カテゴリー: libre

9.30

過ぎてからなんだが、僕はこの日がどうも感慨深い。
自分の人生で何があったわけでもないのだが、何か、こう。

以前車の名札にしていたこともあるし、うーん、なんでだろな。

台風である。またしても。
なんで今年はこう台風や豪雨や地震や、天災が多いのだろう。

といっても、日本ではこれが当たり前。災害と共に暮らす民族なのだから、
自然を見くびったような嘘に固めた技術は見捨てるべきなのだ、と
堅く思っているが、なかなかこの国を動かしている人たちはそうはしない。

お上なんだから逆らうな、とずっと統治してきた国なのだけど、
やっぱりお上、どこか頭弱いよな、とつくづく思うのだ。

最近は図書館の世話になる。
佐野洋子さんの「問題があります」を読み始めた。破壊力あってぎょっとする。
本文を借りれば「うしろにとびのく」。すごい人だったのだなと思う。
近くにいたら、さぞ厄介だっただろう。
親戚に一人ぐらいいてもいいのだろうか。二人いたら、もう大変だろう。

そんな人が、ぎょっとするような知人を描いた「或る女」が特別付録。
半実話だろうか、どちらでもよいのだけど。

ぼくはこの人の「おじさんのかさ」がとても好きだ。
なんともとぼけた間合いもおじさんの表情も、そして侵食性のある青も、とんでもなく素敵だ。
おじさんのコートは、青の上に黒を塗って、さらに青で縁取りしているのだろうか。

傘にいれておくれと頼む男の子に、目をそらして聞こえなかったふりをする、
なんともヒドいおやじなのだが、こんなどうしようもない輩、けっこういるわけで
(おれもそうでないとはいえない)
きれいごとじゃなくて、やっぱり破壊的。

情緒のある監視カメラ

Life is Beautiful

中島聡さんのブログである。
最近ちっとも更新しないなぁと思っていたら
たくさんのエントリーが上がっていた。(9/23の夜時点で。さらにそれから沢山上がっている)

ブログの性質上、記事を逆順に読んでしまうので、読者としての僕は著者の意図を遡るわけだが、
伝達手段としての文章力のつけ方というところから、それは簡潔に意図を伝えるため、
発端としては人間にとってアウトプットがいかに大事か(違いを生み出すか)という話だった。

小学生には読書感想文は不要(文章力をつけるための教材としては不適切)という意見などとてもおもしろいし、組織においてはメールを簡潔にする(そのかわりに全従業員に対して目を通し返事をする)ことの大切さもわかる。

この人は自身で仰っているように Windows 95 を作った一人でありブログの先駆者という著名人であるし、パーソナルブランディングに長けている人である。
僕自身も、2009辺りから技術者の知人に教えてもらって以来、時折読んでいるが、示唆も多く、また 日米関係 などについても、目を覚まさせてくれて感謝している。

で、アウトプットと自己ブランディングについて。
これはどうも僕が苦手なところである。
苦手というのは原因がたぶん幾重にもあるので、
人から直接間接的にどう諭されても(さとしさん、という名には、人にさとす、という所もあるのだろうか。名は人を表すというから)そう簡単に変わるものではない。

さておき現代。
普段のその人の性格がどうであれ、ネットのおかげで誰もがアウトプットをできるようになった。
タイピングがある程度得意になれば、日記を筆記用具で連ねるよりよほど早く、思ったことを書ける。
書くことによってまとまらない意識をまとめる役にも立つし、それを(止める人もいないわけであるから)クリックして投稿することは、池に石を投げるようなもので現代においては普通の遊びなのだろう。
実際に、近くにいるのに会話よりも早くネットに投稿する人が、僕の周りにも沢山いたし、現在もそうだ。

だから、フツーの人間関係を維持するには常時接続していないと、みたいな強迫観念も、出てくる。

SNSがあって、情報が太く集まりやすくなっているから、人はそれをより利用するし、
そのシステムそのものを利用して、マーケティングやプロパガンダも当然動いてる。

元来、広告(マーケティング)とは戦争が終わって役割を失った(ように見えた)プロパガンダ(大衆誘導)が姿を変えたものだ、
という意見があって、僕はこれがものすごく腑に落ちている。

だから、結局のところ、アウトプットしなきゃ、と思ってせっせと流れに乗ることは、
勉強にも切磋琢磨にもなるが、流れに乗せられることにもつながる。
自己責任としてのタイムスタンプ付きで。

僕が常に醒めてるのは、そのへんである。

なぜならタダほど怖いものはない。タダなのに盛り上がってる業界って、莫大な援助や利権が動いてる。
シミュレーションゲームがこれだけ盛り上がれば、無人機を使った戦争への動員がしやすくなる。
人格が破壊されてるかもわからないうちに、人を破壊できてしまう。誰が喜ぶ。

監視カメラの思う壺、ってことだ。

文章には情緒は不要。あいまいなものを伝える前に事実を伝え、評価できる形を作る。
これによって、国語の先生も採点がしやすくなり、生徒の学習も着実になる。そうなのだろう。

というわけで、ひねくれ者の私が思いついたのは以下である。

「情緒のわかる監視カメラ」

事実をひたすら記録するのではなく、そこに感情的解釈を加えることによって
独自の世界観を記録するカメラがこの世に、たとえばあなたのいるその空間に10台あるとすれば、
そこにはどんなストーリーが展開されているだろう。

新幹線の車間にぎゅうぎゅう詰めで立ちっぱなしの人々を映し出す監視カメラが、
この人は野球帽の下ではにかみながら、片手で酒のビニール袋をぶらさげ片手で子供たちを守りながら、イイ顔してんなぁ、とか
だったら背景は夕陽色だろとかこの辺はシャローフォーカスしよとか
(聡さんの「ランドセルとは」文例を借用すれば…ちなみに僕はこの文例が好きだ)リュックから手足が生えたような錯視からB級のSFを勝手に始めるとか、
この人とこの人に30分前の乗客の話を聞かせたらこうなるよという妄想を勝手に作るとか

後から記録を紐解く、係員か捜査員かビッグブラザーか何者かはわからない、がそんな何某が
目的を失って混乱し、ストーリーに見入って涙してしまう、酔ってしまう。

すると、監視カメラそのものの目的がよくわからなくなってしまい、四六時中カメラに監られている日常も、少しは平和に、楽しく、安全になる。少なくともそういう錯覚に陥ることができる。

…ここまで書いて気がついた。
それは、もうインスタがやっていることだ。
無数のパーソナリティとスマホのカメラとアプリが、せっせとやっている。

困ったもんだよ。マジで。

虫と波と風と砂と

鳥取へ旅。

親類が昔、島根の出雲に住んでいたことがあるが
その数年間の機会を逃した僕には、山陰地方は遠くて気になる存在ではあった。

大学時代に、ふと思い立って友人とドライブし、鳥取砂丘に着いて登りつめると
そこにサークルの先輩がいた、という偶然には驚いたものだ。
なんで京都から、わざわざここで。よりによって。

その次は、マイア・バルーに誘われて
ギニアのグリオにてマルチミュージシャン、Epizo Bangoura と一緒に新宿界隈でライヴしてた頃、
鉄壁のアフリカンドラムを誇るバングーラファミリーの中のアラマさんは、何故か鳥取在住で
これまたどういう縁で? と思ったものだ。

「夜を誤解している」という詩に
鳥取県の人は土地の利権に、という特に根拠のない一節を入れたのも、
無意識レベルで気になっていたからかもしれない。
…まぁそれは置いといて。

で、今回なのだが、ここ数年、機会を見てお会いしている
タルマーリーの渡邉さん一家に会いに行った。

一人で因美線に乗って行くことはあったが、車で家族で行くのは初めてである。

遠いが、楽しいものだ。
智頭町というところは、なんとも空気がよく、川のせせらぎも、たまに通る単線列車の音も、
山並みも素晴らしい。

豪雨と台風の爪痕も感じたものの…
夏も比較的涼しく、40度越えということはなかったらしい。

案内していただいた、山の上のみたき園というところも
桃源郷というか、ただひたすら感動だった。

もちろんタルマーリーの空間も、パンもビールも、すばらしい。
皆さんには感謝しかありません。

ぜひ、機をみて行かれることを、お薦めします。

そして鳥取砂丘にも再び訪れたわけだ。
調子こいて登って降りて、海岸からひきかえすときが大変。
「オレはなんでまた、部活やってんねん」の汗だくであった。

ちなみに、砂丘は登りつめて初めて、それまでの静寂を破る波の音に出くわす。
砂の丘が完璧に、どどんざぁを遮音・吸音しているわけだ。

だがしかし、そんな静寂の世界では、登っている人々の声は妙に近く聴こえたりする。
うーん、なんでだろう、と、わかったようなわからないような、
そんな2018年の9月であった。

さ、音楽に戻るかな。

おやすみ、ありーさ。

Aretha Franklin
1942.3.25 – 2018.8.16

誰がなんと言おうと、世界最高のシンガーだった。
というか、僕が言うまでもない。のだが。

初めて聴いたのはいつだろう。たぶん子供の頃から、何かしら聴いていたのだろうが
アトランティックの名曲をちゃんと聴いたのは、昔のバンド仲間のレコードからだと思う。

「ソウルミュージック」というと、何やらコテコテのイメージを持っていたけれども
(当時の僕は Otis や Sam Cooke を聴き始めて、熱いけどビートが全部一緒やん? と、ごつい偏見を形成していた頃だった)

Aretha は歌もサウンドもとてつもなく涼しげだった。

それでいて、炎よりも熱かった。

コーラスアレンジやバンドサウンド含めて、洗練されてた、んだろうな。やっぱり。

あとは、結局、男だから女性の声に、より惹かれるものがあったんだろうな。

でも女性シンガーといっても彼女は完全に別格で、完全に誰とも違う声とビートと、世界を成していた。

と、思う。極東のイエローに何がわかる、と言われても、それぐらいはわかった。

渡米してももちろん Aretha は別格で、向こうの乾いた空気や人々の足音の行間というか、空気を味わってる感じと、
とにかく歌も演奏も倍音が出まくってる人々のフィールや、時代なんて全く関係なくいい音楽をガンガンかける街の呼吸と相まって、彼女が余計に好きになっていた。

実際に観れたのは一度だけかな…リンカーンセンターだったか。

帰国して最初にやってたグループのおかげで、違うところで Aretha が好きになった。

なにしろそのシンガーは、え、小さいけどありーさ? っていうアルファ波を出せる人だった。
ライヴで聴いてた人はわかると思うけど。
いい形に残せなくてごめんねぇ。

何曲か、カバーをやった。

幸せだったなぁ。いっしょにライヴしてると、Aretha の曲やアレンジや、歌の素晴らしさが
ベースと身体で増幅される。

もちろんレコード聴いていても幸せなんだけど、音楽って、やると余計楽しいなぁ、と
よけいに思う時だった。

ともあれ。

自分がどう感じようが、Aretha Franklin は揺るぎない。

あるいは、誰がどう感じようと、それは自由だ。いくらでも、いっしょに揺れてくれる。

本当に残る音楽って、そうなんじゃないかな、と思う。

お盆周辺

旧友と長電話したり、この時期は何かがある。

あの暑かった夏も、色々あったっけ。
ドラムばっか叩いてたなぁ。Stones の Black and Blue と Lou Reed の Transformer ばっか聴いてたなぁ。
赤いストラトかき鳴らして Television 歌ってたなぁ。
同時代の音楽はずっと、全然聴いてなかったけど、斎藤和義さんには少し憧れたっけ。
京都での話。

今年も、今シーズンも後半に入った。
SNS全盛の今、ウェブサイトというものの意義を常に考えてしまう。
「サイトなどあまり人は見ない」という認識をしている。
あんまりがんばってもしようがない、多分に自己満足なものだと思う。

だが僕はSNSが相変わらず、胡散臭いものだと感じているし、
いくらサイトが遅れたメディアだとしても、こちらの方が愛着を感じる。
今後の計画などは、最早バラして行こうと思う。RRM、Ray Road Map ってやつだ。

計画はあくまで計画で、完成予想図の通りにならなくてもそれはそういうものだし
だいたいこの世界が平和でいてくれるか、わからない。いてほしいと切に願うけれども。
切に切に切に、さ。

今年中に、何度かソロライヴをやりたい、と思う。
プレーヤーとしてではない。

ただ基本一人を考えているので、鍵盤楽器を弾けない僕はどうしてものか。
楽器の持ち替え含め、練らなければならぬ。

東京、愛知、浜松、京都、大阪あたり
それぞれ、とても小さい場所でできればいいのだけれども。
あくまで計画です。声だけかけてる方々、なかなか進まなくて、すんません。

ルーパー使えばいいのか、何も使わず、空白ありまくりがオレっぽくていいのか。
もう少し、空想してみよう。

音源としては、お知らせしているように

9.9 に river silver [side b] をリリースしたく準備中。6割ぐらいはできたけれども間に合うかどうか。
誰もそうしろと言ってないんですけどね。

また、11月ごろに flat five tapes を出していければ理想。といってもこちらは、1枚にするか2枚に分けるか、いくつかボツ曲を作るか、わからない。11月は忙しいし、結局来年初頭になるかもしれない。

stillbeat としての活動も始めたく(というかずっと、そうだ)、インストになるか、より電気的になるか、コラボも交えるかわからないけど。

南米の人たちに憧れる。ラテンミュージックを好きになるのに、僕は人よりだいぶ時間がかかった。
あんな風に人生と音楽を共にできればいいな。

サウダージもブルーズも、僕の中に入ってる - なんて恥ずかしいこと一生言えないけども、
そんなの考えずに、無心にやってけば、もしかしたら欠片ぐらいは身につくかな。

わたしゃ触媒ですからね。何も気づかない、きずつかない、ただふるえて時に何かをにじませる。

こだいもじ

先週、灼熱の京都。
丸太町、川縁のとある駐車場。どう見ても入り口には見えない脇道を入って、本の家を訪れる。

縁側のある日本家屋、ミシマ社の本屋さん。

智頭のパン屋さん、タルマーリーのご一行とお会いする、がてら、お邪魔した次第。

—-

ちょうど七日前には、スタジオへ向かう灼熱の自由が丘で
同社東京オフィスの脇を歩いていたから不思議(あとから地図みて気づく)。

—-

まるで盆におばあちゃん家に帰ったような感覚。背後を走る子供達。
三方の本棚には、ずっと読んでいたくなるような本がいっぱい。

ソウルからの賢人も交えて、ちゃぶ台で先駆的な話が行き交う中、
僕は頭がサーマルスロットリングして大半は処理しきれなかったのだが、
それぐらいでよかったのだと思う。
いい加減な頭で話に向かうのも、いい加減だ。

後からじわじわきつつ、
湯の中で(なぜ湯なのだ?)思ったこと。

—-

「1984」や「THX1138」や
「銀河鉄道999」のメガロポリス、或いは「ロラックスおじさん」で描かれた
超管理、超格差、超情報統制社会

これらを、超間近に感じるにつけ

この人達はよく予言したなぁ、と思うのだけど、
これって警告であると同時に、暗示でもあり、あるいは、プレゼンでさえあったかもしれない。
「こういう手があったか!」みたいな。そういう人たちにとっては。

だが人は、想像に、ひっぱられていく。

なんでも前例主義の社会だけど、
あまりにも想像の完成度が高ければ、それは「前例」にもなってしまう。
想像の前例主義、とでも言うのかな。そんなのがあるかもしれない。

もし、ディストピアにそれだけの力があるのならば、その逆も然りで、
今を生きる僕たちは、もしかしたら、数十年後のために、違うビジョンを見せるために
想像していくべき、なのかもしれない。何度絶望しても。

そして、この瞬間もそれをやっている人たちが、いるのだな、ということ。

自分がそうなれるかは、ちゃんちゃらわからないけれども、
それでも、あきらめとったらあかんな、とは思った。

そんな感じだ。

—-

旧友とも会い、彼の頼もしさも再認識す。

—-

いくつか、ここしばらくで面白かった本のご紹介。

ミシマ社さん。

『究極の文字を求めて』松樟太郎
久々に何度も吹き出した、めっちゃおもろい本。
下から上へ読むオガム文字、UFOキャッチャーの如きグルムキー文字、
クリクリしたオリヤー文字。
自分のサインもままならない僕だが
これを読んで文字ごと作ろうという邪念が生じた。
いや、心の風が吹いている。

『あわいの力』安田登
能の世界は僕には未知だ。が、舞台芸術であるから、通じる道は当然感じる。
「心に代わる何か」というテーマ(への期待)は大きすぎて、まだ拾いきれないのだが、
安田さんが能のワキ方として、笛の修行「自分の音が出るまで」に費やした期間の心得は、深く突き刺さる。
僕が自分の声を見つけるのはいつになることやら。
人生の終わりまでには身につけたいな。
いや、そんな時間の感覚は、無用なのか。

そしてクルミド出版さんの本。

『草原からの手紙』寺井暁子
この方の文はなんとも魅力的で
なんでもないようなことが潤ってる。
東アフリカ、マサイの居住区を、
マサイの指導者エゼキエル、スコットランド人冒険家の子孫ジョン、
オランダやマサイの人々とともに歩く旅。
明け方の情景と音の描写が素敵だ。
「10年後、ともに会いに」もそうだったが
装丁からスタンスから徹底していて、宝物感が半端ない。

Waltz for July


Waltz for July / stillbeat
online single – 7.26 release

微々たる力とは思いますが
この音源の収益を西日本豪雨災害への寄付金にいたします。

僕は近畿育ちながら、
豪雨期間ずっと、たまたま被害のなかった江戸で演奏していたこともあり、
今回被災された方々に対して、どうしても言葉を届けられる気がしません。
よって楽器だけの音楽にしました。

近江で作った、僕の最初期の曲です。


iTunes Store, Spotify などで配信中。
mora, e-onkyo, ototoy などではハイレゾ版も有ります。

ストリーミングではなく販売のみの方が
寄付面で遥かに実践的な気がしましたが、
被災された地域の方々にも気軽に聴いてもらえたら、という思いもあったりします。

その辺りは想像の及ぶところではなく、皆さまに委ねます。

ただ iTunes Store へのリンクも自分の方へ持っていく Apple Music のふるまい*には疑問があるので
今回ストリーミングは Spotify メインにしました(近日配信)。

まずは中央共同募金会(赤い羽根共同募金)に寄付予定です。
曲の配信期間は1年間です。寄付団体側の受付期間などを含め、秋以降は順次検討していきます。


* Apple Music, iTunes Store の挙動については引き続き調べ中です。ちゃんと振り分けてくれる設定もあるような反面、僕の iPhone ではそもそも iTunes Store に全く接続できず、聴く術がなくなってしまっています。バグかな? 困ったものだ。

zero [three five to seven eight]

週末は珍しく自分の時間も持てたので
思い立って録音

軌道修正、あるいは原点に帰って
インストゥルメンタル

言葉にならないことのために

今日一日で仕上げるつもりだったが
ダブルベース、ガットギター2本、フレットレスベース
朝から録ってると夜になってしまった。

僕は3拍子が好きで
節目になる曲は大抵ワルツかレゲエ。
これもその一つ。

たぶん昔からのバンド仲間一人ぐらいしか聴かせていない
最初期の曲の一つです。

今週中にはリリースしたい。

つきのうらがわ

とはいえ
この二つの半月に
起こった世の中のことは
とても書きようがないぐらいに
僕を脱力させてもいる。

水道の私有法案と処刑ショーと水害
カメラの裏側と報道の一極集中
賭博と自己責任とボランティア
本当に必要な復興と五つの輪

なんとかこれからも生き抜くつもりだが
一体どうして、こんなに未来に希望を持つのが
億劫になってしまったのだろう。

いいやちがうな、安易に言葉にできる
(それ故に安易に破壊されてしまう)
希望や未来というものに代わる何かに
もっと焦点を合わそうとして、却って無限に焦点が合わない。

僕らの命や運命はもともと、とても儚いし
それを徐々に徐々に、気づいていくだけだ。

嘘が溢れれば溢れるほど、しらじらしい真実は、
乾いた泥から現れる。

守る人はどこにいる。ここにいる。
守る自分はどこにいる。ここにいる。

10年前に書棚や想像上にあったシステムは、
もうすぐそこに迫っている。もう覆っている。
たぶんそれが大きいんだろうな。

音楽で忘れてるわけじゃ、ないんだよ。

音楽ですら信じられなくなるのが嫌だから、音楽をやってるけど。

無数のスピーカー

ohashiTrio HALL TOUR 2018 “STEREO” も無事終了。

いつもながら、スタッフ、メンバー、大橋トリオどの、ありがとう。
沢山いらっしゃったオーディエンスの方々も、ありがとうございました。

ステージから見る景色と客席からのって違っていて、たまに確認映像を観たりすると
こうなってたんだなぁと、ほんとはもっとこうするといいだろうなぁと、音以外にもとてもヒントになります。と同時に、舞台監督や照明の方々って凄いなぁ、と。

僕は体力がある方ではないので、よくあんな沢山楽器弾けますね、運べますねと心配されたりもするけど、楽器を弾くのはまた別の体力、筋力だと思っています。演奏時には別の力が出るので、演奏で疲れることはほとんどありません。いい音楽をやってるな、という自覚がありさえすれば、いくらでもパワーは出ます。
* ツアーで運んでくれるのは、楽器チームとトランポの皆さんですよ。

…と、地味目線で綴っていますが、今回の僕のテーマは「performance」でした。
曲調にロックを感じたので、より初期衝動でステージに立っていたのかもしれないなぁ。

シンセベースは貴重な体験でした。シンべエフェクターとして(たぶん)世界最高峰の Future Impact というペダルを入手したものの曲のミニマル感が出せず、本番直前に思い立ってショルキーを探しまくって、漸く大阪で中古を購入したヤマハの KX5。音源がなく電池でしか動かないという凄い仕様。でも MIDI で Future Impact と直結できた。
本番開始直後に電池ないぞランプが点滅し、慌てふためいた夜もあったものの、なんとか曲間にスタッフに伝え電池を替えてもらって事なきを得ました。おいおい。but 感謝。

あれは1984年の楽器なので、まさかこんなに年を経て使われるとは思っていなかっただろう。まぁ僕も(京都公演で言ったように)昔はこんなツアーに参加できるとは想像してなかった。

いや、想像していたのだろうか…漠然としたミュージシャンへの想いは人一倍あったけど、具体的なことはさっぱりわからなかった。夢ばかりの時から実力をつけた時でも、感性のアンテナをピリピリ伸ばしてた時でも、思うようにいかなかった。諦めてから、機会が来た。

タイミングを外すことにかけては天賦の才がある僕が「すーべてはータイミング」ってコーラスをするって、なんの因果? と思ったり。

いろんなことを思い出して、みんなを見守りながら、見守られながら、やっている。不思議なものだ。

そう、今回の舞台セットはとびきりサイコーだった。スピーカーの群れ!? あれステレオちゃうやん。もっともっと沢山あるやん。ある時数えたら14個でした。メンバー7人でそれぞれステレオってことか!?

でも、あのロゴといい、そぎ落としたジャケットといい、やたら多い楽器群といい、今回は本当の意味で “PARODY” を感じたツアーで、そこが好きだったなぁ。

神戸からふと始めた “PARODY のパロディ” も、そんな内容でした。場所によって少しずつアジャストしましたが、だいたいは同じ内容です。

アコースティック、エレクトロ、ミニマルとジャズ、ロックといろんなものが行ったり来たり、これが大橋トリオの音楽の真骨頂ですが、まだまだこれだけではありません(たぶん)。

今後さらに違う展開もあるだろう。また、よろしくね、トリオちゃん。

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