一日遅れ、朝刊がわりの日記を続ける。
新聞紙を時折読んで思うのは、その文字の多さ。
広告もあるが、よくあれだけ文字で埋め尽くせるものだ。
権威を持って。
新聞記者の仕事に、改めて恐れ入る。
とはいえ、メディアが危険、という認識は変わらない。
2012年後半、野田〜安倍政権以降沈んで落ちていった報道の自由度は、
十年を経て、統制の海が喫水線を超えている。
それとも、ずっとそうだったのか。
「善悪の判断を超えてひたすらキーボードを打ち続ける取材者」と評する人がいる。
その真偽はわからないが、自己投影してみる。
「それが記者なのだ、私は意見者ではないのだ、まずは正確に記すのが使命」
という認識が出てくるだろう。だがそれならロボットで十分じゃないか。
葛藤に苦しむこと、間違いないな。
この日記も、いっそ「新聞紙」並みの文字量で、その日考えた事を全部記してみようか、と思う。
馬鹿げている。五七五と真逆。
音符にも似たところがあるかもしれない、とも思う。
あるいは音数にも。
僕は音数の、編成の少ない音楽が好きだ。そういう意味では日本的かもしれない。
一方、「巷の」日本の音楽や広告、媒体、そして都市でまず感じるのは詰め込みだ。
僕にとっては、無駄な情報ばかり。狭い場所に詰め込むことで、余計に窮屈に感じるのはなぜだろう。
そんなわけで、僕の中での日本文化は、いつも矛盾している。
水墨画のような表現、空間の美、そういうところが好きだ。
それらは日本の中の「広い空間」で編み出されたものとは限らないのだが。
むしろ狭い空間や精神世界から広がりを、それが僕のたどり着きたい日本なのだろうか。
最低音楽器と最高音楽器の繋がりはどこか、と確かめる。
案外、きれいに繋がりそうだと知り、嬉しくなる。これなら何かできそうだ。
今年中には、何か形にしてみようか。
そっか、僕の周りにあるのは、いつも両極端で、葛藤で、矛盾なんだな。
改めて認識する。でもその上でやってくよ。
数年前の年末に有馬温泉土産で買い、残しておいた 自宅温泉風呂パック を使う。
パッケージに「大日本摂津國有馬町」とある。
OEM 生産で製造販売者は新潟の「環境化学」。ギターでいうマツモクみたいなものか。
成分は主に塩と酸化鉄。
販売商品名は「スプリンガー52」。ターミネーターみたいだな。
いろいろと発見。温まって就寝。