すわってないで
動くはこに
乗り込んだら
そこはもう
ちがう座標
空も飛べば
カーステも鳴らせば
売り子もくれば
かいこも舞う
全ては
型値をかえて
偶然の餌を
たべてゆく
運良くいくつかを
つかんだ人も
この光には
音程には
留まれない
すわってないで
動くはこに
乗り込んだら
そこはもう
ちがう座標
空も飛べば
カーステも鳴らせば
売り子もくれば
かいこも舞う
全ては
型値をかえて
偶然の餌を
たべてゆく
運良くいくつかを
つかんだ人も
この光には
音程には
留まれない
フェリーで海を渡る。
6年数ヶ月ぶりの道だ。
志摩から伊勢へ、外宮から内宮へ。
幼い頃から恐らく何度も来ている伊勢、自覚して見るのは二度目、はっきりと見えたのは初めて、俺の年表はこんなもんか。
とある外国の老夫婦、感じの良い二人
石段の上では撮影できない事を知らず、カメラを構えようと。隣だったのでそれとなく知らせる。
日本の人だかりは内の約束事は知っていても、注意はしない国民性で、こういう時コミュニケートしないと変な誤解を生む。
この人達もカメラを降ろして、自分も正宮の前に立つ。
正面から見れないように降りている幕が、風で上がった。
a ma te ra su … ?
驚くあまり驚くこともできない。
女神達に囲まれて、甲賀へ走る黄色い車。
機械じゃなく目で観てもらえて、なんだかよかったな。
京都に哲学の道というのがあって
昔は近くに住んでいたのだが
度々歩いたとはいえ、特にそこで閃いた事も、思想が深まったという事もない。
こんな事を書くと罰当たりと思われるかもしれないが、
要はこちらの問題であり、僕にとっての哲学の道は他にあったのだなと、思う事にした。
今振り返ると、自分がインスピレーションを貰う、点火が行われる道は、確かにある。
これは、道そのものの特性もあるが、多分にその人の「好み」、言葉を変えればその人自体の「特性」だと思う。
僕にとって京都が特別な場所である事は変わりはないが、21C以降の人生を顧みるに
それは目黒川、駒沢通り、旧山手通りである。
割と大きな通りであるにも関わらず、人通りは少ない。
今日もWalking On The Moonを口ずさみながら家に向かうと
とある交差点、ビル越しに見えた月の反対側、巨大な人影が歩いていた。
ん、これのこと…?
“Giant steps are what you take, walking on the moon”
月明かりで、自分の影が途方も無く大きく伸びて、大股で歩いていくのである。
under the moonではあるが。
じゃぁ、と思う。
もし
月を
歩いたら
夜を照らすのは地球
ならば –
-実際、影を大きくしたのは月ではなく、丁度いい角度に存在した街灯なんだろうけどね-
懲りもせずひかりのこと
反射、吸収を忘れていた
マットとグロス
艶あり 艶けし
谷崎潤一郎は日本人はピカピカじゃないものが好きだ(った)と書いたが
今はどうだろう
人間においては反射しそうなものは
ガラスである眼
やや堅い爪
かつては黒く塗られた事もある歯
これらだろうか
きらり というやつだ
眼が輝くというが 同じガラス体なのにどうして 感情で
輝くだの 曇るだの
でもこれはほんとうだとすれば
どうやって??
眼の表面?涙の量?それとも瞳孔の?
多分原理はすぐわかるんだろうな わかる人には
「瞳はカメラ」だそうで
そんな曲誰か*歌ってたけど
ほんと、人間の作り出すものって、自分や自然界にあるものの
再構築なんだなぁ
—–
地下鉄改札を出てatreのエスカレーターを昇る間に
そうおもった
その後はまた別の事考えてたので
つづく
*藤井尚之とかトレヴァー・ホーンとか
今日思ったこと
音って凄いよな
電車に乗って座ってると、聞くともなしに聞こえる会話があって
内容は残らないんだけど、声色や調子が妙に飛び込む人がいる。
それって…全然こちら宛に喋ってるわけじゃない。
電車に乗って立ってると、人が静かに、耳に詰め物をしてるのが眼について
だけど何にも聴こえない。
聴こえない、んですよ。漏れてくる、んじゃないんだよ。うるさい諸君。
(僕だったらほんと、ごめんなさい)
その道具は、いろんな人の脳に、音を送り込んでる。
外からは、何が送り込まれてるか、どういう反応を脳がしてるか、
わからない。
そんなエクスクルーシヴな栄養素と
放射して元気に舞う言霊が
僕らの周りに常にいる
そうだ、音楽やってたんだよな
レコードではこう、ホールではこうなんだよな
「生音っていいよな」
「このコンプがええねんな」
これも、ふと気付けばなんと狭い領域なんだろう。
脳機能の大多数は使用されてない、と聞く事あるが
そんな感じ。語られてたのは発展の枝のうちの、ほんの数本なんだろうな。
ひかりについて、ここしばらくなんとなく考えていたが
小さい頃、幼年科学まんがではよく「光とは」「音とは」って読んだものだが
音って、なんにもないし、全てになるし、
そして、なんで発せられて、なんで残るのか
…実体がないのに、どうして認識できてるのか
つくづく、すごいよな。
俺たち、なんの為に、音を出して聞きわけてるんだろう。
なんで、音の軌跡が残ったり再生されたり、するんだろう。
目に見えないものを最初に録音したのは、どういうことなんだろう??
京都駅から 六時台の「のぞみ」にて薄い眠気の中
日々、LCDの光にさらされていると
危機的な切迫感ももって ひかり について考え出す
リアプロという方法、もっと普及してもよかったのではと思う
我々は反射光が好きなのだ
幻灯、月光、人間
…我々が人を見る時、それは人に映った光を見る…自然発光する人はいるか?
かねてから読みたかった谷崎潤一郎の「陰影礼賛」
とても奔放に記されているが、とても考えさせられた
もともと日本建築におけるあかりの取り方は
幾重もの反射によって光を闇に落とし込んで行く過程に美があるという
庭 軒下 障子 畳 砂壁 床の間
これは音楽における 間 と通じると思う
しかるに
近代以降の日本の照明が、欧米以上に白さに律儀なコト
80年代以降の日本の音楽の主流が、欧米以上にグリッドに律儀というコト
この振れ巾は、どうも極端だ
実のところ、ずっと僕はそう感じて来た
欧米都市のひとつであるBostonで5年近くを過ごした僕は
その旧さと超現代の入り交じった それでいて時間の止まったような 街にあって
暗い、色彩豊かな「あかり」に常に魅せられていた
空の碧を際立たせる橙色の街灯
Charles Riverの川面にゆらめく緑色の光
いつも人で賑わうキャンドルショップ
住居の灯りは、基本的に間接照明であった。
光を湯水のように吐き出すハロゲンを使ってはいたが、それを天井に、向ける
目に蛍光灯や白熱灯が直接向くことは、少なかった
どちらが単純で、どちらが合理的なのかはわからないが
日本に帰る度に、眩しさ、均一さに勿体なく思ったものだ
どうして、陰を尊ぶという日本人が、陰影を忘れるのだろう
Bostonに戻ると、街では「和」がちょっとしたトレンドでもあった
尤も、どこがインドでどこがアジアで日本で こんがらがったものではあったが
帰国から年が経って、多少は僕も慣れたのかもしれない
また、こちらでも間接照明、和家電 のような波が もう何波か 来ているようだし
電球型蛍光灯 も電球色が手に入るようになった
いつか浜松で入った自然食レストランでは 意図的にゆらぐ照明 を使っていた
それでも尚 温暖化やエネルギーの高騰や 否それより身近なレベルで健康や精神状態を司る
あかりには成熟の余地が随分とあると思う
勿論、映像技術、作品、アプリケーションもそうだ
ちなみに僕は代官山近く、駒沢通りにある あかり屋「五輪市」 が好きだ
ここは相当数の電灯がいつも灯っているが 不思議とまぶしさを感じない
驚くほど安価な掘り出しものも多い
電気代を考えると、採算が取れてるのか?と思うくらい
でも、店に魅力があるというのは 良いコトやで
おさるは
偉大
世のくるま
すべて
真似した
そのおしり
しばらく前に西郷山公園にあったオブジェなんだけど
最初、いみがわからなかった。
ベンチに角が生えている。白いアンテナ。
それだけで判る人もいるだろうけど…説明もないし、情報も集めてないし。
ある晴れた晩座ってみて、初めてオレなりにわかった。
これは天からのブランコだったんだ。
その時思った。この世は奇麗だなって。
夜空には星がある。
あれっ、曇ってた筈なのにひとつ、
と思ってみていると、
そこにはふたつあり、みっつあり、無数にある。
星の光に気付かないでいる事、簡単だ。
曇ってると思い続ければいい。
でも、目が醒めれば、わかる。
朝、そこには星は無い。
夜、そこには星がある。
輝くもの、輝き続けろ。
きっと。