カテゴリー: electro

across the mass turnpike

「日本辺境論」一昨日読み終える。

「石火之機」
「天下無敵」
「自分からはみ出して」…一体化する

などの「機」に関する章、興味深かった。

レーテンシー云々を無意味化する、時間、空間の再構成能力というのは
本来日本人が鍛え上げて来たもののひとつ、
と解釈してよいのだろうか。

なーんとなくわからないでもない。

「歳を取ると一年が短く感じる」と「真剣白刃取り」の関連が
それまでの全経験に対する比率、新鮮さとして説かれている。

真剣が振り下ろされた瞬間に「生まれ」た武道家が
起こった全てのことをスローモーションで繋げ、処理してしまう。

確かにそうかも。
凄いインプロヴィゼーションと共にあるプレーヤーは
ある意味、生まれたばかりの状態にあるのだと思う。

野球人が時折口にする「ボールが止まって見える」もたぶん同様。
一球ごとに生まれるのなら、彼らの人生も相当面白そう。

しかし

経験ある「師」に対して若い「弟」は時間感覚で優れたとして
ならば経験の意味は何か。

僕はこじつけながら、こう思う。

経験、または、「型」や「蓄積」が
ある時生まれた(閃いた)もう一人により参照される

同一人物の中に老人と若者が同居しない限り無理な話だ。

たとえば谷川俊太郎さんのような人がいつまでも若く見えるのもそういう事ではない?

気の遠くなる時間が生成したガソリンをクルマの新しいエンジンが一瞬で爆発させる。

ピアノを習う人が意味がわからないまでも繰り返したバッハが、ある日弾けるようになる。

それがブレークスルーではないかな。

自分の見える海

考えすぎるとつかれてくるのだ。
(つかれるとは憑かれるということ 日本語は本当によくできている)

内田樹の日本辺境論を半分読んだところ。
幾度か大笑いした後、つかれて来たので寝ようとしても寝られず、
書こうともなしに指運動をする。

日本が辺境かどうかについて、今まで幾度か僕が思った事は

太平洋は広い
東洋の端と西洋の端を無理に繋ごうとする日本人の
少なくとも物心が付いてからの僕の周囲の
国際関係の前提がそうとうお気楽であるという感想

これは例えるまでもなく、米国と日本との音楽の違いでもある

日本的な「ことの流れ」にアトモスフィアとして堪え難いアレルギーを感じた事も
数度では済まない
そしてそれらの大半は今では忘れてしまっているけれども
それは自分の想いが強かったが故に、その生命を絶ったのだろう
つまりある意味、僕はもう出家している

僕は日本的ではなく、辺境から更に辺境である事において
ナチュラルな日本人なんだとも、思っている。

今日は朝から、蛍光灯と白熱灯が並ぶ街路をくぐって
ひかりの持つ意味の取り違えにいきどおっていた。

蛍光灯は昼光で白熱灯は夜光だ。言うなれば太陽と月の模倣だ。
これを並べてどうする?? 昼と夜が一緒ならオレは起きて寝るのか?

こんなことは工事現場の図面には書かれていない。
電球型蛍光灯がLEDにすり替わって、値段やエコでなく「ひかり」がどう変わるのか、
僕は未だ知らないが、とても気になっている。

新幹線のひかりが未だに青いのは何故だか、屋根の掃除をしながら考える人は今日は居たのだろうか?

日本人にとっての建国のストーリーはクニウミ。これと中華思想はどう関わるのだろうか。

辺境の中の辺境だからなぁなぁでやっていける。
乏しいリソースと朧げな水蒸気を含んだ空気の中で、ひかりに鈍感でもいられる。
かわりに陰翳に敏感でいられる。

ただ僕は、電磁波に邪魔されたくないと思う。
自分も電機仕掛けだという事はわかっているから。

がっちゃんこ

このボログ、いやブログは見てのとおり、非常に肌色をしている。
いい感じの写真なんぞあればいいのだが、たまにしか掲載しない。
写真を撮らないから…頑張って充電しても1分も持たないカメラを使っているから
僕にはシャッターチャンスが存在しないのだ。

カメラが欲しい、とは何年も思っている。
自分の好きな感じの写真は下手なりに自分が撮れる、と、なんとなく。
ちゃんと充電池が持つ、暗闇に強い、かわいく、かっこいい。
こんなコンパクトがいい。

GR Digital やちょっと前の R10 はいいな、とずっと思うのだけど
ふんぎりがつかない。それかいっそ、スパイカメラみたいな Minox あたりか…

先日渋谷のビックで Ricoh の新型を出口の広告で見て、リハ前なのに売り場に引き返し、その GXR とやらをしげしげと見てみる。
うーん。

おせじにもかっこよいとはいえない。
コンセプトや感触はすごくいいし、ガチャッとカメラ部が外れてしまうのは、後ろの客が吹き出したぐらい面白いし
達人中の達人安藤さんにカタログを見せてみても「片方はたぶんいいレンズ」だそう。

そのまま忘れてしまったのだけど…

今日、別のビックで同じカメラを触ってみる。良いカメラかもしれない、と思う。
でかい方のレンズのバランスが不思議と落ち着く。まずまず手に馴染む。

でもなんとかならんかったのかな、あのボディ前面上部の枠のデザイんは。
機能美でもないし、陶酔美でもないし、ジャンク的でもないし、
まるでメインデザイナーが途中であきらめて他がとりあえず完成させたようで、
ありゃひどい。いやーほんとにまったくひどい。

911

「僕らの音楽」放映を観る。

内容は観てのとおり。

いいコンプかけてもらえたなぁ
特に最後の曲。

もちろん、こちらはペダルは無し、EQ全部フラットであるけど
もし何かやってくれてたとしたら、全体かチャンネルのダイナミクスしかない。

昔使ったメイプルの5弦は手放してしまってこれはよりオーソドックスな音がする楽器
結果的にこっちでよかったな。

ルビーは…アコベのマイクが遠かった? 気づかずマイクから離れてしまってたんだろうか。
原曲も大好きなんだけど、このアレンジになるとは驚いた。
でもこれで正解。カバーするならこっちやね。
テイク一発で終わってしまった。

何しろ倉木さんに他のメンバーも強者揃いで、混ぜてもらって、ありがとうございました。
プラス、この日の収録はプラスチックオノバンドの次だったので、
細野さんの次にベース弾かせてもらって、光栄でした。お会いはできなかったけど。

たなばたコネクション

梅雨時だというのに、ジーンズを買ってしまう。

Johnbullノンウォッシュの限定物。自分は縦長の人間なので、このままでは横軸がはみ出してしまう。
つまり洗わないとまともに履けない。

これを履くのは梅雨明け以降だろうか。

梅雨明けの時期は、毎年忘れるもののひとつ。
毎年気になり、きれいさっぱり忘れる。見事なくらいに。

今日みたいに星空と関連づけられた日だと、なかなか忘れないけど
梅雨明けにまつわる星物語なんて、そうは聞かない。

俺がジーンズを洗った日。
だれが一体気にする。多分俺も忘れる。

そんなわけで、ブルージーンの無い日が続く。
それもこれも、昨年買ったFCUKのジーンズがたった1年で崩壊したからだ。
まぁまぁ手頃で体型に合うから、昔から買ってるフレンチコネクションだが、
最近は質が落ちて来たのかなぁ?
かがんだらおけつが10cmぐらいびりっと破れる。
家ん中でよかったよ。フランス人の。

だいたい、物持ちのいい自分は、気に入ったものはシャツでも15年ぐらい着てしまうけど
1年で破けるジーンズなんて、最悪だ。

しかし、フレンチコネクションという言葉には文字通り、別の意味がある。
ろくにフレンチも話せないのに、時々やってくるコネクションだ。

それは省こう。
ともあれ、エビゾさん、すんばらばらしいジャンベとコラをありがとう。
そして来週末の松坂でもよろしく。

「映像を遮るのは映像でしかない」
高円寺でふと思ったこと。

勘所の名称

88年に出たという、「楽の器」なる本を今読んでいる。
編集: 藤井 知昭 / 山口 修 / 月渓 恒子
タイトル、装釘の素敵さに漏れず、中身も面白い。
すこし支離滅裂ではあるが。

論文というか、エッセイというか、これぐらいまとまりがない方が
真実なんだろうか、とも思う。

中でもびっくらこくのが長方さんという方の琉球三線と身体についての一編だ。
にこやかな「シャミセンにんげんの図」にはじまり、円も三角形も存在せず、
風や満月などの夜の諸機械と連結し、分裂する身体なのだ。

まぁこれは薄味のマッシュアップではあるが、実際の文章は頭が痛くなるくらい、興味深い。
久々にわけのわからない、真実を含んだ文を読んでいる気分。

この文章の最後はあまりにもかっこよくて、
シャミセンの曲を覚えるには「手にコンピュータをつけるさ。」だという。
(この「〜さ」は方言の方だ)

そしてそのコンピュータは、二進法の演算によって配列された音を再生するのではなく、組織化されない音たちを生産するのであるらしい。

使い古された頭にそんなコンピュータを備え付けたのが、思考における「シャミセンにんげん」であるらしい。

なんのこっちゃ。

その次が抜群にかっこよい。

「そうすれば、二次元の画像空間にシミュレーションしなくても、あの美しい流れを思考の三次元空間において全体的に把握することができるかもしれない。」

そっか。

なんかよく現してるね、目前にある落とし穴を。

目に見えない音

ずっと前に新幹線で偶然隣り合わせた、さる学者でチーズ製作者の方* が
VAIOのデスクトップに貼り付いた遺跡の写真を見せながら
「ストーンヘンジは、β波を増幅させ、儀式を効果的に行う場所なんだよ」
みたいな事を教えてくれた事がある。

確かベータだったと思うが…違っていたらこれは僕の記憶のせいなので、許してください。

ともあれ要旨としては、低音域から低周波にかけて、人の意識を動かす波があるらしい。
そして、その事を知っているある種の支配者や、演出家は、政治や宗教に、或は芸術に、それを活用した、らしい。

「だから君が座席の後ろに置いてるその楽器は、けっこー大事なんだよ」とその方は言ってくれた。
一応、励ましの一つとして覚えている。そだ、音楽は集団催眠の一つだ。
眠るのはたいがい、僕だが。

どうも近頃、これを異口同音に、色々な人が言ってる気がしていて
「都市の通奏低音」「ナチスの洗脳」「アナログレコード」「石笛と能管の高周波」
んーん、
やっぱり何かあるようだ。


* 共働学舎新得農場代表 宮嶋望さん です

そにー

あまり言ってこなかったし、それなりに覚悟も必要な事だけど、
題材にしようと思う。

SONY

僕の周りには非常にファンが多く、僕もいくつかの商品は愛用してきたけど、
基本的に僕は、アンチソニー製品である。

なんでだろう…かっこよすぎるからかな。アンチ巨人、と似てるかな。

walkmanは何台も使った。DATは3台使って2台壊した。diskmanは3台壊した。MDは、買って本当に後悔した。
小さいコンデンサーマイクはずっと愛用していた。ヘッドフォンはST900がどうしても好きになれず、スタジオでもAKGを持って行く。
まぁ、一応、通って良さも悪さも知っているつもりだが、基本的には、買わない。

デザイんや響きは確かに、いいけどね。

そんな僕の気持ちが通じてしまうのか、僕がSONYの機器を使うと、大概、ソニータイマーが数十倍速で作動する。
びっくりするぐらい。簡単に壊れる。
しかし、サービスセンターの対応はいいのだ。これで安心だ、任せなさい、みたいに帰って来る。そしてまた、壊れる。

Appleは…また違うのだ。
G4は3回に1回の起動だけど、MacBookは頑丈だ。

昔 SONY には “ES” シリーズっていうオーディオがあって、
親はそのカセットデッキとCDプレーヤーを使っていて、それらは本当に音が良く、操作性も良く、品があって、文句の付けようがなかった。憎らしいぐらいに。

対抗馬的にDENONやKENWOODやAKAIを好きになる自分だったけど、SONYの評価は絶対だった。それがまた、憎らしかった。

SONYしかない、っていう分野があったし、そこは憎くても吸い寄せられる、みたいな魅力があった。
嫌いなのに好きになるのだから、魅力としかいいようがない。

そんな魔力、今のSONYにあるかな?

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