投稿者: ray

ホールはひろい 弐

ホールはひろい の続きである。

1.29にNHK大阪ホールで演奏していた内容は収録されていて、配信される。

前回11.19、東京での公演も収録され、こちらは先に確認に観せてもらった。
とてもいいコンサートだったな、と改めて思いつつ – 自分の痩せっぷりには改めてびびったが – 次のアルバムに入るようですよ。

今回は、また違う感じのコンサートになったかな。

– と書いているうちに、実はもう配信されていて、本日いっぱいまでアーカイブです。
トリオどんの唄が素晴らしいですよ。僕は髪がだいぶ伸びて、見た目はこっちの方がサマになってたかな。


舞台は深い。そこに辿り着く多くのもの。
例えばこれを車の部品と完成形に見ることもできるだろう。
さまざまな商品の発表会に投影することもできるだろう。

だが、少し違う。いやだいぶ、違う。

演奏舞台はシステマティックにもできるが、それだけなら全部同期にすればいい。
口パクでもメロダインでもホログラフィでも VR でもなんでも使えばいい。

しかし、人間がやることとテクノロジー、決まりごとと決まってないことが同居する舞台。
それは、本当の舞台の姿だと、僕は思う。

そしてそれをやっているのが、大橋トリオ というアーティストだ。
彼は楽器演奏の才人にして、声も天性、作編曲もマエストロという、魔法使いのような人であり、まぁ書ききれないが、なおかつ人間臭さ、ユルさも持っている。

ここ何年か、この人の舞台に加わることができ、とても光栄、かつラッキーであった。
音楽をこんな面白いバランスで続けているアーティストは、本当に貴重です。
これからも、彼の活躍を信じ(るまでもない)、遠くからではあるが応援したいと思う。


ここからはご挨拶になります。

足掛け二年、しかし体感時間はあっという間だったツアーを無事終えることができました。
感染対策や振替公演、難しいやりくりを実行してくださったすべての関係者、メンバー、
そして、こういう状況にも関わらず、安全に気をつけてご覧くださったオーディエンスの皆さんに、改めて深く感謝申し上げます。

ここで、ある程度の時間をとって今後を考えたかったのですが、
そうもいかない事情もあり、結論を出すことにいたしました。

僕はこのツアーを持って、大橋トリオチームでの演奏活動から退きます。


このコロナ禍に対する僕の警戒レベルは、おそらく常人の倍以上。
陽性確認者が減る一方で死亡者が増加する? という不可解な状況で、情報が錯綜する中、これからがますます読みにくくなる。

そんな中、長距離を跨いでの生演奏活動を続けることに、東海地方在住の僕にはさまざまな面で無理があります。
本来ならば、ここは関東、関西どちらにも移動しやすい上、
また僕の観点では、情報過多の都会から距離を置きつつ創作・発信していく方が面白く、距離をさほどハンデには感じていないのですが、生演奏はリモートとは違います。
発信先がリモートでも、発信元は同じ場所にいる必要が(現在の技術ではまだ)あります。

また、特に ohashiTrio band のようなバンドマジックを生む為には、ディスタンスはあまりいつまでも有効には働かないことも、わかっています。

東京圏の音楽家たちがこの状況で頑張っているのも見聞きしているし、最近は実演その他も活発化しているようにも思える。それは、彼らの判断です。
彼らとして最大限の注意をし、仲間を大切にし、仕事と人生を大切にしている。もちろんガイドラインにも沿っています。

しかし、越境しながらこれをやるということは、僕一人の問題ではすまないことになります。もし感染を持ち込んだら。

そして医療はどこも、大変です。


音を作る、曲をつくる、詞を作る、それは引き続き、可能な限りやっていきます。
対外的にはともかく、自分の中では、それらは着実に育っています。

あるいは、単発のセッションはあるのかもしれない。
リモートのお仕事は歓迎します。

舞台の素晴らしさを改めて知った今、
それを自ら絶つことに虚脱感もあるのですが、
それも捉え方次第。The World is Mental, です。

もしかしたら何かで花が咲くかもしれない。
僕にはやりかけのことがあり、吸収したいことも、沢山ある。

そして、近年一番大きな、日本でも最高の音楽仕事であったチームを、
離れることにいたしました。

大橋くん、この縁を作ってくれた神谷くん、メンバー、
そしてここ5年余りの間に出会った
すべてのミュージシャン、スタッフ、トリオファンの皆さん、
本当にありがとうございました。

ごきげんよう。




ホールは屋根が高い。
奥が広い。
普段の部屋とこーんな違う世界。
味合わせてくれて
あんがとよ。
マスク越しでも
楽しんでくれれば
嬉しいな。

Thanks,
Ray

トロールの誕生

最近の睡眠の友は

「トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界」(冨原眞弓)という本だ。

ムーミン作者、トーヴェの背景に関する著述で

ほんわかしてるのかと思いきやとんでもなく

彼女の父母の世代からの、フィンランドとスウェーデンやロシア、
ナチスドイツ、その他の内外情勢と
風刺雑誌「ガルム」の筆頭漫画家としての活動から、ムーミン誕生を探るという
めちゃくちゃ難解な記録&考察となっている。

お気づきかもしれないが、この場合の睡眠の友というのは

心地よく眠れる

のではなく

難しすぎて眠くなる

ということである。

割と速読の自分が、この本は難解すぎて全く読み進めない。
何しろ、北欧の人文地理にも疎いので、次から次へと出てくる人名や地理名を
頭のテーブルに載せるだけでも大変だ。
(テーブル、というのは、揮発性メモリ = RAM みたいなもので、咀嚼する間にあくまで一時的に並べるという意味だ。理解する、という事はそもそも放棄している)

しかし凄まじいのは、トーヴェの母、シグネ(彼女も「ガルム」の筆頭漫画家だった)の時代の、フィンランド国内のさまざまな政治信条、イデオロギーの軋轢のすさまじさだ。*

隣国スウェーデンとの近親憎悪(にみえる)、母国語や、自国のアイデンティティを形成する「物語」を巡っての学生や政治家の運動などを読んでいると、学ぶことがいっぱいありそうな気がする。

アジアでも、要するに日本でも同じなんだよな。
そして、現在進行形でも。
これをやってる(やってきた)人が、世界中にはびっくりするほど沢山、いるっていうことだ。

詩人や芸術家がある勢力に利用されたり、あるいは逆に擦り寄ったり、
人間のあり方がどれだけ危うく、またどれだけ歪んでいるかも見てしまう。

つまり、単に文が難解なだけではなく、そのことに気が遠くなって、
眠るしかなくなるのだ。

まだまだ本の7章途中で、全部で20章あるので、いつ読み終わるのか、
その時に何か学んでいるのか、わからないのだが。

* あまりのことに、「凄まじサンドイッチ」してしまいました。悪い文の見本です。

すぎさる余韻も何もない

Apple Music で歌詞がリアルタイム表示されるので

人の曲を聴くときも、気になるところを見直したりする。

が、その時にはもう遅いのだ。

スクロールの彼方。

僕はこの設計、おかしいと思っている。

Music アプリの右肩に歌詞が表示されていくが

「今現在」が一番上で、過ぎ去った瞬間に消える。

余韻もへったくれもない。

聴いて、気になって、脳が「なんだっけ?」と思い

それから見るのだから、過ぎ去ったものも見えないとおかしい。

これ、天気予報も同じで、最近は雨雲レーダーも、1時間前まで見れるようになってるが、それまではすっごく不便だった。

考えてくれないかな。

渋谷 Room 関係の人だったか、ミュージックブランディングをやってる人の講義を、受けるともなく見たことがあって(もう12年ほど前か)、その人がとてもいいこと言ってて、

音は、その方向を見てない人も、振り向かせることができる。

そう、歌や朗読もそうだ。じゃ、振り向いた時に、何が残ってるのか。

かすみでいいから、余韻がほしい。クラウドなんだから。

鋼色の

長年好きになれなかったアーティストを、今頃になって突然、愛聴している。

そのリズム、その展開、その声。

どれをとっても自分の感覚と馴染まず、愛好家が多いだけに余計にピンとこなかった

Steely Dan

特に、BCM時代は猫も杓子も「聴いてて当然でしょ」みたいな
リファレンスアーティスト扱いされていたので、余計に嫌だった。

音のクリーンさとか、グルーヴの抑制された度合いとか、取ってつけたような Kicks(キメ)とか、
ヴォーカルのもっともらしさとか、なんとも、束縛を感じる音楽だった。自分にとって。

自分も stillbeat なんて、逆説的な名をつけているが、彼らのビートは止まっているように思えた。それって、最も遠い感覚だよな。失礼極まりないけど、ね。

人にとってはそれは Sting かもしれないし、受け取り方は、それぞれだろう。

多くの時間を共に過ごした大親友が Steely Dan の大ファンだったので、くる日もくる日も彼に、どこがどう凄いかを熱弁されては、流す、そんな具合だった。彼の事は今でも大好きだ。ギターも素晴らしいし。
まぁそれは別の話。

しかして、最近これが好きでしょうがないのだ。困った。

中でも2000年の “Two Against Nature” 最高すぎる。

その前も、Gaucho での “Glamour Profession” は昔から唯一、死ぬほど好きだったのだが。

なんか最近、ドナルド・フェイゲンの声に憧れている自分がいる。

コロナ禍で内省的になってるせいかな、とも思うのだが。
人は、変わって行く。


その後、過去作もスンバラしいであることがわかってきた。

“Pretzel Logic”, “Royal Scum”

深いね、プレイも最高やね。

というか、今までも受動的にせよ聴いた回数は相当なので、知ってる曲が多い。
嵌ってきた、ということさ。

もう坊やじゃないのさ。

いつまでやねん。


そして、好きじゃないアルバムの筆頭 “Aja” のラスト “Josie”
名曲、名演だ。チャック・レイニー、全開だ。

そういえば生で観てるんだよな、一度。
1996年の夏かなぁ MA郊外の Great Woods で。

この曲での、観客の盛り上がりはすごかったよ。
4曲目だった、なんて覚えてないけど。

ホールはひろい

ホールはどうしてホールというのだろう。

またつまらぬことを。だがこれが、気になりだすと少しも前に進めない。

鯖の骨の形が翼になるまでは。堀越二郎か。

だがこの際そんなことはいい。ホールは広い。

満員でも、席間隔を広げても、また、

リハーサル中に、スタッフ数人しかいなくても、どれもが広大だ。

天井高い。とてつもなく高い。

客席から舞台を見ると綺麗としか言いようがない。

舞台さんと照明さんが作り上げた物。そこに乗っかる者。

すごい世界。久しぶりにその場にいると、その⭐︎⭐︎さがわかる。

いや、わからない。ちっともわからない。離れればわからなくなるし、

近づけばまた、わからない。

距離

気づく、とだけ、しておく。


音楽を舞台で奏でる、あるいは、絞りだす、というのは

面白いものである。参加者一人として、どう面白いか、あえて説明しようとする。

それはとても自由だし、とても夢のようであるし、

とても、ただ、自然でもある。

それは己の足りない面もすべて曝け出してしまう。

後方にいたり、あるいはビットに入っている者は、

たとえ曝け出しても気づかれないことが多い。主役はそうはいかない。

すべてが、である。それゆえ主役は、やはり圧倒的に凄い世界にいる。

とはいえ後方のものでも、抜き打ち的に観られることがある。

その際、己がどんな状態かは、わかってしまう。

そんな面も含めて、舞台は怖い。だが面白い。

とてつもなく深い、穴のようだ。


hall と hole の語源がどうなのか、知らない(まだ調べていない)が、

多少なりとも関係があるのじゃないか、という気がする。

ホールは底無しの穴だ。そして、入って安心できる、暗闇と光の世界でもある。

穴そのものじゃないか。


つづく

many miles away

満月。霧。雪。曇り。

地域によって異なる空と地平。西へ走る。

水面対称の逢魔がとき。湖岸に想う。

流れてきたスーパートランプに聴き入る間も無く

エアコン爆奏。デフォッガーに左右を問いたくなる。


満月に合わせるともなく

詩を公開。詩っていうか詞ですが。

Blinking News

曲の形はできたけど

ゆっくり

つくってる。

また、旅が終わったらね。

天無邪気鬼

無邪気ってなんだろな、としばし考える午後。

来週…ミッション。準備。

天気。二転三転。これからどう転ぶか。すでにやりくりだけで体感重力がおかしくなってく。

だが、いい時間にしたいから、他の時間も、そのために、それとは違った姿でも。


そんなこんなで、今月は音源をリリースできそうにない。

だが。詞だけ公開しようかな、とも思っている。

なりゆき次第ですけどね。

おれい

SNS 投稿もやめ、全く何も宣伝していないにも関わらず

Rio” はこれまでより遥かに多くの人に聴いて貰えてるようで、嬉しいです。

誰かが気に入って、紹介してくれたのかもしれませんね。どうもありがとう。

今現在、2021年1月上弦の月の時点で聴き返して、唄はまだまだ良くなる余地はあれど、

曲と詞は自分の中でも特別だと確信しています。


あ…それから実はまだサボってて

歌詞をディストリビューターにアップしてません。

リアルタイムで見れればより楽しめると思うので、近々アップしますね。

それまでは、こちら をご覧ください。

あかりをつかさどるもの

空気の流れが激しいなぁ、いや、風が強いなぁ

景色が広いなぁ、山の上のハイウェイオアシスって壮観だなぁ

そんな夢(悪夢でなくてよい)を見ながら、壁の中で忙しく暮らしている。

Don’t Box Me In って曲、Coppola のサントラで Copeland がやってたな…と思い出して、そこからこの曲でコラボしている Stan Ridgway を聴き出した。
声質が面白い。コメディアンのような、TV 向きのような、なんというか。

彼がフロントマンだった Wall of Voodoo の live を数曲観る。思ったよりシンセサウンドだった(で、曲はピンとこなかった)が、ドラマーがオクタバン使ったりしてるし、Stewart との接点はそれ以前からあったのかな。逆もまた。

彼はハーモニカといい語り口調といい、ありそうでない感じなのがいい。
というか… キャラが面白い。

“You categorize this music? Does it have a name?”

“Hmm… I’m mostly just as confused as anyone else as to what to call it”

* 尚 Stu & Stan の Don’t Box Me In はなぜか Apple Music, Spotify で見つからない。日本で配信権がないのかもしれない。YouTube ででも探してください。珍しくマッチドグリップでスネアを叩く姿…

あった。


ワシントン D.C. では Amanda Gorman が素晴らしい朗読をしていた。

大統領になりたいと明言しての 5’30”

最後のリフレイン

there is always light

if only we’re brave enough to see it

if only we’re brave enough to be it

光をみる、光になる。ゆうき。


僕は しかして、ここ数年、光の意味を考え直している。

闇が光を輝かせる。門が音を響かせる。

と同時に

ダークな色がもてはやされたこの数年、これからは確実に反動がくるだろうな。

とも思う。きたるべき、光と高彩度の世界。

これらが現すもの。世界は二極なのか。

light と right はどうしてわかれるのだろう。

(興味あれば、一昨年書いた quiet storm / ohashiTrio の詞を読んでみてください)

あえて、自分は両方であろうとしている。

なれるのかな。


Amanda に戻る、途中、煌めいていたひかり

change our children’s birthright

こたえ、出てるね。

16日は?

あの後、破壊的に創造的かつ事務的、伝統的にして情緒的な土曜日を送った私は

未だに眠れないでいる。

「コアタイムは眠れない」といったのは誰だっただろう? 当時そんな言い回しが流行ってたのか?

まぁそんなことはさておき

やり方を踏まえれば、あれをやるのも悪くないな、みたいに思っている。

アレってなんだ? なんだろう。どうせ形にできるか分からないから、まだ黙っておくよ。

ただひとつ確かな願い。ブルーの RX-7 いつか欲しい。

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