しまった

九夜十夜

何夜というのかわからないが
今宵の月は綺麗だ。

満月まであと五日かと
しばし眺めながら
左右上方の赤と青の星を見て
浄化されたついでに

気づいてしまう。

次に仕上げようと思っていた
「るいをよもう」という曲は
「あかりの来ない夜」の詩だった。

…….新月やん

今から満月の曲、かけへんで。

どんぶらこ

ダイアリーであるからして、近頃は割と欠かさずタイプしている。

が、けして暇こいているわけではない。人とは会わないが毎日忙しく、落ち着ける時間は貴重だ。

フリートウッド・マックをしばらく聴いたところで – といっても、初期の最重要人物ピーター・グリーンを飛ばしているから、モグリといえばモグリなのだが – 改めてジェニー・ボイドの「素顔のミュージシャン」を読み進める。

いやぁ…

これはきくわ。グサグサくる。素晴らしい、と共に、何度も死刑宣告されてる気になる。

彼ら、彼女らがどうしてミュージシャンに「なったか」、あの曲を「創作できたか」が、いろいろな過程を含め、レコードを聴くだけではわからないレベルで、綴られる。それって、凄いことなんだが、

すべては – 将来が見えていた – ということのかたまり、なので。

間違いなく、素晴らしいんだけどね。

やっぱり、今の自分が読むにはきついものがある。「将来」なんて概念、あまりないもんな。
やり残しはいかん、と必死なだけで。どんな自分でありたい、というイメトレは、小さい頃から散々してきたし、ある程度は実現したようだけれども、今、それだけじゃ根本的なところは叶わない、ということを思い知っているわけで。

近道なんてもともと存在しない。何度も後戻りし、納得したところでしか進めない。

子役俳優からドラムに転向したフィル・コリンズ。幼い頃から町の社会で「画家」扱いされていながら、敢えてソングライターになるためにギターを取ったジョニ・ミッチェル。祖父も叔父も偉大な映画音楽・劇伴作家であり、いくらピアノが上手くても当然としか扱われなかったランディ・ニューマン。テキサスではフットボールに馴染めず吹奏楽、ドラムに道を見出し、やがて叩きながら歌う術を見出したドン・ヘンリー。ドロップアウトしドラムのカタログを見ながらひたすらドラマーになる事を信じ、習うのではなく、バンドマンとして叩き続けたミック・フリートウッド。

道は違えど確かな裏付けを重ねてきた先達の話が、幾多の「いい話」と共に、己にスパイクで蹴りを入れる。

たぶん、人生舐めてたんだと思う。自分は。今頃気づいたか。

コロナ禍を差っ引いても、やっぱなめてたな。

とても歯が立たない、幻想の未来。


だが。

ほっといても、きてしまうんだよ。それは。

まだこないものは、やがてくる。誰にも等しく、来てしまうのだ。

そう思うと、いくら串刺しにされても、どんぶらこ、どんぶらこ、
時間の海を流れていく、漂流の吾輩である。

ガラパゴスや neptune だって、アトランティス、のこされ島だって、その先は開けてると思うからな。

一体どういうことなんだか、わからないけど、

根拠のない時間軸を、不思議な自信と共に流れていく、午前2時14分。

Mystery To Me

Fleetwood Mac 関係続き。

70年初頭の作品を聴いているが、これは中でもジャケットのセンスが聴く気を全くそそらない、73年作。

…Buckingham / Nicks が取ってかわった Bob Welch って、いったい何者だろう、と、3枚聴いていくと、ギターも歌唱も面白い。次にバンドを引っ張った Lindsey のギターは超絶に上手いけど整いすぎて何か軽くて、長い間好きになれなかった(今すごさがわかるが)。
Bob ともう一人の Bob Weston のギターはもっとわかりやすく、好きな音色とフィールだ。イギリス録音(共同生活していた郊外のマンション、でっかいんだろな)というのもあるのだろうか。

曲調や音質にあまり節操がないのもよくて、その辺は75年以降も同じかもしれない。ドラマーとベーシストのユニットなので。

Christine McVie の歌が生き生きしていて、Stevie が加入してからは意識的に抑えたのか? というぐらいシャープな気がする。ピアノも Rick Wakeman かってぐらい風格がある。英国の音楽一家からロックとアートに走った人だから、当然のことか。

テクニカルになりすぎない Mick Fleetwood のドラムは、この頃もいい音とビートをしてて、その後の売れたアルバムよりもいいプレイかもしれない。一曲、ドラムマシンなのがとんでもない違和感なのだが。次の曲が CHIC もどきみたいだったり(年代的には逆すね)、Somebody の最後の一発が、なんか井上堯之バンドを連想させたり。違うか。

John McVie のベースは、明らかにこっちの方が躍動感がある。

やっぱアレだろうか。長く続くバンド、ピークはいろいろなところにあるのだろうけど、バンドマンとしてやり切った後で別のところにプロダクションの意識が行って、そこから作品の完成度につながるのだろうか ? ?  ??  ???

どうなんだろう。一方で問題はそんなことじゃなくて、単純に「ジャケットの魅力」かもしれないが。

「噂」”Rumours” があれだけ爆発的に売れ、今も知られ続けるのは Stevie Nicks の歌や他のメンバーの円熟味ももちろんだが、彼女と Mick のジャケットでの佇まい、pose があまりにも、目を惹きつけるから、誰にも取ってかわれない、気品と下品が一体になった魅力を放つからだと思う。僕はアルバムとしての「噂」は Stevie がリードの曲しか気持ちよくなくて、通して聴いてグッと来たことは殆どない。

そんなんで、ジャケットに映れなかった Lindsey って、フロントマンでありながらサイド扱いされて、どれだけ鬱憤溜まったかな、とも容易に想像できるのだ。


レビューの仕事もインタビューの仕事も、されることもすることもないので、好きに書くのは楽しいし、備忘録にも、自分のためにもなる。日々、浅いことばかり綴って失礼。


上弦の月、沈んでしまった。

次回の moon x moon 満月の巻、まだ曲の見通しが立ちません。

が、2年前にだいたいのところまで作った「るいをよもう」を形にしようか、と思っています。前回書いた「並行して作っている3曲」の2つ、”F” と “R” はしばらくお預け。何かいいジャケットイメージが浮かぶことを願う。

ごきげんよう。

tiny table to future games

flexlife の YouTube ライヴを観る。リアルタイム見逃してしまったから後からでも観れるのはありがたい。

(埋め込もうと思ったけどできなかったので、ごめんね)

行ったこともある部屋から配信されているのを観るのは面白い。本棚があって NPR の Tiny Desk Concert みたいなのだ。今回は別の画角だったが。

彼ら、画になる。さすがというか、画作りも映りも、もともと才能ある人たちなんよね
そこが他のミュージシャンと違うというか、おいらとも。

彼らとは春にミニツアーする予定だったし、
それが飛んだ後はリモートライヴ配信も計画していた。
思ったより技術的なハードルが高く、僕も部屋に引きこもって頭がパンパンになってたので
すぐに諦めてしまったのだが。

(他にもいくつか計画していた。できたのは、バラ録りの大橋トリオの「エメラルド」だけだ)

そして宅録だけに絞った僕とは違って、世界は着実に進化していて、
彼らはいつのまにか、本来の才能を発揮し出した。

さすがやねー。

別に褒め殺してるわけじゃなくて、なんか、なんでも出せばいいわけじゃなくて
自然体で、大倉さんがはみ出しちゃってるとこもあっても、細かい仕草とか声色とか
やっぱ役者さんだなというのが。

翻って自分なのですが、8月以降もなかなか人前に出る気になれません。
もともと、目立ちたがり屋と隠れたがり屋が同居していて
それを自分でもよくわからない回路で切り替えてるんですが
しばらく後者が優っているようで。

とはいえ、人にコントロールされるのは大の苦手なので、なんとか自分で会得したい。
ライヴステージは、そういう両面にとって、いい経験になっていたなと振り返りつつ、
うーん、今年は明らかに、違うモードだ。


Stevie Nicks, 声が好きでソロを聴いているのだけど、ピンとこない。

やっぱ Fleetwood Mac の、抑制の効いた音の中で、はみ出し気味のあの声で歌ってるのがいいのか、でも3人 vo のバンドでは彼女のリード曲が少ないので、もうちょっと他の音の中での彼女も聴きたい。Tom Petty とのあれはいいのだが。

Buckingham Nicks のスタジオアルバムは公式には配信されてなくて、YouTube で探すとやはり別格にいい。
というか、素晴らしいな。バンドサウンド、音含めて。

“Crystal” は、Christine McVie のシンセが効いた Fleetwood Mac バージョンもいいけれども、こちらもいい。
あんだけオーケストレーション豊かで繊細なギター弾けて激しく歌えるパートナーいれば、怖いものなしだよな。
Lindsey Buckingham, あんたには一生勝てねぇや。


というところで、興味は Buckingham / Nicks 加入以前、Bob Welch 在籍時代の1971年盤に向かっている。”Future Games”.
あの年代となると、アイデアが多少わからなくても質感だけで好きになったりするから、不思議だ。

sugao no mousou

昔買ったジェニー・ボイドの「素顔のミュージシャン」をふと読み返す。

とても影響を受けた本で、初版頑張って読んだのだが、今回は前書きを読みずっしりとしている。本編にはまだ入れない。

ジェニーさんというのは、ケニアで幼少時代を過ごし、60年代に活躍した美貌のイギリス人モデルであり、ロック界きってのドラマー達の奥さんでもあり、早くからインドの瞑想に傾倒した人であり…

ドノヴァンの「Jennifer Juniper」で唄われたひとであり。ジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンが奪い合った「レイラ」= パティ・ボイドの妹でもある。

それはさておき、音楽家が何にインスピレーションを受けて創作を行なっているか、どんな葛藤があるか、などを75人のミュージシャンにインタビューしたレポートで、彼女が心理学者を志したときの大学の論文として作成されたものだ。そのためか、話があっちゃこっちゃに飛んで、といった感はあるが。

昔はなんだか、それを読んで盛り上がっていて、親しい人にもよく薦めていた気がする。
とはいえその人たちから感想をもらった記憶はなく、たぶん誰も読んでいないのだろう。

最近、久しぶりに Fleetwood Mac の70年代の曲を聴いていて(有名どころばかりだが)、なんでスティービー・ニックスの唄はこんなに素敵なんだろなとか、リンジー・バッキンガムって、いけすかないぽいっけど、案外哀愁があるのかな、とか、どう考えても哀愁やんけとか、フリートウッド・マックってドラマーとベーシストの両名ユニットだからフロントはなんだっていいんだな、とか。

その背景を知りたいと思うとジェニーの存在が出てきたわけ。すっかり忘れていた。

いつか僕もこんな本を書きたいなぁ、とか思っていたっけ。しかし僕にはそこまで沢山の音楽仲間がいるわけではなく、そもそもあまり人とつるまない。結局自分とごく数人の周りの人のレポートになるか、半フィクションの小冊子になる気がする。

また、ホラを吹きました。

ホメケナシー

絵本屋さんに友人を尋ね、少し挨拶する。

アナログ盤でリッキーリー・ジョーンズの2ndがかかっていたので、ライナーノーツを見せてもらう。

田中康夫ともう一人、田中さんが書いていたもので、とても、なんというか、ウケた。

あの時代、衝撃的な、あるいはお洒落だったんだろうか(日本では)。そんな文体だ。

リッキーリーって、サウンドがとてもしっかりしていて、ザ・スタジオミュージシャンが関わってるなというか、人を惹きつける人だったんだな、とよく思う。

僕の周りにもファンが多いようで、なにか、「リッキーリー」って、安心ブランド、みたいな気がする。


実は僕はここ数年、オリジナルを弾き語りしたり音源を出したりしていて、たまに「リッキーリーみたい」と言われることがある。

僕自身は彼女のレコードに詳しくはないのだが、言われて悪い気はしない。そりゃ。天下のリッキーリーさんですぜ。

とはいえ正直、彼女のボーカルはタイプではない。
声質が、なんともいえない、僕のアンテナを遠ざけるものがあるのだ。たぶん周囲にこういう女性がいたら、ほぼディスタンスを置くだろう(ひどいこと書いてますね)。

そこである日、その感想を二度くれた人に、「あのね、言いにくいのだけど」と話してみた。「彼女の声って、あんまり好きじゃなくて」。

彼はなんと言ったか。

「うん、僕もあまり好きじゃない」。


言ってみるもんだ。魔法の言葉、謎が溶けたり。

褒めるのとけなすのを両方、絶妙に兼ねる言葉。これぞ本音と建前だ。
生きる知恵ってこういうことだ。

(ほんとにリッキーリーの歌が好きな、幾多のみなさま、ごめんなさい。僕はこういう処世術ができないのです)

たぶん、僕は自分の声のある部分と、彼女の声のある部分に、近親憎悪的な感情を持っているのだろう、とは思っている。

自分がトム・ウェイツみたいな太い声をしていたら、あるいは本当に、素直に愛してやまないのだろうか。Blue Valentine.

そういえば周囲の人も、そうだった気がするな。
と、遅まきながらフォローしておきます。

蝉丸

昨夜は曲のリリース日にもかかわらず
関係ないようなことを綴ったので
(いや、関係あるのだが)

少し Aero の解説を。

まず、かつての Adbaloo の zero と、この Aero は、ベースラインは同じだがその他はすべて、似ても似つきません。Yuka のボーカルは代えがたいものだし、僕には絶対あんな唄は無理なので、違う方向を行きました。歌詞も、Yuka はもっとシンプル、ポジティブな人。


このジャケットは、あたりを自転車で回りながら、気になった壁や設備? を撮ってレイヤーしたものです。丸くて透明で、汚れていて、暑さに凍りそうで…っていう。

ジャケを作るまでは、打ち込みのドラム全開だったのだけど、なにかイメージが違うなと思って、ブラシで叩いたスネアトラックに差し替え、マシンは単純なショットだけにしました。ハットとキックは自分の叩いた音の配置です。

僕はハイハットが好きすぎるので、今回は単調に、おとなしく。

ほんとは…イントロに加えようと思っていた音があって、
それはあえなく失敗しました。その顛末。


夕暮れに川辺を自転車で走っていると、ものっすごいグルーヴで鳴いている一羽のセミがいた。
めちゃファンキー。ダンサブル。おまえセミDJアゲ太郎かよ。いや、蝉丸か。
これを録ろうか、走り抜けようか。

走り抜けてしまった僕は、その後ずいぶん走って、他のセミの群れが、だんだん明け方のクラブの閉店のごとく鳴き止むのを聴きながら、あのセミ太郎が忘れられず、引き返す。

ずいぶん走って、同じ場所。セミ太郎はいた。疲れたのか飽きたのか、だいぶBPMが上がっていたがまだ鳴いていた。

あとでタイムストレッチかけようかと思いながら、iPhone のレコーダーを回す。
その瞬間、物凄い音で鳴り出した、人工音があった。
…√√√√√√√√√√√√√√√√√√…電動ノコギリだ。
おっちゃんが二人、間際で大工仕事を始めたのだ。全く気配もなかったのに、なんで今。
…√√√√√√√√√√√√√√√√√√…………………….
ノコギリが止み、セミも鳴き止んだ。

僕の人生は、だいたいこんなことばっかりだ。タイミング外すのは、絶妙なんだよな。

蝉丸あなたはどう思うか。あふ坂の関で幾多の人の行き来を見た盲目の法師。耳という目。
僕も、昔は原付で毎日超えていたんですよ。


歌詞については、解釈みなさんに委ねます。虚無かもしれないし希望かもしれない。

ただひとつ、「砂の浜辺にお帰り」というのは、何か、「砂」って、人間がじたばたと作り出してる文明とかを嘲笑う、物事の根元かもしれないな、と思って。

猫が砂をトイレにするのも、なにか哲学じゃないかなと。

はしのはし

いろいろなサービスやオンラインショップを
訪れるたびにログインを求められて
アカウントを持ってないとだめみたいになってきて
いいサービスやお店でもアカウントを作るのがいい加減億劫になってきて

やっぱ やーめた

となる率がかなり増えてきた。
いろいろなことが、いろいろだ。バテなんかな。

もうなんか(ネットしか外の世界との繋がりがなくなって久しいからか)
たいがいお疲れ気味である。

オンラインでの世界再編、結構つらいなー。
世界を二つに分けるのってつまらないけど、着実に進行中なのを感じる。
わかるだけに、無抵抗でいいのか? と思うが、そもそも土俵に乗るのがバカバカしくもなる。

ものすごく緩慢に、カルマが幽霊になっていく気がする。

そんな感じ。

もう一段階脱力して外に出、いつもの20cm上から空を見る。
近所の人と、わずかに世間ばなし。
桃色と紫とグレーの空が綺麗だ。


曲をアップしてしまうとほっと一安心、
出来栄えや反応はさておいて、やっと解放され(リリース、とはそういう意味とも思う)
束の間数日の間、嬉しい日が続く。

なんのために音楽やってるのか、本末転倒な気もするが
何度も転倒しながら生きてきたので。そしてこれが、自分の選択なのだ。

自分で曲を作ってみると、楽器演奏家としての自分とは違う部分を重度に使うので
- たとえ全パートを弾いていても、それは明らかに違う回路だ -
空っぽになれる。

この隙を忘れぬために、しばし純粋にベースの練習したり、
時間が余れば、前に作った曲がギターで弾けるかやってみる。
だいたい弾けないし、コードも忘れている。だが少しやると、手が思い出す。

ダブルベースの「練習」は、長い間やっていないので、やばいやばいと思い出して
数時間でようやくアマチュアの少し上手い人、ぐらいのレベルに戻る。
アマチュアだって学生だって、今の俺よりはマシだろ、ということはわかる。

今更スーパープレーヤーになれる気もしない。やらなければならないことは果てしない。
学んだり練習した時間にも楽器にも、関わった音楽家にも失礼な気もする。

だがこうするしか、生きた気がしないのだ。
そのうちまた、いい演奏ができるようになるだろう。これまで以上に。

それに。ベースだけのモチーフを、描いていかねばならない。なんのために。やろうとしていたことのために。できるのか?

わかるのは、そのうち何かが浮かぶということだけ。


もう一度首を上に、身体を正す。
どんな共有の世界になったとしても、
自分の視点でしか観ることも、会得することも、できない。

そして、それは、空との相対的な位置にある。

Aero

Aero / stillbeat
8.19 release
moon x moon #16

日付変更に間に合うか、またこの日に間に合うか、わからないのですが、今年16曲目のリリースです。* 間に合いました。Apple Music

先日も記したように、これはかつてのバンド Adbaloo で “zero” としてやっていた曲のセルフリメイク。
歌詞とメロディのニュアンスは、vocal の Yuka に委ねていたので、今回はもともとのメロディと、この8月に書いたで作ってみました。

渋谷界隈のストリートやクラブでもよくやってたので、もしかしたら覚えている人もいるかもしれません。いないかな。Adbaloo は3作配信してますが、これが入った 2nd “coloured circle” と 1st は未だ。いつか、そのバージョンもリリースできれば、と、微かに思っています。

ほしぞら

細い月とほしぞら。

hoshizora って、それだけで憧れたことがある。

見ればそこにあるのに、そこにないかのよう。

いや、ほとんどの星は見えないから、永遠に憧れでもある。

プラネタリウムに、憧れる。再び。2020夏。結局行かない。

このあたりの細い月は、夜中に昇って、最も高くなる前に朝が来てしまう。

夜更かしの月だ。

ほしぞらが見れるということは幸せだと思う。もしこれが空襲の夜ならば。

政治家の考える戦争と民衆の考える戦争と兵士の考える戦争。だけど兵士は元は民衆。止むを得ずそうなった人が大半だ。
前にも書いたが、ごく若いうちなら、あるいは何かに動かされて、飛び込んでしまうこともあるだろう。

そのためなら、いくらでも、報道でも、あるいは芸術でも使って、人々は鼓舞されてしまうであろう。
実際におこったこと。

そして、世の中の境界を生きるがため、いろいろ気づいているはずの芸術家でさえ、そうさせられた事実。
聡明なはずの科学者さえ、御用にされた事実。今だって、そうじゃないと言えるか。

げいじつか、げいのうじん、あしもとのつかないもの、
いや、このよのあしもとのつきかたを、ずっとさぐるもの。

細い細い月とぐんぐん大きくなるほしぞらが、みている。

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