こないだ買ったPeter Broderickがほんとによくてほれぼれする。
Paul Bley / Gary Peacock / Tony Oxley / John Surmanの”Fair Share”とこのアルバムがずっと回転中。
こないだ買ったPeter Broderickがほんとによくてほれぼれする。
Paul Bley / Gary Peacock / Tony Oxley / John Surmanの”Fair Share”とこのアルバムがずっと回転中。
狂気か天才か?
若き天才作曲家ピーター・ブロデリックの進化と深化
ヴォーカルとリリックにフォーカスした野望いだく作品
ジャケ写ほどではないけどつっこみどころ満載の帯コピー
混沌とした時代やなぁ
重大な問いかけに次の行で結論出し切ってるし
ヴォーカルとリリックにフォーカスって何事よ
野望いだく作品ってあんた
でもいいのさ
この人好きだし
かっちょいいぞ
また日が過ぎ
あいかわらずこれからも、とりとめもないことを書いていこうと思う。
コンクリートだらけのこの世の中、はたして「とりとめのある事」なんてあるのかな、と思うのだ。
—–
ステージって不思議な場所で
ときには客席より居心地がよかったりする。
いや、シャレではなく本気の話。
居心地だけでなく、眺めもよかったりする。
それって困るやん? とも思う。
客席から他の出演者を見ていて、このライティングってないんじゃないの、と思ったり
ところがステージにあがるとすごくゴージャズだったり
それって、テンション上げるにはこの上なく、申し分ないのだ
しかし客さんを思うと、心配にもなるのだ
俺たちばかり楽しくって、いいのかいなと
だけど、どうやら楽しんでるのが自分らだけでないとわかると
それで良くなるんだがね。
—–
Reciprocity
最近気に入りの曲 by G.Peacock & B.Frisell
とにかくヘッドがうつくしい
インプロのフリーはテクニカルすぎて正直あんましなのだけど
呼吸の伸び縮みがとにかく最高なのだ
—–
月が僕の左にある — こう思うだけで嬉しくなる時がある。
何を思っていようが、格別の月が、道を歩く僕の左にいてくれる、
そんな贅沢って、実はどんな大人にも等しく与えられているんだぜ。
人が忘れようが — 月は忘れない。
月の輪グマが忘れようが — 輪は忘れない。
すべての記憶素子が忘れようが、放電しきったスクラップは、覚えている。
君の左には、誰かがいる。
きみのひだりには、だれかがいる。
—–
歴史
高校の時にあまりに面白い先生に影響を受け、西洋史を専攻してた僕は
「人間のやることすべてを歴史は含む、だから歴史をとらえることができればすべてはありえる」
なんてずっと思ってきたわけだけど
ふとしたきっかけで、今日、それは違うかもしれないと思う。
もし、人類の「歴史の中で」
延々と、「歴史担当係」が
「言い訳」をつづってきたとしたら。
いや、そのためにすべての文献や都市や神殿がつくられてきたとしたら。
歴史、なんて、すごく偏ったもの、なのかもしれないな。
いや、シャレではなく本気なんやって。
光が上にいってしまった
月も上から照らされる あと数日のこと
「巻き毛のリケ」素敵な話だ
そのひとがかしこいのか
そのひとがかしこくみられるのか
それは似ているようでとても違ったことだ
だけどどちらにもいえることは
他人の目も本人の自覚も
気の持ちようで変わるということかな
意識は幾重にもかさなっている
そして切り替えればどれも真実に見える
そうどれも真実
どれも大切に育んだならば
「ドレの昔話」をようやく買って読んでいる。
「眠り姫」はなんだか「カリオストロの城」みたいな冒険物語でもあるのだな、と思いつつ…
呪いによる死のかわりに、100年眠り続ける娘を、
共に魔法にかけられて眠り、共に100年後に目覚めるという、最高の幸せを選ばず
「起きて見守る」ことにした親の気持ち。
たぶん自分もそうするだろう、と思う。
姫は「つむ」に刺されると宣告される。
王は糸を、布を、つまりすべての繊維の営みを止めて娘を守ろうとする。
それは失敗に終わるわけだが、
やがて城は深い森につむがれ、二つの王国は時と記憶につむがれる。
「いつも糸を紡いでいる」と目の前で紡錘をくるくる回してくれたケイティさん、ふと思い出す。
はつめいのあきは
おもいつきを
かきとめるのももったいない
時間の経過が不思議
わすれたことを
ふとしたぐあいで
おもいだす それは
まるで
のうが
ある階層では違った記憶を記録しているかのよう
つまり
ぼくらの脳は常に多層で
違うモードだと上手い具合に
なんでも忘れてしまう
だけどモードが戻ると
これまた上手い具合に
振り出しに戻ってしまう
僕らの構造は頭にレコードを何枚も刻んで
再生し直しているようなもの
そんなことをふと
一週間位前の昼間に空を見ながら思った
それで、それからきれいさっぱり忘れてしまった。
ミニサイズの画面
ミニサイズのコントローラー
それが進むと でっかい機材もミニサイズになる
なんでもそうなってきたやんな
デスクトップでスタジオなんて当たり前になってきたこのごろだけど
デスクトップにだけ音が届くスピーカーなんてないのだろうか
机の周辺半径1mより外には音が届かない
そしたら防音室なんて必要ない
ヘッドフォンも要らなくなる
スピーカーからの音は空気の振動で
スピーカー近くの信号はアナログだけど
そこに「距離xmを超えると消滅する」という記号が
刻まれていたとすれば
まったくの不可能ではあるまい
それがまったくもって音の「劣化」だというなら
これ以上完璧な劣化はあるまい
こんなことにこそデジタルを使ったら
どうなのかと思ってしまった昨夜のふざけた気分。
iPhoneの小さい画面って
画角だけ見れば32インチのテレビと殆ど同じだと
気づいた時
なんでこれほどスマホが流行ったのか納得したのが半年くらい前
だけどあたりまえながら
まったく立体感のない世界
30cm-50cmより向こうのない世界
ジョブスが見てたのって、ほんまにこれなの???
常に湧く疑問
最高のRetinaディスプレイは
なんでもない目の前の景色にある
どうしようもない最先端の3Dは
ほら目を開ければ誰でも見れる
そんな当たり前が当たり前じゃない世界
なくなってしまった世界
宮城道雄ならばなんと言うだろう
これと同じ事が音楽に起こってる
とっても普通に 起こってる
だけど そうじゃないことを
すくなくとも おれの大半は知ってる
bodyの大半がwaterであるのと同じくらいに
知ってる
しってる
しってる
むなしいぐらいに
いいたくなる
ふだん なんだ!? と思っていても
音楽の力で 子供になれることがある
しんけんに 音を出していれば
ノリが 伝わる事がある
顔見れば ほんとにたのしんでるのがわかる
顔見なくても わかる
すると みんな つれていかれてしまう
– carried away
こういう幸せな時間が これからもあることを切に願う
宮城道雄の随筆を読んでいる。
彼に限らず、邦楽の大家の多くは盲目であった。
それどころか、かつては盲目でなければ許されなかった職業、それが音楽家だという。
闇の中、研ぎすまされた感性を思う。
また、理屈や要点でなく、勘で習い、勘で教えたかつての才人たちを思う。
彼らにAppleのデバイスは使えるか? 使う価値があるのか?
おそらく、まったく違う音楽の未来がそこにはあったのだ、と思えてならない。
Shureのダイナミックマイクって今更ながらすげーと思う
57、58、一番どこにでもあるマイクだ
なんせ伝わるんだよな
コンデンサーに比べてぜんぜんアホちゃうんと思いがちだが
おっとどっこい
余計なもの拾わないし大事なとこ拾う
今まで感動したライブコンサートって57/58で増幅されたものが多いし
58で録られたすばらしいレコードもある
Rumerのアルバムには2曲ほど58の録音があり、Keito Blowのレコードもほぼすべての楽器を58だけで録音したものがある
ラフミックスの音を聴かせてもらったときも、すごくナチュラルで気持ちよかった
Shureはあなどれんよ ほんとに
散歩していると 電柱に引っかかった赤と緑の風船
昔なら「あぶねーな=」と最初に思うところ
電線の意義を考え直すこの頃 抱いた感想は
「かわいい」
そう 電柱はグレーであまりにかわいげが無い
風船で飾ったっていいだろうに 街をさ