気が付けば夏も終盤になってしまった。
今年は新しいのから古いの、合わせていろいろな文を取り入れようとしている。
きっかけは、偶然に出会った 平松宏城さんの訳書 と、ようやく手に入れた 渡邉格さんの2冊目 だったか。
昨年はひたすら多重録音をしていて、ほとんど本も読まなかった。20〜21年には割と読んだのだが、意欲がだいぶ空回りしたような気がする。
テキストはひとびとの希望も絶望もつないでいく。これだけ映像が簡単に共有でき、文を無限生成できる時代に、敢えて印刷された文字を紐解く意義がどこにあるのか、よくわからなくもなる。記憶も歴史も書き換えられ、遅かれ早かれ自分の存在も消えていく。それでもね。
結局は、音も言葉も、行き当たりばったりに呼吸しているに過ぎないのだろうけれども。
ほぼ10年ぶりに街の図書館のカードを更新し、いろいろ借りるようになった。時流を追わない自分にはこれぐらいがちょうどいいようだ。
30〜50年ぐらい経つと、木工楽器の音色もだんだん変わってくるし、同じように文体も社会通念も幾世代か変わる。テクノロジーだけなら何十世代も変わっているのだろうが、あまりそれらは気にしなくなってきた。
本を選ぶときは手にとって、パラパラとめくって、目の焦点がぼやけたままで文字の感触を確かめる。だいたいそれで読みたい/読める本かはわかる。ジャンルや作者にあまり必然性はなく、ただ、たまたまキーワードが重なることもある。最近だと、ハンガリーやニジンスキー。
『未来への記憶』にも『松雪先生は空を飛んだ』にも『ラブカは静かに弓を持つ』にも、なぜかハンガリーが頻出する。
アジアとヨーロッパをつなぐハンガリーはずっと気になってる国で、これからも何か縁があるような気はしている。知人は一人しかいないし、消息も連絡先もしらないのだけど(それってすでに知り合いとは言えないのだろうか)。
自分なら絶対に買わないようなタイトルの本も図書館だと借りられる。いや、借りる気にもなれないものも、無償処分だと手に取れたりする。それがすごく為になることも。
というわけで、『アメリカの文学』という本を先日読み終えたところだ。1983年刊行。
「アメリカはピューリタンがつくった国だ」という、ケープコッド、セーラムから綴った文学史は、けしてそれだけじゃないのだろうけど、いままで漠然としていたものにひとつのフレームはついたような気がする。
理想の高い清教徒が、潔癖症故に他者を排除する。エルサレムの後半から取ったセーラムという街は、後に魔女狩りの舞台となる。
ハーマン・メルヴィルの『白鯨』は(僕は未だに、Moby Dick といえば Led Zepp のボンゾのドラムソロ曲のイメージしかない)日本近海でのマッコウクジラ捕鯨を舞台にしている。この作品が出版されたのはペリーの黒船が来る2年前。
今の歴史の教科書では、ペリーの来日目的のひとつが捕鯨(鯨油を取るための重要国策)だったことが書かれているが、こんなとこで繋がっている。
白鯨と内容のかぶる、エドガー・アラン・ポーの長編小説『アーサー・ゴードン・ピムの物語』では、捕鯨船員同士、飢えを凌ぐための人肉食まで描かれている、ようだ。
血の気の多いひとたち…
この本は、当時の英語教育 AM ラジオ番組の内容を編纂したものらしい。
そんな、「ど」メインストリームな書籍にも関わらず、不勉強極まりないひとりの常人にとっては、新鮮だ。
というか俺は、一体何を勉強してきたのか? おまえほんまに、大学出てるの?
直球なものが昔から苦手だった自分は、歌謡曲もスポ根も、洋楽でいえばブルース・スプリングスティーンも長いことうけつけなかった。
Springsteen はどうも Born in the USA の拳の刷り込みが強過ぎて、あれは1984年当時の FM ラジオにも問題はあると思うが
だいぶ巡って聴けるようになったけど、それでもまだ遠い。最近なぜかよく目にする We Are The World の収録風景ビデオを観ても、彼だけ異質だしな…
でも、歌を聞けば明らかにあれはベトナム帰還兵のうたで、ストレートな米国愛国曲みたいに捉えてしまう僕はコロっと騙されてるわけだ。”they put a rifle in my hand – Sent me off to a foreign land – To go and kill the yellow man” 以外にもだいぶメッセージを逃しているので、たぶんそのうち、いろいろ掘り出すと思う。
彼のバンドのドラマー Max Weinberg はかなり Charlie Watts に影響を受けていて、確かに Born in… のドラミングも、チャーリーのフレーズがいっぱいだ。それはいつか日記に、ガーディアン記事の訳を綴ったとおり。
しかし。音楽って言葉だけじゃないんだよな。やっぱりサウンドの質感とか、コードの響きとかで、伝わるメッセージも変わってくる… 聴く側がどう捉えるかにも…
声の大きな人が昔から苦手で、どうも政治家っぽくて、だが政治家は正しく選ばないと大変なことになってしまう。
それは当人だけではなく、周りも含めたシステムなので。どう関わるかも含めて。
さて、まわり道したが、そんなわけで一冊の本を手に入れた。
パンチ・ブラザーズを聴きながら、かみしめている。
当時10歳の女の子の文集。舞台は1904年のケンタッキー州、人口二千人ほどの街。
特に作家になったわけでない彼女が小学校の作文の時間に書いたものが、その娘によって屋根裏で発見され、出版社に持ち込まれて58年後にベストセラーになった…という嘘みたいな話。
ケンタッキーといえばバーボン。メーカーズマーク。デイヴ・マシューズさんの故郷。少し北にいけばシンシナティ。ブーツィー・コリンズの故郷。彼らはジェームス・ブラウンのバンドに加わる前、シンシナティのアパートでよくジャムしてたらしい。
もちろんファンクだけじゃなくてブルーグラス、ワルツ、ラグタイム、ジグ、ロール… 南部の音楽は深い、そしてアイルランドともフランスとも北部とも違う。のだろう。行ったこともないから、あまり勝手なことは記せない。
ジュレップとはバーボンとミントと砂糖水、クラッシュアイスでできたカクテル。どうもお菓子みたいな響きだが、この本では10歳の女の子が何杯も作っている。近所のミセスに頼まれて。
別の話では、算数を教えてもらおうと先生の自宅を尋ね、どういうわけかその母親にワインを振る舞われてよっぱらう。
厳格なのかテキトーなのかわからなくなる当時、当地のキリスト教会や学校。コミュニティには固さもいい加減さも必要なのだろう。それを、少女は敏感に嗅ぎ取っていたのだろう。案外、多くの子どもたちはそうかもしれない。もちろん、ここ日本でも。
「ジーザスは気にしない、だけど人々は気にする」エチケットや、そういった解釈をすりぬけた農作物の税金逃れや、どの道も女の子は通っちゃダメなら空を飛ぶしかない、とか、学校で万里の長城の話を聴いてローラーコースターを忘れずに持っていこうと思う感覚。宣教師はキリスト教を中国にも布教しようとするけど、中国語もわからないのに… そうなんだよな。
これらの作文が記されたのは120年前だけど、それからはるかに米中の関係がややこしくなって、それでも必要なのは、この女の子のような視点なんじゃ? と思ったり。
これとは他に、先日のようにニジンスキー周辺の(ポーランド、ハンガリー、サンクトペテルブルグに近く、侵略を繰り返されてきたフィンランド…)ロシアの状況も知るにつけ。
戦争を防ぐには、いろいろな方法がある。「政治家でもないのに」「ろくに SNS も使えないのに」できることは限られてるかもしれない。だけど、SNS メディアも頼りにできない気がするから、感じ取れること、読み取れることは、吸収しておきたい。