冷え切った元旦の朝
陽射しを頼りに橋に辿り着くと
生まれたての光。
あまりの眩しさに
声をかけてくれた人の顔も
しばらくわからず。
この世の光って
すべては太陽を分け合っているのだった
そう思い出した朝でした。
2015年
世の中は暗かったけど
ぼくの音楽活動としては忘れえぬ年でした
出会えた人々の輝きには驚くばかり
名前を挙げればきりがない
一緒にできて、俺でいいの? と思いつつも
とてつもなくいい時間を過ごせた人も
ほんの短い間だけど、ちょっとの瞬間で
まだまだこんなことができるだろうなとわかった人も
この遊びが一緒にしたいんだろうな、と
だったらやろうよ、となれた人も
一方で「もう、俺は観てるだけでいいですよ」と本気で思った人もいて
「え、なんでです?」と言ってくれたけど
それはほんとに、何も足りなくないと感じたからで
ミュージシャン、共演するばかりが能じゃない、とも思ったり
まぁ、縁があれば(というか、答えがみつかれば)ね
色々な、自分の外殻をひっぱって、割るか伸ばすかしてくれた人々のおかげで
久しぶりにコーラスもやったし、初めてアコースティックギターも弾いたし
人前ではメガネをかけないようにしていたのに逆に思いっきりかけてたし
ペダルボードなんて生まれて初めて使ってみた
おかげで少なくとも 意識の上では外殻が大きくなった
中身が埋まるかは これからだな
本職の低音に関しては
ろくに練習時間もとれなかったが 人前で学ぶことと
ああこうやってたんだ こうやりたかったんだと
思い出すことばかりで
自分の何割かも まだできていない
できてないことに気づけただけでも よしとするかな
一方
今年やり残したことも たくさんあって
Daveとも
Epizoとも
ヒロとも
一緒に演奏できなかったし
工藤さんとも一度しかできなかった
日の巡り合わせとはいえ己のブッキング能力の無さにはまいる
数年前からのアルバムセッションの話も実現せぬまま
待ち切れず長い散歩に出てしまった仲間もいる
自分の曲も
相変わらず 大量の作りかけのトランク
来年はどんな一年になるだろう
瞬発力がないのに 慣れてしまっているが
深い海から そろそろ顔を出すかな だれかさん
今年最後のライヴは赤い靴とDadaDのクリスマスパーティー、月見ル君想フにて。
昨年、赤い靴に呼んでもらって同じ場所で演奏して、その後、洵平どん&亜希子どんとはツアーやフェス、recなどでいろいろ時間を過ごせて、いくら感謝してもしきれません。
そしてシゲちゃんケイティも、全身で音楽してる&スーパー面白いピープルだった!
たぶん書いても書ききれないので、年が変わる前に、あんがとさん。
12.18 ohashiTrio & THE PRETAPORTERS に向けた最終リハーサル。
あと10日。
特別な音楽の夜になるでしょう。
冬の風は
ともすれば地球上、3度くらいはすぐに動かしてしまう。
温度と共に、角度。北風強し。
大事にしてたもの、なんだっけ、飛んでったよ、って具合。
人を我がものにするのっていやだな。
お前のものじゃないし。あいつ。
でも
さびしいんだろうな。
どうにも もやもやする夜が続き
それは今まで開かなかった扉が
かんたんにひらく合図だったりする
なにも心配は、いらないんだ。
そんな、ふぁるせっと。
…とは flexlife の曲の名前。
ええ曲なんですよ。
昨夜やった「テープ」を聴きながら、これを書いている。
1st setの最後、リエンヌの気が許すかぎりどんどん転調していって、
結局6回も上がってすごい高い声になってたんだな。
で、それだけ盛り上がるにはやっぱ訳があって、
曲の持つ力、なんだろな。
年に一回の飛び入りとはいえ
佐藤大ちゃんとリズム組むのはなんだかんだ10年以上になるし
アンケンどんはいつ一緒にやっても、なんとも安心する - これってコンロスならではのキャラなのだろうか?
大倉さんは当時メインだったウーリツァーやNordからアコギになってるけど
自分もアコギに近づいてるせいもあってか、すごくのめり込みやすい。
たぶん、昔以上に。
サウンドの景色としても、この曲は
Red Zepやクイーンの良さもあるけど、Joni Mitchell。やっぱええんよね。
でもこのメンバーで真面目なジョニ好きサウンドになるわけがなく、
魔性なジョニ。ジョニー・ウィンターの帽子かぶったジョニ。
なんのこっちゃ。
本日は横浜行きたかったけど、足止めくらい。
また、会おうね。また音だそうね。
サウンドチェック中のふたり
公式ギャラリー から拝借しました
おまけに、昔、手伝ってたころの写真
これは町田の「地中音波」だったかな
生を受けたこの世界に、昨今この情勢、警戒を抱いてはいるが
それでも自分自身はポジティブである。
やれることをやる、しかないのだ。
- 音楽を人と共有できればそれが一番だ -
- 鳴り止まないことが大切だ -
そういう人たちの意思もわかる。それが完全に解決策とも思わない。
(音楽そのものを否定する人がいる限り。そして、その気持ちも決してありえなくはない限り)
が、自分はやれることを、磨くのだ。
—
何しろ、僕自身、昔は音楽がすべてではなかった。
かなり小さな頃から音楽と共に生きてはいたが、
それでも自我に目覚めた頃から中学のある時期までは、
音楽以外のことの方が心を大半を占めていた。
自分が何かに没頭できるなら、無音でも、よかったのだ。
それがあるとき、FMから流れたポップスにスライドしたけれども
その頃は、まさか自分がライヴをしたり、ジャズをやったり、
自分が受け付けなかったロケンロールやフォークを
好きになるとも、これっぽっちも思ってもいなかった。
人は、変わるのだ。
—
だから、人には、いろいろな可能性がある。
—
音楽を、また様々な国の文化を好きになり、
日本のことばも好きであり続け、
楽器を続けている以上、これからも探り、少しでも自分がいい「 」になれるようにと思う。
—
折に触れて、人に言われたことが人生の楔にもなり、傷にもなりつつも
それを溶かし、乗り越えることが
できると思っている。
ひねくれた僕はたとえ音楽でも「分かち合いましょう」なんて言えないが
それでも、そこにいる人たちと、何かを感じることができると思っている。
よい「」であれば。
人の役割のひとつは、アンテナ - 触媒だから。
パリでの事件
3日以上たっても、言葉にならない。
こういうとき報道は迅速に、とか、日本のマスコミはどうしてこんなに遅いのだ、とか
その一方で、さっさと空爆を決め込み実行してしまうフランス政府って、なんなんだ? とか
音楽の会場で起こったことでも、あり
そもそも音楽を全く禁じ、標的としての人種識別としてしか利用しないひとびとがいる、という
それだけでも絶望させる世界観
13日の金曜日の出来事であり
キリスト教国に対する敵意としては出来すぎている感あり
(自分はキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、到底実感はし得ない、想像でしかない)
さらにはオスマン・トルコ陥落の日から97年目でもあるという。*
—
無差別な悪意は価値観をどこまでも破壊してしまう。または
価値観がどこまでも破壊された結果の無差別な悪意。
対話を完全に拒絶したレベルの状態
信じるものが根本的に異なる
それは「戦い」を見事に正当化してしまう。
突如として命を絶たれた人々、その周囲の人々、「街」に対していくら哀悼しても足りぬ思いと
その加害者はいったい誰なのか、という果てしない疑惑
既にここ10数年で明らかになったように、テロ(と呼ばれる無差別犯罪)は軍事力では抑えることはできない。
戦場ではなく、はっきりとした敵味方さえ存在しない混沌の中で起こる「テロリズム」。
混沌こそが、ごく普通の人間の暮らし。
それを壊す理由が、果てしなく拡大再生産される、それが「対テロ戦争」。
何も学ばず、互いに盲目になる指導者たち。
莫大な特需を受ける軍事産業。「敵」も「味方」もお客さん。
それが無限の「成長分野」だとでも思っている?
犠牲になるのは、いつも一般の人々。
なら、兵士なら犠牲になってもいいのか?
代々兵士の家もあれば、志願した人、経済上その他の理由でやむなく入隊した人もいるだろう。
自爆した人も、自爆攻撃を正当化され、叩き込まれた若者たちだろう。
三色旗をアイコンに重ねる人、それを咎める人。
分断や煽動に踊らされるまいと、何も言えなくなる人。
まともに考え出せば、果てしない矛盾と迷路。
揚げ足を取りあう人々を上から眺めて
声の大きな者が、待ってましたと勇ましく語る。
戦いを美化するために、ここぞと腕をふるう広報。
武器を取る者。いや、気づけば武器を取り、操縦席にいる者。
その先は、地獄。
どの言語であっても、それに値するもの。
—
ひとつ、いい絵本を紹介したい。
スズキコージ「サルビルサ」
出版社へのリンクが見つからなかったので、探してみてください。
ひとつの大きな答えが、そこにあるから。
* 第一次大戦後の英仏伊によるイスタンブール占領。1918/11/13 ~ 1923/9/23