1は2より大きい

とっくに読了している暉峻 淑子『豊かさの条件』から備忘録メモ。

タイトルは好きじゃないが、中身はテーマも視点も多岐に渡り、すごくインスパイアしてくれた。

引用の引用だが
「管理されてばかりでそだつと、何か都合がわるいことがおこったら、それは管理しているものの責任であって自分の責任でないとかんがえる人間になってしまいます。」
(松田道雄『自由を子どもに』)
p.70

日本なら、さしずめ教育効果があがっていないとばかりに、浮かぬ顔をした先生が、いつも正答しそうな子に、「ハイ、××さん」と正解を言わせ、「ハイ、その通り」と満足するところだろう。
—ベルリンの小学校でのユニークな「1について」という授業風景との対比
p.74

「持てば持つほどあなた自身はなくなる」
ー時間と行動の制約の代替作用としてモノを買おうとすることについて
p.121

憎しみをあおるための、やらせ事件もいくつも仕組まれた。
ーユーゴスラビアの内戦について
p.140

ピンハネされないように知恵比べである。知恵があればケンカしないですむ。
ー難民への援助が、国や組織を通すと、本当に困っている人のところには満足に届かないことについて
p.150

他にも、山ほどあるが。

レポート通りに生きないために

いいなりになるのはやめよう

すべて、昨年夏のナイ・レポートのいいなりになって喜ぶヘッド
恥ずかしい

シナリオ通り
ああはなりたくない

昔、やのまことさんから聴いたことに
自分の中にアフリカを持つというのがある

リズムをinternalizeするということ

火が、マッチから棕櫚や松に移るとき
何が起こるだろう

移したとしても、中で燃えている

そう、自己責任

かもしれない

それでも

自分が燃えるために
内を灯そう

きいたもの かいたもの
色がかわってくるように

おうどうとほこり

世界は王国だけじゃない

王様がいる世界なんてお伽噺だけのこと
…でもないけれども

少なくともこの国には王様はいない
いや、随分長いこと、日本に「王」は居なかった気がするのだが
額田王とか、そういう

ちがうか
しかしなんで、日本語を話すぼくらでもこれほど「王」という言葉が身近なのだ

世界は王を求めているのだろうか?

宮崎駿の「風立ちぬ」はまだ観ていないけれども
彼の作品は大人になって、いろいろな見方が出来ると判ってから
好きになった

子供の頃は「カリオストロの城」ぐらいしかピンと来なかった
「風の谷のナウシカ」は惹かれたけれども意味が分からなかった
他は、画がかわいすぎたのか、ヒットしすぎてたのか、敬遠した

今では、原画スタッフで関わった「空飛ぶゆうれい船」から
「未来少年コナン」からルパンの「死の翼アルバトロス」にしても
「ハウルの動く城」にしてもとても深いものだとわかるけれども(遅いか)

しかし中でも一番強烈なのが漫画版の「ナウシカ」で
この後半部の展開は現在露わになりつつある実世界の枠組みに
恐ろしいほどに迫っていると思う

そこでは幾人かの「王」が登場する

森の人の王、エフタルの王、トルメキアの王、土鬼の王
そして蟲の王

無垢を意味する巨神兵の「オーマ」も(「オーム」との類音だけでなしに)
王を想起させる

まぁ、なんで宮崎作品では重要な配役がことごとく王子や王女ばかりなのかと
そういう疑問もあるのだ
民衆の殆どは、王家ではないのに… なんして、これで支持を集めてるの? ってやつだ

おれらって、届かない権力者に憧れて、結局支持するの?
みたいな

ともあれ
彼ら、彼女らは「誇り高い」とされる

「誇り高き」「気高き」という形容詞が、たとえ争う敵同士であっても共振させ
結びつけるという鍵にはなっているようだ

ふぅん

たぶん
それには同意なので
無理矢理理由の一つを掘り出せば

おれらって、自分の王であるべきなんだよな
現実の身分に関わらず
…ってことなんかな

与えられた生を最大限に全うする
それって多分、自分に対する王道なんだろうな
と思う

社会的には「誇り」って何かという大きなトラップがあって
だったら軍事力を増強すればいいのか、だったら周りをサゲればいいのか
カネ撒いて嘘をついて目隠しイベント呼べばいいのかとなりがちだけれども

ボロボロの中でも誇りを持つ
時にはボロをさらけ出すことが
実は誇りなんじゃないかなと

そんなこと思う
2013のあきである

なりはじょうじょう

…堅いというか当たり前というか
世を憂うことばかり書いてはいるが

楽器の鳴りは上々である。

FもWも、LもRもいい音してる。

あきはいいなぁ。

Fbassに関していえば、やっぱボルトオンでありながらスルーネックみたいなボディが
ものすごくこの響きに影響してるのだろう。

カナディアンメイプルとアルダーの一体感がたまらない。これ、ほんとによくできた楽器だと思う。
アルダーのオイルフィニッシュなんて他にない。

Wに関しては、カラダで鳴るのだなとほんとに思うこのごろ。

むかしは、イメージの王国に身体の一部が最短距離で連れて行ってくれること、
それを一番に考えてグルーヴを作っていたけれども、

いまは、それを身体で再投影することが大事なんだなと思っている。

そう、世界は王国だけじゃないんだ、とも。

要らないバナーナ

ふとCartoon Networkで「裸の王様」を観た。
いつのバージョンかわからないが、「おさるのジョージ」みたいなテイストの画とテンポで、
偽仕立ての二人組が冒頭からかなりワル、すっ飛ばしていた。

劇中、見えない生地や服を「…言葉に表せないほど…すばらしい」と誉め称えて作り笑いをする宮廷や街の人々は、
新幹線に乗っては「今こそ原発推進に舵を切れ」という雑誌の大見出しに「…そう…かもなあ」と内心うなづきかけている極東のスーツメンたちにとても似ている気がした。

強迫観念、同調意識、上昇志向。そして自主規制。
雑誌は、たとえ購読させなくても、見出しやポスターだけでも「チラ見」効果を出してしまう。
だからこそ、大元は莫大なカネをかけて、駅の柱や廊下にもポスターを貼り出している。
それが、ある程度のカネ(そして経費)をかけて移動している人々を集中的に狙っている事。
とても判りやすい。そしてとても狡猾だと思う。

それはそうと、Cartoonに戻ると
裸であることを少女に暴露された後も、人間の裸は美しいものだと開き直り、歩いて行く大臣と王。
迷惑をかけた元仕立て屋へのフォローも忘れない。
なかなかやるなと思った。

もじのふるさと

シリアをミサイル攻撃するのが良いなんて思っているのは
ごく一部の人間だと思うのだがな。

普通に生きていれば、これまでどれだけの戦争が
でたらめな理由で起こされて来たかぐらい、わかるだろう、というのが
僕の実感だ。

ごく一部の人間がメディアを操作して
怪しい「正義」と「最優先事項」を作り上げ
多くの人を殺戮し、大儲けをする、或は権益を得る。

そんな世の中は、もう沢山だ。
と、思わないのか?

これに対して疑問も呈することのできないメディアなら、
僕らのインターフェイスとしてふさわしくない。

フェニキア文字が生まれた地、シリア。

ことばの故郷に火をかけて、よく平気でいられるな。

閑をもつこと

第一次大戦時のイギリス外相/鳥類学者 エドワード・グレイによる、人間が幸福であるための四つの条件

第一、〜
第二、〜
第三、〜
第四、閑を持つ事。

「閑」とは「暇」のこと。原文ではなんなのか、まだわからないが

太平洋戦争への point of no return(引き返せない地点)であったヒトラー、ムッソリーニとの三国同盟を日本が結んだ時、数少ない反対派であった、米内光政の断片語録

「バスに乗り遅れるなというが、故障しそうなバスには乗り遅れた方がよろしい」

…当時の流行語が「バスに乗り遅れるな」

同じ言葉がここ数年流れていたよ。TPPのために。

昭和14年9月、ロンドンから帰国した海軍少佐、出本鹿之助は神戸港で新聞記者に取り囲まれ、欧州戦争の成り行きの意見を求められてこう言う。

「今のところドイツが優勢だけど、やがてイギリスの底力がものを言い出す。〜 戦争が三年、四年と長引くようだと、ドイツの力が尽きて英国の勝利に終わるのではないだろうか」

この言葉はその日の神戸新聞夕刊によりセンセーショナルに取り上げられ、彼は見送りに来た旧友にこう告げられたという。

「でえやん。あんた新聞記者にえらいこと言うたなあ」
「今の日本で、ヒトラーの悪口言うたり、ドイツの勝利を疑うようなことを言うたら身が危ないんやで。注意せなあかんがな」

ギリシャの歴史家、ポリュピオスによると

物事が宙ぶらりんの状態で延々と続くのが人の魂をいちばん参らせる。
その状態がどっちかへ決した時、人は大変な気持ちよさを味わうのだが、もしそれが国の指導者に伝染すると、その国は存亡の危機に瀕する。

カルタゴはローマの挑発に耐えかねて暴発し、亡びた。

そうである。

以上、阿川弘之「大人の見識」を読んでの備忘録。なかなかヒントに溢れている。

何処へ行っても

お盆中書けなかった日記のひとつ

リアルタイムではないのだけど
大好きだったこの曲
このアルバム「ひまつぶし」

CD引っ張り出してまた聴いてる
最高

ご冥福をお祈りします
山口冨士夫さん

– 追伸 –

この曲も好きなのだけど、これに続く「からかわないで」最後の詞が突き刺さって

こんなマンガな世の中で
死ぬ気になんてなれやしない

blue grey

「シカタガナイ」

この言葉を自分の辞書から追放しない限り、日本人はより良い暮らしを、より自由な人生を手に入れることはないだろう  ―

カレル・ヴァン・ウォルフレン の主張。

彼は311のずっと前、1990年代(あるいは80年代)からこのことをずっと言ってきている。

今更だか、今だからか、物凄くこのことが気になっている。

これは、彼が外国人だから言えることだろうか?

お盆のあたりからこのことを意識している。おかげでブログの更新が滞ってしまった、というのは半分嘘にしても。

というかこれは自分にとっても、とてつもなくハードルが高い。「仕方がない」「しゃあない」と思わずに、オレはこれまで生きてこれただろうか?

ウォルフレンは、この思考がある種「成熟した証拠」とされる日本社会が、いかに上手に市民の疑問や政治的行動を初期段階で抑制してきたかを説いている。

自分の周りにある「リアリティ」と自分が感じる「リアリティ」が整合しない状態が続くと、やがて人は状況にはまりこんでしまう。ここで生まれる言葉が「シカタガナイ」だという。

たとえば、矛盾だらけで突っ込みどころ満載のニュースが毎日毎日報道され、それが一~二年もすればすっかり何もなかったように忘れ去られてしまう。また、それを待っていたかのように、おかしな施策が「肯定」されてしまう。

あれ、おかしいぞ、と感じていた人も、やがてこの言葉と共に、おとなしくなっていく。

「シカタガナイ」

これは危ない。とてつもなく危ない。直感的にもそう思う。

一方で、自分が「しゃあないやろ」と言って物事を切り替えながら生きてきた経験ってなんだろう。
つまらないことなんだろうか。或いは「シカタガナイ」には、昇華と自粛のように、いくつか種類があるのだろうか。

わからない。こう思うこと自体が、自分がトラップにはまりこんでいる証拠なんだろうか。

ひとつだけ感じたことがある。これは、ある種の灰色の青、グレーをまとったブルーみたいなものだ。

a kind of blue grey

これがブルーズだなんて言いたくない。だけどある意味これが僕らが向き合うべき、ブルーズなのかもしれない。

namba

5月に蒔いた5種の種、どれも元気に育ち

バジルなどは何度もジェノベーゼを食べられるまでになっている。

次はシソ、トマト、その次はトウモロコシを作りたいものだ。

子供のころ、田舎では「ナンバ」といって、

夏に訪れる度に両手一杯穫って、食べさせてもらっていた。

祖父母のいなくなった田舎に帰らなくなって久しいが、

あの頃は、遺伝子組替玉蜀黍なんて、考えもしなかった。

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