カテゴリー: libre

マイクロ理科利水

“micro” のロゴと「リカリスイ」の看板に覚えがあった。

原宿の bonobo。

このクラブに行ったことはない。

そこはかつて「とら」というスタジオだった。

オーナーがとらさんという人で、どう見てもスタジオに見えないその家屋には

ソファやテーブルに埋もれてアンプやらミキサーやらがあった。

ここで音を鳴らしていたことがある。

外苑前からえっちらおっちら歩いて、Ric 4001を背負って、月星を超えて、

出会ったバンドメンバー。

後に「とらジャム」という名前をつけて活動することになる。

とらジャムはキャラメル・ママのようだとも一部に評されたが、

独立活動することはなく、やがて自然消滅する。

現在市場にありそうなのは、このオムニバス だ。

公募枠があったので、カジャグーグーをアコースティックにして鶴見のスタジオで録って受かった。

そのリハはもちろん、「とら」でやった。

メンバーが「ハミングキッチン」と被っていたので、連名にした。

このアルバム でも5曲ほど参加した。全て一発録り、クリックなし。

メンバーはそれぞれ独自の道を歩む。

今も昔も凄腕セッションキーボーディストの佐藤、daisy world からハミングキッチンをデビューさせ、現在は食の野望に勤しむギタリスト眞中、アフロドラマーとして名を馳せるも散歩から戻ってこなかったのがドラマーの田中。

忘れ得ぬ仲間。丁度1年前、青山で久しぶりに一緒に演奏したが…

トラさんも今はいない。あの界隈に行く事もないかもしれない。


ダンスして何が悪いんだろう?

警察だって軍隊だって、政治家だって音楽は聴く。音楽を使ってもきた。

自分の範疇にない踊りや音楽をねじ伏せようとしても、結局はうまくいかないと思うよ。


そんなのが、とらジャムだったかもしれない。


これは、私が描いた上の画像とは全く関係がない、2016年の森・道・広場で見つけた torajam
京都の北白川にお店があるらしい。美味しかったよ。

バンドが健在なら、コラボしたかったな…笑

暗闇のキングとかけてガウディととく

10年ぶりの Stewart Copeland。

Gizmodrome というバンドでオーチャードホールに来るというので、福岡から羽田へフライトのあとに観に行く。

僕が音楽家になろうと決めてしまったのは彼のせいだ。あのドラム、風体、曲想。
信じがたいほどのビートと表現力を見せてくれると同時に、俺でもなにか、生きてる間にできそうやんけ? と思わせてくれた、その絶妙な凄さとダサかっこよさ。

Police の Does Everyone Stare をラジカセで大音量で鳴らし、子供心に感動していた時の気持ちは忘れられぬ。リアルタイム、じゃないけどね。

横浜でとても大事な用があったので

約50分遅れて会場に辿り着き、二重扉の前室で聴いたのは Klark Kent の曲だったのか…コープランドそのものだと思ったドラムは、いざ会場に入ると黒子に徹していた Level 42 の Pete Ray Biggin、だったのだけど、Stewart のスタイルを完璧にカバー、というか元々音色やフィールも共通点ある人だね。同じ Tama キットだし。

でもハイハットはやはり違っていて、Stewart が叩き始めると、音色にサインが付いてる、ちゃんと遠い客席にも届いてる。

セットリストの半分はギターを弾いて、子供のように騒いでいたけど、右端に座って叩く姿の左半分を見せてたのは、レギュラーグリップとハイハットがトレードマークの彼を引き立てる、いいステージングだったな。

Police ではよほど Sting と折り合いがつかなかったのか、Does Everyone Stare とか Miss Gradenko はライヴで演奏したのを聴いたことがない。それを遂に、やってくれたらしいのだが…観逃した。
まぁええわ、またどっかで聴けるだろう。

Ghost In The Machine の最後を飾る(というか、絶妙に盛り下げて幕を閉じる)Darkness は
Mark King の歌とベースで、全然違う魅力が出ていた、と思う。

暗闇の曲なのに、だからこそ彼に光の剣が交差する光景は、ガウディの未完の教会の中のようだったとか…
というのは、機内で読んだ雑誌の受け売りである。

そう横浜では、昔 Police のコピーバンドをしていたころの仲間とも会っていたのだ。
なんという奇遇、彼らをはじめ、とても大切な仲間たちとも、そして

Joni Mitchell の Hissing of Summer Lawns を教えてくれた、光の中の彼とも。

ミニチュアの街

サボってますねぇ、日記。

iroirona kotoga okotteiru 毎日なのですが

どうも 記してる場合か? と思ったりしているうちに
日がすぎていく。

自分はどうやら〇〇〇ではないな、と思ったり、
いや、それは全くの見当違い、と思ったり、相変わらず
運命に波の様に振り回される、またしても今年、ではある。

自分の思う様に、過ごせる時代って、いつ来るんだろう。
たぶん、気づかないうちが、一番、的確に生きてるんだろうな。

今年はそれでも、自分の好きなことを結構沢山やろうと思っていて、
詩集の第二弾は、うまくいけばもうすぐ、出来上がります。

タイトルは予告通り、flat five。
表紙のデザインができたところです。

ミニチュアを作って試したりして…

面白いものになると思いますので、ちょっとだけ楽しみにしててください。


完全に狂った世界に生きている、

あるいは、単にそれに気づかなかった、寒天の上を歩いていたのが

いつのまにか、寒天は喫水線を潜っていた、

というような。人間ってこんなんなんですかね?

これじゃ、人間よりはるかに地球の主な部分を生きている魚や、

土地の区画や売買なんてまるで関係ない、だがそれゆえに水に浮かび風に抗う毎日をリアルに送ってる水鳥にも、失礼ってもんじゃないかい?

ぐらいに、思う虚しさ。違うな。ぜんぜん虚しくない。僕らのやってることなんてそんなもの。


思えばずいぶん前から口ずさんでる、未だに口を離れてない唄が

いくつもある。

あぁ、これこれ。まさに今だよなぁ、という確信と共に、
タイミングを外すことに関しては(少なくとも)この日本中の誰よりも自信と自覚のある、僕には、もはや「今でしょ?」なんて誰の言葉も意味をなしていない毎日。

でも、最近思うのは、

どんなものも、いずれは離れていく、ということ。

あの release って言葉は、そういう意味なんだ、と思い、少し気が楽になっている。

I shall be released.


結局、頑張ろうにも赤色の水が、でたらめな指先ぐらいしか動かしてくれない。
もう口も開けられない。また明日かな。

明日は、昨日かな。
毎日毎日、昨日がくるのかな?

かがみびらき

鏡開きに餅を食う前に
黒ごま入り餡子の旨さに参ってしまう。

酒を断つと身体の調子がいい。
頭の調子もよい。
しかしたったの4日が永遠に思える。
これはよいのだろうか。

年が変わってからも大掃除を続けている。
棚や開かずの箱を広げてもたいした量は粛清できないのだが
それでも部屋の空気が変わる、というか後ろめたさがなくなる、というか
自分が前向きに(現在形に)なれるのは不思議だ。

2018年に何が起こるのか、よくわからないが
少しずつ面白くなっている。

まるいあかり

2017年の末は瀬戸内へ。
尾道から神戸まで、数箇所旅する。

山と海、島と雲
星あかりと街あかりが隣り合わせる、それぞれの地の素敵さ。
田舎と都会、どちらがぼくらに合っているのだろう。

寺の森で除夜の鐘の列を眺めつつ、空を見上げれば2018年。
穏やかな始まりだ。

昨年はおみくじの結果に戦々恐々としながら
お祓い兼ねて初日の出を見に行ったのだけれども
今年は賽銭と占いの代金を間違えて小銭を使い果たした事もあり
占いなぞ無用と泰然を装う。

それでも太陽は見事である。

午前7時前に大きなまるいあかりが
なにを予告したのかはわからないけど
本年もよろしくお願いします。

皆様にとってもよい一年でありますように。

ずるいけどね

感動と笑いの(?)TRIO ERA 於 国際フォーラムが終了し
スーパースター HOTEI さんのオーラとお話にも深く感銘を受け
気温の低い銀座を超えると
そこは…なんだろう。

ふと我に還る。何度でもなんどでもかえって、もうそこは次の時代。
何かをバイパスし、何かを拾い集め、何かに灯ををともす。

冬越え。

やってくる冬と、それを超えた穴熊の嘶き。
もうあるかわからない田舎の沼のほとりの土筆を集める幼い自分。

来年の春が、よい春であるとよい。
愚かなあらそいと、ねじ曲がったはかいから、救われるとよい。

ともあれ、がんばって作品をつくります。

詩集はもう原稿出来ていて、次は50頁、27編の予定。
タイトルは “flat five”。

今であるけどそれは過去。

これを作った後、本当に未来に向かう。

付随する音楽は、どういう並びや形態でやるか、まだわからない。
だが、とてもミニマル、とてもメロウ、か細く、ざっくりした
僕的な音楽の原型になると思います。

来年以降、僕がどんな人になるかは、わからない。

しをかくひとなのか、きょくをかくひとなのか、
でんぱにでるひとなのか、げんこうをかくひとなのか、
えんそうするひとなのか、うたうひとなのか、
あるいはそのどれもであり、どれともちがうのか。

でも、

みんな、そうだよ、な。

+-0+-0+-0+-0+-0+-

ずるいけど、そういうことに、しておきます。

上海、台北

音楽は世界を超える

これは真実だと思った海外公演だった。
上海と台北。中華人民共和国と中華民国。
同じ中国なのに全く異なる中国。
だけど、大橋トリオファンの人たちの反応は
とても暖かく、ピュアで、大きかった。

上海では
にこやかに笑っている人、くすくす笑う人、感情をむき出しに歌う人、
少し斜に構えつつも一音も聴き逃さない表情で最前列に陣取る人。
日本語のMCも意外とわかるらしく、その代わりこちらの中国語の上手い下手には
あくまで正直に審判。
照明が割と明るかったので、視力の悪い僕にもよくわかった。
また、220Vの電圧のせいか、音がいい!

台北会場は
ほとんど歩けなかったものの、
京都のどこかの楽しい大学施設かと思うような素敵なところ。
日本から来た方も心強く、また台北の人たちとの反応の違いも新鮮。
その日は誕生日で、おとなしくしていようと思ったのだけど、
トリオどんが思いっきり紹介してくれるので…
台湾の言葉でHappy Birthdayを大合唱してもらえたのは、
身に余るなんとか…本当に有難うございました。

上海の街は文化衝撃。二度目でだいぶ印象が変わったものの
とてつもない摩天楼と、むき出しの路地が隣り合わせ。
ひっきりなしの建設工事、一年で街が大きく変わる。
その分、粉塵舞うから超高層ビルが昼間は夜景ほど見えない。
欧州高級車と錆びた三輪車、シェアリング自転車mobike、すーっと近づく電動スクーターが
交錯する大通りはとても静か。電化が進んでいる。
道路脇に無数に並ぶmobikeのロックを解除するハイテクな電子音。
黄色や黄緑ベタ塗りで、画一的な旧式ビークルなのに、皆スマホで予約し、決済している。
でかい公園の地下空間に突如現れるクラブとジャズバー。
その大音響に、なぜか至近距離まで全く気づかない不思議な設計。
未来都市ってここか?
例えが古いが999のメガロポリスに一番近いのは、もしかしてここじゃないのか?

日本の都市との力点の違い、また社会制度の違いがスピード感の違いにもつながっているのか。
さまざまなスローガンによる統制と、巨大な格差。その中で生き抜く人のパワー。
なかなか行く機会はないけれど、行かないとわからないことってあるな、と本当に思う。

台北の街は原付とイエローキャブの大群。温暖な気候のせいか、どこかのどか。
その他は西側諸国と、それほど遠くないアジアの街並み。
食べ物が甘く美味しい。
数え切れない、海と山の食材。

残り秒数を表す信号。下の走る人間アニメが、次第に慌てていくさまにウケる。
送迎してくれたミニバスの運転席には、今回も「車窗撃破装置」なるものがあった。
…これは、ガラスを割る「ハンマー」らしいが、にしても撃破装置って…

日本からも行きやすい台湾。
空港で指紋押すのに参るけど、気軽に何度も来たい、と思う。
高雄にも足を伸ばしたいな、いつか。

shamama

シャママ、という言葉が独歩している、らしい。
局地的な現象ではあるが、見過ごすことはできないのでここに記す。

–誕生–

この、シシャモとマシュマロとママス&パパス、のような「シャママ」は
5月に某…大橋トリオ名古屋公演にて、
(直前の金沢での五七五が長かったらしく)
「MCを短くせよ」とタイムキーパーから要請を受けた事に対する、
僕の心の呻きであった。

…Then tonight I’m gonna SHUT MY MOUTH…

心の呻き…ちがウな、心の自動操縦…心の3Dプリント、
あるいは「ひとうちななつ」の巨人エピソード、
仕立屋が「岩」と称して絞ったチーズ…それが近いのか…

当時、世界のどっかで、日本の役人が人権的な質疑の最中に
“shut up” と言い放ったことへの、ガンジー的なアレも入ってるかな…

要するに、喋りません、というのを
ジャパニーズイングリッシュで言い換えたのである。
それが「シャママ」の誕生。そしてシャットアウトするはずだった。

–蒲生の薬売り–

ところがその後「シャママ」は、ジワジワと界隈でキているらしく、
最近では僕が某薬局で見つけて愛用している
「おやすみテープ」の変名となっている。

口を開けて寝る人向けに、強制的に口をふさぐ、絶妙な粘着力のテープである。

口を開けて寝るとロクなことがない。喉は渇くし風邪はひきやすくなるし
他にもいびきとか色々あるらしい。

数年前だったか、別の仕事でツアーメンバーの誰かと誰かが
「小さいころは親から口にテープをされた(されそうになった)」「うそでしょ」
と会話しているのを耳にして、んなアホな、と思いつつ気になっていたのだが…
そんなものが商品化されているのを見ると、いよいよ世界もヤバいのではないかと思う。
両方の意味で。

–ishutmouthiusefingers-

シャママの説明をするのに言葉は要らないはずが
実際は逆であることを指が証明しつづけている。

–おだやかなねむり–

シャママテープ、をすると、笑える顔になる。
誰がやっても笑えるはずである。
だが、今夜はもう、食うものか飲むものか、喋るものか、と決意して眠りに臨むのも
悪くないものである。

–電話とよこく–

それはシャママを貼り、横になったまさに直後だった。
jkから着信があった。思わずとった僕は、モゴモゴと喋り出した。
なんでも「生で詩を聞きたい」とのことである。
背後にはwcとcpとotの気配がある。
「オレ、テープしてるよ」
すかさずFacetimeを強要され、僕は断乎として拒否した。
連中には何をされるかわからない。笑える顔をストック、あるいは晒す可能性が十分にある。
恐ろしい世の中である。
しかし詩の朗読には応じた僕は、眠気の中、口の右端左端だけを腹話術のように使って
「よこくの太陽」をモゴモゴ詠んだのである。

–遠隔操作–

その電話朗読は録音され、ライヴイベント会場で流された。即興演奏付きで。

僕はそれを後から知った。

さらに近畿では、「シャママテープ」が景品としてプレゼントもされたという。

–さいごに–

シャママは、モゴモゴ詩を詠むためのものではない。

受け取った方が、これだけをわかってくだされば、
僕としては安心して、また眠りにつけるのである。

ミッシー解説

詩集 river silver については神谷くんがいろいろと書いてくれていますが
(あることないこと)

この中で一番古い詩はどれかなぁ、と思い返すと
「ミッシー」のようです。
題名は最近つけた、つまり一番新しいのですが
ミッシーとは’99年ごろケンブリッジの一軒家に学生7人で住んでいたとき
家にいた猫のことで
とてもお腹が大きく指が6本あり
ドアを前足で器用に開けられるくせに
50cmの高さから降りることもできない
それは和む存在でした。

そもそもの詩はもっと昔、京都にいたころに
最初の一節をRhodesか何かを弾きながらMTRに録音し
くたびれたのでそのまま寝かせて
たぶん2010-12年のある夜中に肉付けしたのだと思います。

さて特別に
ミッシーの姿を載せよう、と思いましたが
よく考えたら、それってイメージを限定してしまいますよね。
写真で光ってる目だと、なんだか怖いし。

やはり想像にまかせることにしましょう。

私の想像

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