれを独占しようとしている」ということなのだ。彼らが信用に足る行いをしてくれれば、状況はだいぶ変わる。

信用とはこれまた難しい概念だ…コンフィデンス。なんかのドラマじゃないが、この世はバカ試合、じゃなかった化かし合いでもある。
ジョーカーとは、意識を持った第一人称すべてなのだ。

それを踏まえた上で、たとえば「デジタルを操っている側」が、ちゃんとデジタルの本質を理解しているのか。

— そう書く僕自身、理解しようともがいているだけで、本質はまだ多くの人にとって不可解だと思う。
どんなパワーや頭脳を持っても、人間に理解できないことは、たくさんある筈だ。
たとえば原発に関しては、あの312で誰もコントロールできなかったわけだし、そのことが明らかになってからも、権力も人々も目をそらし続けた。
結果、今も何もコントロールできていないのだ。情報だって同じことが考えられる —


たとえば。

SNS ではよく炎上が起こる。

誰か、特定の相手を対象に、「これを攻撃しても良い」というトリガー、あるいはリリースが発せられると
次々に人々が、自発的に攻撃を開始する。当人たちは、程度の差は選ぶものの、それは「自発的」だと思っている。

かくいう僕自身にもそれに加担した覚えはある。

だが大きな目で見れば、それは自発的でもなんでもない。どんな情報を与えれば、人がどんな反応をするか、おそらくアルゴリズムで蓄積されている。これだけのビッグデータがあれば、精度はかなり高いだろう。

こんな蓄積はたとえば何に使われるか。

あえて、先ほどのように時間を一気に遡ろう。太古の時代、人々が戦争ばかりを行っていて、歴史書には「〇〇何万、▲▲何万が争った」とある。しかしどうして、それぞれの争いが成立したのか?

それは、群衆が互いに、戦争に参加したからに他ならない。
もともと何の恨みもなかった「何万もの」群衆同士が、なぜ武器を手にとって殺し合ったのか。それは憎しみや恐怖を植え付けられたからだ。あるいは、陶酔のストーリーを。

権力者はいつの時代も、「下」と見做す人々を情報で操り、プロパガンダ(この言葉が用いられたのは17世紀からだが、太古にも通用するだろう)で右を向かせ、左を向かせ、整列して対象を攻撃させる。

失敗したり怒りの対象が自分に向きそうなときは、巧みに目を逸らす。そのための術を、世界中の権力は、何千年にも渡って蓄積してきた。それが権力とメディアコントロールの本流だと思う。

SNS は色々と役に立つが、(一見)無償なのには理由がある。

タダより高いものはないのだ。


さて、上記を前程に、じゃぁどうなのか、人間は進歩しうるのか、ということで考えつつ、浮かんだ事をこれからの日記に記していきたい。

僕らは流し、流されるだけなのか、というところで止まっていては、21世紀を生きた満足感がない。

3月に作った曲 も、そういうテーマではあったのだが、まだ追求が足りぬし、これでは人に届く気もしないのだ。


とはいえ、もう日付が変わった。いかん、もうおじさんは寝なければ。

また思いついたら、記しますね。
おやすみなさいー ぐぅぐぐ

愛しのライヴパフォーマー

これを最初に書いた時は、11月がはじまって最初の週末でした。

とはいえ迷っているうちに、次とその次の週末も過ぎました。キリがないので日付 [11.19] にて。


この月は新月、半月とリメイク作品を発表してきたのですが、
今夜は音源ではなく、区切りとしてお伝えします。
満月と月蝕の素晴らしい夜には、あまり馴染まないかもしれぬ。

まず、僕は今年の1月末、ステージでの演奏活動を止めました。
これはコロナ禍に伴うものですが、
自分や周囲への感染防止に加えて、生活、経済、体力、心理上など様々な理由がありました。

10月以降の感染確認者激減により、各地で一気にいろいろなライヴ再開、ですね。
待ちに待ってた! という人もいっぱい、いるでしょう。

今後のコロナはまだ予断を許さない、と僕は思っていますが、感染が収まっているときに生の音楽を奏で、場を共有できるというのはすばらしい事です。

僕に関しては、演奏活動再開の予定はありません。
サポートであれ、自分のであれ。
一番したいのは、自分や仲間の、ごく小さな会場での活動なのですが。

コロナ前も、長距離移動や複数の仕事とハイレベルの演奏活動と、休みない状態で、かなりの無茶をくり広げてきました。楽しかったですけどね。

お客よりスタッフが多いイベントから何万人のスタジアムまで、ゴスペル、レゲエ、ロックンロールからジャズ、ポエトリー、ミュージカル、クラシック。TV の生もいくつかありました。人前で演奏をしたり、パフォーマンスを行う、ということの宝物はよく知っています。とても。

これからも演し物のビジョンは沢山持ってたし、パフォーマーとしても、次の段階がクリアに見えていました。

にも関わらず、ここ二年近くをソーシャルディスタンスで過ごしていて、ライヴしたくて堪らないと思うことは殆どありませんでした。

冷温停止したのか、去っていったのか。それはわからないです。


 


僕はやはり音楽が好きで、レコード(アナログを楽しめる環境はありませんが)を聴き込んだり、流し聴きしたり、深読みしたり、音だけでも楽しめる人であり、その上で言葉も含め、表現したいことを今もたくさん持っています。

既にここ数年続けてきたことですが、これからはそちらに力を注ぎます。

まだまだ決定的にいくつものことが欠けていて、克服にもブレイクスルーにも、時間がかかると思う。その過程で「売れる」ことはなかなかないでしょう。

が、これが自分の生きた証だという音楽をのこしていくつもりです。

僕にも多くの人と同じように、人生という現実があります。フリーランスはこれからますます厳しい世の中ですが、生きるための仕事をこなした上で、限られた時間を捻り出して音楽をやっていく。

よって、演奏のオファーをいただいたとしても、リアルタイムはほぼ夢物語です。
とはいえリモートなら現実的かもしれません。作詞作曲なら、喜んでやります。

まぁ、もともと夢物語みたいな人間なのですが。

こんなのもひとつの生き方だと思ってます。
世界にも日本にも人はあまりに多い。音楽家だからといって同じような道を行く必要はない。

前回東京に行ってから1年が経ちました。ありがとよ、東の都。

もし興味があったら、これからも作品を聴いてください。
もしよければ、BandcampCD など、ご支援いただければ嬉しいです。

なにかをみつけだしたい。

Thanks a million,
Ray

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