前回 に続いて、The Guardian の Charlie Watts 追悼記事。今回は、Bruce Springsteen and the E Street Band のドラマー、Max Weinberg からの後半部分です。
‘Not just a drummer – a genre’: Stewart Copeland and Max Weinberg on Charlie Watts
by Max Weinberg, as told to Ben Beaumont-Thomas
序文にあった ”- and his clothes-folding skills” ってどういうこと? と思ったら、全部あまりにいい話で、一気に読みました。以下、僕の訳です。
僕が子供の頃のニュージャージーでは、仕事を探すミュージシャン向けのチラシがあって、60年代半ばから70年代まではいつもこんな感じだったよ。「求む: Charlie Watts タイプのドラマー。」Charlie はただのドラマーじゃない – 彼はジャンルなんだ。僕が叩くすべてのビートには、どこかに Charlie Watts がいるんだよ。
彼が Rolling Stones でやったことの何が独特だったかといえば、それはロックンロールである一方で、実はブルースだったんだ。
僕は、Stones が長く続いた理由というのは、彼らが本質的にポップバンドでなく、ブルースバンドだったからだと思っている。ブルースは永遠に色あせない。
もちろん、様々な理由で彼らは世界最高峰のバンドだ。しかも彼らは、自ら世界最高のバンドだと言ってる。
だけど、ドラムという観点では、彼は誰とも比べられない唯一無二の存在だった。彼みたいな人はどこにもいなかったよ。彼の模倣者や彼への挑戦者はいる、だけど Charlie Watts はただ一人だし、今後も永遠にそうなんだ。
彼の身体はもうこの世にはないけど、彼はドラミングの魂として永遠に生き続ける。Charlie Watts がいない世界なんて、少なくとも僕の中では、およそ理解できないんだ。
彼はお気に入りのジャズドラマーの影響で彼のスタイルを形作った。たとえば偉大なイギリスのドラマー Phil Seamen、そしてアメリカのドラマー Dave Tough: 見た目まで Charlie に似た、お洒落にうるさく、途方もないグルーヴと音色を持った人だ。
Charlie は – 僕も同じだ – STAX の偉大な Al Jackson の後期のプレイで一般的になった、あのロックドラミングのスタイルの支持者だった。意図的にバックビートをタメて叩くっていうやつだよ。
そのやり方っていうのは – ちょっとテクニカルになるんだが – ビートの2拍と4拍に集中するってことじゃない、1拍と3拍が大事なんだ。
他のいい例は James Brown の音楽だよ。彼の音楽は1拍目に着地することに重きを置いている。それができるようになるには長い時間がかかるんだ。
そういうことができるドラマーは、バスを運転してるようなものだよ。そして最高のドラマーなら、他のミュージシャンに彼らが必要なものをあげられるんだ。
Charlie はそれを、本能的にやっていた。または、偉大なドラマーたちを聴き込んで、その術を習得したんだ。Chick Webb、Kenny Clarke、Kenny Clare、Art Blakey、Max Roach (といったジャズドラマー)をね。
彼にはトレードマークのドラムフィルがあった。Bruce Springsteen のアルバム “Born in the USA” のレコーディング中、僕は “Street Fighting Man” がずっと気になっていた。あのサウンド、強さ、ビートがね。それはどうやらツアー用のドラムセットか、箱みたいなモノを使って*、カセットレコーダーで録音されたっていう噂で、信じがたいほどヤバくてタフな音をしていたんだ。
Charlie は曲中で例のフィルをやったんだ。素早い、8分音符三つの「バッバッバッ」ってやつをね。Bruce が “Born in the USA” のグルーヴを僕らに伝えたとき、僕は “Street Fighting Man” を思い起こしたんだ。それで僕はあの曲で、Charlie Watts をやったってわけだよ。
“Rocks Off” も、また別の Charlie Watts のベストパフォーマンスだね。彼はフレーズの途中であのローリングのフィルをやるんだ。天才だよ、だけど彼はあらかじめフレーズを作ってたわけじゃない。彼はジャズドラマーだからね、瞬時に思いついたことを叩くんだ。彼は多くのインタビューで語ったように、いつも Charlie Parker や Miles Davis が彼の前に立っていることを想像しながら叩いていたんだよ。
僕たちは友情を築き上げた。彼はいつだって、あり得ないほど愛らしく、知的な人だった。初めて彼に会ったのは1979か1980年あたり、Stones が Madison Square Garden で数日間公演してたときだ。Modern Drummer のインタビューがあったので、友達について行ったんだよ。彼は3ピースの Savile Row の背広を着ていて、信じられないほどお洒落で、彼の手荷物を片付けられるように、僕らをホテルの彼の部屋に招いてくれた。彼は2つの美しいレザーのスーツケースをベッドに乗せて、それらを開けたんだ。すべてが完璧に折り畳まれていたよ。きっちりした化粧道具があった。僕がロードで旅するのと正反対だった。彼はスーツケースから服を出して、ベッドに置いて、畳み直し、引き出しに入れた。僕はホテルの部屋の引き出しなんて15年間のロードで一度も使ったことはなかった。僕がそれまで見た一番クールだったことの一つだよ。
そこで僕らはインタビューをし、ルームサービスを頼み、そして彼は (Madison Square) Garden への迎えが来る頃だと気づいて、寝室に入り、スウェットパンツと裂けた T シャツを着て出てきた。彼はそれまで英国の君主のような身なりで、ハンサムで、貴族的で、ごつごつした顔をしてたんだが、それが今は「彼らとプレイする」ために、普段着に着替えてた。「僕のバンドとプレイするんだ、僕らのバンドで」とは言わずに、いつも「彼ら、Stones と」(プレイするんだ)と言ってた。彼にはこういった、面白い距離の保ち方があったんだ。
年月が経ち、1989年のこと。Charlie は僕に電話をくれ、Stones が10月に NYC でプレイすると教えてくれた。彼は、僕が Joe Morello の友人だと言ったことを覚えていたんだ。Joe は Dave Brubeck Quartet のドラマーで、Brubeck のあの “Take Five” や “Blue Rondo ala Turk” の変拍子の肝になった人だよ。そして Mel Lewis、素晴らしいバップ期のドラマーとも(僕が友人であることを)ね。Charlie は彼らの大ファンで、こう言ったんだ。「彼らがどうかはわからないけれど、僕はもし彼らが Shea Stadium に来てくれて挨拶できたら、月にだって昇るよ。彼らがコンサートまで残ってくれるとは思わないけどね。」僕は言った。「Charlie、できる限りやってみる。」
Mel はロックンロールが嫌いだった。彼はロックンロールが、西洋文化の堕落だと思っているジャズマンの一人だったんだ。
だけど僕たちは Shea Stadium に向かうことになり、最高のもてなしをうけた。彼らは僕らをエレベーターに乗せた。Rolling Stones には – Paul McCartnery みたいに – だいたい10段階のゲストレベルがあったんだ。だんだん VIP の度合いが増してくる。僕らは奥のプライベートルームに招かれた。「Charlie、君に Joe と Mel を紹介できて光栄だよ。」僕は言った。
そして Charlie は彼らと握手し、こう言ったんだ。「ジェントルマン、お会いできて光栄です。」 Charlie は数えきれないぐらいの質問を浴びせた。「Wynton Kerry とプレイしたとき、あなたはあのロールをしましたね、あれはどうやったんですか?」「Joe、”Take Five” では実際どうやってプレイしたのか、教えてくれませんか?」とね。彼はクリスマスの(プレゼントにはしゃぐ)子供だったよ。耳にすることすべてに微笑んでた。僕はといえば、こうして彼らを引き合わせることができたのが信じられなかった。
彼らは(挨拶の後の)コンサートを観たがった。Joe は目が見えず、ショーの光景は楽しめなかったけど、僕にこう言ったんだ。「Charlie Watts はすごいドラマーだね、なんて強靭なタイム感なんだ、あのバンドを実にうまくつなぎとめてる。」一方、Mel はといえば – この人は45年間、ロックンロールに文句を言い続けていたのに、すっかり気に入ってた。彼らの音楽性にも、ショーにも、そして何より Charlie のドラミングに強く感銘を受けてたよ。
ドラマーにとって大事なのは何か、それはあんたがやっていることが、その音楽に対して適切なのかどうか? ってことだよ。
それが Mel Lewis が本当に感心してたことだ。「彼はバッチリだね!」帰路のドライブ中、Mel は言ってた。「まだロックンロールは好きじゃないが、あれはすごい経験だった。それに君の友人、なんで彼らが最も偉大なバンドと呼ばれるかわかったよ – もしロックドラムを叩かなきゃならないなら、あれこそがロックドラムのあるべき姿だ。」
最後に僕が Charlie に会ったのは、Newark の Prudential Centre で数年前のことだった。Bruce が彼らと共演して “Tumbling Dice” をやった前日だ。僕は彼に50年ほど前、彼らをこの近くの場所で観たと伝えたよ。1965年の11月7日にね。彼らは Solomon Burke の “Everybody Needs Somebody to Love” でスタートし、半時間ほどプレイした。彼らのオープニングアクトをするためのコンテストがあったんだが、僕のバンドは落ちたんだ。それで二列目で観てて、彼らは当時の大ヒット “Get Off of My Cloud” をプレイしてくれた。それはレコードそのまんまだったよ。
アリーナで、僕らはこの壁を背に立ってて、彼はブルーの Rolling Stones ブランドのウィンドブレーカーを着てた。彼が晩年にいつも着てたやつだよ。僕らは過ぎ去った日々を追憶してた – あり得ないほど丁寧で、素晴らしい人だった。そして彼はステージに出るとき、舌のロゴのジャケットを脱いで、折り畳み、アシスタントに渡し、(ドラムチェアに)座ったんだ。もし僕が、誰か他のドラマーみたいになれるならば、Charlie Watts みたいになりたいよ。
* “Street Fighting Man” の録音では、Charlie はツアーに持ち歩いていた1930年代のトイドラムキット “London Jazz Kit Set” を叩き、Keith は Philips のテレコに録音した、と2003年に答えてます。有名な話なのでしょうけど、僕は知りませんでした。英語 Wiki に載っています。