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海にて舵をとる

和田秀樹の「甘えの成熟」が書庫にあったので読む。12年前の本。
タイトルは古さを感じさせるが、他で気になっていた理屈と通じる気がした。
— 自立とは、依存である、というやつ。安冨さんか。

賛同できない部分もあるが、冷静な分析が随所にある。

イニシエーション効果。認知的不協和。まず、この辺り、いい戒めになる。

以下雑感と己の宇宙観。

世紀末〜零年代初頭に撒かれた「自己責任」論とは、財界側がコストカットに有利なように決めたルール、の地ならし。
個に分断され、敗者はバタバタと倒れて行った。
あるいは、弱者の宝であった「連帯」は、価値観レベルで見事に潰された。手練のストラテジー。
小さい独立が光に見え、網にかかった者も沢山いる。
「スガンさんのヤギ」みたいに、幻の「自由」を欲した者もいる。
あるいは、「個」という名の新たな束縛が、村八分以上に作用している場面だってある。
まぁ、そんなことが、当時この手の本など見向きもしなかった自分でも、わかるようにはなった。

ところがいくらコストカットをし、合理化しても、不景気は変わらなかった。
需要と供給ならば、需要が不足しているのに、正常な意味での需要を育てる努力を政官財は全く怠った。
消費税増、賃金下落、自己負担。物品価格下降は生産者にも購買者にも罠をかけた。

世界の工場の任期を、日本がとっくに終えていることにも、早く気づくべきだった。
世界の資本家にも死の商人にも、なれもしないことにも。

同じ過ちを、何度繰り返すこの國。
日付変更線では、圧倒的に世界のリーダーなのに。

秋葉原が米国人に人気がある理由は、米国にてミドルクラスが破壊されたことにも起因する、
だから、秋葉の売り上げを基に海外戦略を立てても失敗する、という。
確かにアメリカは、少なくとも自分でわかる範囲では、90年代からろくな電化製品も売られない場所だった。
日本では考えられない劣悪なオーディオ、テレビ、こちらでいうハンズやアヤハディオ、ケイヨーデーツーとも比較にならないRadioshackという怪しいDIYショップ。— 逆に、自分にとってはいい価値観のシフトになった。
秋葉的、寺町四条下ル的なものなんて、無くてもそんなに困らなかったからだ。

テクノロジーではコンピューターだけが最先端だった。面白いバランスだと思った。
それでも、10年遅れで、しっかり日本はその後を追った。そしてコンパスを見失った。
GE製の原発は爆発したが、ムラ人は導入時のイニシエーションを未だに信じている。
日本のコンピューターは、ブランドも、OSも、サプライも、根絶やしにされた。
そして、テクノロジーが歪であってもそれを気にかけないぐらいのテンポ感やアナログな光、街の陰影に
どうも僕はまだ飢えている。

アメリカは国力(軍事力含む)を背景に昔も今も日本に圧力をかけてくる。
アメリカ政府の意見=米国民の意見ではない。
日本政府がアメリカ政府、経済界の意見に左右されていても、日本「国民」が左右される必要はない。

そして。
依存の上手い人間が、結局のところ上に立ちますよ、
ということに、冒頭から触れている。
それもその通り、なんだろう。

甘えられるのも、才能。わかる。
甘えられなくなるのも、才能かな。
違うだろうな。

でも、見る視点が変わると、すっごく、カミソリみたいに、削って行きたくなってさ。

心地よい世界を作る為に、輪郭をけずっていく。
刃が折れても、何かがなめらかになるように。

そうやって、生きてるのが、だれかなのかも、しれないな。

さっさと読んで書棚を空けようと思ったけれども、また振り返ろ。彼のブログ

賛同できない部分も多い。だが考えさせられる。学歴社会にもイニシエーションはあるだろう。

海にて舵をとっている人だな、とは思う。

壁のむこう側

ふと、自分を勇気づけたある考え、或は、こじつけ

「過去、生前認められず、後に認められた人たちは、
たまたま認められなかったのではなく、生前、本気で失敗を繰り返していたのだ」

本気の試み、本気の失敗は、本気でイタい。
よって、その空気をたっぷり共有した同時代人に認められることは決して無い。

だがそれっでも、折れた後に成した何かは、
イタい空気の去った後に、認められることもあったろう。

もし、本気で失敗の次に行けたなら。

つまり、失敗するか、成功するか、に関わらず、

次に進めるかなのだ。

よいお年を

てなわけで、

いろいろあった、

しかもあまり良くないことがいろいろあった2013ですが、

よいお年を!

 

何もかも笑い飛ばしてやりましょう。

ニュースも、世論も、景気も、勝ち負けも、

仕事も、付き合いも、

芸術とやらも、

気の持ちようですけん。

ワーカホリックの腹

感覚の備忘録

なんとなく寝付けない夜
ふと腹のあたりが落ち着かなくなって
何かに気づく

あ、これは何か仕事したくなってるんだ

今する必要? そんなにないのに、だ

何かのきっかけで仕事に逃げ込みたくなる
こんな人、結構多いのだと思う

こういう習性、絶対誰かに見透かされてる

人を働かせるのって、案外たやすいのだろう

何かで読んだ 独逸には24hのコンビニはないとか
ほんまかな?
長時間労働禁止の為、夜に営業したら法律違反とか
ほんまかい?

でも、理にかなっとるね
たとえ、嘘でもね

たたくうき

近江からの帰路
ふとMIDIのサイトを見ていると、リマスタリング特集の ページ

かしぶち哲郎さんのジャケが気になってしばらくした後
訃報を知る。

エピゾのライヴの時には青山純さんの訃報。

昨夜サラヴァで観せてもらったポンタさんは
健在、かっこいいビートと音だったけど

太鼓って、身体がないとどうしようもないから
サンプリングやモデリングでは、おもちゃの兵隊しか生まれない

去ってしまった叩き手のあとは、残された空気と時間の中で
僕らはビートを、ビートを生む身体を、思い出し、思い描き、
生きて行くしかない。

ドラムは永遠。
名人が叩くドラムは最高。

これからも、僕らが、ドラムと共に生き、
ビートを受け継ぎ、
叩き出せますように。

undoo

いたひとが、いない

そこで、右2mにいたひとが、いない

よそうのかいわをしても、よそうがいのことばが、かえってこない

でも

それでもかれの かたちは そこにあって

そこなしで

かぎりなく かぎりある

じんせいを ぼくはかんじてる

だから かなしまないでと だれかにいう

ありがとうと その高円寺の空間に いう

宮崎の大地に いう

おいのりします ごめいふくを

フジマル◎ヒデミさん

このときは右1mだったな

レポート通りに生きないために

いいなりになるのはやめよう

すべて、昨年夏のナイ・レポートのいいなりになって喜ぶヘッド
恥ずかしい

シナリオ通り
ああはなりたくない

昔、やのまことさんから聴いたことに
自分の中にアフリカを持つというのがある

リズムをinternalizeするということ

火が、マッチから棕櫚や松に移るとき
何が起こるだろう

移したとしても、中で燃えている

そう、自己責任

かもしれない

それでも

自分が燃えるために
内を灯そう

きいたもの かいたもの
色がかわってくるように

おうどうとほこり

世界は王国だけじゃない

王様がいる世界なんてお伽噺だけのこと
…でもないけれども

少なくともこの国には王様はいない
いや、随分長いこと、日本に「王」は居なかった気がするのだが
額田王とか、そういう

ちがうか
しかしなんで、日本語を話すぼくらでもこれほど「王」という言葉が身近なのだ

世界は王を求めているのだろうか?

宮崎駿の「風立ちぬ」はまだ観ていないけれども
彼の作品は大人になって、いろいろな見方が出来ると判ってから
好きになった

子供の頃は「カリオストロの城」ぐらいしかピンと来なかった
「風の谷のナウシカ」は惹かれたけれども意味が分からなかった
他は、画がかわいすぎたのか、ヒットしすぎてたのか、敬遠した

今では、原画スタッフで関わった「空飛ぶゆうれい船」から
「未来少年コナン」からルパンの「死の翼アルバトロス」にしても
「ハウルの動く城」にしてもとても深いものだとわかるけれども(遅いか)

しかし中でも一番強烈なのが漫画版の「ナウシカ」で
この後半部の展開は現在露わになりつつある実世界の枠組みに
恐ろしいほどに迫っていると思う

そこでは幾人かの「王」が登場する

森の人の王、エフタルの王、トルメキアの王、土鬼の王
そして蟲の王

無垢を意味する巨神兵の「オーマ」も(「オーム」との類音だけでなしに)
王を想起させる

まぁ、なんで宮崎作品では重要な配役がことごとく王子や王女ばかりなのかと
そういう疑問もあるのだ
民衆の殆どは、王家ではないのに… なんして、これで支持を集めてるの? ってやつだ

おれらって、届かない権力者に憧れて、結局支持するの?
みたいな

ともあれ
彼ら、彼女らは「誇り高い」とされる

「誇り高き」「気高き」という形容詞が、たとえ争う敵同士であっても共振させ
結びつけるという鍵にはなっているようだ

ふぅん

たぶん
それには同意なので
無理矢理理由の一つを掘り出せば

おれらって、自分の王であるべきなんだよな
現実の身分に関わらず
…ってことなんかな

与えられた生を最大限に全うする
それって多分、自分に対する王道なんだろうな
と思う

社会的には「誇り」って何かという大きなトラップがあって
だったら軍事力を増強すればいいのか、だったら周りをサゲればいいのか
カネ撒いて嘘をついて目隠しイベント呼べばいいのかとなりがちだけれども

ボロボロの中でも誇りを持つ
時にはボロをさらけ出すことが
実は誇りなんじゃないかなと

そんなこと思う
2013のあきである

要らないバナーナ

ふとCartoon Networkで「裸の王様」を観た。
いつのバージョンかわからないが、「おさるのジョージ」みたいなテイストの画とテンポで、
偽仕立ての二人組が冒頭からかなりワル、すっ飛ばしていた。

劇中、見えない生地や服を「…言葉に表せないほど…すばらしい」と誉め称えて作り笑いをする宮廷や街の人々は、
新幹線に乗っては「今こそ原発推進に舵を切れ」という雑誌の大見出しに「…そう…かもなあ」と内心うなづきかけている極東のスーツメンたちにとても似ている気がした。

強迫観念、同調意識、上昇志向。そして自主規制。
雑誌は、たとえ購読させなくても、見出しやポスターだけでも「チラ見」効果を出してしまう。
だからこそ、大元は莫大なカネをかけて、駅の柱や廊下にもポスターを貼り出している。
それが、ある程度のカネ(そして経費)をかけて移動している人々を集中的に狙っている事。
とても判りやすい。そしてとても狡猾だと思う。

それはそうと、Cartoonに戻ると
裸であることを少女に暴露された後も、人間の裸は美しいものだと開き直り、歩いて行く大臣と王。
迷惑をかけた元仕立て屋へのフォローも忘れない。
なかなかやるなと思った。

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