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これから綴るのは、この曲について思うこと、のいくつかです。
どうしてぼくらはこんなに
ニュースに左右されるんだろう。
朝から晩まで、画面や紙上でパフォームするニュース。
あるものは煽り、あるものはそうでもない。
あるときは魅力的、あるいはそうでもない。
誰かを礼賛し、貶め、
夢中にさせ、無関心にさせる。
何かの本質に訴え、違う解をチラ見せ、
希望と向かうべき道を見せ、抗えなくする。
そんなもの、どうでもいいじゃないか、
とも思う。少なくとも僕みたいな人間は。
しかし、そう思う僕も含め、みんないつもニュースに踊らされている。
報道というのはたぶん、人類が生まれたときから続いている。
仲間を引き寄せるために、身を守るため、族を形成するため、権力を守るために。
マスメディアと逆の存在に見えた SNS にもすでに大量の広告が投下されているし、
そうでなくても、投稿する一人一人が、すでにニュースを担っている。
そして、書く人も読む人も、右往左往しつづける。
観測気球を飛ばしてるつもりで風に飛ばされてる。
ゴーグルの枠の外に大事なものがあることを忘れてる。
柱につかまっているつもりが柱ごと動いてる。
一方で、ニュースとは単なる情報ではないとも思う
試作ジャケットのひとつ
ぼくら自身もニュースみたいなもので
この人の言うことならと誰かをフォローしたり
逆に口伝えで出来たイメージとかそんなんが一人歩きしたり
現れては連鎖し 迷惑扱いされ
攻撃しあい 感動し 消えていく
物を買わされ 自発的に志願させられ
実際ニュースがなんであるかは
よくわからない
が
水に水が引き寄せられるように
僕らに、情報としての素子が沢山あれば(あるはずだ)
それは毎日、この瞬間にも流れる情報に反応してしまうのだろう。
音楽にもニュースの側面がたくさんある、あったと思う
レコードで聴いて憧れた言葉、解体してみたらどうだろう。
フロンティアの意味もドライブ・マイ・カーの意味も、変わりつつある。
君を失う、という意味もだ。
ひとりひとりが目を開ければよかった時代から、
目を閉じないと視覚が焼けつくような時代になった。
スクリーンセーバーが必要なのは画面じゃなくなって、
僕らの脳のシルバースクリーンだ。
だから、結局のところ、つきつめることはできない。
光がブラックアウトするのか、闇がホワイトアウトするのか、
その間を瞬きながら生きるのが僕らだろうし、
これからも騙し合いは続くだろう。
どうすれば感じとれる?
誰かがどこかに書いていた。四次元の次にあるのは、「情緒」だという。
たしか、谷口江里也さんだったと思うが、どの本か思い出せない。
情緒と情報、どういうかんけいなんだろう。
どういうかんけい、って、身も蓋もないけれど、
きになってしまう、そいうこと。
てふてふが渡る。
誰かのバタフライギター
が。