カテゴリー: fushigi

そこにあるそら

荒井由実を聴き出すと
星が見えてしまってしょうがない

実際にオリオン座を見ながらだと
夢のアフリカも銀色のセスナも
ひこうき雲も曇り空も
翼の影の下も
調布基地も

なんだか
というか当然のように
そらばかりうたわれてる気がする

ユーミンのうたはとても和
そして宇宙ジンだ

浮遊感って
ほんとにそらにいる人じゃないと
意味合いが違ってくる

そらがとってもひくい

ほんとに低いんだろう
としかいいようがない

ユーミン初期 – 初期しかあまりきいてないけど
のレコードで偉いのは
サウンドがいくら疾走したり

建物をたてたり部屋を遊び回っても
うたは空を舞ってることだと思う

おにぎり

今日はやたらとおにぎりがリアルに見えると思ったら

眼鏡をかけていた。

マザー グース ネック

-たまに使うスタンドライトと人類にまつわる寓話-

いざグースネックになってみると
そんなに首をグースにすることってないなと思う

いざブロントサウルスになってみると
あるいは椅子に座りたいって思うかもしれない

フロントガラスから見える三日月を あるいはほんとの二日月を
今日の名場面にしようとグースネックになってバスから覗いてみる
たぶんそれは 写真になってから見るとうっとりするんだろう だけど
グースでない自分だと 苦痛がうっとりをはるかに上回る

あれっ 苦痛とうっとりのバランスは?

…わけわからんよね。これは祖父江慎の講演本を読んだ後のメモ。

あろう

やじるしって
使う頻度に対して実物の少ないものだと思う
ふと、思った

道路には頑張っていくつもの←←→があり
クルマは頑張ってそれをおいかけるのだが
そもそも←ってなんだったんだ?

「矢」の記しという事なら、矢はそれに従って人が動くというものではなく
人を殺傷するものだったと思う

大昔にヒト最初の発明の一つとして誕生したもの
狩りをするもの

そんな記憶をアローは引き受けてる…んだろうか

Ya
Arrow

YもAも とんがってるといえばそうだし
Yは↑のできそこないみたいにもみえる

こまったもんだ

いや 何を困っているのか 深い苦悩ではないのだが

Joni Mitchell の Hejira の BG 的思考

across the mass turnpike

「日本辺境論」一昨日読み終える。

「石火之機」
「天下無敵」
「自分からはみ出して」…一体化する

などの「機」に関する章、興味深かった。

レーテンシー云々を無意味化する、時間、空間の再構成能力というのは
本来日本人が鍛え上げて来たもののひとつ、
と解釈してよいのだろうか。

なーんとなくわからないでもない。

「歳を取ると一年が短く感じる」と「真剣白刃取り」の関連が
それまでの全経験に対する比率、新鮮さとして説かれている。

真剣が振り下ろされた瞬間に「生まれ」た武道家が
起こった全てのことをスローモーションで繋げ、処理してしまう。

確かにそうかも。
凄いインプロヴィゼーションと共にあるプレーヤーは
ある意味、生まれたばかりの状態にあるのだと思う。

野球人が時折口にする「ボールが止まって見える」もたぶん同様。
一球ごとに生まれるのなら、彼らの人生も相当面白そう。

しかし

経験ある「師」に対して若い「弟」は時間感覚で優れたとして
ならば経験の意味は何か。

僕はこじつけながら、こう思う。

経験、または、「型」や「蓄積」が
ある時生まれた(閃いた)もう一人により参照される

同一人物の中に老人と若者が同居しない限り無理な話だ。

たとえば谷川俊太郎さんのような人がいつまでも若く見えるのもそういう事ではない?

気の遠くなる時間が生成したガソリンをクルマの新しいエンジンが一瞬で爆発させる。

ピアノを習う人が意味がわからないまでも繰り返したバッハが、ある日弾けるようになる。

それがブレークスルーではないかな。

なぞとき

仁政は謎解きなるぞ
と思うのは酔っているからか

病により正月が無かったため、七草粥の今頃正月の酒を呑んでいると
色々な謎が楽しく迫ってくる。

これはどぉしてああだったのか、
わかるわけないやんけ
楽しいのう
と舟よいのようにスパコンが起動する

そもそも私は笛吹きなのか、20世紀人なのか。
一つ言える事は私は20世紀に存在した記憶だということだ
21世紀には実体はない。

笛を吹いている私は瞬く間にコピーされ
飯田橋あたりからズームアウトし、塚をクリップし、タイル張りのドッグカフェで名刺をチェック、
明日に備えて狭い道を戻るも
UFOは見えない。

そこへ着信があるものの
敢えて道の左端に端末をかざし
商店街の下がりものをそっとして
腰をかがめて階段を上がる

実体その一

あと4分と知った記者に会うため
ゲートをのみ空想し
腰を高く身を宙まで導く
それは階段だが
重力に逆らう存在
空中に幾人か居たが
それはレイヤーなんて気にしていない

誰がだれの 後ろにいたって
めくばせ以外に 連結はない

グリッドクロック
今日も細い枠を
渡ってばかりで
ありがとよ

おかげで
陰に富んだ
ひかりと満ち足りた
一日と実体のない陰の記憶と未来が
今日もみえる

おわりのはじまり

すくいがなくたって
つづきはだれかがかんがえりゃいいんだ

そんな風になってるのかな、って思う。

近頃出くわした話や観た物語や、ひっぱりだした記憶は
どうも輝きと谷が一緒になってる

全てを照らす光と
余韻のまま落ちてった誰か

そこでたいてい話は終わってる

処理しきれない結び

多分、今の人は「終わりよければ全てよし」なんて結論に頼らなくても
話を輪廻させていけるんじゃないかな

ふと、今の人のふりをする自分が
自分で考える。多分誰かの話の消し忘れでも
自分が引き受ける事だってできるんだろう。

もんく

この水面
考えすぎ

その線路
長すぎ

そのペン
黄色すぎ

叶うならば縦でいたい

僕は割と縦長な人間で
そのせいか、世間で言われる「ヒトの視野は横長だ」を信じられないでいる。

だいたい、改行のない横に長ったらしい文を見ると内容よりその形だけで不安になるし
今や家電屋の壁面すべてを埋め尽くすワイド TV にもイマイチ馴染めないでいる。

だいたい、僕は A5 や A4 を縦にしたカタチが凄く好きなのだ。
見開きで横に長くなったとしても、縦型になにかが記されているって、それだけで何かの意志を感じてしまう。
おかしいんだろうな、多分。

だいたいインターネットは未だに縦長主体で
純粋に横長に作られてるページはそれほど見ない。

折角縦スクロールができるんだから、ってことかもしれないが
なんか、横長モニタで殆どのヒトが見てる現実ではあまり必然性を見いだせず、
やむを得ず惰性でそうなってる気もしないでもない。

だが僕は、縦長ページならホントに縦長画面で見たい方で
昔は Radius の Pivot っていう、今はもうない(技術の転売された)
馬鹿でかい CRT をずっと使ってた。

アメリカに居たから、A4じゃなくレターサイズだったけど
ページがちゃんとレイアウトされて見れるのは最高に気持ちが良かった。

(Pivot は本来、縦横いけるモニタなんだが、当時の Mac では縦しか使えなくなってしまっていた)

もともと、シーケンスは横で、ワープロは縦で、と思って買ったのに、
シーケンスも縦でやるハメになった。慣れたら全然違和感がなかった。

別に僕はトラックをバカみたいに重ねる方でも、意図を持って重ねる方でもなく、
オーケストレーションは至ってシンプルだったけど、それでも縦長のワークスペースで慣れていた。

なんでかなぁ。

もう随分、横長の画面しか見てないが、ずっと「縦に帰りたい」病が続いている。
池尻に居た頃は丸正に渡る信号待ちの時、いつも首都高の更に上に伸びるでっかい杉を眺めてキッと空を睨んでた。
ジャンクションループの工事で木が切り落とされた時は、それなりにショックだった。

映画のスクリーンは16:9より遥かに横長で、
あまり意識してその効果を考えた事はないけど、それは正解なんだろうな。たぶん。
だが、縦長の世界はどうしてくれるんだ。

自分は視野が狭いんだか、エコな植物か電話ボックスなのかしらないけど
横長は寝てる時で、ええやんか。

というわけで、横になります。

五億年の五つ目

『考える人』 No.28

特集はピアノだが、この部分はまだ全然読んでいない。

長沼毅の「形態の生命誌」にいつものごとく大笑いする。
僕はこの人がツボなのだ。

節足動物を突き詰めると
体節に足が生えたものの集合体であるらしい。

とにかく節から二本なり四本なり足が生えていて
歩いたり食べたり鰓呼吸したり、足がその動物をどうにかしてくれるのだ。

そして、足の付け根に口がある。だから彼らは「タテグチ」なんだそうだ。

この構造は脊椎動物の真逆だそうだが
共通点だってないわけじゃない。

それにしても
う〜ん
オパビニアって変だ…

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