カテゴリー: hikari

2012

代わり映えもしない体勢で行くつもりである。
目標はソロアルバム一冊。

この5年ほどにゆっくり映しとったものが音になるとよい。

また、僕を震わせてくれる素晴らしい音楽家の方達、
矢野誠さんや音羽信さん、
エピゾさん、三宅さん、今道さん、
また機会があるであろう、あの人たち、
のんびりやってるバンド仲間、みんなにとって
音の光が心の淵を彩る、よき一年でありますよう。

again

here comes the night and
the night doesn’t have to be the noon

525

蒼い山で再び月と伴星を見る

久しぶりに、ブラウン管のテレビのある部屋へ

男の子と 技術者と思しき方

ふと つい先日違う場所で聞いた話が出てくる
どうやら「ブラウン管が発していたあの高い音」は、トランスによる水平同期音、らしい
音量を下げても気になっていた 遠く離れても気になっていた あの音だ。

子供は特に気になるはず だけど今の子供達はブラウン管自体に接する事が殆どないので
やがて誰も気にしなくなるのだろうか それとも余計に気になるだろうか

調べればこの音は、加線が15もあるBの音とほぼ同じ

このB9が年がら年中、どこでも鳴っていた日本、
年齢やテレビの性能により程度の差はあるだろうが、集団心理にも多少は関わってたんじゃないのだろうか?

近年、テレビの視聴率低下が著しいとか(視聴率測定、自体、根拠と精度のよくわからないものだけど)
言うけど、なんだかある程度はこのB9が影響していたんじゃないかな、なんて思ってしまう。

つまり、特に子供や若者において、「見ろ」「見続けろ」っていう無言のメッセージがあったんじゃないかな。
そこにサブリミナルな意図があったかはともかく、
見たいわけでもないのに、ブラウン管をぼーっと見つめてた人、多いしね。

今の液晶だとそんな音は出ない(はず)なので、いくら大画面化しても、
テレビ自体の存在感、って、薄くなってるんじゃないだろか。
見たい人は見る、見たくなきゃ見なくていい、みたいな。

いやはや、奥行きと存在感は、比例、なんて。

携帯電話やスマホ、これらにもぜったい、何かある。
電車の中でもあらゆる人を阿呆にしてしまう何かが。
(ところが当人達は、僕も含めて賢く「スマートに」なったと思っている)

スマートフォンって、多分、スマートに人間を操ってる道具なんだ。

それって、15.75kHzの根拠=水平解像度525本…からかなり進んだ筈のRetinaディスプレイなんだろか、
それともその裏にある、A4やA5プロセッサなんだろか

自然にかえりたいよと思うけど 自然は大きすぎて
かわりに電子と波動にとりつかれてしまってるよ

人間ってほんと 小さいね
(なにを偉そうに)

星の分度

綺麗な月を今夜も見上げてると 伴星

ぐるっと目線を回すと
星はぐるっぐるっと 月の周りをまわった

だけどなんだかその動きはおかしくて
まるでアメンボみたいに 時計なら三時間置きぐらいに
ネジをまいた

小さいころ バレリーナの目線は目が回らないように 飛び飛びなんだとか
聴いた事があるけど 自分の目はこんなにくたびれてる

これじゃ野球はもう出来ないし 流れ星も追えない

それでもと 月と伴星にもう一度 身体をつり上げてもらう
上から清めてもらう

もう一度見た時 月には蒼い素敵な霞がかかっていた。

ばしょはとらないからさ

ふとそんな言葉を思い出す

誰が言ったのかわからない 友人の誰かだと思う

なんか 震災以来 おれらに地球上に存在すべき場所はあるの? って思ってしまうことがある
たまたま 生かされているけれども

安全なのはどこ? っていう話だけじゃなくて
結局 原発にせよ TPPだの格差や食料や領土問題にしても
地球上での共棲の難しさと 奪い合いと そんなことから始まってるし
資源巡ってフィリピンで鉱山持ってる日本企業が反政府組織の襲撃を受けても
そりゃあんた、企業もコンクリートの中で偉そうな言葉ならべて、自分らの事しか考えてないわな、と思ってしまう。

「外国」で土地を好き勝手に掘り起こすのはやはり異様なことで、
いくら金を撒いたとしても、そりゃあ、どこかの王子に東京のど真ん中が買われていたとしても
中国に北海道がいろいろ買われていたとしても、お互い様になってしまっていて
なんだか根本的におかしいよな、と言えないシステムに腹が立ってしまう。

システムってのは、腹が立つ外部を当然想定しているのだろうけど。
デモは、所詮「ウイルス」ぐらいにしか思われていないのだろうか。

でも、システムもウイルスも、この場合は所詮同じ人間なんだよな…

今の混乱期、いや、人じゃない、悪いのはシステムだ、っていう空気の色合いを良く感じるのだけど
システムを作ってるのは、人なんよね、それも特定の誰かじゃなくて、おそらく、とても多くの人が。
そこには当然、自分も加担してるかもしれない。

 

ばしょはとらないからさ

うん、どうして君は、ばしょをとらないと言えるのだろう?

大人しいから? 状況に適応しているから、それとも抑制しているという意味?
僕は、自分が場所をとらない、とはあまり言えない。
図体はでかいし、楽器を持つとさらに2倍以上のサイズになるし、
大人しくなることもできるけどそれは自分のスイッチをどこかで切るわけで
スモールな自分であることに あまり自信を持てない。

だけれども
自分が何かするときに、その場所で
あるいは、大人しくしているようでも、いや、大人として
できることやってるのか?

そんなことを思う

 

起きてるうちは、できるだけのことやってるつもりだけど。

かぜのあとのよる

風車の回る夜

光ってる文字

月が読んでる

白いのが「人間カプセル」

オレンジが「リトル地球」

どちらにも たくさんのおやすみ

catalyst

ずいぶん前になるけど

異国にて思ったこと。
「ダサイ音楽でもかっこよく踊れる奴って凄い」

今日思ったこと。
「この景色なんてきれいだったんだ」

そこそこの楽器があれば、本当に巧い人はいくらでもいい音を出せるし
明るい人は輝きが違う。

たぶん画家と呼ばれる人は、見ている景色の捉え方が普通の何倍も美しいのじゃないかと思う。
(そう思うと、楽しくなる)

字が巧い、会話が巧い、太鼓が巧い…
才能っていうのもあるのだろうけど
これらはある意味、媒介者になるための鍛錬の結果じゃないだろうか。
— そこに存在する、美しさに対しての。

もしかしたら、僕らの運命は限られているかもしれない。

だけども、限りある時間の中で、少しでも、

そこにあるもの

を媒介できたら
それはそれで、とても大切な人間の役割を果たす事なんじゃないか。

言い換えれば、分野が何であれ、人はそういう能力を持っているんじゃないだろうか。

マザー グース ネック

-たまに使うスタンドライトと人類にまつわる寓話-

いざグースネックになってみると
そんなに首をグースにすることってないなと思う

いざブロントサウルスになってみると
あるいは椅子に座りたいって思うかもしれない

フロントガラスから見える三日月を あるいはほんとの二日月を
今日の名場面にしようとグースネックになってバスから覗いてみる
たぶんそれは 写真になってから見るとうっとりするんだろう だけど
グースでない自分だと 苦痛がうっとりをはるかに上回る

あれっ 苦痛とうっとりのバランスは?

…わけわからんよね。これは祖父江慎の講演本を読んだ後のメモ。

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