先日 mill の続きです
ここから
きっかり二杯分の豆をミルにうつしたい
嗚呼…
キレの良い豆袋(空になっても集めていた読書珈琲リチルさんの)に入れてみよう
なお、この日の豆はさくら珈琲豆店さんのものである…ご容赦を
!!
改めて、リチルさんの袋の優秀さに感動しつつ
この後も修行を積んだ僕は
ティアドロップ型の器からミルに直接
豆を溢さず入れることもできています
何事も挑戦だよ。
* こぼれ豆は責任をもって回収、抽出しております。途中で背景が白いのは紙を敷いた為。裏話
先日 mill の続きです
ここから
きっかり二杯分の豆をミルにうつしたい
嗚呼…
キレの良い豆袋(空になっても集めていた読書珈琲リチルさんの)に入れてみよう
なお、この日の豆はさくら珈琲豆店さんのものである…ご容赦を
!!
改めて、リチルさんの袋の優秀さに感動しつつ
この後も修行を積んだ僕は
ティアドロップ型の器からミルに直接
豆を溢さず入れることもできています
何事も挑戦だよ。
* こぼれ豆は責任をもって回収、抽出しております。途中で背景が白いのは紙を敷いた為。裏話
そろそろ次の活動を。
といっても当分は、オンラインで曲を出すぐらいなので、あまり実在感はないかもしれないが。
ドラム。
前々回の “Blinking News” では、ドラムパーツをバラバラに、ハイハット、キック、スネア、タム、ライド、クラッシュと一つずつ別のトラックに録っていって組み合わせた。のです。
なんでこんなめんどくさいことしたかといえば、キットを組み立てたりマルチマイキングするのが手間なのと、ロックのドラムを叩くのは相当うるさいので、せめて一個一個で分散しようかと。その分録音時間が6倍になったので、うるさい期間が長かったかもしれない。
“Loft & Found” や “あかりをつけたら” は小さい音で、キットで叩いてるので、違った感じになった。できればいいドラマーにお願いもしたいが、僕の気まぐれに巻き込むのも難しく(そしてドラムが好きだから)、当分は自分でこうやって作っていきます。
ちなみに “FLAT FIVE & talkin’ brother” の “つばめ” と “かたつむり” は、Blinking と同じやり方です。”Rio” も。
ビートなしの音楽も好きなのだけど、今作ってる “ダイナみっき” では、ドラムじゃないドラムをやろうと思っていて、床を踏んだり壁を叩いたり、コロナの鬱憤を晴らすトラックになりそうです。他人には迷惑をかけない時間帯にて。
コーヒーを計量スプーンに入れてミルに入れる。ハンドルをひたすら回す。日課だ。
うちのミルは超小型で一杯分しか入らないが、とても精巧で挽き具合も小気味いい。
流石は燕三条の逸品。その鏡面仕上げもたまらない。
だが口が小さい。
いつも
スプーンから
ポロポロポロ
ポ
ロ
豆が溢れるのだ。
それとどう折り合いをつけるかが、毎度の悩みだった。
今年になって、さる豆屋さんから珈琲の手引きを送ってもらった。
目から
鱗が
落ち
た。
心得の一つ、重さを測る。
以来僕は、このミルをハカリに載せた状態を0gとし、正確な量を袋から流し込んで挽き、それを二回繰り返している。計量スプーンは使わない。
もう一つの心得と共にこれを実践し、格段に後味のいい珈琲を淹れることができるようになった。
方法は自分なりだが、根っこを知れるのはとてもありがたいことだ。
だが豆を流し込むのは容易ではない。
いつも袋から
ポロポロポ
ロ
ポロ
豆が溢れ
るのだ。
日によっては寧ろ前より多くなったこぼれ豆とどう付き合うかが、
切実な課題になりつつあった。
僕はいくつか好きな珈琲屋さんから豆を通販で買っている。
それぞれの豆の美味しさとは別に、パッケージにも個性があり、優劣付け難い。
が、豆の流し込みやすさとキレの良さという意味では、グラム量りを教えてくれた当の店のものがダントツであり、それは読書珈琲リチルさんの袋だ。
また、ここの豆袋はかっこいい。ひとつひとつに古い本の装丁を感じるのだ。
実際僕はここの袋を、用途がわからぬまま、空になっても集めている。
(絵が面白いから残している袋もある。どのお店かはご想像にお任せします)
今はリチルさんの豆も切れてしまい、また買うと思うのだけれど、
ふと、計量カップもハカリも使わない方法はないか、と考えてみた。
二杯分の重さを、器で量ってみる。それ以降は、毎回その器に入れればいいじゃないか。
計量スプーンと原理は同じだが、より精度も高まる。
そして
このティアドロップ型の器の、摺り切りがちょうど二杯分だった。
世界はよくできていた。
…さて…
ここからどうすればいいのだ。
まさか計量スプーンに移して入れるわけにはいかない。
どうなったかは、後日写真と共にお知らせしたいと思う。
気温乱高下。
風は強い。
人前では演奏できないが – と勝手に決めたのだが – 少ないながらも練習は続けている。
もしいつか、またパフォーマンスできる日がくれば、それは以前よりよくなっている、と思う。
いい加減そろそろ、実力というものが欲しい。一生手に入らないものは、たくさんあるとしても。
自分がやろうと思っていたことが、ちゃんとできるように、そうでなくっちゃね。
汚染水は途方もない問題で
黙ったり煙や金をまいて
逃げたいのは政府や広報の人達だけじゃない
だけど難しいからこそ
ごまかさずに答えを見つけられるように
ちゃんと報道し
ちゃんと考えさせてほしい
うやむやに海に流し
ゆるキャラ作らせるような国に
オリンピックの資格なんてないでしょう
汚染水は完全にブロックしてると言い張って
招致したのだし
その名の通り
東京に電力を送るために
はるばる福島に建てたのだから
そして津波による電源喪失の可能性を
事前に指摘されたとき
それはあり得ないと
対策を怠った人物が
再度 再度 再度
裸の王様になろうとしているのだから
卯月新月
ひさしぶりに
よくわからない 詩をかいたので
ファンクにしました。
まずは詩を こちら に掲載します。
現在、ベースと声だけのトラックがあって
音を足すかは考え中ですが
このまま聴きたい人いますか?
と虚空に問うてみる
ミャンマーへ、祈りに代えて|別所隆弘 / Takahiro Bessho
面識はありませんが、湖や航空機、空、人物…素晴らしい写真を撮られる方です。
人々の眼差しの凛々しさ、星空、無数のバルーン、市場。
最後に一つだけ、付け加えさせてください。どのような正義でも標榜可能ですし、正義とは単なる価値観の差でしかないというのが僕の信条です。でも、一つだけ。子どもを銃で打つ集団があるとするならば、その集団の掲げる如何なる言説も、純粋な悪であると僕は言います。それは悪なんです。
種
を蒔いて
しばらく経ったあと
時間を巻き戻したいと思う
それは叶わない
一週間後に撒いた
より元気な個体のペースに
合わせてくれないかと
願ったりしてみるのだけど
一度スイッチが入ったら
時間は止められない
止まっていた筈の時間は
ゆっくりも速くも いくらでも
可変できそうなものだけど
どうやら種はそうはならないようだ
起動装置だけがある
戻りはしない
Play ボタンだけ
どんなニュースよりも速く瞬きすれば
現実が見えるかもしれない
サブリミナルに隠された意図も
見破れるかもしれない
自分の好きなタイムで瞬きすれば
自分のみたい世界をみれるかもしれない
何にも煽られず ローファイな世界で
必要なものは 自分できめる
どっちもあり
なんだろうな
本来
Apple Music で歌詞表示できるようになりました。
リアルタイム表示はもう少し待っててくださいね。
これから綴るのは、この曲について思うこと、のいくつかです。
どうしてぼくらはこんなに
ニュースに左右されるんだろう。
朝から晩まで、画面や紙上でパフォームするニュース。
あるものは煽り、あるものはそうでもない。
あるときは魅力的、あるいはそうでもない。
誰かを礼賛し、貶め、
夢中にさせ、無関心にさせる。
何かの本質に訴え、違う解をチラ見せ、
希望と向かうべき道を見せ、抗えなくする。
そんなもの、どうでもいいじゃないか、
とも思う。少なくとも僕みたいな人間は。
しかし、そう思う僕も含め、みんないつもニュースに踊らされている。
報道というのはたぶん、人類が生まれたときから続いている。
仲間を引き寄せるために、身を守るため、族を形成するため、権力を守るために。
マスメディアと逆の存在に見えた SNS にもすでに大量の広告が投下されているし、
そうでなくても、投稿する一人一人が、すでにニュースを担っている。
そして、書く人も読む人も、右往左往しつづける。
観測気球を飛ばしてるつもりで風に飛ばされてる。
ゴーグルの枠の外に大事なものがあることを忘れてる。
柱につかまっているつもりが柱ごと動いてる。
一方で、ニュースとは単なる情報ではないとも思う
試作ジャケットのひとつ
ぼくら自身もニュースみたいなもので
この人の言うことならと誰かをフォローしたり
逆に口伝えで出来たイメージとかそんなんが一人歩きしたり
現れては連鎖し 迷惑扱いされ
攻撃しあい 感動し 消えていく
物を買わされ 自発的に志願させられ
実際ニュースがなんであるかは
よくわからない
が
水に水が引き寄せられるように
僕らに、情報としての素子が沢山あれば(あるはずだ)
それは毎日、この瞬間にも流れる情報に反応してしまうのだろう。
音楽にもニュースの側面がたくさんある、あったと思う
レコードで聴いて憧れた言葉、解体してみたらどうだろう。
フロンティアの意味もドライブ・マイ・カーの意味も、変わりつつある。
君を失う、という意味もだ。
ひとりひとりが目を開ければよかった時代から、
目を閉じないと視覚が焼けつくような時代になった。
スクリーンセーバーが必要なのは画面じゃなくなって、
僕らの脳のシルバースクリーンだ。
だから、結局のところ、つきつめることはできない。
光がブラックアウトするのか、闇がホワイトアウトするのか、
その間を瞬きながら生きるのが僕らだろうし、
これからも騙し合いは続くだろう。
どうすれば感じとれる?
誰かがどこかに書いていた。四次元の次にあるのは、「情緒」だという。
たしか、谷口江里也さんだったと思うが、どの本か思い出せない。
情緒と情報、どういうかんけいなんだろう。
どういうかんけい、って、身も蓋もないけれど、
きになってしまう、そいうこと。
てふてふが渡る。
誰かのバタフライギター
が。