音楽と詩と
演劇と空間
◆<△+●:
この感覚は
ことばでも
表せません
らいふわーく にしたいこと
なんて軽々し く言えません
がやはりそう だと思います
大先輩方と共 に光と闇の中
で表現できる のは格別です。
音楽と詩と
演劇と空間
◆<△+●:
この感覚は
ことばでも
表せません
らいふわーく にしたいこと
なんて軽々し く言えません
がやはりそう だと思います
大先輩方と共 に光と闇の中
で表現できる のは格別です。
11.23 (Sat)
小林隆太 / 近藤零 (stillbeat)
@ カレーハウスブータン
浜松市中区鍛冶町320-8
open 18:00 | start 19:00
charge 2,200円 (ドリンク / フード別)
僕は8弦ベースの弾き語り
隆太君はアコギの弾き語り
です。
浜松で56年もやっている、という老舗のカレー屋さん。
その二階が、とっても小さくて
なんともいい雰囲気なのです。
前回に引き続き、手作り感満載のライヴになると思いますが
どうかよろしく、ぜひ。
11.16 (Sat)
小林隆太 / 近藤零 (stillbeat)
at COCOLO KYOTO
京都市中京区 東洞院通三条下ル三文字町201番地 UEDAビル2F
open 19:30 | start 20:00
adv 2,000円 | day 2,500円 (共に飲食別)
予約, 問い合わせ: info@cocolo-kyoto.jp
小林隆太
シンガーソングライター。幼少期をオーストラリア、中高生時代をアメリカで過ごし、バンド活動を経て今に至る。現在は主に京都で活動中。
近藤零 (stillbeat)
ベーシスト、詩人。ジャズ~フォーク~ワールドを往来する音楽性と、日本的な空閑表現をあわせ持つ。大橋トリオ、flexlife などのセッションマンとしても活動中。
COCOLO KYOTO
京都のグラノーラ&ナッツ専門店。地下鉄烏丸御池駅より徒歩4分。
隆太くんは先日久しぶりに再会したのですが、今の世に、なかなかいないようなキャラの人。
その歌声とギターの音は、とんでもなくピュアです。
不定期にジョイントライヴをすることになり、今回はその二弾。
COCOLO は京都初のオーガニックグラノーラ専門店で、最近では焼きナッツに力を入れているようです。共に美味しいですよ。
僕の方は、最近できた歌も含めて、実験かつホーム的にやろうと思っています。
きっとおもろいで。
stillbeat feat. 青木里枝 (flexlife)
シングル配信、今日から開始しました。
店によっては未だですが
そこはほら、
カタツムリですから。
CD のみの album mini
FLAT FIVE & talkin’ brother より。
各配信サイトへはこちらから。*
アルバムの通販は こちら からどうぞ。
* シングルとしての配信は終了いたしました。この曲を含むアルバムは2020.11.22まで配信中です。
夏も終わるので速記。
風鈴。無人の駅に不自然にかかっている。
涼をとるために数日前から無力な抵抗を試みたのだろうか
すっかり涼しくなってしまった夜には滑稽ですらある。
これとない親近感を感じてカメラに収めると
りんりんと
なりだした
やっぱ り な
プール、海岸、水槽
三度の水の日。
天井のオブジェや「みずいろの」色合い
背泳ぎしていると突如うねり出す低音
それは出水溝だったが
こんなのを毎日見て過ごせたらと思うプールは
思いの外体力を奪う
二度目のジムの代わりに脱出して海へ
先日フィービースノウの3rd LPと共に買った鈴木茂のCDをかけながら
初めての道を南下する
曇り空 灰色の波
「みずいろの」定義は何か ふたたび
昨日は森と道路の街から
灰色の空と黒い烏を眺めていたが
灰色は実は墨のように深い表現をもっている
などと思わなくもない 灰色の朝が近いからって
慣れようとしてるのだろうか?
見返すに能う写真が撮れないのがわかっているが
シャッターを数度切る
収める以上に感じることがある
波は生きている
ときおりヤマアラシのように
左からかけてくる波がいる
正確に 不自然に 演ずることにかけては
彼らの右に出るものはないだろう そう
右には誰も出てこなかった
静止画と動画の違いをまた考えながら
この世には静止画などないのだと思い出す
二次元がないように スチルもポーズもない
巻き戻すだけ無駄な意識
勝手に巻き戻ってく水たち
小さくても 大きくても 渦をまくメダカたち
でも意識は静止画に追いつかない
あるいは通り過ぎてしまう
速すぎて
止まるためには高速で動かなくてはならない
動くためにはとめなければならない
流れに身を任せるのが嫌な自分
これからも 何十年も AI になっても
歩きのパターン認識など技術がなくても誰にでもできてしまう
顔などなくてもいいのにどうしてわざわざ写真に撮るのだろう?
わからない それは気まぐれだ
流れをおこす人など信じない
だが 流れ方にはいろいろある
せめて 魚になってみる
それが 海の一角であっても 画角に漏れた砂であっても
Away from Home …. ってそのままのタイトルの曲があったっけ。
例によって Copeland、Klark Kent 名義のソロ。
何度読み返しても、示唆に富んでいるとは思い難い歌詞である。
だけどこのビデオ初めて観た…
おもろい
もしかして Sting、この時の彼のプレべを使ったりしてるの?
で、Stu のことは一旦おいて
最近思ってしまうのだ。アウェイとホームってなんやねん。
どこにいたってアウェイだし、どこにいたってホームだ。
究極のところ。
音楽をやる以上。音楽に限らず、何かをやろうとしている以上。
それが、困ったことに
生きていること自体に
アウェイ感のフェーダーをどんどん上げていく
不思議な厄介な世界。
昨今、いやいつからかな。
たぶん、どこにも逃げ場なんてないですよ。
いみじくも MV の結末が表してるように。
向かい合えばどこでもホーム。アウェイを知ればそれはホームかもしれない。
生き抜こう。
それはさておいて、だ。
アウェイなんか、ホームなんか?
音に向かえばそれは常に見知らぬ、見知ったところ。
自分のやりたいこと、しりたいこと、
できそうなこと、できないこと
それに向かうことはたぶん、人生最大のアウェイ。
外から見ればどうにも逃げ場がないのに、自分の内面はつかまえられない。
だけどそれもわからないのに、外に向かえるわけもないので
落とし前をつけよう、と、する、またしてもな
夏。
毎年毎年、このあたりにはへばって停止するのだけど
今年はそうはいくまい。な
夏。