カテゴリー: hikari

青雲

RX-8 って意外と静かだな
交差点をミオロしておもう

空には かに星雲 のような雲と月の溶き玉子
ぴょこっと星がでる

くるまははしりさる

まだ温度のある あきのかぜのはじまるよる

叶うならば縦でいたい

僕は割と縦長な人間で
そのせいか、世間で言われる「ヒトの視野は横長だ」を信じられないでいる。

だいたい、改行のない横に長ったらしい文を見ると内容よりその形だけで不安になるし
今や家電屋の壁面すべてを埋め尽くすワイド TV にもイマイチ馴染めないでいる。

だいたい、僕は A5 や A4 を縦にしたカタチが凄く好きなのだ。
見開きで横に長くなったとしても、縦型になにかが記されているって、それだけで何かの意志を感じてしまう。
おかしいんだろうな、多分。

だいたいインターネットは未だに縦長主体で
純粋に横長に作られてるページはそれほど見ない。

折角縦スクロールができるんだから、ってことかもしれないが
なんか、横長モニタで殆どのヒトが見てる現実ではあまり必然性を見いだせず、
やむを得ず惰性でそうなってる気もしないでもない。

だが僕は、縦長ページならホントに縦長画面で見たい方で
昔は Radius の Pivot っていう、今はもうない(技術の転売された)
馬鹿でかい CRT をずっと使ってた。

アメリカに居たから、A4じゃなくレターサイズだったけど
ページがちゃんとレイアウトされて見れるのは最高に気持ちが良かった。

(Pivot は本来、縦横いけるモニタなんだが、当時の Mac では縦しか使えなくなってしまっていた)

もともと、シーケンスは横で、ワープロは縦で、と思って買ったのに、
シーケンスも縦でやるハメになった。慣れたら全然違和感がなかった。

別に僕はトラックをバカみたいに重ねる方でも、意図を持って重ねる方でもなく、
オーケストレーションは至ってシンプルだったけど、それでも縦長のワークスペースで慣れていた。

なんでかなぁ。

もう随分、横長の画面しか見てないが、ずっと「縦に帰りたい」病が続いている。
池尻に居た頃は丸正に渡る信号待ちの時、いつも首都高の更に上に伸びるでっかい杉を眺めてキッと空を睨んでた。
ジャンクションループの工事で木が切り落とされた時は、それなりにショックだった。

映画のスクリーンは16:9より遥かに横長で、
あまり意識してその効果を考えた事はないけど、それは正解なんだろうな。たぶん。
だが、縦長の世界はどうしてくれるんだ。

自分は視野が狭いんだか、エコな植物か電話ボックスなのかしらないけど
横長は寝てる時で、ええやんか。

というわけで、横になります。

時間の魚

また変な事を書くけれど

人生や物事の進化って螺旋状だ、って良く聞く
それは本当だと思う

時間軸で言うと
行って、静止して、戻ってくる。
それを繰り返して、形になる。

それを見て感動したり、使いこなしたり、他人が利用して、いわば、発展する。

そんなのの繰り返しだと思う。人間が文明を築けたのは。

だいたい文字を記したり、モノを生産したりするのは、止まったものを産むこと。
それは流れる時間に対して静止、つまり過去に向かっていく事だ。

にも関わらず人がそれを続けるのは、どうしてなのだろう?
それを拾い上げて、また時間に向かって投げつける。
人の時計は、常に伸び縮みしている。

例えば。
この世が全て、画像だとする。
そんなことはあり得ないが、だとすれば、画像編集しようと、何でも注視するやつもいるかもしれない。

そうすると気づくのだ。この世は全て動画で、静止画と思っているのは動画のうち、止まっているように見える一種でしかない。

なのに人は、いちいち静止画に価値を見いだす。
モノは動くものもあるが、静止した形に固定されて初めて生産される。

もしくは。人は動いているものを、静止しているモノほど理解できないのだ。

価値を見いだせるのは、時の流れに耐えるもの。
流れて行っても、イマに戻ってくるもの。遡れるサケのようなもの。

もしくは、モモタロウのようにずっと先から流れて来たもの。

ここで螺旋が登場する。

新しい何かを固定して実現させたいなら、時間のずっと向こうにアイデアを投げなければいけない。
それが戻って来て、形になった時に、つかまえる。そこで流すか、また投げる。
何回か繰り返せば、魚は大きくなるかもしれない。

みんな、時間と釣りをしてきた。

動物は本能でそれをするけど、
人間は知ってか知らずか、そうやってきたのだ。

と、思う。

ほたる

とても揺らいでる月を誰もつかまえられない
キャンバスなどそこにはないから
おもいだして 生き返らせなければ
どんなかみにも ふゆうたいにも

それはぼくのめが 走っていたから
何百キロも 夜通しで

目の前で 揺らぐ月
いなくなると わかるから
記憶の種だけ おいてこって

よくあること

阪神が負けて
悔しいからニュースを見なかった。

今朝、シャワーを浴びてる時に知った。

こんなこと、よくあっちゃいけない。
一度だってあっちゃいけない。

星が地面にきらめいている氷川橋の交差点の向こう
何度も何度も、ダークブルーのビルを見ていた。
そこで35年前に起こったこと。

その人が吹き込んだ記録は僕の日本語に対する意識を根本的に変えた。

ダークブルーのポリドールビルももうとっくになくなって
いまはアパートだ。

僕には気持ちの説明がつかないし
色々ふっきった今でも説明する権利もないと、この事ばかりは思う

ただ、ものごとはそれでもつづいていくんだろうなと
いまでは思う

また年めぐる

1年は365日。
約360日である。

ならばどうして、世の中に丸形のカレンダーはないのか。

ひと月は30度、季節は90度、さらに一日は1度である。
わかりやすいじゃないか。

勿論年に5度の誤差は無視する。
それぐらいの修正は、カンタンにできる筈だ。

せっかく一年が12ヶ月なのに、なんで時計と共有できないのか。
時計の針をもう一個増やして、月を表せばいい。

一年で一回りだから、地球と一体化した気分になれる。

どうです? エコが好きな人たち。

時は視るものだ

列車に急ぐとき、心でcountをする癖

走りながら、数えた方が焦らない、と思う癖

慌てる心を鎮める為にcountをする

それがたぶん理由。くだらない事を僕はしているわけだ

数えようが数えまいが、目的地には着くし、列車は列車でやっている

秒数に対してどれだけかの比率でかけまわっても、それはパルスとの約束でしかない

そこで視るものをつかみながらホームまでかけた方が楽しい

二度とは帰ってこない時間

数えてるうちに過ぎ去る

だけど目を閉じなければ、視た物が時間になる

無限の映像を見て、それらのいくつかに名前をつけて、生きている

時は視るものだ

座標

すわってないで
動くはこに
乗り込んだら
そこはもう
ちがう座標

空も飛べば
カーステも鳴らせば
売り子もくれば
かいこも舞う

全ては
型値をかえて
偶然の餌を
たべてゆく

運良くいくつかを
つかんだ人も
この光には
音程には
留まれない

フェリーで海を渡る。

6年数ヶ月ぶりの道だ。

志摩から伊勢へ、外宮から内宮へ。

幼い頃から恐らく何度も来ている伊勢、自覚して見るのは二度目、はっきりと見えたのは初めて、俺の年表はこんなもんか。

とある外国の老夫婦、感じの良い二人
石段の上では撮影できない事を知らず、カメラを構えようと。隣だったのでそれとなく知らせる。
日本の人だかりは内の約束事は知っていても、注意はしない国民性で、こういう時コミュニケートしないと変な誤解を生む。

この人達もカメラを降ろして、自分も正宮の前に立つ。
正面から見れないように降りている幕が、風で上がった。

a ma te ra su … ?

驚くあまり驚くこともできない。

女神達に囲まれて、甲賀へ走る黄色い車。

機械じゃなく目で観てもらえて、なんだかよかったな。

哲学のみち

京都に哲学の道というのがあって

昔は近くに住んでいたのだが

度々歩いたとはいえ、特にそこで閃いた事も、思想が深まったという事もない。

こんな事を書くと罰当たりと思われるかもしれないが、

要はこちらの問題であり、僕にとっての哲学の道は他にあったのだなと、思う事にした。

今振り返ると、自分がインスピレーションを貰う、点火が行われる道は、確かにある。

これは、道そのものの特性もあるが、多分にその人の「好み」、言葉を変えればその人自体の「特性」だと思う。

僕にとって京都が特別な場所である事は変わりはないが、21C以降の人生を顧みるに

それは目黒川、駒沢通り、旧山手通りである。

割と大きな通りであるにも関わらず、人通りは少ない。

今日もWalking On The Moonを口ずさみながら家に向かうと
とある交差点、ビル越しに見えた月の反対側、巨大な人影が歩いていた。

ん、これのこと…?

“Giant steps are what you take, walking on the moon”

月明かりで、自分の影が途方も無く大きく伸びて、大股で歩いていくのである。
under the moonではあるが。
じゃぁ、と思う。

もし
月を
歩いたら

夜を照らすのは地球

ならば –

-実際、影を大きくしたのは月ではなく、丁度いい角度に存在した街灯なんだろうけどね-

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