30年代の教訓

1929 世界恐慌から 1937 日中戦争まで
何が起こったのか、という考察。2009年。
311前にも色々な文献が出ているものだ。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子

国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を擬似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らないとの危惧であり教訓です。
(はじめに – 太字は私)

教訓はあまり役に立っていなかったようだ。
だが読んでみる。

– 追記 –

まだ1/3程だが、こういう視点での記録、考察に触れるのは大きな勉強になる。と同時に、多くの部分で吐き気を感じている。

たとえば、「上に立つ者」にとって戦争の目的とは、賠償金・軍需・占領地での市場・占領地での官僚ポストであり、すべての政治・報道活動はそれを正当化するためのものであり、国民=徴兵される兵士の命など何の重みもなかった、という数々の証言。

判ってはいても、こういうことが「面白い」として綴られているのを読むのは、気分が良いものではない。

だが続けて読もうと思う。ゆっくりしか進めないが。

– 追記 –

1/2ほど来たが、序盤、1000万人が殺されたWW1後の国際連盟の成立(と失敗)に触れたこの部分に、未だに一番引っかかりを感じている。

第一次大戦で懲りた世界の国々、ことにアメリカが中心となって書きあげた不戦条約は、次のような内容で、戦争を禁止しようとしていたわけです。一九二八(昭和三)年にできたこの条約は、戦前の日本政府も原調印国として参加していた国際条約でしたが、国家政策の手段としての戦争の放棄(第一条)と、国家間の紛争解決手段としての武力行使の違法化(第二条)をその内容としていました。
このような条約ができてしまった場合、戦争の概念として許されるのは、自衛戦争と、侵略国に対する制裁行為の二つに限定されてしまいます。
(序章 日本近現代史を考える)

「集団的自衛権」とか「積極的平和主義」というおかしな概念の根っこが、ここに示されていた。
OK, that’s enough.

– 追記 –

読了。

高校生向けの講義を記録した書物であり、生徒の興味を惹くために戦史・人物像・やり取りが「面白い」という表現を多用している、という部分は、吸収することにした。
興味というのはある種残酷なものだ。”interesting”という言葉を「面白い」とも「興味深い」とも訳するように。

日本が採った、個々また全体の選択がどれだけ偏っていたか、そこにどのようなからくりがあったか、ということは、ある程度明らかにされているとは思う。

でも、それらは不可抗力だったのか?

愚かな選択の数々が、別のプロパガンダで覆い隠されてきたという指摘の数々、これは日本だけではないが、世の中こんなことばかりと気が遠くなる。戦前、戦中、戦後、今、それは変わらない。いや、むしろ日々着実に発展し、この瞬間も巧妙になっていくプログラミング。

たとえば今が「戦前」だったとしたら、どうなんだ?
と丸の内を歩きながらぞっとした金曜日。

「流されないでいること」これがどれだけ大事で、ちっぽけで、怪しいことか。
流そう流そう、流されようとするのがある種、人の性ならどしたらええん?

或いは、流され「ながらも」醒めていること、「生き続けながら」ひっくり返すこと、
例えば本音を頑に出さない役人に自分がなったとしても、ふとした子供やおばあちゃんの言葉に、柔らかで素朴な対応をし、それによって何かに気づける人間であり続けること、

例えばその気づきが「立場」か何かですぐに覆い隠されようとしても、そのヒントを周りが拾ってくれること、

自分が偉くなくても、完成した理想にたどり着くことも、ステートメントすら出せずとも、その時々の行動によってヒントを出し続けることができたら。パス – “pass”というよりむしろ”path of life” – を示し合えたら。
そんな事が大切なのかなぁ? と思った日曜日。

人は互いに見ることができるのだから。

本の後半で特に引っかかったのは、「分村移民」つまり
満州国設立の後、開拓移民を募るために、経済的に苦しい特定の町村が集団移民の標的とされていたということ。

満州へ開拓民を多く出した村には、多額の助成金が出されていた。
これに乗った地方自治体多数。乗らなかった首長、少数。

「乳と密の流れる地」という甘言と全く異なる極寒の植民地に移り、敗戦で追われ、命からがら逃げ帰った移民たち。それらはロシア参戦のせい、関東軍の身勝手のせい、という被害者意識の裏、国は政策として田舎を札束で動かし、それに自治体も加担していたという史実。

その中で、見る目のある首長だけが、変わり者と言われても、村民を守ろうとした。補助金に釣られず、村民を出さなかった。或は、たとえ満州に移っても、現地の中国人との関係を「良好に」保った首長のおかげで、退却時も安全な道を教えてもらい、日本に帰る事ができた集団もいたという。

本来、敵も味方もない筈の人間。実は、どんな形にせよ手を組めてしまう。
指導者同士が、数十年単位で勝手に「設定」して来ただけの「敵国」。
それに動かされ、命を火薬と刃とスクラップと屍に変えてきた人々。
兵を集めることが自分たちの野望を満たす為に必須だと考えてきた人々によって
歴史は繰り返されている。

ひとりが深く、多くが広く考えなければ、戦争はきっと起こってしまう。
ひとりが深く、多くが広く考えれば、戦争など絶対に止められる。

この瞬間も交付金がばら撒かれている国の主権者の一人は、そう思うのだが。

やじるしの

方向性が同じだったら
速度が違ってもなんとかなる

かな?

方向性が違ってもいいけど
速度が違うと二人三脚できない

かな?

かれこれ一回りも考えてるけれども
未だにどっちが正しいのか判らぬ。
Aきみはどう思う。

彼は外に対して立派な人だったが
中身は壊れていた

という話を良く聞くけど

彼は壊れていたが
外に対して立派になろうとしていた
自分を救うために

という人、実は多くないか?

Rはちかごろこうも思ってる。

super run

久しぶりに吉祥寺へ。

八戸で行われる、南郷ジャズフェスに向け、
guest voのGeilaさんを迎えてリハーサル。

いい感じです。

Daveさん、リハの進め方も面白い。いきなり始まる。
ちんたら考える暇も与えずカウント、とにかく早い。

でも、確認必要なところはしっかりと時間をとってくれる。
これが本来のリハかな、とも思う。

そして…終わるときはさっさと終わるのだ。

井の頭公園では男の子がフリスビー。

inostroll

ここにいると気分はムーンシャドウとユニコーン。

硝子のなんとかかよ。

アレクサンドロス

アレクサンダー・テクニークというのがあって
確か数年前に本を買ったのだけど、見つからない。

ミュージシャンのための、身体の使い方というやつで、
たとえば弓を身体の前で弧を描きながら動かすとき、実際は身体のどこを使っているかなんてことが書いてある。結構目から鱗が落ちる本だった。

これは見つかるまで、記憶でカバーするしかないのだけど、
どうやらインナーマッスル系の事を調べていると
「球技に向かない体つき」というのがあって、僕は全くそれに当てはまるようだ。

というか、小学校の低学年からずっと、オーバースローでボールを投げるということに絶望的な諦めを持ったまま野球をやっていた自分には、なんで今までわからんかったんやろみたいなショックだ。

とはいえ、その原理は球技だけでなく、身体を使う全ての行動にあてはまるので
これからの楽器を使う人生や使わない人生やすべて、これを機に、塗り替えてやろうと思うわけだ。

たぶん、アレクサンダーテクニークも、通じているのだろうと思う。

james firm

これもちょっと前のレコードだけど

James Firm

今の気分にとてもいい。

Matt Penmanのプレイ、クレバーで土臭くてとても好きだ。

それから…

まったく関連はないが、かっこいい… steteco なるもの

敢えて前のシーズンのをリンクしているが、すんごいおしゃれ。

Nautilus

こおろぎ。チェーホフ。
ヒルマンさんのおいしい水とジャガイモとチキン。

バス停近くで旋回する二機の戦闘機。

海底二万マイルのネモ船長。
「キャプテン・ニモ」に空耳
ファインディング・ニモってまさかこれとひっかけてる?
un-biased(偏見のない)という言葉が耳を削ってく。
金儲けのための戦争。
火薬を掘削し運ばされる囚人たち。

バイオリンと雪車滑り。
風と言葉あそび。

風音に隠すことができぬなら
口パクしてもよかったな、と今でも思うタクシー。

replace

オーバーホールに出していた楽器を引き取る。
開いたボディに緩んだペグに、鷹の仕業のような多くの爪痕。
アトリエハシモトさん凄い。ほぼ完全に治っている。

昔LAのWestwoodで、あまりの低視力に身の危険を感じて買ったクリップオン丸眼鏡グラサン、
れんず屋とやらでレンズオーダー。
近視はともかく、乱視が進んでいる。15年前はスマホも無く、ノートパソコンもまともに使わなかった。

日本橋と丸の内と三ノ輪と大井町と自由が丘と東池袋と神保町と代官山と世田谷。

歩いて、色々な人に会って、自分をリプレイす。
その間自分の中で変わらなかったのは、凄い人がいっぱい居るという思いと、
Alexandre Andrés、Booker Littleの音楽は時を経てこそ素晴らしいということ。

明日からは全く新しい日々が待っている。

TRII

テルマエ・ロマエ II を観る。
初日に名古屋で観たかったぐらいだが、さすがに公演・打ち上げを抜け出す心臓は無かった。

楽しめたし、反戦メッセージ(???)みたいなのも無くはなかったが
冒頭は好戦的でグロかった。それから自分はあんなにストイックにはなれんだろうな。

それにしても開演前の他映画トレイラーの音のデカさにはうんざりしてしまう。
映画本編はダイナミックレンジも確保されているし、まだ聴けるけれども、
音をデカくすれば関心を惹ける、みたいに思ってる人、
デカい音だと観たくなる、と思ってる人、
まだ沢山居るのだろうか?

僕などは耳も心も塞ぐんだけど…

逆に耳を開いてくれるのが
劇中のじいちゃんの笑いやおばちゃんの接客の言葉、
温泉郷の湯の音。なんでもない音。

木こりの唄も、よかったな。

錆びた階段にペンキは塗れずとも

雨音と共に気配かわる。

カメラ、スニーカー、お預け。

録音機、黒に交代。

押し入れの盤引っ張り出し、聴き直し。NicoとColinとStones

記憶の楽譜、念写しダウンアップボウ。

ツバメたちと話しつつ、

子供の頃の、明日より先の、音探そう。

when the world is running down, you make the best of what’s still around…

無垢を管理しようとするもの

中身の濃さに、1年も頓挫してしまった

本が死ぬところ暴力が生まれる / バリー・サンダース

再び読み始める。

やはり凄い本。

第6章 口承世界を育む母性

産業革命から、1920~50年代のアメリカを題材にしているが

リアルタイムの日本でも、全く同じことが進行していたのでびっくり。
地デジ電波に乗って、つい2日前の朝に。

あぁやだ。

そんなときはスイッチを消して

僕らにはどんなロジックや市場よりも
カタコトと心臓のリズムの方が響く

って、思い出せばいい。

Calendar

2024年11月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930