「講談」を観る。
近くの街の公民館。どこから折れてよいかわからない道を突破すると、何事もなかったかのように湖岸に開けるエリア。
二方の硝子壁から陽光降り注ぐその小さなホールは、ちょっとした楽園だ。
もっともこの酷暑では陽光も地獄を呼びかねない。厳重にカーテンが下されている。
災害用の段ボールベッドを転用したという高座に、お二方がのぼる。
そこがどんなつくりであっても、場所であっても。
見事なものだ。
現実と「つくりばなし」の境目がはっきりわかる講談に、親近感のようなものを感じるのはなぜだろうか。
張り扇で釈台を叩く。それはチャプター(章)の切り替わりでもある。ほんとに空気がパシッとかわってくれる。
マルチバースを旅するのが講談師なのだろう。
自らを振り返る。曲や語りのところどころで無意識にベースのボディや指板を叩いているのは、そういうアレなのだろう…か?
自分には講談の研究どころか、観た記憶も殆どない。
だが落語や初期の漫才や何やを見聞きし、無意識に影響されていたのかもしれない。
いや、たぶんそんな大層なことでもない。なんとなく、あれをすると気持ちがしまるのだ。
ああだこうだいっても、いろんなものが混在した自分は、所詮邪道に過ぎない。
が、色々な verse – ものがたりをきき、楽しみまなび、こわしてつくっていきたい。