叶うならば縦でいたい

僕は割と縦長な人間で
そのせいか、世間で言われる「ヒトの視野は横長だ」を信じられないでいる。

だいたい、改行のない横に長ったらしい文を見ると内容よりその形だけで不安になるし
今や家電屋の壁面すべてを埋め尽くすワイド TV にもイマイチ馴染めないでいる。

だいたい、僕は A5 や A4 を縦にしたカタチが凄く好きなのだ。
見開きで横に長くなったとしても、縦型になにかが記されているって、それだけで何かの意志を感じてしまう。
おかしいんだろうな、多分。

だいたいインターネットは未だに縦長主体で
純粋に横長に作られてるページはそれほど見ない。

折角縦スクロールができるんだから、ってことかもしれないが
なんか、横長モニタで殆どのヒトが見てる現実ではあまり必然性を見いだせず、
やむを得ず惰性でそうなってる気もしないでもない。

だが僕は、縦長ページならホントに縦長画面で見たい方で
昔は Radius の Pivot っていう、今はもうない(技術の転売された)
馬鹿でかい CRT をずっと使ってた。

アメリカに居たから、A4じゃなくレターサイズだったけど
ページがちゃんとレイアウトされて見れるのは最高に気持ちが良かった。

(Pivot は本来、縦横いけるモニタなんだが、当時の Mac では縦しか使えなくなってしまっていた)

もともと、シーケンスは横で、ワープロは縦で、と思って買ったのに、
シーケンスも縦でやるハメになった。慣れたら全然違和感がなかった。

別に僕はトラックをバカみたいに重ねる方でも、意図を持って重ねる方でもなく、
オーケストレーションは至ってシンプルだったけど、それでも縦長のワークスペースで慣れていた。

なんでかなぁ。

もう随分、横長の画面しか見てないが、ずっと「縦に帰りたい」病が続いている。
池尻に居た頃は丸正に渡る信号待ちの時、いつも首都高の更に上に伸びるでっかい杉を眺めてキッと空を睨んでた。
ジャンクションループの工事で木が切り落とされた時は、それなりにショックだった。

映画のスクリーンは16:9より遥かに横長で、
あまり意識してその効果を考えた事はないけど、それは正解なんだろうな。たぶん。
だが、縦長の世界はどうしてくれるんだ。

自分は視野が狭いんだか、エコな植物か電話ボックスなのかしらないけど
横長は寝てる時で、ええやんか。

というわけで、横になります。

五億年の五つ目

『考える人』 No.28

特集はピアノだが、この部分はまだ全然読んでいない。

長沼毅の「形態の生命誌」にいつものごとく大笑いする。
僕はこの人がツボなのだ。

節足動物を突き詰めると
体節に足が生えたものの集合体であるらしい。

とにかく節から二本なり四本なり足が生えていて
歩いたり食べたり鰓呼吸したり、足がその動物をどうにかしてくれるのだ。

そして、足の付け根に口がある。だから彼らは「タテグチ」なんだそうだ。

この構造は脊椎動物の真逆だそうだが
共通点だってないわけじゃない。

それにしても
う〜ん
オパビニアって変だ…

時間の魚

また変な事を書くけれど

人生や物事の進化って螺旋状だ、って良く聞く
それは本当だと思う

時間軸で言うと
行って、静止して、戻ってくる。
それを繰り返して、形になる。

それを見て感動したり、使いこなしたり、他人が利用して、いわば、発展する。

そんなのの繰り返しだと思う。人間が文明を築けたのは。

だいたい文字を記したり、モノを生産したりするのは、止まったものを産むこと。
それは流れる時間に対して静止、つまり過去に向かっていく事だ。

にも関わらず人がそれを続けるのは、どうしてなのだろう?
それを拾い上げて、また時間に向かって投げつける。
人の時計は、常に伸び縮みしている。

例えば。
この世が全て、画像だとする。
そんなことはあり得ないが、だとすれば、画像編集しようと、何でも注視するやつもいるかもしれない。

そうすると気づくのだ。この世は全て動画で、静止画と思っているのは動画のうち、止まっているように見える一種でしかない。

なのに人は、いちいち静止画に価値を見いだす。
モノは動くものもあるが、静止した形に固定されて初めて生産される。

もしくは。人は動いているものを、静止しているモノほど理解できないのだ。

価値を見いだせるのは、時の流れに耐えるもの。
流れて行っても、イマに戻ってくるもの。遡れるサケのようなもの。

もしくは、モモタロウのようにずっと先から流れて来たもの。

ここで螺旋が登場する。

新しい何かを固定して実現させたいなら、時間のずっと向こうにアイデアを投げなければいけない。
それが戻って来て、形になった時に、つかまえる。そこで流すか、また投げる。
何回か繰り返せば、魚は大きくなるかもしれない。

みんな、時間と釣りをしてきた。

動物は本能でそれをするけど、
人間は知ってか知らずか、そうやってきたのだ。

と、思う。

おぼえがき

ざっと、売れてる本を読んでのメモ

ドウタとマザは入れ替わっていないだろうか?
マザと思ってドウタが出て来たのではないだろうか?
そか、それとも –
場面場面で、マザとドウタのふかえりが入れ替わって出ているのだ。
姿を消す度、彼女は山梨あるいはどこかに戻り、入れ替わってまた現れる。
本人は区別がついていないか、どちらでもいいと思っている。

246の非常階段は所謂三宿のあたりなんだか。
コンビニなら天下一品の近くにあった。
自分が昔、一日一回は散歩していた界隈だ。

最初の場所に戻って、道がないと気づく。
最初から青豆は死んでいたんじゃないか?と相方は物語を読まずにそう言う。
全く僕に思いつかなかった考えなんだが、正しい気がする。
メリンダの影響だろうか?

青豆が最後につぶやく言葉は自分がこれから行くところである。
出来すぎている。

ほたる

とても揺らいでる月を誰もつかまえられない
キャンバスなどそこにはないから
おもいだして 生き返らせなければ
どんなかみにも ふゆうたいにも

それはぼくのめが 走っていたから
何百キロも 夜通しで

目の前で 揺らぐ月
いなくなると わかるから
記憶の種だけ おいてこって

rikai

わかりあうこと

そんなかんたんなことじゃないし
そんな無理難題でもない

わかりあったからってそれがつづくわけじゃない

好きになったからってつづかないこと
いなくなったからって心からは消えないこと

目が
その先数十センチを見て判断しようとしていること
思い通りにならなくても
なったとしても

聴こうとした音がきっときこえるよ
誰かが励ます それはかなう

そうなんだろうと その場に来た僕は思う

聴こうとした音 いくつか交差して
近くでは判断のしようのない レコードができて
周りに居た 誰かだけがわかることもある

僕もそういうのを いくつか知ってる

客観視って 俯瞰って 自分が客や無限遠点になろうとして
なれたとしても

それをそう言っちゃあ おしまいだ
それほど陳腐なものもない

自分ではわからない なのに外には判ってる風に
それが今の世の中だけど
それはちょっと たからものを
台無しにしているように
おもうのだが

———

水の流れのあるこつが
わかったとしよう
アクリルの中にとじこめて
後はみんなに観てもらおう
例えば 一日300ペア

招待するから 観てってくれ
水の色や匂いや 育む命は
僕には 気配しかわからないし
あとは たのむよ

そんなわけで 水族館ができてる
回転扉を抜けて コインを入れて
青い列車の途中
Aquarium

入り口にはくらげがいて
中にはペンギンが飛ぶ
僕には空の上から
それを観た記憶だけが残る

記憶
今は届かない

あの頃はあの人もいたし
あの頃は 君もしらなかった
あの人と偶然 出逢う事もなかった
すれ違うこともなかった

だけで十年と少しが経って
今でも偶然どころか
いくつもの ヒントをもらえてる気がするのは
幸せだよな と思う

一瞬のうちに失った 路線図や
現像も忘れてしまった 35mm フィルムや
弾く事もなく 切れてしまった ダダリオXL

そんな 忘れた空気でも
どんな色をしてるかわからないし
数十センチ先の宙にも出てこないけど

ぼんやりと あたたかく どこかに沈殿して 浮かんで 飛んでいる

あこがれだった人が逝ってしまって
それでも ありがとうと思う

どうにもならない これからも無数の
食いつぶしていく 未来の瞬間も
どこに輝きがあるかも わからない地図も
きっと汽笛と同じくらい 確かな音を
ひろいせかいに 「よみとれ」と
おしつけていく

こわがりもしないで

よくあること

阪神が負けて
悔しいからニュースを見なかった。

今朝、シャワーを浴びてる時に知った。

こんなこと、よくあっちゃいけない。
一度だってあっちゃいけない。

星が地面にきらめいている氷川橋の交差点の向こう
何度も何度も、ダークブルーのビルを見ていた。
そこで35年前に起こったこと。

その人が吹き込んだ記録は僕の日本語に対する意識を根本的に変えた。

ダークブルーのポリドールビルももうとっくになくなって
いまはアパートだ。

僕には気持ちの説明がつかないし
色々ふっきった今でも説明する権利もないと、この事ばかりは思う

ただ、ものごとはそれでもつづいていくんだろうなと
いまでは思う

たてがき

丸形のカレンダーも星座表もあるらしい
ま、そりゃそうだ。それはともかく…

自分自身は横書きに慣れているし
コンピューターの制限上の不便も感じた事はそれほどないけれども

日本語はやはり縦書きだと思う

これは言葉のはなし。

いつからどうなったのかわからないが
物事は左から右に進むように、少なくとも値が高くなるように
設定されている事が殆どだ。

グラフ、ピアノの鍵盤、エレキベースの指板-右利きならば

ベースの場合は、弦が変わる毎に面白い「改行」をするのだけど
「時間軸」が右にスクロールしていく、っていうのは
ビジネスでも勉強でもDAWでもだいたい既成事実化されている。

どうなんだろう
日本語ならば、音楽は縦書きでやればどうなんだろ
邦楽の楽譜には慣れていないけれども

作曲法だって、縦書きでやればどうなんだろう?
重力の感じ方を、今までと違って感じられるんじゃないだろうか?

もともとあった、間と重力、段落の重みみたいなものを
思い出せるんじゃない?
みたいに

すごくテキトーだけど、半ば本気に
思っている。

また年めぐる

1年は365日。
約360日である。

ならばどうして、世の中に丸形のカレンダーはないのか。

ひと月は30度、季節は90度、さらに一日は1度である。
わかりやすいじゃないか。

勿論年に5度の誤差は無視する。
それぐらいの修正は、カンタンにできる筈だ。

せっかく一年が12ヶ月なのに、なんで時計と共有できないのか。
時計の針をもう一個増やして、月を表せばいい。

一年で一回りだから、地球と一体化した気分になれる。

どうです? エコが好きな人たち。

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