カテゴリー: book

1997-2011

だいたい読んだ。「原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ」

いろいろと示唆に満ちている。14年目にして第4刷っていうのもマイナーだが、今年は売れるのだろうか。

この人はもともと核の専門家であり、なにがなんでも反核、ではなく、利用出来る部分は利用すべき、という方向だ。

まさに今回のような放射能事故への対策としても、正確な情報開示と
ガイガーカウンターの普及、それを使いこなせる人を育てる必要性、をずっと言ってきた。
ただ、使いこなせるために、「安全な」放射性物質アルゴン42とやらの普及(学校で学ばせるなど)も目指していた。
そのへんは科学者的な発想。ジャンバ・ジュキーバ博士的かもしれん。

他にも、いくらか、どうだかなぁ、という発想もある。
だが。きれいごとだけ言ってる人よりこういう人の方が響くこともある。

いくつか引用させていただきます。

『なによりも重大なことは、核兵器の保有とは明らかに「殺人の意思表明」だということだ。核兵器はその本質から言って無差別殺戮をおこなうための攻撃兵器でしかなく、防衛用の意味はまったく持たないものである。孫子の兵法からすれば、最低、最悪の兵器なのである。』p70

要するに都知事は、孫子から見てもその程度の為政者だということやね。
ただ、孫子ならぬ、亜細亜を駆ける孫氏の兵法もどうも気になるけどね。

『そもそも放射能とか原子力というものは、一般の人びとにはきわめてわかりにくいものである。そのため、万が一のためにいかに安全対策をおこなうか、とかんがえるべきところが、いつの間にか一般に向けて「原子力は安全です」という宣伝・説得をすることへとすり替えられてしまっている。』p82

『ダチョウは外敵が来ると砂の中に首を突っ込んで安心し、逃げるのをやめてしまうという。この原子力関係者のダチョウのような態度はいったいどこから来るのだろうか? 〜 いまではあらゆる手段を駆使して「原子力発電は絶対に安全だ」という宣伝をするのが「推進派」の仕事になっている。滑稽な話だが、ある有名大学の原子力工学科には、かつて「PR専攻コース」というのがあったそうだ。』p90

これはこの時点から20110311まで、全く変わっていなかった。この蓄積されたテクニックは、今まさにすり替えられて使われている。

核融合炉の導入について

『「あと何年でできるか?」という予測は、本当なら毎年一年ずつ減ってしかるべきなのが、変わらないどころか、逆にだんだん伸びていっている。』p150

小出助教授が国会答弁で言ってた、もんじゅの実用性についての話と全く同じやね。

『「高価な核融合炉は、使いはじめれば一年はもたないだろう」という話を聞いたことがある。〜 この劣化はたいへん厳しいもので、金属がひどく弱っていくことがわかってきたという。その問題の解決のために役立つ方法として、ヘリウム3をトリチウムの代わりに使うというアイディアがある。このヘリウムは月の表面から取ってくればよいといことなのだが、こうなると、話はまたSFの世界に戻ってしまったようである。』p150

現在も、外務省のサイトには核融合炉計画「イーター(ITER)」について記されている。

月から材料を採ってくるのなら、こちらの方がよっぽどいい。月より近いし。
宇宙太陽光発電

『悪く勘ぐれば、電気冷房には電力会社や原子力産業というパトロン、ガス冷房にはガス会社というパトロンがついているが、太陽は慈悲はくれても、直接お金はくれないからではないだろうか?』p187

『日本では、長期計画はきわめて注意深く、石橋を叩くようにして練られるが、いったん決定すると、もはやそんな計画は無意味だとわかっていてもやめられない 〜 〜 この矛盾をなんとかして避けて通るために、官僚がとる方法がまたいけない。そのやり方とは年次計画のほうを先送りにずらすというものだ。』p189

合議をくりかえすことによって責任や意味自体があいまいになり、時間が経ち修正が必要になった頃は誰も責任をとらなくなるばかりか、当初の意味すら忘れてしまう。無駄な合議ではなかったと思いたい「面子」だけが、妖怪のように残る。

『天の御光により、呪われた核の世界をもっと明るいものに変えていく事業を始めること。これこそ、日出ずる国・日本のなすべき使命ではないだろうか。』p213

そのとおりやね。

五郎兵衛伝

昨秋 生まれて二度目に歌舞伎を見た僕は
今になって子供の頃に読まなかった中学生向けの「赤穂浪士」を読んで
いろんな事に真剣に感銘をうけている。

ルビの付いた分厚い文庫本は、電車で読むには結構恥ずかしいが
恥ずかしい事を避けていては僕という人間は勤まらない。

大石内蔵助の祖先が滋賀県人だったという事も今頃知ったし
矢頭右衛門七の境遇など、くーんと腹にくる。

はら切りの是非など考えるつもりもないし
吉良上野介が本当に悪人だったかもわからないが
浅野内匠頭長矩はソンをする性格だったのだなぁ
これは今の世でも通じる気がする。

だが、こーゆー几帳面な人もいるのだ。
一方で、何の為にもならん仇討ちの為に
よく人は舞台を用意し、舞台を楽しみ語り継ぎ、
脇へ退き、そして去っていったものだよ。

てぇしたもんだ。

across the mass turnpike

「日本辺境論」一昨日読み終える。

「石火之機」
「天下無敵」
「自分からはみ出して」…一体化する

などの「機」に関する章、興味深かった。

レーテンシー云々を無意味化する、時間、空間の再構成能力というのは
本来日本人が鍛え上げて来たもののひとつ、
と解釈してよいのだろうか。

なーんとなくわからないでもない。

「歳を取ると一年が短く感じる」と「真剣白刃取り」の関連が
それまでの全経験に対する比率、新鮮さとして説かれている。

真剣が振り下ろされた瞬間に「生まれ」た武道家が
起こった全てのことをスローモーションで繋げ、処理してしまう。

確かにそうかも。
凄いインプロヴィゼーションと共にあるプレーヤーは
ある意味、生まれたばかりの状態にあるのだと思う。

野球人が時折口にする「ボールが止まって見える」もたぶん同様。
一球ごとに生まれるのなら、彼らの人生も相当面白そう。

しかし

経験ある「師」に対して若い「弟」は時間感覚で優れたとして
ならば経験の意味は何か。

僕はこじつけながら、こう思う。

経験、または、「型」や「蓄積」が
ある時生まれた(閃いた)もう一人により参照される

同一人物の中に老人と若者が同居しない限り無理な話だ。

たとえば谷川俊太郎さんのような人がいつまでも若く見えるのもそういう事ではない?

気の遠くなる時間が生成したガソリンをクルマの新しいエンジンが一瞬で爆発させる。

ピアノを習う人が意味がわからないまでも繰り返したバッハが、ある日弾けるようになる。

それがブレークスルーではないかな。

自分の見える海

考えすぎるとつかれてくるのだ。
(つかれるとは憑かれるということ 日本語は本当によくできている)

内田樹の日本辺境論を半分読んだところ。
幾度か大笑いした後、つかれて来たので寝ようとしても寝られず、
書こうともなしに指運動をする。

日本が辺境かどうかについて、今まで幾度か僕が思った事は

太平洋は広い
東洋の端と西洋の端を無理に繋ごうとする日本人の
少なくとも物心が付いてからの僕の周囲の
国際関係の前提がそうとうお気楽であるという感想

これは例えるまでもなく、米国と日本との音楽の違いでもある

日本的な「ことの流れ」にアトモスフィアとして堪え難いアレルギーを感じた事も
数度では済まない
そしてそれらの大半は今では忘れてしまっているけれども
それは自分の想いが強かったが故に、その生命を絶ったのだろう
つまりある意味、僕はもう出家している

僕は日本的ではなく、辺境から更に辺境である事において
ナチュラルな日本人なんだとも、思っている。

今日は朝から、蛍光灯と白熱灯が並ぶ街路をくぐって
ひかりの持つ意味の取り違えにいきどおっていた。

蛍光灯は昼光で白熱灯は夜光だ。言うなれば太陽と月の模倣だ。
これを並べてどうする?? 昼と夜が一緒ならオレは起きて寝るのか?

こんなことは工事現場の図面には書かれていない。
電球型蛍光灯がLEDにすり替わって、値段やエコでなく「ひかり」がどう変わるのか、
僕は未だ知らないが、とても気になっている。

新幹線のひかりが未だに青いのは何故だか、屋根の掃除をしながら考える人は今日は居たのだろうか?

日本人にとっての建国のストーリーはクニウミ。これと中華思想はどう関わるのだろうか。

辺境の中の辺境だからなぁなぁでやっていける。
乏しいリソースと朧げな水蒸気を含んだ空気の中で、ひかりに鈍感でもいられる。
かわりに陰翳に敏感でいられる。

ただ僕は、電磁波に邪魔されたくないと思う。
自分も電機仕掛けだという事はわかっているから。

ガンバ

自分の楽器の先祖、ヴィオラ・ダ・ガンバの演奏を佐鳴湖に観に行く
リコーダーとの重奏、瑞々しくて素敵な音色だ

辻仁成「アンチノイズ」をここ数日読む
少し同調

音の地図、とは自分もぼんやり考えていた言葉
といっても中身は全然違う

地図からはみ出した声が好きだ
と思っていただけだ

「鐘の音」
これを記している実時間はもうすぐ百八の鐘が鳴る時なのだけど
確かに毎日だって聴いていたい

「視聴覚において聴覚は40%」
だから、目を向けていない人も振り向かせるのがサウンドだ
と今年、誰かにきいた
room関係の人だった

果たして、振り向かなくてもいい音もある
その地点を確認せずとも、耳を澄ませばその生に触われる音も
あるだろう

なんだって GPS が付いていいわけじゃない

五億年の五つ目

『考える人』 No.28

特集はピアノだが、この部分はまだ全然読んでいない。

長沼毅の「形態の生命誌」にいつものごとく大笑いする。
僕はこの人がツボなのだ。

節足動物を突き詰めると
体節に足が生えたものの集合体であるらしい。

とにかく節から二本なり四本なり足が生えていて
歩いたり食べたり鰓呼吸したり、足がその動物をどうにかしてくれるのだ。

そして、足の付け根に口がある。だから彼らは「タテグチ」なんだそうだ。

この構造は脊椎動物の真逆だそうだが
共通点だってないわけじゃない。

それにしても
う〜ん
オパビニアって変だ…

おぼえがき

ざっと、売れてる本を読んでのメモ

ドウタとマザは入れ替わっていないだろうか?
マザと思ってドウタが出て来たのではないだろうか?
そか、それとも –
場面場面で、マザとドウタのふかえりが入れ替わって出ているのだ。
姿を消す度、彼女は山梨あるいはどこかに戻り、入れ替わってまた現れる。
本人は区別がついていないか、どちらでもいいと思っている。

246の非常階段は所謂三宿のあたりなんだか。
コンビニなら天下一品の近くにあった。
自分が昔、一日一回は散歩していた界隈だ。

最初の場所に戻って、道がないと気づく。
最初から青豆は死んでいたんじゃないか?と相方は物語を読まずにそう言う。
全く僕に思いつかなかった考えなんだが、正しい気がする。
メリンダの影響だろうか?

青豆が最後につぶやく言葉は自分がこれから行くところである。
出来すぎている。

勘所の名称

88年に出たという、「楽の器」なる本を今読んでいる。
編集: 藤井 知昭 / 山口 修 / 月渓 恒子
タイトル、装釘の素敵さに漏れず、中身も面白い。
すこし支離滅裂ではあるが。

論文というか、エッセイというか、これぐらいまとまりがない方が
真実なんだろうか、とも思う。

中でもびっくらこくのが長方さんという方の琉球三線と身体についての一編だ。
にこやかな「シャミセンにんげんの図」にはじまり、円も三角形も存在せず、
風や満月などの夜の諸機械と連結し、分裂する身体なのだ。

まぁこれは薄味のマッシュアップではあるが、実際の文章は頭が痛くなるくらい、興味深い。
久々にわけのわからない、真実を含んだ文を読んでいる気分。

この文章の最後はあまりにもかっこよくて、
シャミセンの曲を覚えるには「手にコンピュータをつけるさ。」だという。
(この「〜さ」は方言の方だ)

そしてそのコンピュータは、二進法の演算によって配列された音を再生するのではなく、組織化されない音たちを生産するのであるらしい。

使い古された頭にそんなコンピュータを備え付けたのが、思考における「シャミセンにんげん」であるらしい。

なんのこっちゃ。

その次が抜群にかっこよい。

「そうすれば、二次元の画像空間にシミュレーションしなくても、あの美しい流れを思考の三次元空間において全体的に把握することができるかもしれない。」

そっか。

なんかよく現してるね、目前にある落とし穴を。

目に見えない音

ずっと前に新幹線で偶然隣り合わせた、さる学者でチーズ製作者の方* が
VAIOのデスクトップに貼り付いた遺跡の写真を見せながら
「ストーンヘンジは、β波を増幅させ、儀式を効果的に行う場所なんだよ」
みたいな事を教えてくれた事がある。

確かベータだったと思うが…違っていたらこれは僕の記憶のせいなので、許してください。

ともあれ要旨としては、低音域から低周波にかけて、人の意識を動かす波があるらしい。
そして、その事を知っているある種の支配者や、演出家は、政治や宗教に、或は芸術に、それを活用した、らしい。

「だから君が座席の後ろに置いてるその楽器は、けっこー大事なんだよ」とその方は言ってくれた。
一応、励ましの一つとして覚えている。そだ、音楽は集団催眠の一つだ。
眠るのはたいがい、僕だが。

どうも近頃、これを異口同音に、色々な人が言ってる気がしていて
「都市の通奏低音」「ナチスの洗脳」「アナログレコード」「石笛と能管の高周波」
んーん、
やっぱり何かあるようだ。


* 共働学舎新得農場代表 宮嶋望さん です

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