アーカイブ: 2022年1月

only castles burning

みかんと
柴犬

枯れ木と月と
ニール・ヤング


“After the Gold Rush” は
今まで百回は聴いてるはずなのに
最初の3曲が良すぎて後の印象が薄かった

というか、4曲目の Southern Man の強烈さに催眠がかかって
それ以降を正常に聴けてなかった、のかもしれない

改めて聴くと
Till the Morning Comes は確かに「おとみさん」みたいだし
続く曲もめちゃくちゃいいじゃないか。

pannonica

昨日の日記タイトルはビザンチン帝国の “Nika Riots” にかけたものであるが、
スタンダード “Nica’s Dream” の由来を知らなかったので調べてみた。簡単に見つかった。

50年代、NYC のジャズに大きく貢献した、ある女性富豪、通称ニカ。
ロスチャイルド一家に居た(そして一家を出た)この人は、
モンクやバド・パウエル、ホレス・シルヴァー、チャーリー・パーカー、
それに多くのジャズクラブに多大に出資し、
Bird や Monk を筆頭に、直接仕事の面倒を見たり、生活の場を提供したこともある。

差別やナチズムに真っ向から立ち向かい、愛するジャズに尽くした彼女は
ジャズメンにとってはまさに「恩人」だったのだろう、ちなんだ曲も多い。

BeBop というシーン自体が、ロスチャイルド由来の力に支えられていた

というのは少なからずショックでもあるが。え、誰でも知ってる事…?


以前、何の流れか、初期のさるカントリー・ブルースマンを追悼する YouTube を眺めていたら
彼の墓が映されていて、そこにフリーメーソンの印が刻まれていた。

だからなのか、と思ったことも。それも周知の事実?


ブルースの父、と呼ばれ、英語の教科書にも載ってる W.C. Handy

彼の最初のヒットとされている “The Memphis Blues” は

1909年のメンフィスの市長選挙のキャンペーンソングとして書かれたものだ、という。
対立候補もまた、黒人ミュージシャンの曲を採用していたようだ。


力と音楽の関係、持ちつ持たれつ。

それは力の正しい使い方なのか、受け取り方なのか
なんだか、大変だ。

nika’s dream

「なぜ国家は衰亡するのか」
という本を昨日読んだ。

どこかで譲り受けたもので、タイトルが気になり、ずっと本棚にあったので。

国家は流動的なものであるから、過大に重視するべきではない、
…という内容かと勝手に思っていたら、全く反対だった。


貫かれている理念は大きくいって到底賛同しかねる。

が、頭の体操にはなるか。

書かれた頃はまだ9.11もなく、中国のここまでの巨大化もなかった。

文明は、あるいは「国」というものは、国民を犠牲にしてでも維持する価値がある、
その為には、少数の指導者とエリート、そして大多数の愚民が必要だ、
というのが、著者中西氏の、また引用されている歴史書や研究者を通じた基本的主張であるようだ。

途中、ローマのテルマエ(がローマを堕落させた)や伊勢への「お蔭参り」(がガス抜きと改革を受け入れるサインになった)など興味深い記載もある。
メレディスの引用、何かが壊れていく時は「内にある “虚ろなるもの” によって裏切られる」という部分、学びにもなる。

ともあれ、読了後の疲れと虚無感はなかなかのものだ。一日経っても。

東ローマ帝国が1000年以上続いた理由、その意義を評価するにあたって
皇帝ユスティニアヌスが、自らへの称賛と歓呼をやめた民衆を
将軍に殺させたという例を挙げている。

体制を維持する為に、3万人の自国民を惨殺する

「ニカの乱」は、称賛をやめたというよりも、戦争政策への反乱を起こした国民 vs 皇帝であり
そこにはパンとサーカスに溺れてしまった(溺れさせられた)民や、一度は民衆に折れようとした皇帝の葛藤も、あったのかもしれない。
だがあくまで皇帝の最終判断は、自国民の殺戮であった。
人類史上の汚点といえるこの事件を、筆者は評価している。

満洲引き上げや沖縄戦で民衆を見捨てた日本軍、
天安門事件や香港で中国体制が民衆に対してやったこと、

他にもこういう例はあるだろう。
これは筆者が力説する「正しいことなら、人に迷惑をかけてよい」ということなのだろうか?

書籍から20年以上が経過し、9.11や3.11を経過した後も、むしろその結果として
政権や関連団体、経済界、報道や広告にこういう考えの人が大勢(『少数のエリートとして』)定着しているのだろうな、と思わざるを得ない現在。

日本にも世界中にも。

体制の腐敗や軍部独走などが起こる前に改革を、というメッセージも、本文中に僅かに読み取れなくはない? が、
皇帝が軍に行わせた殺戮と、軍部の独走は、一体何が違うのだろうか?

そして現実を見れば、それらはバンドルセットになっている。むしろ、より強固に。


とても世界は悲しい。「正しいこと」とはなんだろう。

半球

弦楽器と身体が少し馴染んできた。関係というか。

楽器は身体の使い方でもある。身体能力にはほぼ自信のない自分だが
楽器を弾く以上、そんなことは言い訳にもならない。

もちろん、運動神経の悪さをイメトレやその他の感覚で補ってきたこともある。
それが自分の宝であり半球だとしたら、残る半球はやはりフィジカルなものだ。


東独出身の、いや、独逸に生まれ、最終的には東ドイツに戻ったある作曲家の
曲があまりに美しくて魅了されている。
昔聴いたときはさっぱりわからなかったな。

21≠18

朝から衝撃の事実

– 昨年は四年前だった –


毎年、元日には海岸で初日の出を撮り、日記に載せたり、
玄関に小さく飾っている。

いつも僕は、砂浜に年の数字を描き、陽光と共にフレームに収めている。
足跡を砂に残さずに描くため、海岸に着いたら、手ごろな「年号描き棒」が落ちていないか探す。
他にこんなことをしている輩は見当たらない。

2021年はなかなか陽が雲から出ず、数字は何度か波にさらわれた。
撮ったのは これだ。玄関には…

よって去年は玄関の写真を事実上「あきらめた」のだが
年の途中から、数字のない他の年の写真を選んで飾ることにしたのだ。
白状する。これはある種の、改竄だ。

その写真は、2020.1.1のもの
…2021は、2020だった…
という、後ろめたい記憶が残っていた。

年が変わってもスローな僕は、今日ようやく意を決して写真を変えた。


プリントした写真の裏に手がかりはない。改めてアルバムと見比べる。
2020のライブラリーにもない。
その写真は2018.1.1のものだった。

…2021は、2018だった…

それはいくらなんでも、あかんやろ。


今年は、まずまずのが撮れているので、バッチリ飾った次第。

七草

…ではないけれど、美味しい今年のお粥。

感謝、である。


耳をすませば

というジブリの映画、結構好きだ。

不思議具合と普通の学校物語の案配や
猫の具合や
丘の具合や
やはり音楽、楽器が、だろうか。

クレモナ、という場所に憧れがないわけではない。
ヴァイオリン職人にもそうだし、
人がこの楽器を楽しむ環境、というのも。

“Take Me Home, Country Roads” を初めて聴いたのはいつだったか
子供の頃実家にあった、「電話保留機」の音楽だったような気がするが
それは違う曲かもしれない。

家族に変わる間、受話器を置くと電子音が流れる、というそれだけのものだ。
わざわざそれ専用の道具が、いっときは存在したのだ。

話の中で天沢聖司が(…声が高橋一生だったとは)奏でる
「伴奏のヴァイオリン」

これ、何気にすごいなと思っていたのだが
ん? 改めて聴くと、低い F が出てる…?

これほんとにヴァイオリン? ビオラか5弦?

ずっと低音楽器やってたんで、疑問に感じなかった…


twitter、2014 から使っていたのですが、年末で停止、本日削除いたしました。

情報収集としては非常に優れていますね。だけど広告や恣意的なトレンドや、
表示のアルゴリズムなのか、僕が使ってもあまり役に立たなくなってきてた。

フォローやお付き合いくださった方々、深く感謝しております。

つづきはこちらで。web サイトってとっくに何周回も旧世代のツールだと思うけど、
とにかく SNS に馴染めなくなっちゃったので、
こっちに日記や、不定期覚書や、活動など載せてまいります。


明日は頑張って運動しよう。
練習も頑張ろう。

五角形

今日は翌朝朝刊でなく、当日記述を試みる。

今日という今日は…

チャボが磔磔かどこかで MC で言ってた(のを誰かがカセットに録ったのが回ってきて聴いた)
記憶が少し蘇る。なぜだ。

コーヒーは今や貴重な楽しみ。
酒も外食もやめてしまったから、夜ふと思う楽しみは、明日朝飲むコーヒーだったりする。

酒をやめて良かったことも多く、たとえば味覚が敏感になった。
人の舌には味蕾という味覚の受容器がたくさん…子どもならば1万個もあるらしい。

これがどんどん減ってくるのだ。体力や知力、聴力、外見、その他すべて衰えてくるのと同じく。
だがそれは仕方あるまい。

酒や刺激物が多いとその現象は早いとかで、まぁ理屈はともかく、以前よりはものの微細な味がわかる。
なので日々の食事も美味しい。

贅沢をしなくても、美味しく食べられるというのは、すっごく嬉しいことなんだぞぉ。

コーヒーについては、以前は深煎り、フレンチとかイタリアンローストが好きだったけれど
昨年ごろからは浅めが好みになっている。ミディアムとかシティっていうやつか?

豆はグァテマラ頼りだったが、今はコスタリカのマタンブーやタイのサイアムなどが好きだ。

といっても、コーヒーの味のグラフ(五角形のやつ)の見方が、未だにわからない。
酸味やコクなど、パラメーターで見ても定まらない。
どうも僕には一貫性がないようだ。

でも、こんな夜更けにコーヒーの事を思い返すのもなんだか。


久しぶりにピチカートで練習を再開した、ところだが、調子にのるといけない。
ベースは一人で弾いてるとつい弾きすぎる。十分手首もできていないし、これからは楽器に触れる時間も限られる。

弾きすぎないよう戒めも兼ねて、2ビートや弾き語りをやってるんだ、って、まぁそれもそうだ。

多重録音して歌ってればトータルな意味でベースが一番耳に入るし、それは世の中の歌い手もそうだろう、と想像がついていた。
MTR をいじっていた初期のころから。
実際僕が知り合った人はたいがいそうだった。とても役に立った。

それはいいのだけど、自分の思うベースと歌のバランスって案外、人とは違ってもいた。
微妙な違い。世の中にはベースが好きなミュージシャンが多すぎる。
ベーシストになってあんまり好かれるのは苦手だし、好かれるように立ち回るのはもっと苦手だ。
だから、自分のベースをやるために、曲を作って、詞を作ってる。客観視という主観視。

単純にベースだけが好きなときも、もちろんある。
そういうときが、困るのだ。身体に備わった、余計なスピードが。

今日はさっさとやめて、トランスクライブに切り替える。
これはこれで、とても発見があって好きだ。


都会は雪だそうだ。こちらは雨。

NHK の報道や番組作りに言いたいことはいっぱいあるが、カムカムエブリバディでジャズがテーマになっていること、
小林創さんが大活躍していることは、とても嬉しい。ミッチさんも吹いてるのかな?

外の人と会うことはまだ、当分ない。数ヶ月? 数年?

こちらは一人で、できることやってます。
ほんの僅かな歩みだが、Parchman Firm の歌い手を思えば、
なんだって、できる。

delayed action

正月も驚くほどの速度ですぎつつある。

今年は色々と楽しみを…減らした。
が、それでいい。

何かに夢中になって、気がつけば12月になるだろう。


ずっと好きなスタンダードの “Conception”、結構録音が少ない。
よく聴ける Miles や Bill Evans のレコードは録音の時点でブリッジがアレンジされていて、
さらにそれを基にした Miles の Take Off という曲もあり(これがまたいい)、
本当のヘッドが何なのか、原作者 George Shearing の意図ってなんだろ、と思ってしまう。
– Bud Powell と Shearing のどちらが本当の作者か、という話もあるらしい。

僕はいっとき、”Take Off” を散々レコードで聴いていて、そちらに馴染みがあるせいで
どうも Miles のこの曲のアレンジに馴染めない。勝手なリスナーの都合だ。

Rosenwinkel や Patitucci のテイクは原曲寄りか。

が。Realbook と耳を頼りに、たどる。
なにか、スローで、やりたいな。


暮から痛んでいた指先が癒えたので、ピチカートを再開す。

スプリンガー52

一日遅れ、朝刊がわりの日記を続ける。

新聞紙を時折読んで思うのは、その文字の多さ。
広告もあるが、よくあれだけ文字で埋め尽くせるものだ。
権威を持って。

新聞記者の仕事に、改めて恐れ入る。

とはいえ、メディアが危険、という認識は変わらない。
2012年後半、野田〜安倍政権以降沈んで落ちていった報道の自由度は、
十年を経て、統制の海が喫水線を超えている。

それとも、ずっとそうだったのか。

「善悪の判断を超えてひたすらキーボードを打ち続ける取材者」と評する人がいる。
その真偽はわからないが、自己投影してみる。
「それが記者なのだ、私は意見者ではないのだ、まずは正確に記すのが使命」
という認識が出てくるだろう。だがそれならロボットで十分じゃないか。
葛藤に苦しむこと、間違いないな。

この日記も、いっそ「新聞紙」並みの文字量で、その日考えた事を全部記してみようか、と思う。
馬鹿げている。五七五と真逆。


音符にも似たところがあるかもしれない、とも思う。
あるいは音数にも。


僕は音数の、編成の少ない音楽が好きだ。そういう意味では日本的かもしれない。
一方、「巷の」日本の音楽や広告、媒体、そして都市でまず感じるのは詰め込みだ。

僕にとっては、無駄な情報ばかり。狭い場所に詰め込むことで、余計に窮屈に感じるのはなぜだろう。

そんなわけで、僕の中での日本文化は、いつも矛盾している。
水墨画のような表現、空間の美、そういうところが好きだ。

それらは日本の中の「広い空間」で編み出されたものとは限らないのだが。
むしろ狭い空間や精神世界から広がりを、それが僕のたどり着きたい日本なのだろうか。


最低音楽器と最高音楽器の繋がりはどこか、と確かめる。
案外、きれいに繋がりそうだと知り、嬉しくなる。これなら何かできそうだ。
今年中には、何か形にしてみようか。


そっか、僕の周りにあるのは、いつも両極端で、葛藤で、矛盾なんだな。
改めて認識する。でもその上でやってくよ。


数年前の年末に有馬温泉土産で買い、残しておいた 自宅温泉風呂パック を使う。
パッケージに「大日本摂津國有馬町」とある。
OEM 生産で製造販売者は新潟の「環境化学」。ギターでいうマツモクみたいなものか。
成分は主に塩と酸化鉄。
販売商品名は「スプリンガー52」。ターミネーターみたいだな。
いろいろと発見。温まって就寝。

フライングパン

餅を焼くのにみんなはどうしているのだろうか?

うちでは
魚焼き〜匂いがつく
ガスコンロに網乗せ〜真ん中しか焼けない
電子レンジ〜使ってない
オーブン〜貴重な道具を餅の事故には遭わせられない

というので、暫定的に「フライパン」にしたのだが
これが圧倒的に簡単で、いい具合に柔らかくなるのでビビっている。

なんだったのだ他の方法は。


地道に初歩練習、音域の解読、音源のアーティキュレーションの解読
今の今まで、使ったことのない機能。10年以上前から知ってたのに。
触るとめっちゃ簡単だったが、キースイッチよりもパッチチェンジの方が役立つ時って、
どすればいいんだろうか? 今の音源にパッチチェンジってそもそもあるの?

昔の練習用データを掘り起こし、バックアップの整理。
NAS の容量も足りないので、要らない録音ファイルもがんがん消していく。

昔は、難しいエチュードやトランスクライブを弾くときに、まず DAW で「写譜」して
それから楽器で練習することもあったのだが、それって DAW にはまると
データ作りに時間を割いてしまって、肝心の楽器に触る時間がなくなったりする。
それで阿呆らしくなって、放棄したデータも山ほどあるが、うまく使えばやはり役立つ。
詰めすぎないこと。生を主に、テクノロジーは従に、というのがここ数年の基本姿勢。

今年は少し段階を進めて、テクノロジーも見直す。

データと楽器と、身体的には真逆だが、両方ないと、です。
ただ、データは消せるけど身体は消せない。
一方、身体が消えてもデータは残ってくれる。残ってしまう、かもしれない。

過去の常識の通用しない「人生」。これからどう過ごすにも、答えはないのです。
「モノ」を残す気のない自分。
子供の頃はものづくりにも憧れた、と薄く思う。


Flying Pan とは初期のエレキギターの愛称。リッケンバッカーが作ったラップスティールだ。

もうこれ以上楽器はいらない、役目を終えれば減らすだけだろうと思う自分が、
昔のリッケンには憧れる。
チューリップ型のグリーンのギターや、フライングパン。かわいいもんな。


今年の目標は一つ。

早寝
早起き

これ基本っしょ。

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