カテゴリー: hikari

catalyst

ずいぶん前になるけど

異国にて思ったこと。
「ダサイ音楽でもかっこよく踊れる奴って凄い」

今日思ったこと。
「この景色なんてきれいだったんだ」

そこそこの楽器があれば、本当に巧い人はいくらでもいい音を出せるし
明るい人は輝きが違う。

たぶん画家と呼ばれる人は、見ている景色の捉え方が普通の何倍も美しいのじゃないかと思う。
(そう思うと、楽しくなる)

字が巧い、会話が巧い、太鼓が巧い…
才能っていうのもあるのだろうけど
これらはある意味、媒介者になるための鍛錬の結果じゃないだろうか。
— そこに存在する、美しさに対しての。

もしかしたら、僕らの運命は限られているかもしれない。

だけども、限りある時間の中で、少しでも、

そこにあるもの

を媒介できたら
それはそれで、とても大切な人間の役割を果たす事なんじゃないか。

言い換えれば、分野が何であれ、人はそういう能力を持っているんじゃないだろうか。

マザー グース ネック

-たまに使うスタンドライトと人類にまつわる寓話-

いざグースネックになってみると
そんなに首をグースにすることってないなと思う

いざブロントサウルスになってみると
あるいは椅子に座りたいって思うかもしれない

フロントガラスから見える三日月を あるいはほんとの二日月を
今日の名場面にしようとグースネックになってバスから覗いてみる
たぶんそれは 写真になってから見るとうっとりするんだろう だけど
グースでない自分だと 苦痛がうっとりをはるかに上回る

あれっ 苦痛とうっとりのバランスは?

…わけわからんよね。これは祖父江慎の講演本を読んだ後のメモ。

久々の煉瓦

ワインの催しに出演したものだから
ワインをしこたま飲めると思っていたら
出番が終わったら完全撤収
結局一滴も飲めずに引き返したという話

まぁいいか、もうっちっと早く足を運べば良かったのだ

空の色ってなんだ

「空色の列車」という、チェブラーシカのサントラからの曲をやったわけだけど
ロシアの人形アニメ(ちょっと観ただけでも感動的だ)に出てくる列車は
殆どマイフェイバリットカラーに近い、ティールだか暗めのターコイズの
まだ暗い版だ
これが空色っていうんだから、素敵な国かもしれない

しかしまあ、後半に横浜の空もみるみる色が変わっていって
「組曲ラピスラズリ」をやったあたりには2日月とその近くの惑星(金星だろうか)
これらがみなとみらいの半月ビルの上にかかって
空がアズレとティールを行ったり来たり
ステージ脇のLEDの錯覚もあるのだろう
あまりにきれいでおかしくなりそうになった。

強風につきアコースティック楽器ばかりの楽団は大変だったけれども
右手とバックの倉庫、頭上のおかしくさせる空
めったなことで忘れないだろう

もっかい

Yellow Submarine
20回
もっかい
もっかい

リード、ハモリ
小声のもっかい
小声のリード

もっかい

ぐーぐー

おわりのはじまり

すくいがなくたって
つづきはだれかがかんがえりゃいいんだ

そんな風になってるのかな、って思う。

近頃出くわした話や観た物語や、ひっぱりだした記憶は
どうも輝きと谷が一緒になってる

全てを照らす光と
余韻のまま落ちてった誰か

そこでたいてい話は終わってる

処理しきれない結び

多分、今の人は「終わりよければ全てよし」なんて結論に頼らなくても
話を輪廻させていけるんじゃないかな

ふと、今の人のふりをする自分が
自分で考える。多分誰かの話の消し忘れでも
自分が引き受ける事だってできるんだろう。

青雲

RX-8 って意外と静かだな
交差点をミオロしておもう

空には かに星雲 のような雲と月の溶き玉子
ぴょこっと星がでる

くるまははしりさる

まだ温度のある あきのかぜのはじまるよる

叶うならば縦でいたい

僕は割と縦長な人間で
そのせいか、世間で言われる「ヒトの視野は横長だ」を信じられないでいる。

だいたい、改行のない横に長ったらしい文を見ると内容よりその形だけで不安になるし
今や家電屋の壁面すべてを埋め尽くすワイド TV にもイマイチ馴染めないでいる。

だいたい、僕は A5 や A4 を縦にしたカタチが凄く好きなのだ。
見開きで横に長くなったとしても、縦型になにかが記されているって、それだけで何かの意志を感じてしまう。
おかしいんだろうな、多分。

だいたいインターネットは未だに縦長主体で
純粋に横長に作られてるページはそれほど見ない。

折角縦スクロールができるんだから、ってことかもしれないが
なんか、横長モニタで殆どのヒトが見てる現実ではあまり必然性を見いだせず、
やむを得ず惰性でそうなってる気もしないでもない。

だが僕は、縦長ページならホントに縦長画面で見たい方で
昔は Radius の Pivot っていう、今はもうない(技術の転売された)
馬鹿でかい CRT をずっと使ってた。

アメリカに居たから、A4じゃなくレターサイズだったけど
ページがちゃんとレイアウトされて見れるのは最高に気持ちが良かった。

(Pivot は本来、縦横いけるモニタなんだが、当時の Mac では縦しか使えなくなってしまっていた)

もともと、シーケンスは横で、ワープロは縦で、と思って買ったのに、
シーケンスも縦でやるハメになった。慣れたら全然違和感がなかった。

別に僕はトラックをバカみたいに重ねる方でも、意図を持って重ねる方でもなく、
オーケストレーションは至ってシンプルだったけど、それでも縦長のワークスペースで慣れていた。

なんでかなぁ。

もう随分、横長の画面しか見てないが、ずっと「縦に帰りたい」病が続いている。
池尻に居た頃は丸正に渡る信号待ちの時、いつも首都高の更に上に伸びるでっかい杉を眺めてキッと空を睨んでた。
ジャンクションループの工事で木が切り落とされた時は、それなりにショックだった。

映画のスクリーンは16:9より遥かに横長で、
あまり意識してその効果を考えた事はないけど、それは正解なんだろうな。たぶん。
だが、縦長の世界はどうしてくれるんだ。

自分は視野が狭いんだか、エコな植物か電話ボックスなのかしらないけど
横長は寝てる時で、ええやんか。

というわけで、横になります。

時間の魚

また変な事を書くけれど

人生や物事の進化って螺旋状だ、って良く聞く
それは本当だと思う

時間軸で言うと
行って、静止して、戻ってくる。
それを繰り返して、形になる。

それを見て感動したり、使いこなしたり、他人が利用して、いわば、発展する。

そんなのの繰り返しだと思う。人間が文明を築けたのは。

だいたい文字を記したり、モノを生産したりするのは、止まったものを産むこと。
それは流れる時間に対して静止、つまり過去に向かっていく事だ。

にも関わらず人がそれを続けるのは、どうしてなのだろう?
それを拾い上げて、また時間に向かって投げつける。
人の時計は、常に伸び縮みしている。

例えば。
この世が全て、画像だとする。
そんなことはあり得ないが、だとすれば、画像編集しようと、何でも注視するやつもいるかもしれない。

そうすると気づくのだ。この世は全て動画で、静止画と思っているのは動画のうち、止まっているように見える一種でしかない。

なのに人は、いちいち静止画に価値を見いだす。
モノは動くものもあるが、静止した形に固定されて初めて生産される。

もしくは。人は動いているものを、静止しているモノほど理解できないのだ。

価値を見いだせるのは、時の流れに耐えるもの。
流れて行っても、イマに戻ってくるもの。遡れるサケのようなもの。

もしくは、モモタロウのようにずっと先から流れて来たもの。

ここで螺旋が登場する。

新しい何かを固定して実現させたいなら、時間のずっと向こうにアイデアを投げなければいけない。
それが戻って来て、形になった時に、つかまえる。そこで流すか、また投げる。
何回か繰り返せば、魚は大きくなるかもしれない。

みんな、時間と釣りをしてきた。

動物は本能でそれをするけど、
人間は知ってか知らずか、そうやってきたのだ。

と、思う。

ほたる

とても揺らいでる月を誰もつかまえられない
キャンバスなどそこにはないから
おもいだして 生き返らせなければ
どんなかみにも ふゆうたいにも

それはぼくのめが 走っていたから
何百キロも 夜通しで

目の前で 揺らぐ月
いなくなると わかるから
記憶の種だけ おいてこって

よくあること

阪神が負けて
悔しいからニュースを見なかった。

今朝、シャワーを浴びてる時に知った。

こんなこと、よくあっちゃいけない。
一度だってあっちゃいけない。

星が地面にきらめいている氷川橋の交差点の向こう
何度も何度も、ダークブルーのビルを見ていた。
そこで35年前に起こったこと。

その人が吹き込んだ記録は僕の日本語に対する意識を根本的に変えた。

ダークブルーのポリドールビルももうとっくになくなって
いまはアパートだ。

僕には気持ちの説明がつかないし
色々ふっきった今でも説明する権利もないと、この事ばかりは思う

ただ、ものごとはそれでもつづいていくんだろうなと
いまでは思う

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