投稿者: ray

このあき

最も好きな11月ももうすぐ終わり。

マイペースに過ごすはずだった秋が、途中から今まであり得なかったほどの過密になり、
よく倒れずに済んでいるな、という状態。

リハーサルを終えて、一息ついている。

色々と見落としたこともあるが、タイムワープをしながらもいい経験ができたのだろう。
ここんとこ。


今年も大橋トリオ、このご一行にはお世話になった。
締めくくりの The Pretaporters、ストリングスとのスペシャルコンサートはもうすぐ。

もともとヴァイオリンをやっていたものの挫折した僕には、弦楽器は身近でもあり壁でもある、大きな存在だ。

自分の担当をコントラバスと言いたくないのも、その心境がある。
コントラバス奏者というのはクラシックを経た人の言い方だと、思っている。
ま、ダブルベースだってそうなんだけど。
でも今時日本じゃあまり使われないし、一方アメリカじゃポップでもジャズでも double bass って書くし。

ともかく、変則的な経歴を持つ僕が、ベーシストとして弦楽に混じれるのは、いつだって、大切な経験だ。

いいコンサートになるよう、頑張りたいと思う。


この世界は狭い、とはいえ、知人に違った現場で会うと嬉しいものだ。

2015年だったか、さるパーティー仕事で即席バンドを組んだロビンと久々に再会して、色々と話を聞けて楽しかった。

彼の一人ライヴ活動や、照明の人との二人ライヴ活動、奏法、音響、倍音、野外劇場、共鳴弦、折りたたみ楽器、他はなんだっけ。

さ、明日からもがんばろう。
月並みだが、ごく日常的だが、
普通とちょっとした無理、困難とちょっとした特別が交錯するのが、この秋だ。

きっとそれでいいのだ。

銀の河の裏側

river silver [side b] / ray kondo
11.11 online release

ゾロ目への執着で9.9からひっぱりましたがやはりベースの日がよかろうて。

1. ひかり
2. double time runes
3. アストロノーツ
4. かみなり小唄
5. chime
6. ミッシー
7. 南風
8. フィラメント

[side a] より実験的、かつポップです。

台北

気候もよく…

って雨降ったり止んだりではあるのだが、

ほどよく暖かく、食べ物も風も甘く心地よい。

1年ぶりの “Legacy” も楽しく演奏できました。

どうもありがとう!

驚きの一時停止

列車の前の席の隙間からスポーツ新聞が見えた。
金本、それでも続投?
みたいな。

思えば随分長く、阪神ファンを停止している。
現在、阪神が何位かもしらない。最下位らしいとも聞いたが確かめてもいない。

子供の頃から阪神ファンで、最初にかぶった帽子は当然HTだった。
ネットというものに触れ、アメリカにいても日本の状況が(ある程度)わかるようになった時代
欠かさずチェックしていたのは日刊スポーツ大阪webだった。
もうその名のサイトもないかもしれない。

だが僕は、藤川球児がウッズとの直球勝負でバックスクリーンにはじき返され
CSを終えた時に、岡田彰布の涙と共に阪神ファンを卒業したかのようである。

球児ようやった。でも君がリリーフエースのときに優勝させてやりたかったな。
気がつけばそれから10年が経った。

真弓でも和田豊でも金本でも、なんかぴんとこないのである。
掛布やったらええのか? たぶん違う。

野球はすばらしいが、たぶん、野球観てる場合ちゃう、というモードなのだろう。

阪神ファンというのは強烈な中毒性があって、依存性もあり、それだけで自分の人生に
頼まれてもいないのにさまざまなドラマを生んでしまう。実際はなにも起きていないのに。
ほら先ほども、「優勝させてやりたかったな」と書いた。どうかしてる。

東京に対して子供のころから長年持っていた感情「巨人ファンばっかりおったら嫌やな」
これが、実際にはそんなに巨人ファンは多くない(あからさまではない)ことに気づいたのは住んだ後だったが、まぁ、日ハムや福岡や楽天や、広島や中日や、それぞれの球団に魅力があることがメディアを通じて知れ渡ったことも大きいのかもしれない。

巨人は今でもあまり好きではないが、そもそもプロ野球をチェックしないので気にならない。
阪神に一喜一憂することもない。

たぶん僕は、ファンを完全にやめたか、ファンという回路をフリーズ中なのだろう。人生においてこんなことが可能なのだ。

音楽にもいろいろあって、やりたいこともいろいろあって、やっていないこと、そのうちやれればいいやと思ってること、ええ加減やらんと後ないで、みたいなこと、もう手遅れだからマイペースに、とか、今やるしかない、とかいろいろあるが、人間ってそんなマルチタスクは向いてなくて、そんなに沢山にはできない。毎日生きてるだけで精一杯だったりする。

でも、たとえいっぺんにやらなくても、それぞれオフにしたりまた別のスレッドに移行してタイムラインをスライドし直したり、結構いろいろなことも可能なんですね。

まぁ藤川のストレートは、かっこよかったなぁ。
あの感じは楽器奏法や音の伝播にも、なんらかのヒントはくれると思うのだ。手を離れたものが繋がってるというか。たぶん。

半分青かった

半分、青い。が終わった。

面白かった。朝ドラはそれなりによく観るが
今回は引き込まれた。

「伝記」でないから予定調和じゃなかったのもよかったのだろう。

終盤はバルミューダをなぞっていたが、設定が違っていたし。

漫画家からバブルから五平餅から田舎暮らしから帽子屋から映画の世界から一人メーカーまで
あんだけ題材があれば、そらおもろいわ。

まぁ僕にとってのコアは秋風センセで、滝藤とうちゃんで、ワコさんの金八だったが。
みぃばぁばかな。

バルミューダといえば扇風機「グリーンファン」は、ずっと欲しかった。
高くて諦めた。
今回の放映でさぞ売れてるんだろうな、と思いつつ、
涼しくなってから扇風機の話になって、どないすんねん、と余計なつっこみしたくなる。
あれが猛暑時期の登場だったら、どんだけバルミューダは儲かっただろう。

異なる羽根で「渦を消す」話は、音に置き換えれば、
たとえばある周波数だけを延々と聴いてると気が狂うだろうが
そよ風のように自然にいろいろな周波数や倍音からなる音楽を聴けば
心地よくなる、ということに通じるかもしれない。

ただ渦を妨害するだけじゃなくて、そこんとこの調和だと、おもう。
ノイズとの違いが、むずかしいね。

3.11に触れたのはリアルでぐさっときたが、
原発事故について完全にスルーしたのは、なんでだろう、NHK。
この世代の登場人物が、考えないわけが、ないことだ。

それが朝ドラの限界だとしたら、どうかしてる。

こんなに素晴らしいドラマにしても
その程度なんだね、ととっくに醒めてる自分が大半だけど
あきらめないで、どうかしてる、と、記しておく。

9.30

過ぎてからなんだが、僕はこの日がどうも感慨深い。
自分の人生で何があったわけでもないのだが、何か、こう。

以前車の名札にしていたこともあるし、うーん、なんでだろな。

台風である。またしても。
なんで今年はこう台風や豪雨や地震や、天災が多いのだろう。

といっても、日本ではこれが当たり前。災害と共に暮らす民族なのだから、
自然を見くびったような嘘に固めた技術は見捨てるべきなのだ、と
堅く思っているが、なかなかこの国を動かしている人たちはそうはしない。

お上なんだから逆らうな、とずっと統治してきた国なのだけど、
やっぱりお上、どこか頭弱いよな、とつくづく思うのだ。

最近は図書館の世話になる。
佐野洋子さんの「問題があります」を読み始めた。破壊力あってぎょっとする。
本文を借りれば「うしろにとびのく」。すごい人だったのだなと思う。
近くにいたら、さぞ厄介だっただろう。
親戚に一人ぐらいいてもいいのだろうか。二人いたら、もう大変だろう。

そんな人が、ぎょっとするような知人を描いた「或る女」が特別付録。
半実話だろうか、どちらでもよいのだけど。

ぼくはこの人の「おじさんのかさ」がとても好きだ。
なんともとぼけた間合いもおじさんの表情も、そして侵食性のある青も、とんでもなく素敵だ。
おじさんのコートは、青の上に黒を塗って、さらに青で縁取りしているのだろうか。

傘にいれておくれと頼む男の子に、目をそらして聞こえなかったふりをする、
なんともヒドいおやじなのだが、こんなどうしようもない輩、けっこういるわけで
(おれもそうでないとはいえない)
きれいごとじゃなくて、やっぱり破壊的。

情緒のある監視カメラ

Life is Beautiful

中島聡さんのブログである。
最近ちっとも更新しないなぁと思っていたら
たくさんのエントリーが上がっていた。(9/23の夜時点で。さらにそれから沢山上がっている)

ブログの性質上、記事を逆順に読んでしまうので、読者としての僕は著者の意図を遡るわけだが、
伝達手段としての文章力のつけ方というところから、それは簡潔に意図を伝えるため、
発端としては人間にとってアウトプットがいかに大事か(違いを生み出すか)という話だった。

小学生には読書感想文は不要(文章力をつけるための教材としては不適切)という意見などとてもおもしろいし、組織においてはメールを簡潔にする(そのかわりに全従業員に対して目を通し返事をする)ことの大切さもわかる。

この人は自身で仰っているように Windows 95 を作った一人でありブログの先駆者という著名人であるし、パーソナルブランディングに長けている人である。
僕自身も、2009辺りから技術者の知人に教えてもらって以来、時折読んでいるが、示唆も多く、また 日米関係 などについても、目を覚まさせてくれて感謝している。

で、アウトプットと自己ブランディングについて。
これはどうも僕が苦手なところである。
苦手というのは原因がたぶん幾重にもあるので、
人から直接間接的にどう諭されても(さとしさん、という名には、人にさとす、という所もあるのだろうか。名は人を表すというから)そう簡単に変わるものではない。

さておき現代。
普段のその人の性格がどうであれ、ネットのおかげで誰もがアウトプットをできるようになった。
タイピングがある程度得意になれば、日記を筆記用具で連ねるよりよほど早く、思ったことを書ける。
書くことによってまとまらない意識をまとめる役にも立つし、それを(止める人もいないわけであるから)クリックして投稿することは、池に石を投げるようなもので現代においては普通の遊びなのだろう。
実際に、近くにいるのに会話よりも早くネットに投稿する人が、僕の周りにも沢山いたし、現在もそうだ。

だから、フツーの人間関係を維持するには常時接続していないと、みたいな強迫観念も、出てくる。

SNSがあって、情報が太く集まりやすくなっているから、人はそれをより利用するし、
そのシステムそのものを利用して、マーケティングやプロパガンダも当然動いてる。

元来、広告(マーケティング)とは戦争が終わって役割を失った(ように見えた)プロパガンダ(大衆誘導)が姿を変えたものだ、
という意見があって、僕はこれがものすごく腑に落ちている。

だから、結局のところ、アウトプットしなきゃ、と思ってせっせと流れに乗ることは、
勉強にも切磋琢磨にもなるが、流れに乗せられることにもつながる。
自己責任としてのタイムスタンプ付きで。

僕が常に醒めてるのは、そのへんである。

なぜならタダほど怖いものはない。タダなのに盛り上がってる業界って、莫大な援助や利権が動いてる。
シミュレーションゲームがこれだけ盛り上がれば、無人機を使った戦争への動員がしやすくなる。
人格が破壊されてるかもわからないうちに、人を破壊できてしまう。誰が喜ぶ。

監視カメラの思う壺、ってことだ。

文章には情緒は不要。あいまいなものを伝える前に事実を伝え、評価できる形を作る。
これによって、国語の先生も採点がしやすくなり、生徒の学習も着実になる。そうなのだろう。

というわけで、ひねくれ者の私が思いついたのは以下である。

「情緒のわかる監視カメラ」

事実をひたすら記録するのではなく、そこに感情的解釈を加えることによって
独自の世界観を記録するカメラがこの世に、たとえばあなたのいるその空間に10台あるとすれば、
そこにはどんなストーリーが展開されているだろう。

新幹線の車間にぎゅうぎゅう詰めで立ちっぱなしの人々を映し出す監視カメラが、
この人は野球帽の下ではにかみながら、片手で酒のビニール袋をぶらさげ片手で子供たちを守りながら、イイ顔してんなぁ、とか
だったら背景は夕陽色だろとかこの辺はシャローフォーカスしよとか
(聡さんの「ランドセルとは」文例を借用すれば…ちなみに僕はこの文例が好きだ)リュックから手足が生えたような錯視からB級のSFを勝手に始めるとか、
この人とこの人に30分前の乗客の話を聞かせたらこうなるよという妄想を勝手に作るとか

後から記録を紐解く、係員か捜査員かビッグブラザーか何者かはわからない、がそんな何某が
目的を失って混乱し、ストーリーに見入って涙してしまう、酔ってしまう。

すると、監視カメラそのものの目的がよくわからなくなってしまい、四六時中カメラに監られている日常も、少しは平和に、楽しく、安全になる。少なくともそういう錯覚に陥ることができる。

…ここまで書いて気がついた。
それは、もうインスタがやっていることだ。
無数のパーソナリティとスマホのカメラとアプリが、せっせとやっている。

困ったもんだよ。マジで。

虫と波と風と砂と

鳥取へ旅。

親類が昔、島根の出雲に住んでいたことがあるが
その数年間の機会を逃した僕には、山陰地方は遠くて気になる存在ではあった。

大学時代に、ふと思い立って友人とドライブし、鳥取砂丘に着いて登りつめると
そこにサークルの先輩がいた、という偶然には驚いたものだ。
なんで京都から、わざわざここで。よりによって。

その次は、マイア・バルーに誘われて
ギニアのグリオにてマルチミュージシャン、Epizo Bangoura と一緒に新宿界隈でライヴしてた頃、
鉄壁のアフリカンドラムを誇るバングーラファミリーの中のアラマさんは、何故か鳥取在住で
これまたどういう縁で? と思ったものだ。

「夜を誤解している」という詩に
鳥取県の人は土地の利権に、という特に根拠のない一節を入れたのも、
無意識レベルで気になっていたからかもしれない。
…まぁそれは置いといて。

で、今回なのだが、ここ数年、機会を見てお会いしている
タルマーリーの渡邉さん一家に会いに行った。

一人で因美線に乗って行くことはあったが、車で家族で行くのは初めてである。

遠いが、楽しいものだ。
智頭町というところは、なんとも空気がよく、川のせせらぎも、たまに通る単線列車の音も、
山並みも素晴らしい。

豪雨と台風の爪痕も感じたものの…
夏も比較的涼しく、40度越えということはなかったらしい。

案内していただいた、山の上のみたき園というところも
桃源郷というか、ただひたすら感動だった。

もちろんタルマーリーの空間も、パンもビールも、すばらしい。
皆さんには感謝しかありません。

ぜひ、機をみて行かれることを、お薦めします。

そして鳥取砂丘にも再び訪れたわけだ。
調子こいて登って降りて、海岸からひきかえすときが大変。
「オレはなんでまた、部活やってんねん」の汗だくであった。

ちなみに、砂丘は登りつめて初めて、それまでの静寂を破る波の音に出くわす。
砂の丘が完璧に、どどんざぁを遮音・吸音しているわけだ。

だがしかし、そんな静寂の世界では、登っている人々の声は妙に近く聴こえたりする。
うーん、なんでだろう、と、わかったようなわからないような、
そんな2018年の9月であった。

さ、音楽に戻るかな。

おそらくおくれるおわび

9.9 リリースを目論んでいる river silver [side b] につき
OOO* が発動し、もう少しお時間をいただくことになりそうです。

各曲、いい感じにできてきてますので、
もうしばしお待ちください。

原因はジャケット制作の遅れ、としておきます。


これは明らかに嘘ですね。ジャケはとっくにできています。

リリース日には思い入れがある一方、ゴロで選ぶ面もあり、
9.9 は単純に面白いな、と思っていたのですが、
次がいつがよいのか、考えあぐねています。

* OOO – 恐らく遅れるお詫び – の略。
予想外の事態、本人の怠慢、などの理由があるが、表しにくい場合に用いるとされる。

おやすみ、ありーさ。

Aretha Franklin
1942.3.25 – 2018.8.16

誰がなんと言おうと、世界最高のシンガーだった。
というか、僕が言うまでもない。のだが。

初めて聴いたのはいつだろう。たぶん子供の頃から、何かしら聴いていたのだろうが
アトランティックの名曲をちゃんと聴いたのは、昔のバンド仲間のレコードからだと思う。

「ソウルミュージック」というと、何やらコテコテのイメージを持っていたけれども
(当時の僕は Otis や Sam Cooke を聴き始めて、熱いけどビートが全部一緒やん? と、ごつい偏見を形成していた頃だった)

Aretha は歌もサウンドもとてつもなく涼しげだった。

それでいて、炎よりも熱かった。

コーラスアレンジやバンドサウンド含めて、洗練されてた、んだろうな。やっぱり。

あとは、結局、男だから女性の声に、より惹かれるものがあったんだろうな。

でも女性シンガーといっても彼女は完全に別格で、完全に誰とも違う声とビートと、世界を成していた。

と、思う。極東のイエローに何がわかる、と言われても、それぐらいはわかった。

渡米してももちろん Aretha は別格で、向こうの乾いた空気や人々の足音の行間というか、空気を味わってる感じと、
とにかく歌も演奏も倍音が出まくってる人々のフィールや、時代なんて全く関係なくいい音楽をガンガンかける街の呼吸と相まって、彼女が余計に好きになっていた。

実際に観れたのは一度だけかな…リンカーンセンターだったか。

帰国して最初にやってたグループのおかげで、違うところで Aretha が好きになった。

なにしろそのシンガーは、え、小さいけどありーさ? っていうアルファ波を出せる人だった。
ライヴで聴いてた人はわかると思うけど。
いい形に残せなくてごめんねぇ。

何曲か、カバーをやった。

幸せだったなぁ。いっしょにライヴしてると、Aretha の曲やアレンジや、歌の素晴らしさが
ベースと身体で増幅される。

もちろんレコード聴いていても幸せなんだけど、音楽って、やると余計楽しいなぁ、と
よけいに思う時だった。

ともあれ。

自分がどう感じようが、Aretha Franklin は揺るぎない。

あるいは、誰がどう感じようと、それは自由だ。いくらでも、いっしょに揺れてくれる。

本当に残る音楽って、そうなんじゃないかな、と思う。

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