絵本屋さんに友人を尋ね、少し挨拶する。
アナログ盤でリッキーリー・ジョーンズの2ndがかかっていたので、ライナーノーツを見せてもらう。
田中康夫ともう一人、田中さんが書いていたもので、とても、なんというか、ウケた。
あの時代、衝撃的な、あるいはお洒落だったんだろうか(日本では)。そんな文体だ。
リッキーリーって、サウンドがとてもしっかりしていて、ザ・スタジオミュージシャンが関わってるなというか、人を惹きつける人だったんだな、とよく思う。
僕の周りにもファンが多いようで、なにか、「リッキーリー」って、安心ブランド、みたいな気がする。
実は僕はここ数年、オリジナルを弾き語りしたり音源を出したりしていて、たまに「リッキーリーみたい」と言われることがある。
僕自身は彼女のレコードに詳しくはないのだが、言われて悪い気はしない。そりゃ。天下のリッキーリーさんですぜ。
とはいえ正直、彼女のボーカルはタイプではない。
声質が、なんともいえない、僕のアンテナを遠ざけるものがあるのだ。たぶん周囲にこういう女性がいたら、ほぼディスタンスを置くだろう(ひどいこと書いてますね)。
そこである日、その感想を二度くれた人に、「あのね、言いにくいのだけど」と話してみた。「彼女の声って、あんまり好きじゃなくて」。
彼はなんと言ったか。
「うん、僕もあまり好きじゃない」。
…
言ってみるもんだ。魔法の言葉、謎が溶けたり。
褒めるのとけなすのを両方、絶妙に兼ねる言葉。これぞ本音と建前だ。
生きる知恵ってこういうことだ。
(ほんとにリッキーリーの歌が好きな、幾多のみなさま、ごめんなさい。僕はこういう処世術ができないのです)
たぶん、僕は自分の声のある部分と、彼女の声のある部分に、近親憎悪的な感情を持っているのだろう、とは思っている。
自分がトム・ウェイツみたいな太い声をしていたら、あるいは本当に、素直に愛してやまないのだろうか。Blue Valentine.
そういえば周囲の人も、そうだった気がするな。
と、遅まきながらフォローしておきます。