強力な
草刈機
というものを
扱ったのだが
日暮れどきに
つまりはオーマガトキに
よく地面が見えないまま
強力な鋸刃を操るというのは
あぶない
何が危ないって
トルーパーの気分になるのである
跳び出すバッタを
おらおら 逃げろよ早く
という気分は
…
これじゃ条件次第では
力を持てば誰でも凶暴になるなと
想像できてしまう。
強力な
草刈機
というものを
扱ったのだが
日暮れどきに
つまりはオーマガトキに
よく地面が見えないまま
強力な鋸刃を操るというのは
あぶない
何が危ないって
トルーパーの気分になるのである
跳び出すバッタを
おらおら 逃げろよ早く
という気分は
…
これじゃ条件次第では
力を持てば誰でも凶暴になるなと
想像できてしまう。
夜と昼がひとしい 嵐で気付かないけども
ふとしたことから
コンゴ動乱と現代に至る状況の酷さを知る
以前もこれに類する報道や動画を何度か観てはいた気がするが
今年観ると、迫ってくるものが違う。
—————
人間、悲しいかな、遠いと思うことは実感できない。
だが、実際に格差がここまで広がり、独裁まがいの体制と軍備が急速に進み、
そしてこれから指数関数的にひどくなるのが目に見えている今
アフリカで起こってきたことは
対岸の火事どころか
…合わせ鏡じゃ、ござんせんか。
防衛や経済などの名目によって生まれたすべての武器はやがて何処かに流れ着き、
人を際限なく殺していく。どうしてそれを止められない?
日本も各国も、これまで自分たちが国内外で犯してきた
虐殺などについては決して認めない。
認めたら最後だ、という教えがあるのか、
自分の後ろ姿が見えないが如く、そこからは学べない。
だが、コンゴ「民主共和国」、ウガンダ、スーダン
これらの地域で起こっていることからも
おそらくウクライナとロシアで起こっていることからも
人間の悲しい性はわかってしまう。
人は、そうとあれば、暴走するのだ。
それを利用してきたのが古来無数の戦争だったろう。
一対一ではない、大量の「部下」に武器を持たせて殺させる。
それは決して権力者や兵士同士にとどまらない。
女性や子供、老人が標的にされる。
資源のため。権益のため。
発展のため。着飾るため。
こんな中で、実際に生き抜き、表現してきた人もいる。
背景がわからぬままの僕や仲間を、何処か凄い音の世界へ連れてくれた、マリーさんもその一人。
だが。
その無敵な表現も、今後は受ける側次第で意味が違ってくる、そんな気がしてしまう。
素直になれなくなった。つくづく自分は。
ドリーマーが一人増えるだけじゃないのか。その夢は正しいのか。
誰かのビューティフルドリームは逆から見れば悪夢なのか。
わからない。
いろいろな人が、それでも問いかけてきたけどね。
デイ・とりっぱー
…なしはいかんよ
アイデアやテイクはどんどん重ねるくせに
いつまでたってもまとまらないな
9.11です。
WTC で起こったこと、そしてその後世界で。
あれはとても大きな、日本に居た僕自身もいろいろな物の見方が変わった日でした。
というより、その日をきっかけに数年かけて大きく変わっていった、といった方が近いです。
が、今日は別の日の事を思い出したりしていました。
フランスで、バタクラン劇場で起こったこと、とその数日後の拙文。
サルビルサ 〜 スズキコージ氏の作品にちなんで
今、思い出さなければいけないことの一つのような気がします。
満月ですね
月見、というわけでもないですが
今宵はときどき、そらを見上げます。
最近は月をみないとか書いていたけど
曇りの夜が多かったからなのだろうなと
思って外に出たら
あれ、一体どこへいったのやら。
まぁいいや
Moonlight という昔の絵画のようなレコードと
Moonlight sonata のピアノを聴きながら
朝の音楽を思う
九月ですね
三日月がすぎ今日は半月が訪れる
やがては満月 また半月 そして二十五日に新しくなる
アプリで J-Wave を聴く
ベルトリッチの映画、最後の老人の、腹話術のような台詞の話。
Paul Bowles の原作はこの秋に読みたいな。
この映画の7年前 Sting が書いた一節がずっと頭にひっかかっていて
… Tea in the Sahara という曲だけど
この曲は捉えどころのなさのおかげか、かれこれ40年近く頭のどこかで再生されている。
まあ、かの人はこのあたりの詩作の背景を、「言葉遊び」と片付けそうな気もするけれど
(そしてそれを否定もできないが)
意味がわからないながらも、それは形を変えて自らの近年の謎ボックスにもなっている。
謎ボックスとは…なんというか、巾着袋みたいなものだ。取り出したり、忘れたり。
残念ながら、僕の頭上には Sheltering Sky より、ずっと低い屋根が常にあって、
「そら」はその向こう側なのだ。遥かに。
だからこそ一昨年は、異様に月に執着していたのでもあるが
今年はどうやら、月を見ることすら難しい。
正直、時間が惜しいのだ。
いや、時間との付き合い方が、もうわからなくなってきているのかな。
昨日。駐車場に向かうとき。
青空の下を歩きながら、ここは4次元?と思う。
3D+時間が4Dなら、僕らの生活って常に四次元じゃん?
三次元なんて、ほんとにあるの?
たとえば奥行きがなくったって、時間は常に存在するのだから
2D+時間だって、
モノラルの音声だったら1D+時間だって、いつも存在してるやん?
とふと思ったのだ。
秋の虫が、また鳴いている。彼らはどうみているのだろう。この世界を。
先人たちの鋭い弦、柔らかい声やシャウトにおののく。
フライパンがあと三度乾くころには秋。
嘘つきは政治家のはじまり、というぐらい。
うそも、取り繕いも、できない約束も、したくないものだ。
だが当人、八月中の配信は未遂におわる。無念…
布谷文夫さんや大瀧さんがどうして「悲しき夏バテ」なるレコードを作ったのか、そしてそれがどうして11月にリリースされたのか、今もって謎だが、制作中はやっぱ…夏だったわけですよね?
ということで、九月がきます。いい あきを。
八月も後半に。
例年の如く、悲しき夏バテ(このアルバム知ってますか?)、だが3年目のコロナの中、頭は冴えている方である。
いや、たぶん気のせいだろう。
ドレッシングをじっと見つめても、これがドレッシングであり冷やす必要があると気づかない、
そんな、ラビットホールに落ちた箒星。
相変わらず古いレコードを聴いています。が、聴きたい音楽、好きな音楽(曲)に限って、配信されてないことが多いです。
いろいろな理由は考えられるけど
知られていない
配信するメリットがない
許可されない
なお知られない
興味持つ人も聴けない
そんなスパイラルで地に潜っていく音楽。
著作権などクリアするには結構な手続きが要るだろうし(例えば1970年代にレコードを作る時点で、それが50年後に「ネット配信」というわけのわからん形態で届けられると誰が思うだろう)
その手間をクリアするだけの見返りがあるかというと
おそらく、あまりないのだろうし
というより、ほとんどないだろうし
でも、こうして 知られていない音楽はますます知られなくなる。
そしてそういう中に、素晴らしい音楽がたくさんあるから(僕にとっては)
どうしたらよいのか、よくわからなくなる。
僕がたとえばレコード会社の人間だったら、結構毎日悩んでいるだろう。
宵の口、湖畔まで散歩。
ワイヤードの air pod… 要は標準の iPhone イヤフォンで聴くベースがいい感じ。
頭上には今も数羽、燕がいる。あと、もっと小さい、少し頼りなげな鳥も。
帰り際、月に被さる月の雲をみる。
こんな感じか。右がほんもの、左がくも。
説明せずにわかった人はすごい。
帰宅しいつものヘッドフォンで聴くと、さっきの曲はベースがでかすぎて滅茶苦茶だった。
でたらめを びだんにしたてる つきのちから
ミックスし直すのも疲れたので、全部弾き直してから寝た。
久しぶりに弾く4001、やっぱこの時が一番楽しいや。