フォーカスとブラー
僕のように音楽をやっている者は、
リアルタイム、と、過去現在未来、という
二つの時間をいつも考えてる。
リアルタイムとはもちろん、舞台。
過去現在…というのは、つくること。
トラックを重ねる、構想する、夢や思いつきを試す、思い出す…
観たり聴いてもらったり、その後で変わっていくこともある。
むしろそちらが音楽の伝わり方だろう。
これらは、交差もする。
音楽は波だ。そこには「焦点が合ってるか」という問題が出てくる。
あるいは、「いい感じにブレているか」というものある。
そんなので、この答えの出ない人生みたいなことを、ずーっと考えたり、感じたりしてるわけだ。
さて、今年はしばらく「フォーカスが合うか合わないか」についての構えを変えることにした。
心のフォーカス 身体のフォーカス 視覚のフォーカス 結果のフォーカス
これらは一致しなくても構わない…!
少なくとも、つくっているとき、準備しているときは、それぞれのセクションで詰めて行って、
その後でレイヤーを合わせればいいんじゃないか。
どうしても、練習などをしていると、どこが違う、どこが合わないと気にし出して
何度も何度もやり直し、何も進まないことが多い
そしてやっと突破した頃には、いろいろ忘れてたりする。
それはそういうものだと思いつつ
詰めることは詰めるが、ここは気分を信頼しようとか、
音には出てないけど流れがいいとか、
そういう風にしてった方が自分も楽しめるし、
いいものが作っていけるんじゃないか
自然と都市とひとりごと
デザインの輪郭 / 深澤直人
とても感覚的に綴られていて、意識への接近や実践へのアプローチに
濁りがないというか
刺激される本でした。
わかりにくいけどわかりやすい、という。
深澤さんはアメリカ滞在時期に八ヶ岳に土地を買い、帰国後にそこを開墾して山小屋を自ら建て、
東京事務所での業務を広げながら山梨に精神的、身体的な拠点を持った…というくだりに感じるところ大いにあり。
そして、そのインスピレーションになったのが、サンフランシスコ周辺の人々の
都会から「車で一時間程走れば手付かずの大自然に入ることができ」、コヨーテやアライグマが出るところに普通に暮らしている
という状況。
日本からすれば羨ましいのか? それとも怖いのか?
(近年の各地のアライグマ出没とその「被害」を考えても)
だけど緑はやはり大切だな、と思っていたところに
L.A の大火災
…
…
心が痛みます。
SNS に溢れる画像映像も恐ろしいが、実際はそれどころではないだろう。
一方でフェイクも出回り、AI に席巻されるネットでは、却って情報への疑念が深まるので逆効果なのでは…と思えてしまう。だがいずれにせよ。
人間は自然にはとうてい叶わない。
だけど自然と共にありたい、と思うのです。
…
東南海域に暮らすもののひとりごと
だけどこれから何十年、何世代と、続くことだから。
シューとスター
今年は、弦楽器をもう少し学びつつ
ライヴ活動していければ、と思ってます。
かなりインドアな(想像はアウトドアだけど)アルバムを作ったので
ほぼ生音でできる場所、いくつか見つけてライヴをしたい。
基本一人で演ってくので、また段取りも練り直さねば。
昨年前半に試してきた小道具類も、もう少し見直そう。
と、小さい子供が叩くドラムの音を聴きながら、ええノリしてるな〜と少しワクワクしている雨の夜です。
青年の頃の夢としては、ドラマーになりたかった。
その計画は無謀になりつつあるけど、
楽器の中で一番没頭できて、頭も冴えるのは、僕の場合はたぶんドラムなんですよね。
右脳と左脳が両方刺激されるというか。
もちろんその為には、身体が整わなあかんけど。
一方で、いつも下ばかり意識するベースという楽器には
— ハイポジションに行けば行くほど下に屈むなんてさ —
ときおり疲れてしまうので、
しっかり立ち上がって上空を見る、なんてこともしてみたいのだ。
穴あきアコースティックベースは、年末からブリッジの裏を診てもらっているところ。
生音がどうもしっくりこなくて、治ってくるといいな。
その後で、改めてライヴセットを考え、無茶のない道具で外に出たい。
p.s.
シューゲイザーのセレクト MV なるものを観ると
彼ら彼女ら足元ばっかり見てると思いきや、真上からのカメラを直視してるのが多くて
むしろスカイゲイザーやん。スターゲイザーやん。
ドのないスタジオ(の終わり)
キーボードを掃除
鍵盤奏者ではなく
シンセベース用のショルキーも売っぱらったけど
打ち込みをしないわけではない
写譜 勉強 たまに曲作り
作品には生音を使うというだけのこと
そんなわけでうちの studio 07 には
デスク下に61鍵の MIDI キーボードを仕込んである
ところが昨年末は
C3 (真ん中のド)の音だけ
いつも ff(爆音)になるので苦笑してやり過ごしていた
年を跨ぐとついにそのキーが反応しなくなった
つまり真ん中のドだけが存在しない音楽スタジオ…
…それも面白いかもしれない
が、やはりそんなことはないので
買い換えようと画策
なにしろこの M-Audio はさる知人から無料で譲り受けた物で…
とはいえ、デスク下に収めるための工作に結構手間かけており
この寸法でないとならぬ
そうなると選択肢は2つだけ これと同じモノか Nektar か
うーん
思い直す 分解しよう
異様にネジが多かったけどうまくできてる
なんてことはない 埃の山を吸って払って 再組立
…治っておる!
おかげで譜面入力も楽になりました。
ところが今度は Ab2(その少し下のラの半音下げ)だけ
異様に長く入力される つまりノートオフを感知しない
まぁこれは許そうかな 困るけど
体感3秒のメルカトル
年の初めは静かめに過ごしています。これでも一瞬で三日が経過だよ。
去年はいろいろ頑張ったつもりだし、やれたことも多いけど
空振りしたことも(いつもの如く)相当多く
中でも一番がっかりしたのは九月のフェス一本が中止になったことだった。
台風回避だからどうにもならない。
前半と後半でまるで違う年になったようで、7月以降はほぼ、手の届くエリアでの活動ができなかった。
巡り合わせ、とはいえ。
そんなわけで9月に 旅に出た のは、必要だったし、たぶんそれだけではなかったし
メルカトル図法の高緯度地のごとく、2024年の中でも存在を大きく示している。
そして何より大きかったのはその7月以降、アルバム umi no machi を作れたことだ。
どれだけ聴かれるか、評価されるかはわからないし、それは聴く人それぞれの解釈だけれど
自分の中ではこの作品に、大いに納得している。
素敵なアートワークと共に
いつも僕の音楽を励ましてくださった nakaban さんには
いくら感謝してもしきれない。
さて今年がどうなるかはわからない。たぶんこれまでとは違う年になる、そんな気がする。
いずれにせよ、去年できなかったことをできるように、
また地道にやっていこうと思っとります。
ああ、巳年だな、と納得した不思議な雲。
時計店の辺りで現れ、西から東へぐんぐん伸びていった。
はじまり
静かに、あっというまに元日が過ぎました。
穏やかな日でよかった。
また海にいきました。ちょうど日が丸い姿を表したとき、たくさんの鳥の群れが海を横切っていった。
災害のない、あっても助け合える一年を。
戦争のない一年を。
健康を。
願います。
みなさんにとっても、よい一年になりますように。
ラスコー
umi no machi – セルフライナーノーツ #7
ラスコー – 1999 and November 2024
アルタミラやラスコーの洞窟で動物を描き、ドナウ川の河岸で五角形の家を遺した先人たち。
彼らの見た世界には、もしかしたらこんな旋律があったかもしれません。
根拠はないけれども。
この曲の原型は四半世紀ほど前につくったもので、最初のアルバム “Voice of Marble / rtov” の続編のひとつでした。
そのアルバムでのメンバー、ドラマーの Rastko、ピアニストの Vardan から強いインスピレーションを得ていて、一度ロンドンに Rastko を訪ねたとき、このモチーフでパーカッションを録音してもらったのですが、そのファイルは今どこかの HDD に眠っていて、昔の OS を組み直さないと開けない。
そこでまずは、DIY で再構成、発展させたというのがこのトラックです。Rastko との Lascaux は、改めて作るつもり。
ピアノのかわりにグロッケンを、中欧〜中東のパーカッションのかわりにシンバルを、そしてアコースティックベースとギターで対モチーフを入れました。
形容し難いかもしれないけど、ユーラシアであり、日本であり、とても僕らしい音楽だと思っています。
グリーンはいつ
umi no machi – セルフライナーノーツ #2
グリーンはいつ – 1991 and November 2024
七拍子の空想歌。絵描きや物書きに憧れたころを思い出しながら。
緑がうみを囲む、夜が木漏れ日を手渡す
あまり考えず、浮かんだ言葉とメロディを録音して作っていきました。
グリーンは昔から好きなウェールズ出身の SSW であり、
かつて滞在した家のことでもあるんです。
「うみ」が近く、窓からは河原の木々がとても素敵だったグリーンの家。
だけど数十年ぶりに訪れると水辺は消え、辺りは道路で固まっていた。
人が「道をひらく」事とアスファルトは、現代社会でセットになっている。
でも、そうやって蓋した土はいつまでも黙っているだろうか?
街と緑って本当に共存できるのか?
それとも自然はもっとずっと、したたかなのだろうか。
12.25 at CHUBBY
クリスマス当日は東京・代田橋の CHUBBY へ。
Poésie de Noël – 詩の音
Hitomi* (vibraphone), 宮川剛 (drums), 小飯塚貴世江 (reading), 近藤零 (bass)
という初編成のライヴイベントに呼んでもらいました。
久しぶりの東京(蜻蛉帰りで、運転時間の方が長かったけど)で、2017年以来の CHUBBY。
あの時はじめて、flexlife の後ろでご一緒した宮川さんと、コロナ禍を超えての再共演。時が空いても何のギャップも感じない、素晴らしいミュージシャンです…って、僕が書かなくてもみんな知ってるよね。
リーダーの Hitomi* さんは凄腕の鍵盤打楽器奏者であり、面白いコンセプトで多彩な活動をされ、
また表現への愛情とパワーが溢れる方でした。
そして、二部に加わった役者の貴世江さん、声ってこんなに場を変えるんだ、と。
後ろで演奏しながら、圧倒される。
当日たまたま(ホントにたまたまです)リリースになった僕のニューアルバムからも2曲、
そして前作から1曲、などもトリオで演奏でき、本人にとってはまたとない贅沢な日になったわけです。
少ない時間での準備、久しぶりの舞台、予測してなかった「紐」の挙動…など
思い返して反省も多々です。でもそんなこんなも含めての一期一会。
いらしたみなさん、楽しんでもらえたかなぁ?!
Thank you all!