十五夜は半月
月の真ん中だから、ちょうどいいのかもしれない
虫の声と一緒に眺めていると
言葉にならない記憶が白壁と宇宙の黒壁を走りそうになる
どうぞ ご自由に
トレースすることも 否定することも
なくなりつつある 一時半
ふと気づけば
月はポケットに入っていた
ずっと大きくなって
逆さまの右手の中
いいよ
そのままで
眠っても いいからね
十五夜は半月
月の真ん中だから、ちょうどいいのかもしれない
虫の声と一緒に眺めていると
言葉にならない記憶が白壁と宇宙の黒壁を走りそうになる
どうぞ ご自由に
トレースすることも 否定することも
なくなりつつある 一時半
ふと気づけば
月はポケットに入っていた
ずっと大きくなって
逆さまの右手の中
いいよ
そのままで
眠っても いいからね
「詩的なおしごと」at Atsuko Barouh
トークイベントは逃してしまったけれど、初日に観れた。
えりやさんが小さなノートに書き留めた、オリジナルの絵文字によるメモ。
写真に残せなかったのが残念だが…可愛い。
加賀温泉郷のデザインプロジェクト。
銀座資生堂ビルプロジェクトのコンセプトスケッチ。
イメージによる太陽のような存在、渦がビルの下から上まで通り抜け、
内と外なる大空を夢見るように昇って行く。
空にまたイメージの渦巻きを見守り、渦はやがて地上に降りてくる。
くじらにのった蟻、蟻にのられたくじら。
これらがビル建設工事のファクターになっている。
いい時代?
そうだったのかももしれないけど、いまだって、やろうと思えば、できる?
形は違うかもしれない、得意分野やトレンドもあるかもしれない、
でも、心の自主規制を取ることが大事、
そんなことを思いました。
ジャンベ一発が合言葉
スライド一発がとびら
ソプラリーノ笛が夢の脳波を動かし
むき出した目に ひょうたんから音の子どもが出てくる
そんな夜だった
帰り道はキャッチボールのページをめくる
やっと手に入れた「ことばのポトラック」
話は翻って
未熟なまま死んだか? 民主主義
いや
これから
未熟なのは強行主義
同じキーなのにライン川を容易く超えてしまったラ・マルセイエーズ
プロパガンダ映画だったのかもしれないけれど
野蛮すぎる歌詞だったのかもしれないけど
ここから知恵を貰えた気もする
カサブランカ
なぁ、あんたの国は、アジアを操ってるらしいが
それだけじゃないだろう、いいところは貰っちゃうぜ
黒服にだけ任せてはいられない
むしろ白いスーツを ってとこだ
フジマルヒデミさんが cafe the eel の moto くんと遺した作品。
『風立ちぬ』続き。
睡眠には、寝る前に体験したことを意識下で整理し、咀嚼する効果があるという。
つまり、「睡眠学習」にはある程度効果がある…
「眠らない」ことは、人にも、街にも、また機械システムなどにとってもよくはない。
そんなわけで、一晩寝ると、昨日より違った捉え方ができるようにはなってきた。
というか、ディテールに散りばめられたメッセージを、追体験できる。
映画の後味がなんともすっきりしなかっただけに、「なんで?」という思いが
これからも追体験を誘発していくのだろうか。
これは、この映画が毒にも薬にもならないものではない、という証明かもしれない。
まず、我が道をいくということ。
この時代、肉を食えという仲間に対して、サバ好きを通し、サバの骨のカーブを翼の断面のヒントにする。
美しいと評した独逸ユンカース製航空機を完全になぞらず、独自の発展型を見いだす。
(ちなみに、描かれた独逸製爆撃機は、ルパンの「アルバトロス」やコナンの「ギガント」に酷似していた。根っこが同じなのだろう)
思想調査で特高に逮捕されかかったとき
「身に覚えがない」
「今まで何人も特高に捕まった、みんな身に覚えのないことでだ」
というやりとり
そして最後の
「国を滅ぼしたのだからな」
「一機も帰ってきませんでした」
それら、みんな、とても穏やかに綴られている。
その穏やかさが、優しすぎるのか、諦めを感じるのか、大きすぎるのか
それとも単に、抑揚のないあの声が違うのか。
僕はやっぱり、なんで?と思った、(宮崎作品にときどき配される)とびきり抑揚の無い声。
サツキとメイの父や、雫の父やシータと同じ、あの声 — 声優が違っても。
コナンやアスベルやルパンやハウルや、マルコのような、強い声じゃいけなかったのだろうか。
穏やかで寡黙な人を表す「静かな強さ」の表現だとしても、それじゃどうなのだ、と思ってしまうのは
たぶん映画に、2013年の現在の切迫感を重ねているからなのだろうな。
たぶん、夢は悪夢でもあり、限られた10年は折り重なったトランプであり、
光は影を、影は光を土とともに補わなければいけないのだろうな、
そんなふうに感じる。
よくわからなくなったが、胸が苦しいかわりに、少しだけ胸があつい、
酔っぱらったしそろそろ寝るか、そんな
911
であった。
『風立ちぬ』を観た。
胸が苦しくなる映画だった。
「菜穂子」は限りなく美しく
恋と結婚のシーンも感動的だったが
根本的に何かが間違っている
という胸のつかえ
その結論を最後の「夢」に委ねた結末は
これはスルーしてはいけないと思った。
たとえ、全てをやり尽くした監督が、流したとしても。
「ただ、いい飛行機を作りたいんです」
「我々は武器商人じゃない」
って
…
じゃ、武器商人はこういうだろう
「我々は政治家でも、軍人でもない」
ちがう
それぞれ、持ちつ、持たれつ
やってたんだ
人間の技術は人間を幸せにするのかな。
「国を滅ぼしてしまった」イタリア、ドイツ、日本のそれぞれの
美学を描いている、とも取れる
そうかもしれない、今もドイツから学ぶ面は多い
それどころか、色々な分野で、独逸流を神格化するような空気さえ感じている
もちろん、イタリアからもだ
だが
いかん、やっぱ、胸が苦しい。
落としどころが無いので、加筆予定
* 追記
音楽は文句なく素晴らしい。冒頭の空気感から最後の「ひこうき雲」の林さんと細野さんのリズムセクションまで
だが音楽のレベル(ボリューム)に対して台詞が小さくて、正直、「耳が困った」
「脱グローバル論」を寝る前に読み終える。
内田さんの論はだいたい既読だが(自分で売る本の内容をブログに前もって記載してなおかつ買わせるって凄いよね)
中島岳志さんの話に背筋が寒くなるぐらい同意を覚えた。
昭和維新の話、2008年の秋葉原事件直前に、後の犯人が福井のアーミーショップでの店員のやり取りに「店員さんいい人だった…人間と話すのっていいね」と感動していたという話、
そして地域社会の「ボンディング」と「ブリッジング」の話。
ほっといてくれるということと、声をかけてくれるということって、実はメビウスの輪でつながってる。