アーカイブ: 2020年9月

水彩画あじさい

シンガーソングライター 弥花 さんの 1st にて、2曲お手伝いしました。

水彩画あじさい / yahana

flexlife 大倉健の編曲・演奏・録音
青木里枝による撮影というプロジェクト。

九州で海苔屋さんと歌い手さんをされている弥花さんのオリジナルソングス5曲。
湘南のご出身と知って「あ、わかる」という空気感と、自由な詩世界。
視点の豊かさ、みたいなものが随所に垣間見れるなー、と思いました。

配信はなく直売のみのようですが、ご興味あればぜひ こちら から。

僕は
1「小さな瞳」
5「水彩画あじさい」
にリモート録音で参加しました。

どちらも自然でいい曲、歌世界です。
録音は6.24、とある公共の音楽室にて。
水彩画あじさい は、Charlie Haden に僕を通過してもらったかな。

そして僕が参加していないのですが

2「わけありりんご」
これにはすっかりやられました。レトロモダン。
ぜひ CD で聴いてみて欲しいですね。

ひっとみー

カメラ欲しい…

Canon の数年前のミラーレス、EOS M3 で動画録るのはほんと大変
かわいいルックス、極上の握り心地、魅惑のシャッター音とフィーリングは文句ないけど
使いにくいったらあらへんで

オートフォーカスが合いさえすれば、画質は充分と思ってますがね。

まず、そこで絶望するのだ。
撮ってみないと、ピントが合ってるかわからない。
ライブ一本終えて、全部ボケてたときの虚無を数回経験しているし
そもそも、使えるものとは思っていない。
それに加えて撮影時間の30分制限もあるし…だめだこりゃ、っていうのが前提。

しかし配信用となると、iPhone だけではやはり心許なく、気を取り直してやってみた。


液晶がチルトで反転するので自分で演奏動画録るには便利
だがその状態で確認再生しようとすると、途端に天地が逆になる

首をひっくり返しながら思う。意味がわからない

カメラの縦の方向が間違ってたのかと、三脚のセットを反対にする

やっぱり再生時は天地が逆になる。録画時は問題ない

さっぱりわからん

しょうがないからカメラの後ろに回り込んで液晶を元に戻して再生する

だが再生時、前後のショットとの切り替え比較ができなくなる。

さっぱりわかららんよ

動画の確認は所詮液晶だと小さいから、Mac に移し替える。

SDカード抜き差しする そのたんびに本体底の蓋を開ける
そのたんびに、三脚に載せるためのシューブラケットのネジを外さねばならぬ

すると、折角決めた三脚の位置や角度が全部無駄になる

酷すぎる…

なんとか確認し また位置を決めて撮影する

位置決めしてる間に、省電力モードで画面が消えてしまう

虚無の向こう…

そして極め付けに、録画ボタンと再生ボタンが押しにくいのなんの

もう…よくやってるなと思う。

ともかく騙し騙し、撮影は成功した。結果はまずまずかなぁ。
後日、某所にて。


孫後継機の EOS M6 mkII はたぶん色々改良されてるんだろうな

AF/MF の切り替えボタンもわかりやすいところについてたし

だが、もうこのタイプは要らない
だいたい暗い画や夜景が好きだしな。フルサイズが欲しい。

カメラは贅沢品だとも思うが必需品だ。
でもやっぱ、今はそれ以前に、仕事を続けて生き続けるのには必要なことばかりだ。

どうすればいいんだ。一体。まいっちんぐ

クイック&スロウ

次回の配信は10.2の満月

It’s so quick
という曲をつくってます

ちっともクイックじゃないビートです。

moon x moon


そうだった、タイトルはこの日記から思いついて

quick & slow

にしました。
(ストアはおそらく Cap & Low – 大文字はじまり)

いい曲です。我ながら。

shooting the rubberband

ほんわかしてるのか、忙しいのか、よくわからないままに「連休」が終わった。

4連休ってすごいよな。例年なら無理してでも旅行に行ってただろう。

今年は行くわけもなく、GO TO なんて信じられず、とはいえ、行きたくなる人の気持ちもわからないでもない… やめといた方がと思うんですけどね。

しばらく前に、漫画版「風の谷のナウシカ」と関連づけての学者たち3人から観たコロナ時代への提案、という趣旨の番組というのをやっていて、最近の NHK にしてはいい番組だな、と思ったのですが(というより NHK は技術もスタッフも超一流なのに、それが地上波の主要な時間帯の報道とかなり落差を感じずにいられないここ数年。だから応援もしたいし、おかしいと思うところは意見もいいたいわけです、これってごく普通のことですよね?)

ともあれとても考えさせられる番組でした。…潔癖主義から(それも、科学的・人工的なものではなく自然農法などの礼賛から)ナチスにつながったというのも…ほんとかな、もっかい見直そうかな

コロナに打ち勝つ証としてのオリンピック、というステートメントにおかしなところがある、というのはほんとそう思います。


知性、という言葉、または概念、難しいですね。

「反知性主義」という言葉をここ数年、よく見ているのですが、僕個人的にはあまり伝わらないんです。

割と賛同できる人たちの意見であるにも関わらず。

知性 = intelligence というのを、僕はあまり信用しきれてないのかもしれません。とても重要だとは思うのですが。

あるいは、AI やネットワークはじめさまざまなものが「知」を侵食し、飲み込んでいくと感じているから、違う世界に行きたいと思っているのかもしれません。間違ってるのかな。

面倒でも対峙するべきなのか。一生の課題としては。

でも、「知性がどうのと言う奴は一番知性がない」というのは、一聴してよくできてるけど、すり替えというか、悪用だと思います。

学者は、知性を扱う人だから、本来知性がどうのと言っていいし、言わなきゃ学者じゃないわけで。

知ること、と、感じること、と、愛、と、それぞれ順番をつける、ロングセラーの物語も読んでるのだけど、それぞれ大切なトップ3、ってことじゃないのかな。

空洞の磁界

やっと
少し
やりたいことが
できるように
なってきた気がする

まだ遠いのだが
体の中に
備わってきつつある
空っぽの骨組みの中に
あるいは空洞の磁界に

所詮自分って、針金だよな
そんな観察の果て
映らないはずのものが映るとすれば
それは
自分がフレームとして機能するか
だろうか

揺れても
斜めになっても
そこら辺
四角くない世界
論理のない世界に触れられる
消えては生まれる フレームと
その周りに照る
ちょっとしたひかり

それをそだてるも
ほろぼすも
あきしだい。

るいをよもう

るいをよもう / Ray Kondo
moon x moon series #18
2020.9.17

あかりの来ない夜は
何を読もう

新月、曇り空。月と太陽は共に昇り、雲の背中で過ごし、沈む。


これを書いたのは…歌詞ページに日付特定してありますが
ハンディレコーダーによると、その辺り。

その頃は一体何を考えていたんだか。
ベーシストとして、割と忙しくしていた頃、
この辺の写真 もヒントだろうか。

詩集 “flat five” を作る前には曲ができてたわけで
だから早い順番 – 三つ目 – に収めてました。
にも関わらず遅めのリリースです。

もっともこの詩の原型はさらに以前にあって、最初の一行しか残していないのですが。

アクロポリス

先日の写真の答え:
アテネ

でした。ギリシャに一度だけ旅した時、空港までの道すがら撮ったもの。
何を撮ったんだか…

当時のアテネ、たしかパルテノン神殿は工事中だった…
遺跡で入場料を払うと、お釣りの代わりにもっとよこせと合図された…
猫や犬がいっぱい寝ていた…

客が入ってそうなレストランに入ると、客だった団体が一斉に二階に移動した…
店主は My car is Mitsubishi だといい、ネスカフェが欲しいかとティーバックを置いて行った…
道はノーヘルのスクーターが埋め尽くすので、彫りの深い人々と相まってめちゃめちゃ怖かった…

と、いろいろカルチャーショックではあったものの、飛行機から見たエーゲ海の美しさは半端なかった。

今はいったいどうなっているのだろう。

54-46

… that’s my number…

なんか変なポイントつけられて、バラ撒き普及を目論まれてるこの国の個人番号じゃないよ、
1960年代にジャマイカで歌われてたこと。
彼が服役中の囚人番号とのことだが…根本的には同じですよね、人を番号で管理するんだから。

TOOTS & The Maytals のリーダー、トゥーツ・ヒバートさん
あっけらかんと歌われるリディム、衝撃的であり
その力の抜け方が、マーリーともまた違って最高だった。

Funky Kingston もバンドのグルーヴから音から歌から宝物だったな。2000年代に復活したときのアルバムは音が元気すぎて聴き込めなかったけど、一度でいいから観たかった。

家族に看取られての最期とのこと。ファンの端くれとして、ご冥福をお祈りします。

当時、影響を思いっきり受けて作った「あやまるロック」というのがあるのですが
前世紀の京都でカセット MTR 多重録音したのと、2006年に渋谷で田中慶一、中村翔くんとのトリオでライヴしたのみ。

ほぼ未発表、モタモタしてたら、彼が逝ってしまった。
全くトリビュートにならないと思うけれども、近々 soundcloud とかで公開しようか、いや、せんほうがええのかな。

皿の大きさ

「相互監視と台本」シリーズはあと数回続ける予定だが。

皿の大きさ、というのは、目玉焼きに合わせて皿の大きさは決まっているのだろうか?
という今日の切実な疑問。

下弦の月になってしまった。

次の新月の配信は、もちろん予告していた通り
「るいをよもう」です。

去年の夏頃からライヴでやりたかったのだけど、シンプルだけに難しくて
結局まだ一度も人前で演っていません。

どんな感じになるやら。

ジャケットのイメージその壱を。どこやねんここ。

 

相互監視と台本 – 弐

気になる本を読み出した。

山縣太一さん、大谷能生さんの「身体と言葉」(なぜか読み方が「ことばとからだ」)

演劇やってる人って、音楽とは違ってまたぶっ飛んでるんだろうな、とは思うけれども、とても示唆に富んでいる、また、読んでいくうちに頭が誤動作をしていくのがわかる。天才的に真理に到達してるのか、ふざけて端折っているのかわからない。その両方だろうか。

山縣さんのご両親がやっている劇団も、味わい深かった。

さて前回のとても暗い投稿と繋げるのは、前掲とは全く無関係の本でありながら、ここに気になること、正気に戻してくれるヒントが色々書かれているからである。まぁ、この帯のとおり。

この方は俳優が人前に立つという状況を「異常事態」としている。他人に見られ聴かれて表現する、そこに自らの身体を使う。ここからの論考がむちゃくちゃ素晴らしい – p.54 最高 – のですが、今回は端折ります。


「書かれた言葉」の可能性と内包する力。

紙の上に書かれている文字自体には身体がありません。文字と身体は、根本的な原理が違うのではないかと思うほど、遠くにあるものです。しかし、その距離を誤魔化してはいけない。遠ければ遠いほど、そのあいだに飛ばすことの出来る火花の電圧は高くなるのです。 – p.22

これは凄いと思う。
楽器演奏に置き換えてみれば、パッと弾いてすぐええ音が出るベースは、おもろないねん、と話してくれた清水興さんを思い出す(昔 B.Magazine でインタビューさせてもらった)がさておき。

〜書かれた言葉は、それが実行力を持って表れるとき、そこにいる人を発話する人と聞く人に分割します。書き言葉は会話とは異なり、そこにいる相手を黙らせる力を持っているのです。

この能力が最も強く発揮される場所こそ、演劇の舞台に他なりません。〜

俳優には、このような力を引き受けていることへの自覚と、その力が生み出してしまう「沈黙」を聴き取ろうとする姿勢が必要です。 – p.61

〜ある集団に、自分の身体と言葉でもって、ある書き言葉を「正しい」ものだと認めさせること。唐突な話かもしれませんが、ここにはおそらく、立法あるいは司法といった権力を生み出すような力が備わっているのではないかと感じます。 – p.62

記者会見や国会答弁、その他幾多の会合で、予め用意された原稿を政治家や官僚、町の代表がひたすら読むのも、この故なのだろうか。

「力を引き受けていることへの自覚」が必要というのは、パフォーマーだけに限った事ではないでしょうね。学校で立って教科書を読む子供にだって、その感覚を養うことは出来るはず。大いに。


「ダジャレ」の効能。

言葉自体を不安定にしておくことによって、発話という行為を毎回発見しなおすための回路を作っておく。- p.132

もう少し説明があるのですが、ほぼ完全同意。ぼくが駄洒落を多用するのも、そんなところか。

その他、今後も舞台に立つ(実感が薄れてるが…?)者としては、ずっと不思議だったことについて、答えと新たな課題をもらった気がします。

機会があったら上演を観にいってみたいです。

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